後藤光尊

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テンプレート:Infobox baseball player 後藤 光尊(ごとう みつたか1978年7月27日 - )は、 秋田県南秋田郡八郎潟町出身の東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(内野手外野手)。

経歴

プロ入り前

秋田県南秋田郡八郎潟町出身。八郎潟町立八郎潟中学校時代は野球ラグビーを掛け持ちし、ラグビーでは県大会優勝経験がある。 秋田工高に1年からレギュラー確約条件にスカウトされたが[1]、秋田県内有数の進学校である秋田高校に進学、3年時にエース投手として第68回選抜高等学校野球大会に出場する。その後スポーツ推薦法政大学に進学したが、上級生らによりいじめを受けて留年が確定し、そのまま大学を中退する[1]。その後、テンプレート:Byに同じ秋田高校OBで川崎製鉄千葉野球部監督の斉藤正直に誘われて同野球部に練習生として参加し、テンプレート:Byに入社。同年の第69回都市対抗野球大会に出場し、決勝戦ではプロでチームメイトとなる川越英隆を擁する日産自動車と対戦し準優勝、最も優秀な活躍を収めた新人選手に贈られる若獅子賞と三塁手部門での優秀選手賞を受賞。バンコクアジア大会日本代表、シドニーオリンピック野球日本代表候補に選出された[1]。社会人時代のチームメイトには同じ秋田県出身の藤田太陽がいる。

2001年のドラフト会議オリックス・ブルーウェーブから10位指名を受け入団。

オリックス時代

テンプレート:By、6番・指名打者で開幕スタメン出場。4月には1番を打ち3本の三塁打を記録して長打力と俊足をアピールした。

テンプレート:By、開幕直後に故障で出遅れたものの、99試合に出場。6月から2番、7月以降は9番・遊撃手のレギュラーに定着し、この年は9本塁打を記録した。9月には、7日の対大阪近鉄バファローズ戦で高村祐から逆転サヨナラ2点適時三塁打を放つと、同月27日の対福岡ダイエーホークス戦では延長10回裏に岡本克道からサヨナラソロ本塁打を放ち、マジック1で胴上げがかかっていたダイエーの胴上げを阻止する一撃となった。オフに背番号を1に変更。

テンプレート:By、シーズン序盤は遊撃手のレギュラーとして出場していたが、打撃不振に陥り、7月以降は打撃好調の塩崎真に取って代わられ、平野恵一内野手のライバルに差をつけられた。シーズン最終戦となった9月27日の対近鉄戦では、5回裏に適時打を放っており、これがブルーウェーブとして最後の打点となった。同年シーズン終了後、大阪近鉄バファローズとの球団合併・分配ドラフトによりオリックス・バファローズと契約。この際、近鉄の背番号1は鈴木啓示が着けていた永久欠番だったため、合併球団における背番号1の扱いが検討された。後藤は合併後も引き続き背番号1の着用を希望し、鈴木も「自分の永久欠番はあくまで近鉄での記録によるもの」と承諾したため、合併後も背番号1を着用することになった。なお、2011年以降は前身球団(阪急ブレーブス、合併前のオリックス・ブルーウェーブ、近鉄バファローズ→大阪近鉄バファローズ)のユニフォーム復刻に伴い、近鉄バファローズの背番号1のユニフォームを着用する機会が生じ、2013年には近鉄が健在だった時代には存在しなかった大阪ドーム移転後のコシノヒロコデザインのホーム用の背番号1のユニフォームを着用することになる。

テンプレート:By、初めて100試合以上に出場し、規定打席には届かなかったものの打率.295を記録するなど、打撃好調を維持した。5月13日の対広島東洋カープ戦では延長10回裏に小山田保裕からサヨナラ本塁打を放ち、オリックス・バファローズとして初のサヨナラゲームとなった。同年は球団合併により遊撃手である阿部真宏が加入してきたため、主に三塁手や指名打者での出場だった。ある程度の長打力と走力を持つことから、打線が中々固定できないチーム事情や対戦相手によって大きく打順を変える仰木彬監督の采配もあって全打順でのスタメン出場を達成。

