栗山英樹
テンプレート:Infobox baseball player テンプレート:Infobox journalist 栗山 英樹(くりやま ひでき、1961年4月26日 - )は、東京都小平市出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球監督、野球解説者・野球評論家、スポーツジャーナリスト・スポーツライター、大学教授。マネジメント事務所は有限会社オフィスマリーン。
2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を務める。日本のプロ野球の監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物は史上初めてである。
目次
来歴・人物
プロ入り前
野球好きの兄に誘われ、小学校時代に軟式野球を始める。中学校に入るといったん野球を離れ、バレーボール部のセッターとして活躍。この時に会得したフライングレシーブが、後の外野守備での華麗なダイビングキャッチを生み出すことになる[1]。中学3年時には、地元小平市のポニーリーグチームに所属し、投手として日米大会に出場、大会MVPを獲得する。大会後、小平市内の創価高校野球部の熱心なスカウトに心を動かされ、ともに甲子園を目指すことを決意する。
創価高校では1年時からベンチ入りし、3年時には主将兼エースとしてチームを牽引したが、春の全東京大会では早稲田実業に0-3で敗れて惜しくも関東大会出場を逃し、優勝候補として期待された夏の西東京大会でも4回戦で敗退し、甲子園への夢は断たれた。その後は教員を目指して東京学芸大学教育学部に合格する。
東京学芸大学では硬式野球部に入部し、投手、内野手として活躍する。東京新大学野球連盟では投手として1年春、2年春のシーズンをリーグ制覇するも、スライダーを投じた際に右肘を故障してからは投手としての限界を感じ、野手に転向することになる。 東京新大学野球連盟での通算成績は、投手として25勝8敗、打者として打率.389(リーグ史上3位)という並外れた成績を残した[2]。在学中に小・中・高の教員免許を取得し卒業後は教員を目指していたが、野球への夢が再燃し、プロチームの入団テストを受ける。その結果ヤクルトスワローズへのドラフト外入団が決まった。
プロ野球選手時代
1年目のテンプレート:Byに遊撃手として一軍デビューを果たすも、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。それでも生き残りをかけ、2年目テンプレート:Byからは、俊足を生かしたスイッチヒッター、外野手への転向を試みる。ジュニアオールスターゲーム出場。
二軍での猛練習が功を奏し、3年目の後半には1番中堅手としてレギュラーに定着、規定打席不足ながら打率.301をマークする。しかし、プロ2年目から平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。3年目のオフには長期入院して治療に専念し、4年目の開幕には間に合ったものの、入院期間のブランクによる調整不足からレギュラーを外される。シーズン後半からは二軍で練習に専念したが、その年のオフのユマキャンプで今度は左足の肉離れを起こす。
5年目のテンプレート:Byは、肉離れの影響で開幕2か月を棒に振ったものの、前年の猛練習の成果もあって1番・中堅手に定着し、規定打席にやや不足ながら打率.331を記録した。6年目のテンプレート:Byには主に2番・中堅手で開幕からレギュラーに定着。初の規定打席を記録し、打率.255に終わったものの犠打37を記録、守備範囲の広さを評価されてゴールデングラブ賞を獲得した。
テンプレート:Byに野村克也が監督に就任すると、当時無名だった柳田浩一の中堅手抜擢により再びレギュラーの座を追われた。さらに右肘の故障やメニエール病再発の不安から、現役を引退した。
メニエール病との闘い
栗山の野球人生は病気と怪我との闘いであり、中でも原因不明のメニエール病の発症は、その後のプロ野球人生に深い影を落とした。
メニエール病が最初に襲ったのは2年目にあたる5月の二軍公式戦であった。この試合の最終回に突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えるようになり、あと1人で試合終了というところでベンチへ交代を願い出ている。しかし一・二軍間のボーダーラインにいた栗山は、その後は目まいが起こっても首脳陣には隠し、頭をクラクラさせながらも試合に出続けたという[3]。
入団当初から体力的にも技術的にも他の選手に劣り、その差を猛練習でカバーしてきた栗山にとって、他の選手以上の練習ができなくなるということはすなわち引退を意味していた。この頃から本人も、選手生命がそれほど長くはならないことを悟っていたようである。
