青木宣親

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テンプレート:Infobox baseball player 青木 宣親(あおき のりちか、1982年1月5日 - )は、カンザスシティ・ロイヤルズに所属するプロ野球選手外野手)。宮崎県日向市出身。

夫人は元テレビ東京アナウンサーの大竹佐知。2児の父。

経歴

プロ入り前

日向市立日知屋小学校に入学した後に1年生時から正式に全日知屋スポーツ少年団の一員となり、6年生時には投手として県大会優勝を果たす[1]。しかし日向市立富島中学校ではチームがそれほど強くなく、県大会の上位進出は果たせなかった[1]宮崎県立日向高等学校では2年生時からエースとなり、3年生時の春季大会で優勝を果たすも夏の大会は準々決勝で敗れた[1]早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に指定校推薦で進学。本人は「とにかく勉強するよりなかった」と語っている[2]。高校時代に肩を壊したため、大学では野手へ転向した[1]

早大の同期には鳥谷敬比嘉寿光由田慎太郎、1学年上には和田毅、1学年下には田中浩康、2学年下には武内晋一越智大祐がおり、後に6人全員がプロ入りした強力打線「1番・田中、2番・青木、3番・鳥谷、4番・比嘉、5番・武内、6番・由田」でチャンスメーカーとして活躍し、早稲田大学野球部史上初の4連覇に貢献している。 テンプレート:Byの3年春の東京大学1回戦では5打数5安打5打点1四球の活躍で、1試合6得点という六大学野球記録を達成した。同年の東京六大学野球秋季リーグ戦では、打率.436で首位打者のタイトルを獲得した。同リーグにおいて、ベストナインを3回受賞している。通算58試合出場で190打数63安打・打率.332・0本塁打・20打点。

2003年のドラフトでヤクルトスワローズから4巡目指名を受け、入団した。背番号は「23」。

ヤクルト時代

テンプレート:Byは一軍出場10試合に終わったものの、二軍では打率.372でイースタン・リーグ首位打者と最高出塁率を獲得。リーグ2位の21盗塁を記録し、自慢の俊足をアピールした。同年のフレッシュオールスターゲームではMVPを獲得した。

テンプレート:By稲葉篤紀の移籍により手薄になった外野手争いで台頭。開幕から中堅手としてレギュラーに定着。2番を打っていた序盤は低打率で三振を量産していたが、徐々に安打が出始め、6月からは1番に定着した。10月6日にはセントラル・リーグ記録の192安打を更新。10月11日、イチロー以来史上2人目となるシーズン200安打を達成。最終的には210安打に届かなかったものの、プロ野球新記録のシーズン169単打を記録するなど、202安打を放って最多安打、打率.344でセ・リーグ首位打者新人王にも選出された。

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ヤクルト時代(2006年)

テンプレート:By2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、6試合に出場して優勝に貢献。7月21日に行われたオールスターゲームの第1戦目(明治神宮野球場)ではMVPを獲得(フレッシュオールスターMVP経験者によるオールスターMVP受賞は簑田浩二(阪急)・石井浩郎近鉄)以来となる3人目。翌日にも藤本敦士阪神タイガース)がMVPを受賞し、4人目のダブル受賞者となっている)。オールスター第1戦目でMVPを獲得した際は、松坂大輔から先頭打者安打、二盗成功後に三盗失敗、平凡な右翼フライを落球、吉井理人から本塁打を打つなどした。2006年1月1日に放送されたスポーツマンNo.1決定戦の「ショットガン・タッチ」で世界新記録となる13m60cmを記録。パワーフォースでもNo.1を獲得し、総合3位に輝いた。シーズンでは首位打者こそ逃したものの、両リーグトップの192安打を放ち2年連続の最多安打のタイトルを獲得。課題であった三振が減少、四球が増加し、本塁打打点出塁率も大幅に向上した。得点圏打率.399はリーグトップ。また、41盗塁を記録して赤星憲広の6年連続を阻止し、自身初の盗塁王を受賞した。

