谷川浩司

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テンプレート:Infobox 将棋棋士 谷川 浩司(たにがわ こうじ、1962年4月6日 - )は、将棋棋士若松政和七段門下。棋士番号は131。兵庫県神戸市須磨区出身。

タイトル通算獲得数は歴代4位永世名人十七世名人)の資格[注 1]を保持。

日本将棋連盟棋士会会長(初代、2009年4月 - 2011年3月)、日本将棋連盟専務理事(2011年5月 - 2012年12月)を務め、2012年12月より日本将棋連盟会長に就任[1]

プロデビューまで

5歳の頃、5つ年上の兄・俊昭との兄弟喧嘩が絶えなかったため、父が兄弟喧嘩を止めさせる目的で将棋盤を買ってきて兄弟で将棋を指させた。これが、将棋との出会いである[2][3]。ルールは百科事典で調べたという[4]。そして、兵庫県の大会に出るようになって、面白さを感じるようになっていく。なお、この話には「兄弟喧嘩はむしろひどくなった」というオチがある[2]。11歳の時には三宮に来ていた内藤国雄(当時八段)と対局し、飛車角落ちながら勝利したこともある[5]

そしてプロを目指すことになった浩司は、小学5年の4月(1973年)に、5級で奨励会で指し始める。以降、順調に昇級・昇段を重ね、中学2年時代の1976年12月20日に四段に昇段してプロデビューした。加藤一二三以来、史上2人目の「中学生棋士」の誕生である。プロ将棋史上、中学2年以下でプロ入りした棋士は谷川のみである。ただし、最年少棋士の記録保持者は加藤である(谷川は4月生まれ、加藤は1月生まれであるため)。

なお、兄・俊昭は灘中学校・高等学校東京大学リコー(将棋大会トップクラスの常連)で将棋部に在籍し、アマチュアのタイトルを何度も獲得した。「将棋ジャーナル」誌の企画対局において、四段時代の羽生善治平手で勝ったこともある[6]

棋歴

末尾の年表 も参照。

1983年に史上最年少名人になった頃、「中原時代」を築いた中原誠十六世名人の後継者と目され、1991年度には四冠王となった。しかし続いてやってきたのは「谷川時代」ではなく、‘羽生世代’の棋士達との対決の時代であった。特に、羽生善治との150局を超える戦い(現役棋士同士では最多)は、ゴールデンカードと呼ばれることとなる。

史上最年少名人

「中学生棋士」として脚光を浴びてプロデビューした谷川は、順位戦名人戦の予選)において、最初の1期(1977年度)だけ足踏みをする。しかし、その後は4期連続昇級して一気にA級に上がる。この間、1978年度に、若手の登竜門である若獅子戦(優勝者のほとんどが後のA級棋士)で棋戦初優勝をしている。なお、この頃の順位戦(1977 - 1985年度)は、A級に相当するリーグが「名人戦挑戦者決定リーグ戦」、B級1組 - C級2組に相当するリーグが「昇降級リーグ戦1組」 - 「〃4組」という名称であった(主催社が朝日新聞社から毎日新聞社に変わった影響)。

かくして、A級八段(1982年4月1日付け)となった谷川であるが、夢は中原名人を破って名人となることであった。その4月から中原名人は加藤一二三挑戦者と名人戦を戦っていた。この第40期名人戦七番勝負は、フルセットで、しかも、持将棋が1局、千日手が2局という「十番勝負」となっていた。谷川は、この最終局の解説会(東京・将棋会館)で解説役を務めていた。結果は加藤の勝ちとなったが、谷川は当時の心境について「加藤先生には申し訳ないが、中原先生に名人のままでいてもらわなければ困ると思っていた。(解説役を務める立場なのに)加藤先生の勝ちとなったときには呆然とした。」との旨を語っている[7]

谷川は、加藤名人への挑戦者を決める第41期名人戦挑戦者決定リーグ戦(A級順位戦)でも快進撃を続け、7勝2敗で1位タイの成績を収め、中原誠とのプレーオフを制して名人挑戦権を得る。そして、第41期名人戦(谷川4-2加藤)において、第6局(1983年6月14日 - 6月15日)までで勝ち、初タイトル・名人を獲得。史上最年少名人(21歳)[注 2]の記録を打ち立てた。タイトル獲得での会見で「1年間、名人位を預からせていただきます」と語った。

1983年7月19日の対・大山康晴戦(王位リーグ)で、大山の玉を詰ます手順の中で打ち歩詰め回避の角不成(99手目▲4三角引不成)という、まるで作った詰将棋のような手を指して勝っている(実際の局面図は打ち歩詰め#実戦における打ち歩詰め を参照)。

