岩本義行
テンプレート:Infobox baseball player 岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2008年9月26日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。「元祖神主打法」。弟はプロ野球南海の投手・審判を務めた岩本信一。5人いる孫の1人に女優の遠野舞子がいる。
目次
来歴・人物
中等学校時代
旧制三次中学(現:三次高校)から、二年時に旧制広陵中学(現:広陵高校)に転校。広陵野球部のスラッガーとして活躍し、乱闘試合のドサクサ紛れに補欠なのに自分で代打を告げてホームランを打った[1][2]、敬遠のワンバウンドした球を本塁打にしたなどの逸話を残す。
最上級生となった1931年に第17回全国中等学校優勝野球大会に出場。「中学超弩級打者」と評されたが[3]、準々決勝で吉田正男を擁する中京商業(現:中京大中京高校)に惜敗(中京商業はこの年から夏三連覇)。しかし同年秋の神宮野球大会では吉田を打ち込み、更に前年から夏春連覇中で、この年の夏はハワイ遠征で欠場した灰山元治、鶴岡一人らのいた同じ広島の広島商業を決勝で岩本の長打2本で下す。
大学・社会人時代
明治大学に進学後は二年生で首位打者、また1シーズン3本塁打、1試合13塁打(本塁打2、三塁打・二塁打各1本[4])の記録を作った。戦前の六大学リーグ戦の代表的スラッガーと呼ばれる。リーグ通算77試合に出場し281打数86安打、打率.306、4本塁打、62打点。明大在学中に自ら考案して身に付けたといわれるバットを体の正面でゆったりと構える独特の打法は神主打法と呼ばれた[1]。この打法はバックスイングをほとんど取らず、腕力だけで叩く打法であった。マスコミは「理論を超えた打法」「打法を超越した打撃」と騒ぎ立てた[1]。
1934年、大学卒業後は野球部のない大同電力に就職。1936年発足の職業野球全球団による大争奪戦となったが「もう野球はあきたけんのう」と断って参加せず[1][5][6]。しかし、野球からは離れず1937年、六大学出身のスター選手を揃えたクラブチーム日本一の強豪・東京倶楽部に所属、3番ないし4番を打って第11回都市対抗野球大会で準優勝に貢献した。東京倶楽部は翌1938年シーズン前に解散。東京倶楽部在籍は1年のみで、この年発足した南海軍の創設に参加した。初代監督・高須一雄に"いの一番"に誘われた[3]。岩本以外は全員無名選手だった。一度はプロ野球を断ったが、始まったリーグ戦を上井草球場で見て気が変わったという。高須には岩本が広陵中学時代の上海遠征で、新聞記者として引率して貰ったという恩があった。南海軍、初代背番号1。
戦前プロ時代
初代主将で教育係でもあったが、初戦のオープン戦途中に赤紙の令状を受け、それをポケットに押し込むと 「打て!、打て!」とナインを叱咤し、2年間兵役に服し青島にいた[7]。そのため試合出場はなく、復員した1940年から戦時下の1942年まで南海でプレー。1941年の太平洋戦争開戦直前に行われた職業野球東西対抗戦(現在のオールスターゲーム)でも西軍の四番を打った。この試合に出場した選手の大半はこの後戦地に送られ、吉原正喜、鬼頭数雄、村松幸雄らは帰って来ることはなかった。
1942年には打撃三部門(打率・本塁打・打点)で全て2位。同年7月11日の後楽園球場での対名古屋軍戦で、1試合3本塁打のプロ野球新記録を達成。戦前に記録した唯一人の選手である。1938年の綿製品禁止令以降、粗悪となった用具が更に進んだ年の記録で、本塁打王・古川清蔵が105試合で8本、南海のチーム本塁打が11本という年の1試合3本塁打であった。再び招集を受け同年限りで退団[1]。
戦争末期は郷里の三次市に引き上げていた。その頃、呉海軍工廠に勤める知人から「砂糖をやるから取りに来い」という話があり、1945年8月6日に一番列車で行く予定でいたところ、体がだるくて三番列車になり、広島に向かう途中で原爆投下を知らされた。いったん三次に戻ったのち、在郷軍人を集めた広島の救援活動に従事した。このため、「入市被爆者」として被爆者健康手帳の交付を受けている[8]。
戦後はアマチュアの全広島でプレー後、1947年からは広陵の後輩・白石勝巳が創部して監督を務めていた植良組(別府市)に、白石の巨人復帰による後任を頼まれ選手兼任監督として在籍[9][10]。チームはその後解散[1]。親戚縁者から20万円をかき集め、退職金として選手たちに分け与えた[1]。1949年、この借金の精算のため、石本秀一の要請で大陽ロビンスに37歳で7年ぶりにプロ球界に復帰したが、高齢のため契約金は無かった[11]。
松竹・大洋時代