2年目のオフには意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的には回復したものの、3年目の終盤には再び試合中に目まいや立ちくらみを覚えるようになった。同年のオフには長期入院を余儀なくされ、ユマキャンプにも参加できず、いつこの病が再発するか分からない将来への不安の中で入院生活を送ることになる。しかし、たまたま顔見知りになった同じ入院先の子供が自分よりも遥かに深刻な病を持っていることを知らされてからは自分の甘さを恥じ、「また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」という前向きな気持ちになれた、と後に語っている。
引退後
1991年から2011年は野球解説者・スポーツキャスターとしてテレビ朝日( - 1993年、2001年以降)、TBSテレビ・TBSラジオ(1993年[4]以降。テレビ解説は2000年まで[5])に出演。スポーツニッポン専属野球評論家も務める。そのかたわら、母校東京学芸大学の講師を務め、少年野球の普及育成に努めた。
2004年から白鴎大学助教授、2007年から准教授。2008年に教授に昇進。経営学部教授としてスポーツメディア論・野球型などを専門分野としていた[6]。なお、現在は監督業のため休職という扱いになっており、白鴎大学に籍を残している。
TBSラジオ解説者としてのコピーは熱中先生国際派。2002年までテレビ朝日のプロ野球中継にあったコピーは熱血先生。
北海道の栗山町から観光大使を依頼され、栗山町民との親交を深めたことがきっかけで、私財を投じて天然芝の野球場と練習場などを兼ね揃えた「栗の樹ファーム」を2002年に完成させている。「栗の樹ファーム」では少年野球教室や大会が開かれ、子どもたちの夢を育む舞台にもなっている。2009年にはこの功績が認められ、芝生学会より日本芝生文化大賞を受賞した。また、同所に本拠を移している関係もあり、日本ハムファイターズが本拠地を東京から移す直前の2003年からはHBCラジオをはじめとする道内放送局のファイターズ戦中継でも解説を行っていた。
2000年代以降は、日本野球機構などが開催するシンポジウム「夢の向こうに」で第1回(2003年)から司会を務めるなど、プロ野球選手と高校球児の交流事業にも積極的に参加している。
2007年には、古巣ヤクルトの選手兼任監督・古田敦也の引退により監督候補として有力視されたが、実現しなかった。
2009年には、日本高等学校野球連盟が定めるアマチュア資格を満たさない元プロ野球選手としては初めて、同連盟から高校球児への直接取材を特別に認められた(日本学生野球憲章第10条の特例措置[7])。同年以降の全国高等学校野球選手権大会期間中には、プロ野球解説・評論などの活動と並行しながら、朝日放送(ABCテレビ)の「熱闘!高校野球ナビゲーター」として地方大会から同局制作の情報番組(『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当していた。
2011年11月3日、北海道日本ハムファイターズの監督就任(梨田昌孝の後任)が決定した[8]。契約期間は2年[8]。11月9日には就任会見が行われた。背番号は三原脩への憧れにちなみ「80」となった[9][10]。
監督就任1年目となった2012年はチームのエースだったダルビッシュ有が抜け苦戦も予想されたが、吉川光夫、中田翔ら若手選手の台頭もあり開幕当初から好調を維持。10月2日、新人監督として17人目のリーグ優勝を果たした。なお、プロ野球史上初めてリーグ5球団のうち3球団(西武、ソフトバンク、楽天)に負け越して優勝した。クライマックスシリーズでもファイナルステージで福岡ソフトバンクホークスを無傷の3連勝で降し、現役時代は出場経験がなかった日本シリーズへの出場権を獲得したが、読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは2勝4敗で敗退となり、日本一獲得はならなかった。
クジ運が悪く、2013年10月25日のドラフト会議では、松井裕樹、柿田裕太、岩貞祐太を立て続けに外し続けた。競合ドラフトの同日3連敗は2010年の当時オリックスの監督岡田彰布以来である。
現在は独身で結婚歴がない。また、実際の自宅は東京にあるが、現在は栗山町に生活拠点を置いている。
プレースタイル
- 打撃
ミートの上手い巧打のスイッチヒッターであり、打率が高く、三振が少なかった。反面、悪球にも手を出してしまうことが多く、四球が少ない。長打力に欠けていたこともあり、俊足を生かした内野安打が非常に多く、併殺打も少なかった。バントの名手であり、1988年には規定打席不足ながらテンプレート:要出典範囲、1989年には37犠打、プロ野球タイ記録である1試合4犠打も記録している。
- 守備
