高津臣吾
テンプレート:Infobox baseball player 高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 - )は、元プロ野球選手(投手)・プロ野球監督・野球解説者・野球評論家。広島県広島市南区出身。主に抑え投手としてMLB・NPB・KBO・CPBLの4ヶ国のプロ野球リーグで活躍し、NPB歴代2位の通算286セーブ[1]、史上2人目となる日米通算300セーブを記録している。 テンプレート:Byシーズンより東京ヤクルトスワローズ一軍投手コーチを務める。
目次
来歴
プロ入り前
幼少の頃から広島東洋カープのファンで、ミスター赤ヘルこと山本浩二の大ファンであった。広島県立広島工業高等学校3年の時、春夏通じて甲子園に出場したが、控え投手だったため登板機会はなく野手として出場した[2]。亜細亜大学では小池秀郎に次ぐ2番手の投手であった。東都大学リーグ通算40試合に登板し11勝15敗、防御率2.34、140奪三振。
1990年のドラフト会議でヤクルトスワローズが3位指名で交渉権を獲得し契約金5500万円、年俸700万円(金額は推定)で入団した[3]。
ヤクルト時代
入団当時は先発投手として期待されていた。特に目立った特徴の無い投手だったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。テンプレート:By5月2日には、松井秀喜にプロ初ホームランを献上するも、チームのリードを守り切り、高津もプロ入り初セーブを記録。この年抑え投手に転向し、20セーブを挙げてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。テンプレート:Byには、プロ入り初のタイトルとなる最優秀救援投手を獲得。
テンプレート:Byはシーズン序盤の不調と伊藤智仁の復活と抑え転向によって中継ぎ投手として起用されるが、チームの日本一に貢献。テンプレート:Byはシーズンを通じて不調で抑え投手の座を失う。テンプレート:Byは監督の若松勉の就任とともに抑え投手に復帰し、最優秀救援投手のタイトルを獲得。
テンプレート:Byに最優秀救援投手を獲得、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。日本シリーズでは連続無失点。テンプレート:Byに佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新。最優秀救援投手を獲得。オフにはFA権を行使。ジョー・アーボンを代理人とし、11月にシカゴ・ホワイトソックスと年俸75万ドルの1年契約(2年目は球団オプション)を結ぶ。
ホワイトソックス時代
テンプレート:By4月9日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、最初の打者として松井秀喜と対戦。その後はビリー・コッチに代わりクローザーを務める。開幕から無失点を続け、6月3日の対ミネソタ・ツインズ戦まで24試合連続無失点を記録し、監督のオジー・ギーエンは「マリアノ・リベラでも連れてこない限り、シンゴは我々にとって最高のクローザーだ」とコメント[4]。9月にはESPNの選出した「お買い得だったFA選手ベスト10」では大塚晶則に次いで7位にランクイン。最終的にリリーフ投手中リーグ3位のWHIP0.98と同8位の防御率2.31を記録する投球で19セーブを記録した。10月28日には球団がオプションを行使し年俸250万ドルの1年契約を結んだ。
テンプレート:Byも開幕からクローザーとして起用されるも、4月7日の対クリーブランド・インディアンス戦で1イニング3本塁打を浴びるなど序盤から救援失敗が続いた。特に5月までの14.1回で7被本塁打を喫し、6月は防御率0.96、WHIP0.75と復調したものの、7月には防御率12.60、WHIP2.20と再び打ち込まれ、18日にDFAとなり、8月1日に解雇された。
メッツ時代
2005年8月12日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結び、9月1日にメジャー昇格を果たすが、オフにFAとなり退団。このシーズンのホワイトソックスはワールドシリーズを制したため、チャンピオンリングを入手した。
ヤクルト復帰
テンプレート:Byに古田敦也が監督に就任したこともあり、入団テストを経て3年ぶりにヤクルトに復帰。シーズン当初は中継ぎを任されたが、石井弘寿、五十嵐亮太が故障離脱した後は主に抑えを務めた。10月7日の対広島戦(神宮)で日米通算300セーブを達成。このシーズン、チーム最多の13セーブを挙げた。日米合計で通算300セーブを達成した日本人選手は佐々木主浩に次いで史上2人目。
テンプレート:Byは前年同様、抑え投手を任された。6月30日の対中日戦(秋田)に登板したその夜に宿舎のホテルで入浴中に足を滑らせて転倒し、左足親指を剥離骨折(全治3週間)し戦線離脱。夏場には救援失敗を繰り返し、8月半ばから再び二軍に降格。約1か月後に一軍へ復帰し抑えに復帰。最終戦翌日の10月10日、戦力外通告を受けた。現役続行の意向を表明していたものの、12球団合同トライアウト(同年オフに2回実施)については「自分にもプライドがあるし、考えていない」と否定し、結局2回とも参加せず獲得の連絡を待ったが獲得する球団はなく、11月30日付で自由契約公示された[5]。