テンプレート:By中村紀洋が三塁に入ったため、塩崎や水口栄二らと二塁手のレギュラーを争う起用が考えられていた。しかし、阿部の長期離脱、中村の故障などで出番が増え、前半戦は打率3割を記録するなど貧打のチームにあって貴重な存在となった。後半失速して前年より数字を落としたが、同年も2番と4番以外の全ての打順でスタメン出場した。守備では安定感の面で成長が見られ、一塁手2試合、二塁手72試合、三塁手11試合、遊撃手27試合と内野4ポジション全てを守った。オフに就任したテリー・コリンズ新監督が背番号1を着ける事が決まり、背番号を24に変更してパ・リーグオールスター東西対抗から24番のユニフォームでプレーした。コリンズ監督からは「MVPを獲得すれば背番号1を返還する」と言われたが、インタビューで「果てしなく無理です」と答えた。

テンプレート:By、開幕当初は同年から加入したグレッグ・ラロッカが三塁手に、新人の大引啓次が遊撃手で起用された。しかし、阿部が故障で離脱した4・5月には二塁手、ラロッカが離脱した6月には三塁手、シーズン終盤に大引が打撃不振に陥ると遊撃手として出場し、穴を埋めた。9月17日の対千葉ロッテマリーンズ戦では延長戦に入って外野手を全員使い切ったため、プロ入り後初めて公式戦で左翼手を務めた。その時の心境について「練習はしていたけれど、ビックリした。けど、1球ぐらい捕りたかった。(守備機会は無かったため)」とコメントしている[2]。序盤は打率2割台前半に停滞していた打撃は終盤に復調し、9月にはほぼ全試合に出場した。同じ守備位置、打順で6試合以上連続してスタメン起用されない中で自己最多の107試合に出場、初の2桁本塁打、チーム4位の34打点を挙げた。同年も1、3、4番以外の打順でスタメン出場した。

テンプレート:By、開幕直後は不振だったが5月から徐々に復調。7月5日の対北海道日本ハムファイターズ戦で稲葉篤紀の打球を好捕した際に右肩を地面に強打し、右肩鎖関節脱臼と診断され戦線離脱し、8月10日の対ロッテ戦で復帰。復帰後は故障前以上に打ち、9月には5番に座る機会も増え月間21打点を記録した。同年は初めて規定打席に到達し、115試合に出場して14本塁打、57打点を記録し、前年まで苦手としていたサウスポーに対して打率.303を記録するなど打率、本塁打、打点はチームの日本人選手中最高の成績を収めた。また、リーグ4位の二塁打盗塁坂口智隆と同数)はチームトップの記録だった。同年オフ、5月にコリンズ監督が辞任して空き番号となっていた背番号1を再び着用する事を発表。

テンプレート:By、開幕から二塁手のレギュラーに定着。4月23日に自身が放った打球がチームメイトのアレックス・カブレラの足に直撃して戦線離脱させてしまい、自身も5月16日に右太もも裏肉離れのため出場選手登録を抹消され、早期回復を目指すも再発を繰り返す。9月15日の対福岡ソフトバンクホークス戦に代打として復帰出場して適時打を放ち、翌日にはソロ本塁打を放つ。9月17日の対ソフトバンク戦では1点ビハインドの9回裏に馬原孝浩から同点ソロ本塁打、延長10回裏にサヨナラ犠飛を放つなどの活躍もあったが、前年の半分以下の54試合の出場にとどまり、成績も落ち込んだ。

テンプレート:By、新監督の岡田彰布にシーズン前から3番を任命され、開幕2戦目の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では9回裏1死で福盛和男から同点本塁打を放ったが、3・4月は月間打率.265だった。交流戦に入ると徐々に調子を上げて交流戦打率.369、対阪神タイガース戦は4試合で17打数10安打2本塁打7打点を記録するなどチームの交流戦初優勝に貢献した。8月には選手会長の日高剛とチーム最年長の田口壮が二軍調整の為、精神的支柱を欠く状況を打破する目的で球団初のキャプテン制導入に伴いゲーム・キャプテンに任命された[3]。その後も3番打者として出場し続けて9月26日の対ロッテ戦では延長10回に薮田安彦からサヨナラ2ラン本塁打を放つなど、143試合に出場して打率.295、16本塁打、73打点、二塁手としてはテンプレート:Byロベルト・バルボンの記録を更新して球団新記録となる174安打と自己最高の成績を残したが、併殺打はリーグ2位タイ(西武・中島裕之と同数)の20、3番打者に定着しクリーンナップを1年間務めながらリーグ3位(1位は川崎宗則、2位は西岡剛)の590打数を記録、四球の少なさが目立ってしまった。また、野手の中では北川博敏と共に2人だけシーズン通して一軍に登録され続けた。同年8月11日に国内FA権を取得し、11月12日に残留を基本線として[4]権利を行使し[5]、11月26日に「岡田監督に恩返ししたい」として残留を正式表明すると同時に「生涯オリックス」宣言をした[6]。オフシーズンにはイチローと合同自主トレを行った[7]。この際には4年以上の複数年契約が結ばれていたが、報道では3年契約とされていた[8]