中堅手として非常に高い守備力を持ち、1989年にはゴールデングラブ賞を獲得している。特に守備範囲の広さには定評があり、華麗なダイビングキャッチでチームの危機を何度も救ったため、テレビ番組の好プレー集などで取り上げられることも多かった(これはバレー部時代のレシーブ練習の成果でもある)。もっとも栗山には、凡フライにダイビングキャッチしてファインプレーを演出するという得意技があり、首脳陣やファンにアピールするためにしばしばこの技を使ったと発言している。内野手としての経験もあり、1年目は遊撃手としてデビューしている。
- 走塁
100メートルテンプレート:要出典範囲の俊足を生かした積極的な走塁で、ヤクルトのリードオフマンとしてチームを牽引した時期もあったが、盗塁があまり得意ではなかったこともあり、1989年には2番打者に転向している。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | ヤクルト | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
テンプレート:By2 | 29 | 18 | 18 | 9 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .278 | .278 | .333 | .611 | |
テンプレート:By2 | 107 | 258 | 239 | 34 | 72 | 5 | 0 | 4 | 89 | 14 | 8 | 5 | 9 | 0 | 4 | 0 | 6 | 26 | 0 | .301 | .329 | .372 | .701 | |
テンプレート:By2 | 72 | 99 | 92 | 13 | 18 | 1 | 1 | 0 | 21 | 5 | 0 | 1 | 3 | 0 | 3 | 1 | 1 | 7 | 3 | .196 | .229 | .228 | .457 | |
テンプレート:By2 | 90 | 370 | 338 | 33 | 112 | 11 | 4 | 0 | 131 | 17 | 7 | 5 | 20 | 0 | 7 | 0 | 5 | 33 | 0 | .331 | .354 | .388 | .742 | |
テンプレート:By2 | 125 | 484 | 420 | 49 | 107 | 18 | 3 | 2 | 137 | 26 | 4 | 4 | 37 | 4 | 17 | 2 | 6 | 34 | 5 | .255 | .291 | .326 | .617 | |
テンプレート:By2 | 69 | 109 | 96 | 15 | 22 | 0 | 1 | 1 | 27 | 4 | 3 | 0 | 10 | 0 | 2 | 0 | 1 | 7 | 3 | .229 | .253 | .281 | .534 | |
通算:7年 | 494 | 1339 | 1204 | 153 | 336 | 36 | 9 | 7 | 411 | 67 | 23 | 15 | 79 | 4 | 33 | 3 | 19 | 108 | 12 | .279 | .308 | .341 | .649 |
---|
年度別監督成績
- リーグ公式戦
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By | 日本ハム | 1位 | 144 | 74 | 59 | 11 | .556 | - | 90 | .256 | 2.89 | 51歳 |
テンプレート:By | 6位 | 144 | 64 | 78 | 2 | .451 | 18.5 | 105 | .256 | 3.74 | 52歳 | |
通算:2年 | 288 | 138 | 137 | 13 | .502 | Aクラス1回、Bクラス1回 |
- ポストシーズン
年度 | 球団 | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
2012年 | 日本ハム | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ(※1) |
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ3位) | 4勝0敗=日本シリーズ進出 (※2) |
日本シリーズ | 読売ジャイアンツ(セ・リーグ1位) | 2勝4敗=敗退 |
- ※1 クライマックスシリーズファイナルステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
- ※2 アドバンテージの1勝を含む。
表彰
- ゴールデングラブ賞:1回 (1989年)
- パ・リーグ優勝監督賞 (2012年)
記録
- 初出場:1984年10月8日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(明治神宮野球場)、9回表に水谷新太郎に代わり遊撃手として出場
- 初安打:1985年8月1日、対横浜大洋ホエールズ12回戦(明治神宮野球場)、8回裏に宮本賢治の代打として出場、遠藤一彦から単打