テンプレート:By、7月10日に出場373試合目での史上最速500本安打を達成。チームメイトのアレックス・ラミレスとはシーズン終盤までハイレベルな首位打者争いを繰り広げ、リーグ4位の80四球と警戒されたが、打率.346で2度目の首位打者と初の最高出塁率のタイトルを獲得。安打数はリーグ1位のラミレスの204安打に次ぐ193安打を記録。2005年に記録した自身のセ・リーグシーズン最多安打記録(202安打)はラミレスに抜かれた。また3年連続100得点以上となる114得点でリーグ最多得点を記録。本塁打も20本の大台に乗せ、長打率は初めて5割を超えた。2番が犠打の少ないアダム・リグスから犠打の多い田中浩康に変わったことにより出塁→バントのパターンが増え、盗塁数は41から17と激減した。前年まで3番だった岩村明憲の移籍や俊足の飯原誉士の台頭などで、シーズン中は1番だけでなく2番・3番での起用も多かった。古田敦也の引退試合では、古田の前の4番を打った。オフには足の回転を速くする新たなバッティングフォームに変えている。

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ヤクルト時代(2008年)

テンプレート:By、5月5日に脇腹痛で初の怪我による登録抹消を経験するが、5月29日に復帰後は着実に安打を積み重ね、例年以上の高打率を記録。同じく杉村繁の指導を受けた経験のある内川聖一と共に首位打者争いを繰り広げた。8月には宮本慎也とともに北京五輪代表に選出された。西武から移籍した福地寿樹が1番打者として定着したため、シーズンでは主に3番打者として起用。得点圏打率が前年より下がり、首位打者・最高出塁率も内川に譲ったものの、自己最高の打率.347を記録。リーグ最少の47三振と安定感を見せ、チームでは盗塁王に輝いた福地に次ぐ31盗塁も記録した。

テンプレート:By2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、2度目の出場。左翼を本職とする選手がいないチーム事情から、経験の少ない左翼手を中心に出場するも、堅実な守備を披露。3番打者として全試合に出場し、37打数12安打・打率.324・0本塁打・7打点の好成績で、大会ベストナインに選出された。3月26日、WBCの活躍により東国原英夫から宮崎県民栄誉賞を授与された。

レギュラーシーズンでは体を痛め調整が上手く出来なかった影響でレギュラー定着以降では初めての大不振に陥り、前半戦を通した打率は.249と大きく低迷。更に怠慢守備も指摘され、一時期は福地との配置転換で左翼手に回される(後述)など苦しんだ。不振に喘ぐ中、ファン投票でオールスターゲームに4年連続で選出され、第1戦では9回に武田久から逆転2ラン本塁打を放って自身2度目のオールスターMVPを獲得。そしてオールスター明けの後半戦からバットを変えるなどの試行錯誤を繰り返した結果、打率4割台と復活を見せ、4番を務めるなどチーム3年ぶりのAクラスの確保、クライマックスシリーズ出場に貢献した。打率は.303と3割以上を保ち、前年苦手としていた得点圏打率も.307を記録し、出塁率.400で自身2度目の最高出塁率のタイトルを獲得した。クライマックスシリーズでも打点を記録するなど活躍したが、3点差の2死一、二塁の場面で岩瀬仁紀の前に空振り三振を喫した。

シーズン終了後にテレビ東京のアナウンサー・大竹佐知と結婚し、11月5日に痛みの原因だった両足首三角骨を摘出するために手術を受けた。球団から背番号「1」への変更を打診され続けていたが、ヤクルトの背番号1番はこれまで若松勉池山隆寛岩村明憲といった生え抜きスターが背負ってきた名誉ある背番号であるため、青木本人が時期尚早と固辞し続けていた。しかし、12月3日、若松の殿堂入りを祝う会に出席したことをきっかけに、2010年から背番号「1」を背負うことを決意した[3]

ファイル:Norichika Aoki in 2010.04.03.JPG
ヤクルト時代(2010年)