カブス傘下時代
テンプレート:By1月18日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加。しかし、オープン戦で登板した5試合で4回1/3を投げて防御率9.64と結果を残せなかった。3月11日に戦力外通告を受けたが、現役続行を表明。16日に古巣のシカゴ・ホワイトソックス監督のオジー・ギーエンから勧められて入団テストを受けるも不合格となった。
韓国時代
2008年6月に韓国野球委員会・ウリ・ヒーローズと契約金6万ドル、年俸12万ドルで契約。
KBOでは4人目の日本人選手となった。6月24日に初登板、6月29日には1回2/3を無失点に抑え初セーブを挙げた。最終的に18試合に登板し1勝0敗8セーブ、防御率0.86だったが、12月17日に外国人野手を獲得する球団方針のため退団。
SFジャイアンツ傘下時代
テンプレート:By5月、ロサンゼルス郊外でメジャー球団のスカウトが見守る中でトライアウトを受験し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ。40歳7か月は日本人最高齢での契約となり、7月にAAA級フレズノに合流したが、メジャーに昇格することはなかった。
台湾時代
テンプレート:By1月に中華職業棒球大聯盟・興農ブルズと契約。MLB、NPB、KBO、CPBLと世界4ヶ国(地域)のプロ野球リーグを経験した初の日本人選手となった。背番号もヤクルト時代と同じ22。6月12日に球界トップの13セーブ目を挙げ、所属の興農ブルズが前期優勝を決め、胴上げ投手になる。11月26日、興農ブルズから契約打ち切りを告げられたことを発表[6]。
独立リーグ時代
テンプレート:By1月24日に新潟アルビレックスBCへの入団が発表される[7]。名球会会員が独立リーグでプレーするのは史上初[8]。また、4月より並行してフジテレビ『すぽると!』の毎週火曜のレギュラー野球解説者も務めることとなった(シーズン開幕後は試合日程に差支えがない範囲での出演)。BCリーグ1年目となる2011年のシーズンは27試合に登板し、0勝2敗16セーブ防御率2.16でセーブ数はリーグトップであった。テンプレート:Byより新潟の選手兼任監督に就任[9]。8月31日、同年限りでの現役引退を表明した[10]。9月22日の長岡市悠久山野球場の新潟対信濃戦が引退試合となり、9回2アウトから登板し原大輝をレフトフライに打ち取った。試合後には「終球式」が行われ、ヤクルト時代にバッテリーを組んだ古田敦也に対して「最後の1球」を投じている[11]。 監督としてはBCリーグ初優勝、四国アイランドリーグplus王者の香川とのグランドチャンピオンシップは3連勝し制した。同年限りで監督を退任。背番号22番は、新潟の永久欠番に制定された。
引退後
テンプレート:Byより、『すぽると』に加え、ニッポン放送『ショウアップナイター』解説者も務めることとなった。J SPORTSの解説者、スポーツニッポンの評論家も務める[12]。
同年10月23日、テンプレート:Byシーズンより一軍投手コーチとして東京ヤクルトスワローズに復帰することが発表された[13]。
プレースタイル
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 サイドスローから投げる時速140km/h前後のストレートと130km/h台、110km/h台、100km/h台の3種類のシンカーが武器。自身最大の武器である100km/h台のシンカーは、当時ヤクルトの監督を務めていた野村克也から「お前のストレートはプロでは通用しない。野球で飯を食いたければ西武の潮崎哲也のシンカーを盗め」と言われて完成させたもの。ヤクルトは日本シリーズで潮崎のシンカーに苦しめられていた。シンカーの速度がアメリカの他の選手の投げるものより数段遅いため、解説者からはチェンジアップと呼ばれていた。日本では投球のほとんどがストレートとシンカーのみであったが、メジャーではカーブも投げるようになった。
登板時、得点圏までランナーをためるが後続をしっかり抑える投球スタイルは「高津劇場」と呼ばれた。
日本シリーズでの通算8セーブ、10セーブポイントは日本記録である。また、日本シリーズでは通算11試合に登板して無失点である。ホワイトソックス移籍後も24試合連続無失点を記録したこともあり、Mr. Zeroと呼ばれた。このような投球スタイルから、ホワイトソックス時代には、USセルラー・フィールドに「It's SHIGO TIME!」の表示が灯った。
人物
テンプレート:スポーツ選手の出典明記 1990年代以降の日本プロ野球を代表する抑え投手である。ヤクルト公式の愛称は「フィニッシャー」(石井弘寿・五十嵐亮太の「ロケットボーイズ」とともにファンから公募されたもの)。
プロ野球選手をタレント的に扱った最初の雑誌『プロ野球ai』(1991年 - )創刊時に一番人気があった選手だった。人柄の良さと喋りの上手さで人気投票では大抵1位だった。
アメリカでの代理人はオクタゴン社のジョー・アーボン、日本国内は弁護士の水戸重之が担当。また、日本でのマネジメントは吉本興業スポーツ部が請け負っている。