- 初先発出場:1985年10月5日、対横浜大洋ホエールズ20回戦(明治神宮野球場)、8番・右翼手として先発出場
- 初盗塁:1985年10月12日、対横浜大洋ホエールズ21回戦(横浜スタジアム)、6回表に二盗(投手:門田富昭、捕手:小山昭晴)
- 初打点:1985年10月9日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、8回表に福間納から内野ゴロの間に記録
- 初本塁打:1986年6月28日、対阪神タイガース14回戦(明治神宮野球場)、9回裏に伊藤文隆からソロ
- 1試合4犠打:1989年6月4日、対中日ドラゴンズ8回戦(明治神宮野球場)
背番号
- 46 (1984年 - 1989年)
- 4 (1990年)
- 80 (2012年 - )
関連情報
著書
- 単著
- 『栗山英樹29歳:夢を追いかけて』(池田書店、1990年4月、ISBN 4262143759)
- 『スポーツキッズのほうれん草:スポーツサイエンス・リポート』(全国朝日放送、1992年6月、ISBN 4881311778)
- 『夢は正夢』(扶桑社、1994年7月、ISBN 4594014739)
- 『復活:地獄を覗いた男たち(1994年10月、ベースボール・マガジン社)ISBN 4583031610
- 『忘れちゃいけないものがある:スポーツを愛する人たちへ』(1996年8月、小学館)ISBN 4093871914
- 『栗山英樹のベースボールアカデミー』(2005年7月、出版芸術社)ISBN 4882932717
- 『栗の樹ファーム物語:栗山英樹、野球場をつくる:北の大地で育む"フィールド・オブ・ドリームス"』(2006年3月、マキノ出版)ISBN 4837670555
- 『栗山英樹が選ぶアスリートたちの世界集』(2007年2月、学習研究社。「中学生のためのショート・ストーリーズ」第8巻として発行)ISBN 9784052026331 ※複数の著作家によるスポーツ選手の物語を栗山が選定したもの(「栗山英樹選」のクレジットあり)。
- 『怪物前夜:"60億円の男"松坂大輔を育てた「嫌いにさせない」子育て術』(2007年3月、東京学参)ISBN 9784808007737
- 『はるかなる甲子園:もう一つの高校野球物語』(2010年11月、日刊スポーツ出版社)ISBN 9784817202826
- 『覚悟 = Resolution:理論派新人監督は、なぜ理論を捨てたのか』 (2012年10月、KKベストセラーズ) ISBN 9784584134535
- 『伝える。:言葉より強い武器はない』 (2013年4月、KKベストセラーズ) ISBN 9784584134849
- 共著
- 『スポーツ新人類たちへ:軽やかにスポーツを語ろう:栗山英樹対談集』(ソニー・マガジンズ、1993年4月、ISBN 4789708020)
- 『栗山英樹のスポーツおもしろランド』シリーズ(保立浩司絵、小峰書店)
- 『スポーツと食べ物のひみつ』(1996年7月、第1巻)ISBN 4338134011
- 『スポーツのうそ・ほんと』(1996年9月、第2巻)ISBN 433813402X
- 『ためしてみよう!スポーツのふしぎ』(1996年11月、第3巻)ISBN 4338134038
- 『うまくなるコツとひみつ 1:野球・陸上競技・バスケットボール編』(1997年1月、第4巻)ISBN 4338134046
- 『うまくなるコツとひみつ 2:サッカー・バレーボール編』(1997年3月、第5巻)ISBN 4338134054
- 『Get sports:テレビ朝日『ゲット・スポーツ』:野球を極める』(2003年5月、アスキー・コミュニケーションズ。南原清隆との責任編集)ISBN 4776200481
- 監修
- 『言葉の魔球:野球名言集』(2005年10月、出版芸術社)ISBN 4882932849
- 『我が子をプロ野球選手に育てる本:体・眼・心・食のスペシャリストが指導』(2005年10月、マキノ出版。立花龍司・真下一策・児玉光雄・海老久美子著)ISBN 4837670490
- 『メジャーリーガーになれるか?!』(2008年7月、泉書房)ISBN 978486287020
- 訳書
- 『ラクロスの基礎』(ロバート・E・レイノルズ著、ベースボール・マガジン社、1993年12月、ISBN 4583030967)
連載
出演番組
テレビ
解説者のみならず、スポーツ情報番組を主体に司会者としても活動した。
- スーパーベースボール(1991年 - 1992年、2001年 - 2011年。解説。ABC・HTBなど系列局制作の中継にも不定期出演)
- スポーツフロンティア(1991年4月 - 1993年3月。メインキャスター)
- 楽天GIGランド(名古屋テレビ。1992年10月 - 1993年3月。司会)
- 速報!スポーツCUBE(2000年 - 2001年。メインキャスター)