テンプレート:By、監督代行の小川淳司によって3番固定だった打順から1番固定に戻ると、例年よりハイペースで安打を重ね、日本プロ野球史上初となる2度目のシーズン200本安打を達成(最終的には2005年に記録した202安打を更新し、歴代3位となる209安打を放った)。また自己最高の打率.3585を記録し、自身三度目となる首位打者を獲得すると同時に、若松勉の持つシーズン打率.3583の球団記録を更新。この年は出塁率、OPSにおいても自己最高の数字を記録した。

テンプレート:Byは全試合に出場するも、この年より導入された統一球の影響からかシーズン当初より不調が続いた。最終的に安打数こそセリーグ2位の170本を記録したが打率は.292に終わり、6年連続で継続していたシーズン打率3割の記録が途切れた。この年までの日本での通算打率は.329だが、通算4000打数以上が条件である通算打率へのランクインには100打数足りていない。10月28日に第1子である長女が誕生[4]。11月10日にはポスティングシステムを行使してのメジャー挑戦を表明[5][6]。12月18日に250万ドルでミルウォーキー・ブルワーズが交渉権を得たことが発表された[7]

ブルワーズ時代

テンプレート:By1月にアリゾナ州メリーベールの球団施設でワークアウトを受け、球団首脳のプレーチェックを受けた[8]。17日に交渉が纏まり、総額250万ドルの2年契約(3年目は年俸190万ドルの球団オプション)でブルワーズへの入団が決定[9]。背番号は「7」。

スプリングトレーニングでは27試合の出場で打率.299、1本塁打、OPS.801を残し、スプリングトレーニング参加選手最多の4三塁打を記録。4月6日のセントルイス・カージナルス戦の5回に代打でメジャーデビュー。ハイメ・ガルシアと対戦し、1打数無安打に終わった。20日のコロラド・ロッキーズ戦ではメジャー初本塁打かつプロ入り後初となるランニング本塁打を記録[10]。4月は主に代打や守備固め要員として起用されたが、5月から先発での起用が増え、5月下旬からスタメンに定着。6月7日のシカゴ・カブス戦では日本人メジャーリーガー史上初となる、サヨナラ本塁打を含む1試合2本塁打を記録した[11]。前半戦は77試合の出場で打率.301、5本塁打、OPS.818、11盗塁の成績を残し、日本人選手としてはイチロー以来となる打率3割での折り返しを達成[12]。後半戦当初は無安打が続き、7月は打率.260に終わるが、20試合連続出塁を記録するなど出塁率は.342を記録。8月以降は復調し、9月28日のシンシナティ・レッズ戦では10号本塁打を含むメジャー移籍後初の3長打を記録し、日本人ルーキー史上3人目の二桁本塁打・二桁盗塁を達成[13]。10月2日のサンディエゴ・パドレス戦で日本人ルーキーではイチロー以来となる30盗塁に到達[14]。後半戦は74試合の出場で打率.278、5本塁打、OPS.763、19盗塁を記録。日本人史上8人目の規定打席に到達者し、シーズン通算では打率.288、リーグのルーキー中4位の出塁率.355、10本塁打、同1位の30盗塁を記録。1番打者としての出塁率.353はリーグ2位だった。

テンプレート:By、開幕から1番・右翼手としてスタメン起用され、開幕戦となった4月1日のコロラド・ロッキーズ戦では日本人史上4人目となる開幕戦での本塁打を記録[15]。4月は打率.250に終わるが、5月は14試合でマルチ安打を記録し打率.343と復調する[16]。6月5日のオークランド・アスレチックス戦で日米通算1500安打に到達[17]。5月25日のピッツバーグ・パイレーツ戦の第3打席から6月10日のマイアミ・マーリンズ戦の第1打席まで、球団タイ記録となる72打席連続無三振を記録[18]。19日には育休リスト入りし第2子となる長男の誕生に立ち会う[19]。7月8日のレッズ戦でシーズン100安打に到達し[20]、7月第1週は打率.424で週間MVP候補に挙がるが受賞は逃す。前半戦は88試合の出場で打率.294、4本塁打、出塁率.360、10盗塁の成績を残す。28日のロッキーズ戦で日米通算100本塁打に到達[21]。8月10日のシアトル・マリナーズ戦では岩隈久志とメジャー移籍後初対戦するが4打数無安打を喫する[22]。9月7日のカブス戦ではヤクルト時代のチームメイトの林昌勇から安打を放ちシーズン150安打に到達[23]。後半戦は66試合の出場で打率.276、4本塁打、出塁率.350、10盗塁を記録し、シーズン通算では最終的に155試合の出場で打率.286、8本塁打、出塁率.356、リーグ11位の20盗塁の成績を残し、三振率5.9パーセントは両リーグで最も少ない数値だった。シーズン終了後には全米野球記者協会ミルウォーキー支部の会員投票によりブランドン・キンツラーと共にチームの“unsung hero(縁の下の力持ち)”に選ばれる[24]。10月29日にチームが翌年の契約オプションを行使[25]

