落合英二

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テンプレート:Infobox baseball player 落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は、栃木県下都賀郡石橋町(現:下野市)出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ

中日ドラゴンズの中継ぎとして活躍した右腕投手。2010年から2012年まで韓国プロ野球三星ライオンズの投手コーチをつとめた。

来歴

プロ入り前

高校3年の夏は石井忠徳投手(横浜大洋ホエールズ入団)率いる足利工業高校に敗れ、県予選ベスト4に終わった。近鉄バファローズ新人王を獲得した宇都宮南高校高村祐なども高校時代の同期である。

日本大学へ進学。東都大学1部リーグ通算27試合登板、8勝13敗、防御率2.12、148奪三振。150km/hのストレートを武器にドラフトの目玉候補とされていたが、大学4年時に投球の際に右肘を骨折する重傷を負う。一時は選手生命も危惧されたが、回復すると判断した中日が1991年ドラフト会議東北福祉大学のエース斎藤隆の外れ1位で指名し入団。

プロ入り後

プロ1年目のテンプレート:Byにはサファイアを埋め込む大手術を行った。2年目のテンプレート:By以降に主に先発として一軍の登板機会を得るが、先発としては良い成績を残せない時期が続いた。落合博満が現役選手として中日に在籍していた時期、基本的にスコアボードの選手名は英二は「落合英」、博満は単に「落合」と表記していた。ただ、一時期の東京ドームで博満が「落合博」となっていたことがある他、読売新聞等一部の活字メディアでは博満に「落合博」を使用していた。

テンプレート:Byに就任した宮田征典コーチの意向もあって、抑えを務めていた宣銅烈に繋ぐ中継ぎとして固定されたことが転機となる。55試合に登板して、防御率2.82、4勝5敗5セーブの成績を挙げ、リリーフポイント19.70で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。翌テンプレート:Byには、サムソン・リー岩瀬仁紀らと強力な中継ぎ陣を形成し、リーグ優勝に大きく貢献した。

以降も活躍を続け、テンプレート:Byからの山田久志監督下でも結果を残した。

落合博満が監督に就任したテンプレート:Byも、中継ぎ陣の柱として活躍。この年は不調の岩瀬に代わり抑えを務める時期があった。9月26日には久々の先発登板、5回無失点で勝利に貢献。テンプレート:By、落合監督の意向で先発に転向したが結果を残せず、中継ぎに再転向。テンプレート:Byは投球フォームなどの問題から開幕は二軍で迎え、一軍に上がっても結果は出せなかった。チームがリーグ優勝した際には一軍にいなかったが、落合をずっと支えてきた永田トレーナーが監督胴上げの瞬間、落合英二の背番号「26」のプレートを掲げ万歳するシーンが見られた。永田トレーナー以外にも、落合を慕っていた荒木雅博朝倉健太も帽子の裏に「26」と書いて出場していたという。同年オフに戦力外通告を受けた。球団は二軍投手コーチのポストを用意したが、本人は現役続行を希望し、固辞。その後、現役を引退。

1球勝利投手、1球セーブ投手、1球ホールド、1球敗戦投手、0球登板(交代を告げられてマウンドに上がってから雨天中断、その後降板[1])という珍記録を持っている。

引退後

2007年から2009年まで中部日本放送(CBC)の解説者等を務めた。同局ではテレビ番組『サンデードラゴンズ』内で「落合英二ブルブルの輪」というコーナーも担当していた。解説初年度は「ネット裏解説」という奇妙なポジションでの解説を務めることが多かった[2]が、その後は普通に実況席で解説をしていた。ただし、全国ネットの場合は2年目以降でも「ネット裏解説」として出演する場合があった。「ネット裏解説」の時は、観客に話しかけられることがあったという。ドラゴンズの選手からは「英二さんがすぐ見えるところにいるのが変な感じ」といわれたりしたとのこと。

ドラゴンズ時代に同僚だった宣銅烈が監督を務めていた縁で、韓国の三星ライオンズでコーチ研修を受けた。テンプレート:Byから三星の投手コーチに就任。落合コーチ就任後、三星ライオンズのチーム防御率は大幅に改善し、2011年からは投手起用の全権を任され、その手腕は高く評価された。2012年シーズン、三星は2年連続韓国シリーズ優勝を達成し、同年のアジアシリーズ終了後退団した[3]