テンプレート:By、開幕戦の対ソフトバンク戦の9回裏1死の場面で、完投勝利目前の和田毅から同点ソロを放ち、チームの敗戦を救う働きも見せたが、シーズン序盤は不調で、更に胃腸炎のために5月12日に登録抹消。5月31日の対横浜ベイスターズ戦で復帰し、緩やかに調子を上げていく。8月11日の対楽天戦で4番として出場し本塁打を放ち、プロ野球史上9人目となる全打順本塁打を達成した。すると、8月16日の対ソフトバンク戦から9月15日の対楽天戦まで安打を放ち、球団史上初のパ・リーグでは歴代5位タイとなる26試合連続安打を記録した[9]9月16日の対ロッテ戦では無安打に終わったが、この試合で四球を選んだ事で連続試合出塁は継続され、10月5日の対西武戦まで43試合連続出塁を記録した。結局、9月は全25試合のうち、前述の16日の試合を除く24試合で、リーグ歴代4位タイの月間44安打を放ち、月間打率.436を記録して自身初の月間MVPを獲得した。最終的には打率もリーグ3位の打率.312を記録し、自身初の3割となった。しかしその一方で、得点圏打率は.280と低かった。

テンプレート:By、3番・二塁手として3年連続で開幕戦に出場。例年と同様に春先から打撃不振に陥るも、攻守に精彩を欠いた状態が続き、交流戦では5番や1番に据えられた事もあった。オールスター直前の7月16日に二軍降格となり、後半戦から一軍に昇格。7月29日の対日本ハム戦では9回裏に武田久から通算999安打を自身7度目のサヨナラ打で飾り、7月31日の対西武戦で初回に石井一久から通算1000本安打となる適時二塁打を放つ。しかし、ここ数年とは異なって夏場以降になっても最後まで打撃の調子が上向かず、9月27日に登録抹消となりそのままシーズンを終えた。シーズン通算では、主に3番打者として131試合に出場。しかし、打率.242、4本塁打43打点と不本意な成績に終わった影響で、チームの総得点もリーグ最下位の443得点にとどまった。

テンプレート:By、阪神から平野恵一がFAによる移籍でオリックスに復帰。しかし、開幕前に平野が怪我で離脱したこともあって、開幕から主に7番・セカンドでスタメンに名を連ねた。しかし、開幕から低調な成績が続き、7月4日に登録抹消されるとその間に怪我の平野が復帰、ショートを守っていた安達了一が二塁を守ったり、原拓也などが台頭し、自身も二軍でも調子が上がらないこともあり、以降は長らく二軍での調整が続いた。結局、シーズン終盤でようやく昇格し、2試合出場しシーズンを終えた。シーズン通算では69試合で打率.243、3本塁打、16点と2010年に結ばれた長期契約の中では最も低い成績に終わった。なお、シーズン終了後の契約更改では、前述の契約期間が(2011年から)4年以上であることが判明している[10]

シーズン終了後の12月19日に、鉄平との交換トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍することが発表された[11][12]。背番号は4[13]

楽天時代

ファイル:後藤光尊20140312.JPG
2014年3月12日 京セラドーム大阪

テンプレート:Byには、一軍の内野陣をケビン・ユーキリス藤田一也松井稼頭央銀次で固定することを前提に置いたチーム事情の下で、春季キャンプから外野の守備を練習。オープン戦から公式戦の開幕直後までは、もっぱら左翼手としてスタメンに起用されていた[14]。ユーキリスと銀次が故障で相次いで戦線を離脱した6月上旬から、銀次が一軍へ復帰する[15]までは、主に「3番・一塁手(または三塁手)」としてスタメン出場[16]。銀次の復帰直後からは、遊撃手を中心に起用されていた[17]が、7月7日に移籍後初めて出場選手登録を抹消された[18]