カラオケの十八番はクリスタルキングの「大都会」。オフのプロ野球選手が登場する番組でも、クリスタルキングのムッシュ吉崎のパートをものまねで歌っている。野球界では岩本勉、佐伯貴弘と並ぶ「芸達者」として知られる。
選手名鑑の「趣味・特技」欄には、「マッチを使った手品はプロ級、将棋は初心者」と10年以上変わらずに掲載されている。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | ヤクルト | 13 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 120 | 27.2 | 34 | 4 | 6 | 0 | 2 | 25 | 1 | 0 | 15 | 13 | 4.23 | 1.45 |
テンプレート:By2 | 23 | 11 | 3 | 0 | 0 | 5 | 3 | 0 | -- | .625 | 362 | 82.2 | 84 | 10 | 36 | 2 | 3 | 63 | 1 | 1 | 48 | 43 | 4.68 | 1.45 | |
テンプレート:By2 | 56 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 20 | -- | .600 | 324 | 78.1 | 69 | 3 | 24 | 5 | 5 | 72 | 1 | 0 | 28 | 20 | 2.30 | 1.19 | |
テンプレート:By2 | 47 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 4 | 19 | -- | .667 | 298 | 72.1 | 63 | 7 | 30 | 7 | 1 | 54 | 1 | 0 | 25 | 23 | 2.86 | 1.29 | |
テンプレート:By2 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 28 | -- | .250 | 197 | 48.1 | 42 | 2 | 14 | 1 | 3 | 36 | 0 | 0 | 14 | 14 | 2.61 | 1.16 | |
テンプレート:By2 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 6 | 21 | -- | .250 | 215 | 50.0 | 56 | 7 | 16 | 4 | 1 | 35 | 1 | 0 | 18 | 18 | 3.24 | 1.44 | |
テンプレート:By2 | 51 | 3 | 0 | 0 | 0 | 7 | 4 | 7 | -- | .636 | 313 | 79.1 | 55 | 9 | 20 | 4 | 5 | 68 | 0 | 0 | 20 | 18 | 2.04 | 0.95 | |
テンプレート:By2 | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 3 | -- | .400 | 212 | 45.1 | 54 | 6 | 26 | 3 | 2 | 32 | 1 | 0 | 29 | 28 | 5.56 | 1.76 | |
テンプレート:By2 | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 30 | -- | .500 | 164 | 41.1 | 32 | 6 | 8 | 3 | 0 | 38 | 1 | 0 | 11 | 10 | 2.18 | 0.97 | |
テンプレート:By2 | 35 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 29 | -- | .000 | 139 | 34.2 | 32 | 4 | 8 | 0 | 1 | 29 | 0 | 0 | 8 | 8 | 2.08 | 1.15 | |
テンプレート:By2 | 52 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 37 | -- | .000 | 212 | 51.2 | 49 | 3 | 13 | 3 | 0 | 39 | 1 | 0 | 17 | 15 | 2.61 | 1.20 | |
テンプレート:By2 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 32 | -- | .000 | 174 | 41.2 | 37 | 6 | 11 | 1 | 3 | 28 | 1 | 0 | 19 | 18 | 3.89 | 1.15 | |
テンプレート:By2 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 34 | -- | .400 | 185 | 42.0 | 42 | 7 | 21 | 7 | 0 | 26 | 2 | 0 | 18 | 14 | 3.00 | 1.50 | |