ロイヤルズ時代

12月5日にウィル・スミスとのトレードでカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍[26][27]。ロイヤルズでは東京ヤクルト入団時と同じ背番号「23」を着用することが12月10日に決定している[28]。登録名を「Norichika Aoki」から「Nori Aoki」へ変更した。

テンプレート:By、開幕から1番・右翼手としてスタメン起用される。4月26日のボルチモア・オリオールズ戦ではチェン・ウェインとメジャー移籍後初対戦[29]。6月10日のニューヨーク・ヤンキース戦では黒田博樹とメジャー移籍後初対戦する[30]。5月下旬から死球による腕や足の痛みに苦しみ[31][32]、5日のカージナルス戦ではヤディアー・モリーナの投手への返球が頭部に当たることもあった[33]。6月17日のデトロイト・タイガース戦では左脚を痛め途中交代し[34]、21日に軽度の肉離れと診断されてメジャー移籍後初のDL入りする[35]。後半戦から復帰する予定だったが、アレックス・ゴードンの故障に伴い7月11日に復帰する[36]

選手としての特徴

打撃

安打を量産することから「安打製造機」と称される。メジャーリーグのスカウトからは「MLB以外でプレーしている選手の中で最高の選手。めっきり少なくなった理想的なリードオフマン」[37]「パワー以外のすべてを兼ね備える。コンタクト能力に秀でており、2番打者として理想的な選手」[38]と評された。

卓越したミート感覚で安打を量産し[39]、2ストライク後やボールゾーンでの打率も3割を越え[40][41]、「強く振ること」を心がけ本塁打数が前年から10本増加した2006年からは二桁本塁打を記録する長打力も備えた[42]。プロ入り当初は左投手を苦手としていたが[43]、2005年から2011年にかけては右投手に対し打率.327、左投手に対し打率.333と左右の違いを苦にしなくなった。10打数に1個以上の割合で四球を選ぶ選球眼も備え、2007年から2010年まで4年連続で出塁率4割以上を記録した。メジャーリーグ移籍後も三振率で両リーグトップを記録し、ブルワーズ監督のロン・レニキーから「天賦の才を持っている。あんなに手と目をうまく連動させる選手は、これまで見たことがない」と絶賛された[44]

日本プロ野球では、8シーズンのうち6シーズンで.300以上を記録し、首位打者を3度獲得。また、通算打率は.329(3900打数1284安打)であるが、通算打率ランキングへのランクインには4000打数以上が必要である為、2013年現在ランクインしていない。しかしながら、あと100打数を記録すれば、例え100打数全てが凡退であったとしても.321となり、通算打率1位であるレロン・リーの.320を上回る。

打撃フォームは例年マイナーチェンジしており[45]、「打てない時期が続くとき、元に戻せるなら問題は簡単です。なかなかそうはいかないから、逆にフォームをちょっとずつ切り替えていくことで打てない時期を短くできる」と言い、何通りかの打撃フォームを状態によって使い分ける[46]

守備・走塁

守備ではブルワーズ移籍後から主に右翼手として起用されており、2013年まで右翼手としてDRS21、UZR6.2を記録。ヤクルト時代にはメジャーのスカウトから「肩は20-80段階で45(やや平均未満)。レフトが向いている」と評される[37]など肩は特別強いわけではないものの、正確な送球を持ち味としている[45]