選手としての特徴

パンチ力のある中距離打者で[19]、軸のブレない鋭いスイングからライナー性の打球を放ち[20]、オリックス時代の本拠地京セラドーム大阪の試合では甘い球を5階席まで運んだこともある。左投手を苦手とし、2008年にはミートすることを重視し対左打率.303を誇ったが[21]、2006年から2010年まで対左打率.252と苦戦している。テンプレート:要出典範囲。少々のボール球でも強引に打ちにいく悪球打ちの面もあるため、四球が少ない。また、監督の岡田には「みんなが打てんボールを打つ」と評される[22]

2011年には14盗塁を記録した走力を持つ一方、左打者でありながら一塁到達は4秒後半が多い[23]

内野の3ポジションを守れるユーティリティープレイヤーで、二塁手としての起用が比較的多い。二塁守備では高い身体能力を生かしたダイナミックなプレーを持ち味とするが[24]、2010年は守備イニング500以上の選手ではワースト2位となるRF5.18を残し[25]、得点換算でも低い数値を残した[26]

人物

憧れの選手はケン・グリフィー・ジュニアである[27]。高校時代選抜大会に出場した際、毎日新聞に掲載されたチーム紹介でもその名前を確認できる。

投手として出場した甲子園では、初戦で完投するも滝川二に15安打を浴びて敗れている。この試合、滝川二の三塁打(6本)、両チームの三塁打(滝川二6本、秋田1本)、滝川二が7回の攻撃で記録した三塁打(3本)はいずれも大会記録である(チーム1イニング三塁打のみ最多タイ記録)[28]

試合後、オフにウエイトトレーニングを欠かさず、体脂肪率は9%である[1]下戸でもあり、あまりチームメイトと食事にいったりするような性格ではなかった。2010年に就任した岡田監督からはチームリーダーの役割を期待され、当初は自分が一匹狼のような性格なため悩んだが、シーズン途中には無理のないリーダー像が見えてきたという[1]

イエローキャブのタレントである斉藤ますみとの間に娘がいることを公表しており、テレビ番組で紹介されたこともある。2011年現在、1男1女の父[29]

2011年9月、オリジナル写真集PHOちょ+より自身初の公式写真集[30]がリリースされた。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 オリックス 39 102 94 11 23 4 3 2 39 8 1 1 4 0 3 0 1 16 1 .245 .276 .415 .690
テンプレート:By2 99 341 318 42 85 15 5 9 137 29 7 11 6 0 10 0 7 68 5 .267 .304 .431 .735
テンプレート:By2 53 179 170 24 44 10 0 1 57 18 4 2 2 0 5 0 2 24 4 .259 .288 .335 .623
テンプレート:By2 105 347 325 49 96 27 2 9 154 42 6 4 2 0 11 2 9 32 12 .295 .336 .474 .810
テンプレート:By2 95 307 290 26 78 14 2 3 105 21 4 0 4 0 11 1 2 51 2 .269 .300 .362 .662
テンプレート:By2 107 337 314 28 80 16 2 10 130 34 5 7 4 3 14 3 2 26 7 .255 .288 .414 .702
テンプレート:By2 115 447 410 52 117 32 0 14 191 57 13 6 7 3 16 2 11 88 5 .285 .327 .466 .793
テンプレート:By2 54 219 208 23 57 12 0 4 81 17 8 3 1 2 8 1 0 36 4 .274 .298 .389 .688
テンプレート:By2 143 632 590 82 174 32 3 16 260 73 2 1 0 2 32 2 8 96 20 .295 .339 .441 .780
テンプレート:By2 130 553 526 54 164 19 4 8 215 55 14 6 0 5 17 2 5 74 9 .312 .336 .409 .745
テンプレート:By2 131 546 520 52 126 21 0 4 159 43 3 2 1 6 14 0 5 74 8 .242 .266 .306 .572
テンプレート:By2 69 271 255 17 62 9 0 3 80 16 1 4 1 1 11 1 3 41 7 .243 .281 .314 .595
通算:12年 1140 4281 4020 460 1106 211 21 83 1608 413 68 47 32 22 152 14 55 626 84 .275 .309 .400 .711
  • 2012年度シーズン終了時