テンプレート:By2 | CWS | 59 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 19 | 4 | .600 | 245 | 62.1 | 40 | 6 | 21 | 3 | 2 | 50 | 1 | 0 | 17 | 16 | 2.31 | 0.98 |
テンプレート:By2 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 8 | 3 | .333 | 130 | 28.2 | 30 | 9 | 16 | 1 | 0 | 32 | 1 | 0 | 19 | 19 | 5.97 | 1.61 | |
NYM | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | 38 | 7.2 | 11 | 2 | 3 | 1 | 0 | 6 | 0 | 0 | 2 | 2 | 2.35 | 1.83 | |
'05計 | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 8 | 4 | .500 | 168 | 36.1 | 41 | 11 | 19 | 2 | 0 | 38 | 1 | 0 | 21 | 21 | 5.20 | 1.65 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By2 | ヤクルト | 48 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 13 | 8 | .333 | 173 | 42.2 | 33 | 3 | 15 | 1 | 1 | 31 | 0 | 1 | 15 | 13 | 2.74 | 1.13 |
テンプレート:By2 | 25 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 13 | 0 | .000 | 110 | 23.1 | 32 | 4 | 7 | 2 | 0 | 15 | 0 | 0 | 17 | 16 | 6.17 | 1.67 | |
テンプレート:By2 | ヒーローズ | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 8 | 0 | 1.000 | 85 | 21.0 | 16 | 1 | 5 | 0 | 4 | 18 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0.86 | 1.00 |
テンプレート:By2 | 興農 | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 26 | 2 | .333 | 168 | 43.0 | 29 | 0 | 8 | 0 | 2 | 32 | 1 | 1 | 13 | 9 | 1.88 | 0.86 |
NPB:15年 | 598 | 17 | 4 | 0 | 0 | 36 | 46 | 286 | 8 | .439 | 3198 | 761.1 | 714 | 81 | 255 | 43 | 27 | 591 | 11 | 2 | 302 | 271 | 3.20 | 1.27 | |
MLB:2年 | 99 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 6 | 27 | 8 | .571 | 413 | 98.2 | 81 | 17 | 40 | 5 | 2 | 88 | 2 | 0 | 38 | 37 | 3.38 | 1.23 | |
KBO:1年 | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 8 | 0 | 1.000 | 85 | 21.0 | 16 | 1 | 5 | 0 | 4 | 18 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0.86 | 1.00 | |
CPBL:1年 | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 26 | 2 | .333 | 168 | 43.0 | 29 | 0 | 8 | 0 | 2 | 32 | 1 | 1 | 13 | 9 | 1.88 | 0.86 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- NPB
- 最優秀救援投手:4回 (1994年、1999年、2001年、2003年)
表彰
- NPB
- 月間MVP:2回(2000年5月、2001年8月)
- ファイアマン賞:3回 (1994年、1999年、2001年)
- JA全農Go・Go賞:1回 (救援賞:1995年7月)
- 日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1993年、1995年)
- セ・リーグ会長特別賞:1回 (2003年)
記録
- オールスターゲーム出場:6回 (1994年、1996年、1999年、2000年、2003年、2007年)
- NPB初記録