ヤクルト時代には中堅手として起用され、2006年・2007年と2年連続で300刺殺以上を記録(セ・リーグ1位)し、ゴールデングラブ賞に選出された。2008年には失策を減らしリーグ1位の守備率.996を記録。2005年から2009年までは簡易RFでリーグトップ3に入っていたが[47]、2010年は右翼方向の打球の処理が悪くUZR-6.3と平均を下回り[48]、失策や記録に残らない雑なプレーを見せることもあった[45]。2009年には監督の高田繁から守備の怠慢さを指摘されており、特に2009年7月30日の広島東洋カープ戦での中堅守備では、田中浩康が弾いた打球に対するカバーを怠ったことで東出輝裕の二塁進塁を許した(記録は田中の失策)ことを試合後に厳しく叱責され、翌日から数試合、左翼手の福地寿樹とポジションを入れ替えられたことがあった[49]第2回WBCでは左翼手も務め、「複数ポジションをこなせるように」との当時の監督の古田敦也の方針で2006年に1試合だけ二塁手として起用されたこともある。

走塁面ではコンスタントに一塁到達4秒を切り[45][50]、バント安打時には3.68秒を記録[51]。盗塁成功率は日本通算76パーセントを記録している。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 ヤクルト 10 16 15 1 3 0 0 0 3 0 1 0 0 0 1 0 0 6 0 .200 .250 .200 .450
テンプレート:By2 144 649 588 100 202 26 4 3 245 28 29 7 18 1 37 0 5 113 5 .344 .387 .417 .803
テンプレート:By2 146 680 599 112 192 26 3 13 263 62 41 12 4 1 68 2 8 78 3 .321 .396 .439 .836
テンプレート:By2 143 652 557 114 193 26 2 20 283 58 17 6 4 3 80 15 8 66 4 .346 .434 .508 .942
テンプレート:By2 112 500 444 85 154 29 5 14 235 64 31 9 1 3 42 6 10 47 10 .347 .413 .529 .942
テンプレート:By2 142 624 531 87 161 23 2 16 236 66 18 10 1 4 75 4 13 65 9 .303 .400 .444 .844
テンプレート:By2 144 667 583 92 209 44 1 14 297 63 19 4 0 3 63 7 18 61 10 .358 .435 .509 .944
テンプレート:By2 144 643 583 73 170 18 5 4 210 44 8 3 0 0 51 6 9 55 6 .292 .358 .360 .718
テンプレート:By2 MIL 151 591 520 81 150 37 4 10 225 50 30 8 7 5 43 6 13 53 6 .288 .355 .433 .787
テンプレート:By2 155 674 597 80 171 20 3 8 221 37 20 12 8 3 55 1 11 40 9 .286 .356 .370 .726
NPB:8年 985 4431 3900 664 1284 192 22 84 1772 385 164 51 28 15 417 40 71 491 47 .329 .402 .454 .856
MLB:2年 306 1265 1117 161 321 57 7 18 446 87 50 20 15 8 98 7 24 93 15 .287 .355 .399 .755
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績



二塁(2B) 左翼(LF) 中堅(CF) 右翼(RF) 外野(OF)
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2004 ヤクルト - - - - 7 6 0 0 0 1.000
2005 - - - - 144 320 3 1 1 .997
2006 1 0 1 0 0 1.000 - - - 146 306 9 5 5 .984
2007 - - - - 143 265 6 1 2 .996
2008 - - - - 112 229 7 1 2 .996
2009 - - - - 141 300 9 3 2 .990
2010 - - - - 144 300 5 3 2 .990
2011 - - - - 144 321 8 3 2 .991
2012 MIL - 13 14 0 0 0 1.000 19 22 1 1 0 .958 107 195 7 2 2 .990 133 231 8 3 2 .988
2013 - - 2 1 0 0 0 1.000 149 289 9 3 0 .990 149 290 9 3 0 .990
NPB:8年 1 0 1 0 0 1.000 - - - 981 2047 47 17 16 .992
MLB:2年 - 13 14 0 0 0 1.000 21 23 1 1 0 .960 256 484 16 5 2 .990 282 521 17 6 2 .989
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:7回 (2005年 - 2011年)
  • 年間200本安打以上:2回(2005年・2010年)※日本プロ野球記録