翌1950年、小西得郎が松竹の監督就任を固辞、チームは監督不在のままキャンプに突入。岩本は大量補強したチームをまとめるため、キャンプ地・倉敷からオート三輪で東京まで駆けつけ明治の大先輩・小西を説得、小西はイヤイヤながらも要請を受諾した[1][12]。自身も二リーグとなった同年、3月11日の開幕第2戦(下関球場対中日)でセ・リーグ第一号本塁打を満塁で放つと、この年3番小鶴誠、5番大岡虎雄とクリーンアップを組み、水爆打線と呼ばれた強力打線を構成し、史上初のトリプルスリー(打率.319 39本塁打 34盗塁)を達成してリーグ優勝に大きく貢献した[5](この年の松竹の打撃記録は多くがプロ野球記録やセ・リーグ記録[13])。
毎日オリオンズとの第1回日本シリーズでも3本塁打を打ち、第6試合では4点リードされて無死満塁では毎日から同点本塁打を警戒されて敬遠された(投手は若林忠志)。岩本自身が「ノーアウト満塁で敬遠なんて、自分の長い野球生活でも後にも先にもない」と驚く作戦だった。シリーズは、初戦岩本の無謀な三盗などで毎日に敗れた。このプレーは岩本の“ミステリー走塁”と言われている。
1951年8月1日の対大阪タイガース戦(長野上田球場)では、自らの記録を塗り替える史上初の1試合4本塁打を記録[5]、二塁打も放ち1試合18塁打のプロ野球記録を達成。この二塁打も左翼フェンス上部を直撃したといわれている[14]。31本塁打(本塁打王、青田昇と1本差[15])、打点87、打率2位.351(首位打者、川上哲治.377)、長打率1位、盗塁は10。この年4月22日の国鉄戦から6月6日の巨人戦まで27試合連続ヒットを記録。この記録は1976年に張本勲に抜かれるまでセ・リーグ記録だった。前年とこの年に、二年連続で外野手シーズン最多補殺8という、セ・リーグ記録も残している。
1952年に大洋ホエールズに移籍。1953年に松竹ロビンスとの合併で、松竹が小西監督の続投に難色を示し監督就任を要請されたが、小西の顔を立てて辞退し小西監督の続投となった[16]。この年はシーズン24死球を記録した(55年間日本記録だったが、2007年にグレッグ・ラロッカが記録を更新した)[5]。岩本は頭部に死球を受けても平然と一塁に歩き、これにはぶつけた投手の方が青くなったという伝説がある。張本勲の話ではヒビの入った頭蓋骨のレントゲン写真を見せてもらった事があるという[17]。また"岩本のあんちゃんはケンカが強い"と雷鳴が鳴り響いていたといわれる。ただ鈴木龍二は「岩本君より大岡君の方が強い」。大和球士は「大岡が一番じゃないかな、プロ野球三十年史上では」と話している[18]。
東映・近鉄時代
1954年に一旦は引退し、一家で仙台の奥の北上川の畔に粗末な山家を構える[12]。朝の5時から鉱山で鉱石を砕く仕事に従事し、仕事が終わると山に入りバットで樹の枝を叩き折っていたという[19][12]。アマチュア・水沢駒形野球倶楽部に所属したのは、仲良しの小西得郎が、あまりに悲惨な岩本一家の暮らしを心配し、仙台の野球人や新聞社に繋がりをつけたためである[12]。 同年第25回都市対抗野球大会と翌1955年の第26回都市対抗野球大会に富士製鐵釜石の補強選手として出場し健在ぶりを発揮。全試合4番を打ち第25回大会では準決勝進出に貢献する。
1956年に強化三ヵ年計画を打ち出した東映フライヤーズの選手兼任監督として三度目のプロ野球復帰。明治生まれで最後の現役選手でもあった。 1957年8月18日の阪急戦で五番レフトとして先発出場し、45歳5ヶ月で本塁打を打ち、史上最年長記録となった(駒沢球場、投手・種田弘)[5][20]。同年限りで現役を引退。監督は1960年まで5年間務め毒島章一、土橋正幸、山本八郎などの主力選手を率いて、1958年には5選手をオールスターゲームに送り、1959年には同郷の高卒新人・張本勲を抜擢するなどで、チームを初めてAクラス入りさせた[21]。
正捕手・山本八郎が故障すると自分でチェストプロテクター、レガースを付けてホームに座り、若い投手に大声をかけた。また、ユニフォームを脱げば若い選手とコップ酒を飲み"アンちゃん"の愛称で慕われたという。優勝を期待された翌1960年は5位に終わる。このため巨人の監督水原茂が辞任、東映が水原を次期監督候補としているという情報が入り岩本は辞任、保井浩一に代理監督を任せるとシーズン終了待たずに辞任した[22]。
その後は近鉄のコーチ(1962年 - 1963年)を経て別当薫の後任として1965年から1966年の2年間近鉄の監督を務めた。2年連続最下位であったが鈴木啓示らを育てた[23]。1981年に競技者表彰で野球殿堂入り。
晩年は郷里の三次で余生を送った。長寿で知られグラウンドに自転車で出かけては子供たちに野球を教えたり、地元TVに出演して神主打法を披露したりしていた。
2006年頃から特養ホームに入所していた。2008年9月26日に急性心不全のため死去[24]。テンプレート:没年齢。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 南海 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 5 | 1.0 | 0 | 0 | 3 | -- | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 3.00 |