- 初登板:1991年4月24日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)、5回裏1死に4番手として救援登板、1回2/3を2失点
- 初奪三振:1991年5月2日、対中日ドラゴンズ5回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に宇野勝から
- 初先発・初勝利・初完投勝利:1991年9月12日、対横浜大洋ホエールズ26回戦(明治神宮野球場)、9回2失点
- 初セーブ:1993年5月2日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、6回裏1死に2番手として救援登板・完了、3回2/3を2失点
- NPB節目の記録
- 100セーブ:1999年4月17日、対阪神タイガース2回戦(福岡ドーム)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上10人目
- 150セーブ:2000年9月6日、対阪神タイガース20回戦(明治神宮野球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上3人目
- 200セーブ:2002年4月28日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に4番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上2人目
- 500試合登板:2003年6月20日、対横浜ベイスターズ12回戦(明治神宮野球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上71人目(同時に通算270セーブポイントの日本プロ野球記録を達成)
- 250セーブ:2003年8月16日、対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤドーム)、9回裏に5番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上初
- 日米通算300セーブ:2006年10月7日、対広島東洋カープ20回戦(明治神宮野球場)、9回表に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上2人目
独立リーグ時代の成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
完 投 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By2 | 新潟 | 27 | 0 | 0 | 2 | 16 | .000 | 98 | 25.0 | 20 | 1 | 7 | 2 | 18 | 1 | 0 | 6 | 6 | 2.16 | 1.08 |
テンプレート:By2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 5 | 0.1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | |
通算:2年 | 28 | 0 | 0 | 2 | 16 | .000 | 103 | 25.1 | 20 | 1 | 7 | 2 | 18 | 1 | 0 | 6 | 6 | 2.15 | 1.08 |
- 太字はリーグ最高。
背番号
- 22 (1990年 - 2003年、2007年、2010年 - 2012年)
- 10 (2004年 - 2005年)
- 11 (2006年)
- 33 (2008年)
- 99 (2014年 - )
関連情報
著書
- 『ナンバー2の男』(ぴあ:2004年4月) ISBN 978-4835609300
- 『高津臣吾 必殺シンカー 変幻自在の投球術』(ベースボール・マガジン社:2012年11月) ISBN 978-4583104126
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:MLBstats テンプレート:BASEBALLstats
テンプレート:東京ヤクルトスワローズ テンプレート:新潟アルビレックスBC歴代監督 テンプレート:Navboxes
テンプレート:ヤクルトスワローズ1990年ドラフト指名選手- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 当時の主戦投手は、後に中国放送社員(報道記者→営業部→編成部)の上田俊治だった。
- ↑ 『朝日新聞』1990年12月6日付朝刊 (14版、23面)
- ↑ 『月刊スラッガー』2004年9月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-9、52頁。
- ↑ 2007年 度自由契約選手
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 高津 10歳次男の言葉に涙こらえきれず…引退試合 - スポーツニッポン、2012年9月23日
- ↑ サブマリン高津氏 スポニチ評論家就任 - スポーツニッポン、2013年1月23日
- ↑ 2014年コーチングスタッフについて