年度別守備成績


二塁 三塁 遊撃 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2002 - 18 8 29 2 3 .949 11 17 17 2 5 .994 -
2003 9 8 17 1 1 .962 22 8 43 0 5 1.000 75 96 176 17 43 .941 -
2004 - - 53 77 126 8 30 .962 -
2005 - 45 26 73 4 6 .961 40 55 91 6 30 .961 -
2006 17 24 32 1 9 .982 10 7 18 3 3 .893 69 86 207 9 42 .970 -
2007 72 165 182 5 44 .986 11 2 16 1 0 .947 27 31 64 3 13 .969 1 0 0 0 0 ----
2008 93 217 267 6 61 .988 1 0 1 0 0 1.000 27 37 68 1 10 .991 -
2009 54 117 210 6 54 .982 - - -
2010 143 318 404 8 74 .989 - - -
2011 129 284 389 10 62 .985 - - -
2012 130 266 422 8 71 .989 - - -
通算 647 1399 1923 45 376 .987 107 51 180 10 17 .959 302 399 749 46 173 .961 1 0 0 0 0 ----
  • 2012年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 全打順本塁打:2011年8月11日、対東北楽天ゴールデンイーグルス15回戦(京セラドーム大阪)、4番・二塁手で先発出場、1回裏に永井怜から右中間へ2ラン ※史上9人目
    • 最後に4番で達成したのは、井口資仁ロッテ)以来2人目
    • 全打順本塁打達成時点の通算本塁打は72本で、五十嵐章人の26本に次いで2番目に少ない
  • 26試合連続安打:2011年8月16日‐9月15日

背番号

  • 49 (2002年 - 2003年)
  • 1 (2004年 - 2006年、2009年 - 2013年)
  • 24 (2007年 - 2008年)
  • 4 (2014年 - )

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:東北楽天ゴールデンイーグルス

テンプレート:オリックス・ブルーウェーブ2001年ドラフト指名選手
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 「野球浪漫2010~熱き男の白球ストーリー Vol.15 後藤光尊」 『週刊ベースボール』2010年7月12日号、ベースボール・マガジン社、2010年、雑誌20442-712/10、43-47頁。 http://nagamochi.info/src/up107947.jpg
  2. エンタテイメント | オリックス・バファローズ
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  7. 後藤ラッキー!イチローと合同自主トレ
  8. 後藤、3年契約じゃなかった…低調な成績も現状維持「申し訳ない」
  9. 後藤が26試合連続安打!パ・リーグ歴代5位タイ スポーツニッポン 2011年9月15日配信
  10. 後藤、3年契約じゃなかった…低調な成績も現状維持「申し訳ない」(『スポーツニッポン2013年12月11日付記事)
  11. オリックス・後藤、楽天・鉄平の交換トレード発表スポーツニッポン2013年12月19日配信
  12. 交換トレードに関して楽天球団公式サイト
  13. 【楽天】後藤「東北でもう一度輝きを」ニッカンスポーツ2014年1月7日配信
  14. 楽天後藤、無難な外野守備も「まだまだ」(『日刊スポーツ2014年2月23日付記事)
  15. 楽天、前田に屈す…あすにも自力V消滅(『日刊スポーツ』2014年6月20日付記事)
  16. 楽天10点大勝 3番後藤点火、連敗止めた(『日刊スポーツ2014年6月10日付記事)
  17. 楽天 痛い逆転負け「1―0で動いて」失った勝負の流れ(『スポーツニッポン2014年6月16日付記事)
  18. 【7月7日の公示】楽天・後藤、ロッテ・清田が1軍登録抹消 (『スポーツニッポン2014年7月7日付記事)
  19. テンプレート:Cite book
  20. テンプレート:Cite book
  21. テンプレート:Cite book
  22. オリ首位いじめ ソフトBに5連勝
  23. テンプレート:Cite book
  24. テンプレート:Cite book
  25. 守備「選手別」二塁手データSMR Baseball Lab
  26. Baseball Lab守備評価~Second BasemanSMR Baseball Lab
  27. オリックス・バファローズ (Orix_Buffaloes) on Twitter
  28. 記録室 - 毎日jp(毎日新聞)
  29. オリックス・バファローズ観戦ガイド「Bs TIME」Vol.11 3ページ
  30. 後藤光尊 公式写真集