通算:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 5 | 1.0 | 0 | 0 | 3 | -- | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 3.00 |
---|
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 南海 | 45 | 191 | 165 | 20 | 37 | 9 | 1 | 0 | 48 | 10 | 9 | -- | 2 | 1 | 18 | -- | 5 | 25 | -- | .224 | .319 | .291 | .610 |
テンプレート:By2 | 84 | 377 | 340 | 34 | 68 | 14 | 0 | 7 | 103 | 30 | 17 | -- | 0 | -- | 30 | -- | 6 | 30 | -- | .200 | .277 | .303 | .580 | |
テンプレート:By2 | 104 | 439 | 358 | 51 | 98 | 17 | 3 | 7 | 142 | 46 | 37 | 16 | 5 | -- | 71 | -- | 5 | 18 | -- | .274 | .401 | .397 | .798 | |
テンプレート:By2 | 大陽 松竹 |
52 | 221 | 196 | 30 | 48 | 12 | 0 | 8 | 84 | 34 | 5 | 2 | 0 | -- | 19 | -- | 6 | 22 | -- | .245 | .330 | .429 | .759 |
テンプレート:By2 | 130 | 599 | 552 | 121 | 176 | 23 | 3 | 39 | 322 | 127 | 34 | 8 | 0 | -- | 40 | -- | 7 | 48 | 15 | .319 | .372 | .583 | .956 | |
テンプレート:By2 | 110 | 496 | 422 | 100 | 148 | 24 | 0 | 31 | 265 | 87 | 10 | 4 | 0 | -- | 63 | -- | 11 | 43 | 12 | .351 | .448 | .628 | 1.076 | |
テンプレート:By2 | 大洋 洋松 |
120 | 522 | 454 | 82 | 130 | 24 | 3 | 16 | 208 | 81 | 16 | 6 | 0 | -- | 44 | -- | 24 | 41 | 19 | .286 | .379 | .458 | .837 |
テンプレート:By2 | 110 | 455 | 411 | 47 | 110 | 17 | 1 | 9 | 156 | 49 | 8 | 4 | 1 | -- | 38 | -- | 5 | 40 | 10 | .268 | .337 | .380 | .717 | |
テンプレート:By2 | 東映 | 86 | 230 | 204 | 14 | 42 | 1 | 0 | 5 | 58 | 21 | 4 | 2 | 0 | 2 | 18 | 6 | 6 | 21 | 8 | .206 | .289 | .284 | .574 |
テンプレート:By2 | 15 | 23 | 19 | 3 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 7 | 0 | .105 | .261 | .263 | .524 | |
通算:10年 | 856 | 3553 | 3121 | 502 | 859 | 141 | 11 | 123 | 1391 | 487 | 140 | 42 | 8 | 3 | 345 | 6 | 75 | 295 | 64 | .275 | .361 | .446 | .807 |
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- 各年度の太字はリーグ最高
- 大陽(大陽ロビンス)は、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更
- 大洋(大洋ホエールズ)は、1953年に洋松(大洋松竹ロビンス)に球団名を変更
通算監督成績
- 922試合 370勝532敗20分 勝率.410
表彰
記録
- 1試合4本塁打(1951年8月1日、対大阪戦) ※日本プロ野球記録
- 1試合18塁打(1951年8月1日、対大阪戦) ※日本プロ野球記録
- シーズン24死球(1952年) ※セ・リーグ記録
- 27試合連続安打(1951年4月22日 - 6月6日)
- オールスターゲーム出場:3回 (1951年 - 1953年)