背番号

  • 23 (2004年 - 2009年、2014年 - )
  • 1 (2010年 - 2011年)
  • 7 (2012年 - 2013年)

登場曲

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:カンザスシティ・ロイヤルズ テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes

テンプレート:ヤクルトスワローズ2003年ドラフト指名選手
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 『週刊ベースボール別冊冬季号 2005プロ野球総決算 プロ野球改革元年~未来へ』 ベースボールマガジン社出版 発行日2006年1月5日、100頁、雑誌20448-1/5。
  2. 早稲田学報1156号(2006年4月号)
  3. 青木選手、"ミスタースワローズ"の背番号「1」に変更!
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  11. 日本人初!サヨナラ弾含む2発「最高」日刊スポーツ、2012年6月9日
  12. 青木がイチ以来の1年目3割ターン日刊スポーツ、2012年7月10日
  13. 青木「別人」同点10号&2二塁打日刊スポーツ、2012年9月28日。
  14. 青木「成長」30盗塁!イチロー以来の大台」日刊スポーツ、2012年10月4日。
  15. 青木アーチ開幕「不動の1番」へカマした日刊スポーツ、2013年4月3日。
  16. 青木「5月はいい月だった」日刊スポーツ、2013年6月1日。
  17. 青木5打数2安打で1500安打到達日刊スポーツ、2013年6月6日。
  18. 青木3安打メジャー最小三振21打席に1回日刊スポーツ、2013年7月5日。
  19. 青木に第2子誕生 産休から22日復帰へ日刊スポーツ、2013年6月21日。
  20. 青木シーズン100安打「これからが大事」日刊スポーツ、2013年7月10日。
  21. 青木100号も「恥ずかしいぐらい」日刊スポーツ、2013年7月29日。
  22. 青木、岩隈に沈黙「メジャーになってた」日刊スポーツ、2013年8月11日。
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  30. 青木、黒田に無安打 広島時代と「違う」日刊スポーツ、2014年6月10日。
  31. 青木 右腕痛で先発外れる 自ら申し出、代走で出場Sponichi Annex、2014年5月27日。
  32. 青木、痛み止め飲み強行出場で右前打日刊スポーツ、2014年6月3日。
  33. 青木ヒヤリ…返球が頭部直撃 その後にタイムリーの活躍Sponichi Annex、2014年6月6日。
  34. ロイヤルズ9連勝!首位浮上 青木が貢献、左脚痛めるも「大丈夫」]Sponichi Annex、2014年6月18日。
  35. 青木が軽度の肉離れで15日間のDL入り日刊スポーツ、2014年6月22日。
  36. 青木 急きょ先発復帰!後半戦からの予定が主力負傷で21日ぶりSponichi Annex、2014年7月12日
  37. 37.0 37.1 WBCで輝いたMLB未経験選手9人の評価は? MLBのスカウトから見た日韓の選手たち 『月刊スラッガー』2009年6月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-6、50-52頁。
  38. 現役スカウト部長が見た日本チーム 『月刊スラッガー』2009年6月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-6、52頁。
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  45. 45.0 45.1 45.2 45.3 テンプレート:Cite book
  46. 青木宣親 卓越した自己分析力でヒットを増産する逸材Number Web、2008年3月18日。
  47. 09年最高の外野手は赤松と栗山だ! その真の実力を“数字”で検証したNumber Web、2009年12月8日。
  48. Baseball Lab守備評価~Center FielderSMR Baseball Lab
  49. 高田監督激怒!青木のセンター“はく奪”された(野球) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース
  50. 人工芝と土でタイムに違いはあるか『野球小僧』2010年4月号、白夜書房、雑誌18801-4、126-1129頁。
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  52. WWEスーパースター、ファンダンゴの入場曲