2013年からは、野球解説者に復帰。本数契約でCBC・東海ラジオテレビ愛知に出演する。また、中日スポーツの野球評論家も務める。

人物

「霊感に優れている」と言われており、以下のような話がある。

  • 試合中に大豊泰昭に自分のバットを差し出して「このバットを使ったら打てる」と予言したところ、大豊が本塁打を打った。
  • 1996年、山崎武司にもバットを差し出したところ、その年に山崎は本塁打王になった[4]
  • 1999年には、ズームイン!!朝!のプロ野球イレコミ情報で、どこの球場で優勝を決めるかと質問されると、「ブルペンが外にある球場で星野監督が胴上げされるのが見える」と予言。実際にプルペンが外にある神宮球場で優勝を決めている。
  • 2009年6月30日の対阪神戦の6回裏、一死満塁で藤井淳志が打席に立った際、ホームランバッターというわけでもなく、さらにそれまでのシーズンで藤井は満塁の場面の打率が7打席1安打と良くなかったにもかかわらず「藤井が颯爽とベースを回る姿が見える」と予言。そしてその打席、藤井は逆転のプロ初となる満塁本塁打を放った。[5]

他にも、霊感の強い様は中日スポーツ連載の4コマ漫画おれたちゃドラゴンズくらはしかん作)でも度々ネタにされていた。

人間関係

星野仙一監督に投球などで注意される時、殴られたことがあったが、結婚後は「俺は既婚者の奴は殴らないから安心しろ」と言われたという。

横浜から移籍して来た谷繁元信は落合よりは1つ年下であるが、何故か「英ちゃん」と呼ばれ、タメ口で話されている。『サンデードラゴンズ』で落合は「歳の分は実績で加味されている」と冗談交じりに語っていた。

2007年に中日に入団した堂上直倫とは、父である堂上照が球団寮の寮長ということもあって以前から付き合いがあり、2006年のファン感謝デーで行われた引退セレモニーでは「成し遂げられなかった日本一の夢をここにいる選手・コーチ、それにこのナゴヤドームのどこかで見ている堂上直倫君に託します」とあいさつ、場内をどよめかせた[6]。ちなみにその時堂上は愛工大名電の野球部の仲間と共に変装して来場していた。また、2007年の沖縄キャンプの休日で堂上が報道陣の写真撮影に応じた際、落合からの貰い物と思われる「EIJI 26」とネームの入った短パンを履いていた。その後堂上直倫が入団した2007年に中日は日本一に輝いた。

家族

妻はフィギュアスケートの元選手で、幼少期の安藤美姫浅田真央を指導したことがある。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 中日 10 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 36 9.1 5 1 5 3 0 7 1 0 2 2 1.93 1.07
テンプレート:By2 27 0 0 0 0 2 1 1 -- .667 146 34.0 35 2 14 1 1 23 0 0 13 12 3.18 1.44
テンプレート:By2 30 14 0 0 0 3 9 2 -- .250 404 96.1 119 11 16 4 3 47 0 0 54 51 4.76 1.40
テンプレート:By2 24 14 3 2 1 4 6 1 -- .400 411 96.1 98 6 29 6 2 61 1 0 49 40 3.74 1.32
テンプレート:By2 19 9 2 0 1 4 7 0 -- .364 271 66.1 66 3 7 1 2 52 0 0 33 27 3.66 1.10
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テンプレート:By2 5 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 20 4.1 6 1 1 0 1 3 0 0 4 4 8.31 1.62
通算:14年 463 44 5 2 2 37 45 24 8 .451 2812 675.0 704 50 142 34 19 393 4 0 283 247 3.29 1.25

タイトル

記録

初記録
その他の記録

背番号

  • 19 (1992年 - 1993年)
  • 71 (1994年)[7]
  • 25 (1995年)
  • 26 (1996年 - 2006年)
  • 88 (2010年 - 2012年)

関連情報

出演番組

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:セントラル・リーグ最優秀中継ぎ投手

テンプレート:中日ドラゴンズ1991年ドラフト指名選手
  1. 投球練習中に右脇腹に違和感で降板したと言われていたが、本人がCBCラジオのドラゴンズワールド内で否定している。
  2. 他局でもグラウンドに近い位置に解説者を置く場合があるが、落合はバックネット裏の客席に座っていた点が異なる。
  3. 異文化で確かな功績を残した落合英二 自費参加から「韓国一の投手コーチ」に - Sports Navi、2012年10月29日
  4. テンプレート:Cite news
  5. テンプレート:Cite web
  6. セレモニーの時点では、堂上はドラフト会議で中日が既に交渉権を獲得しており、仮契約を済ませた段階であった
  7. ただし、1994年のキャンプ初日の写真撮影の際に「12」、キャンプ中は「70」をつけていた。「12」から「70」への変更は高橋三千丈コーチの(「12」を付けていた現役時代、終盤は血行障害に苦しみ、縁起が悪いと考えて)、「70」から「71」への変更は高木守道監督の(「70」は投手の番号ではない、というイメージから)意向だという。