- ベストポジションSPORTS(コーナー司会)
- 報道ステーション(プロ野球コメンテーター)
- GET SPORTS(ナビゲーター)
- 熱闘甲子園(ABC・テレビ朝日。2009 - 2011年度)
- 長嶋三奈とともに、スタジオ司会と全国高等学校野球選手権大会各都道府県代表校への大会中取材を担当。
- 速報!甲子園への道(ABC、2009 - 2011年度)
- コメンテーター兼リポーター。長嶋とともに、全国高等学校野球選手権大会地方大会を随時取材していた。
- JAPAN MAJOR BASEBALL(1993年 - 2000年。解説)
- JNNニュースの森(プロ野球年末総括やシーズン前の順位予想で出演した)
- JNNスポーツ&ニュース(キャスター。本人の歌う『天使というより魔法使い』がエンディングテーマに使われた)
- オールスター感謝祭(1993年4月3日、1993年10月9日、1994年4月2日、1994年10月1日、1995年4月1日、1995年9月30日、1996年3月30日、1996年10月5日)
- スポーツマンNo.1決定戦(第8回芸能人サバイバルバトルまでのメインリポーター)
- 土曜元気市
- 新・男の食彩(2003年度。司会)
ラジオ
※特記ない限り、パーソナリティとしての出演。
- TBSラジオ エキサイトベースボール(1993年 - 2011年。解説)
- 栗山英樹のエキサイトサンデー
- HBCファイターズナイター(2003年 - 2006年。解説。2007年以降もTBSラジオ制作の裏送りには出演していた)
- 栗山英樹 Dream Navigation
- 栗山英樹 NEXT INNING
- サタデー・オン・ザ・ウエー
- ハロー・サンシャイン
- ゲット・ユア・ドリーム
- 夢の翼に
- 各地のAM局
- 栗山英樹のミュージックブルペン
- 栗山英樹の夢を追いかけて
- 栗山英樹の野球場に行こう!(2012年2月5日 - 。毎月第1日曜19:00 - 19:30の『ぞっこんほっかいどうアワー』枠で放送)
CM
音楽
- 「好敵手/それぞれの旅」(1992年7月25日・シングル)※2曲ともさだまさしの作詞作曲。
- 『フォー・シーズンズ』(1993年9月26日・アルバム)
ゲームソフト
- プロ野球 熱スタシリーズ(2006年・2007年、バンダイナムコゲームス。大塚光二とともに解説者として声の出演)
脚注
参考資料
- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
関連項目
- 東京都出身の人物一覧
- 東京学芸大学の人物一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧
- 岩崎なおあき - 物まねを演じる舞台俳優。
外部リンク
テンプレート:北海道日本ハムファイターズ テンプレート:北海道日本ハムファイターズ歴代監督
テンプレート:Navboxes- ↑ 栗山英樹『栗山英樹29歳 夢を追いかけて』テンプレート:要ページ番号
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 栗山英樹『栗山英樹29歳 夢を追いかけて』テンプレート:要ページ番号
- ↑ 『TBS50年史』資料編P234の「主なスポーツ番組解説者」に掲載されたプロ野球解説者の一覧より参照。
- ↑ 『12球団全選手カラー百科名鑑2001』(『ホームラン』2001年3月号増刊。日本スポーツ出版社発行)の解説者名鑑内では「TBSを卒業」という旨の記述をしているが、テレビ解説の活動先をテレビ朝日に移しただけで、TBSラジオでの解説者活動は引き続き行っていた。参考リンク:2001年当時のTBSラジオ『ザ・ベースボール』公式サイト内解説者一覧 - インターネットアーカイブ2001年4月13日付保存キャッシュより
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 8.0 8.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 栗山新監督が背負う!三原魔術の「80」(1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM(2011年11月10日付記事)
- ↑ 栗山ハム新監督“三原イズム”で勝つ! - デイリースポーツonline(2011年11月10日付記事)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 参考:栗山英樹氏のサインボールをゲット!『ワースタ5』発売記念キャンペーン! - 『電撃オンライン』2001年4月25日付
- ↑ 第一三共ヘルスケアホームページ内に掲載されていた、CM情報 - インターネットアーカイブ2008年9月17日付保存キャッシュ