- 最年長本塁打:45歳5ヶ月(1957年8月18日、対阪急戦) ※日本プロ野球記録
- 最年長サヨナラ本塁打記録:44歳1ヶ月(1956年4月19日、対大映戦) ※NPB記録、40代でNPB史上初のサヨナラ本塁打[25]
背番号
- 1 (1938年、1940年 - 1942年)
- 3 (1949年 - 1951年)
- 2 (1952年 - 1953年)
- 30 (1956年 - 1960年)
- 50 (1962年 - 1966年)
参考文献
- 真説 日本野球史、大和球士、ベースボール・マガジン社、1977年7月
- プロ野球を変えた男たち、鈴木明、新潮社、1983年8月
- 都市対抗野球大会60年史、日本野球連盟 毎日新聞社、1990年1月
- 東映社長 大川博 真剣勝負に生きる、ダイヤモンド社、1967年3月
- プロ野球人国記 中国編、ベースボール・マガジン社、2004年4月
- 定本・プロ野球40年、報知新聞社、1976年12月
- 近鉄バファローズの時代、大阪バファローズ研究会、イースト・プレス、2004年12月
脚注・出典
関連項目
外部リンク
- 殿堂入りリスト 岩本義行 - 公益財団法人野球殿堂博物館
- この人にこの技あり 第19回:岩本義行の「猪突猛進」(ベースボール・マガジン社 SportsClickより)
テンプレート:Navboxes テンプレート:セントラル・リーグ ベストナイン (外野手)
テンプレート:日本プロ野球トリプルスリー達成者- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 日本プロ野球偉人伝 vol.3 60-61ページ(2013年、ベースボール・マガジン社)
- ↑ 九州スポーツ、2009年7月4日3面
- ↑ 3.0 3.1 永井良和『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』ソフトバンククリエイティブ、2008年、P25-36、79
- ↑ 1936年秋の東大2回戦(定本・プロ野球40年、報知新聞社、1976年、125頁)。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 【8月18日】1957年(昭32) 45歳5カ月 岩本義行、いまだに最年長記録の本塁打
- ↑ 讀賣新聞、2008年11月19日23面
- ↑ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』ベースボール・マガジン社、1987年、P120。
- ↑ 『プロ野球史再発掘(4)』P39 - 40。「プロ野球界で被爆者健康手帳の交付者は張本勲と濃人渉の2人だけ」という記述が見られるが、これは正確には「直接被爆者としての交付者」である。
- ↑ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P120 - 121。
- ↑ 企業の縮図はプロ野球 - 神田雑学大学
- ↑ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P121、145。
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 小西得郎『したいざんまい』 実業之日本社、1957年、P142、143、273-276
- ↑ 98勝〔137試合制〕勝率.737、908得点、825打点、223盗塁(9月28日の1試合10盗塁を含む)、2231塁打、二桁得点29試合は現在もセ・リーグ記録。1417安打、15試合連続二桁安打などは現在もプロ野球記録(別冊宝島1493号「プロ野球&メジャーリーグ大記録のウラ側」2008年8月11日、宝島社)。
- ↑ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P122。
- ↑ 青田残り1試合で同数だったが最終戦で青田が1本打つ。岩本は残り6試合で0本に終わった(関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P194。
- ↑ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P102 - 103。
- ↑ サンデーモーニング、2007年9月23日放送。
- ↑ 『プロ野球史再発掘(5)』、P105 - 107(この対談でもう一人名前が挙がっているのは森徹)。
- ↑ 九州スポーツ、2009年7月4日3面
- ↑ 年長記録 - 日本野球機構
- ↑ 第1回 張本勲「東映-巨人-ロッテ」 | 週刊ベースボールONLINE
- ↑ プロ野球12球団「監督」ウラ事情、宝島社、2014年、P109
- ↑ スポーツニッポン、2008年9月27日6面
- ↑ セ1号放った「神主打法」岩本義行氏死去
- ↑ 週刊ベ-スボール2012年7月13日号107ページ