1983年度の第2回全日本プロトーナメントで、プロ入りが同期の田中寅彦と決勝三番勝負を戦う。若手時代、谷川は序盤不得意で終盤得意、逆に田中は序盤得意で終盤不得意ということで、よく比較され、ライバルと呼ばれることがあった。谷川は、この決勝を2-1で制して優勝。これが、全棋士参加のトーナメント棋戦における初優勝である。同棋戦とは相性が良く、19回の歴史の中で谷川の優勝は通算7回、準優勝は通算3回である[注 3]

翌年(1984年)、初のタイトル防衛戦となる第42期名人戦(谷川4-1森安秀)では、粘り強い棋風から「だるま流」と呼ばれた森安秀光を相手に、4勝1敗で名人位防衛に成功する。このとき「これで弱い名人から、並みの名人になれたと思います」と述べている[8]

第44期(1984年度前期)棋聖戦(谷川0-3米長)で米長邦雄棋聖(棋王・王将)に挑戦。名人対三冠王ということで注目された。しかし、第1局で相手の歩の数を間違えて読むというポカがあり、また、第2局では米長の「泥沼流」の受け(91手目▲5八玉)から逆転負けをするなどして[9]、ストレート負けで、タイトル戦での初の敗北を喫する。ちなみに、米長はこの少し後に中原から十段位を奪い、谷川名人と中原十段を倒して四冠王になったということで「世界一将棋の強い男」と呼ばれた。

1985年度、3度目の防衛戦となる第43期名人戦(谷川2-4中原)で、挑戦者の中原に敗れる。また、同年度の第33期王座戦(谷川1-3中原)では、谷川が中原への挑戦権を得たが、奪取はならなかった。しかしながら、全日本プロトーナメントで3連覇し、第11期棋王戦(谷川3-0桐山)では「いぶし銀」こと桐山清澄から棋王位を奪取した。さらには、NHK杯戦優勝、初の最多勝利(56勝)、前述の王座挑戦などの活躍により、将棋大賞最優秀棋士賞を初受賞する。

四冠王へ

次は、谷川より少し遅れて台頭してきた「55年組」の一人である高橋道雄とのタイトル戦が3つ続く。

1986年度、第12期棋王戦(谷川1-3高橋)は、高橋が先手の2局は相矢倉、谷川が先手の2局は角換わり腰掛銀となり、相手の得意戦法を2度ずつ受けて立つ戦いとなった。結果は、角換わりで1敗した谷川が棋王を失冠し、無冠となった。

しかし、翌1987年度に、第28期王位戦(谷川4-1高橋)で高橋から奪取する。なお、この王位戦七番勝負の日程と並行して、両者は十段戦リーグでも2度対戦しており、結果は1勝1敗であった(高橋はこの期に福崎文吾から十段位を奪う)。さらに、第13期棋王戦(谷川3-(持1)-2高橋)においては、前年に高橋から奪われた棋王位を奪還する。これで、自身初の二冠(王位・棋王)となる(2度目の最優秀棋士賞受賞)。

1988年度、第46期名人戦(谷川4-2中原)は「中原名人への挑戦」となった。3勝1敗で中原を追い詰めた後の第5局で、中原の悠然とした態度に威圧され2勝目を返されるが[7]、第6局で勝ち名人に復位。この時点で初めて三冠(名人・王位・棋王)となった。しかし、同年度の第29期王位戦(谷川3-4森)で‘終盤の魔術師’こと森雞二に敗れ、第14期棋王戦(谷川2-3南)では「55年組」の一人で‘地蔵流’こと南芳一に敗れて、名人のみの一冠となった。

1989年度、第47期名人戦(谷川4-0米長)で名人位を防衛し、さらに第30期王位戦(谷川4-1森雞二)で森から王位を奪還して二冠(名人・王位)に復帰する。

1990年度、第48期名人戦(谷川2-4中原)で再び中原誠に名人位を奪われたものの、第38期王座戦(谷川3-1中原)で中原誠から王座を奪取し、すぐに二冠(王位・王座)に復帰する。その間、第31期王位戦(谷川4-3佐藤康)ではタイトル戦初登場の五段・佐藤康光にフルセットに持ち込まれたが、辛くも防衛に成功した。

同年度、第3期竜王戦(谷川4-1羽生)で、羽生善治と初めてタイトル戦の舞台で戦い、羽生から竜王を奪取。自身2度目の三冠(竜王・王位・王座)となった(3度目の最優秀棋士賞受賞)。しかしながら、この竜王戦で3-0の後の第4局で、(入玉模様ではない攻め合いの)203手の名局で羽生から1勝を返されたことに関し、「4-0か4-1かというのは(その後のことを考えれば)大きかったかもしれない」[7]と述べている。

そして、四冠王となる年である1991年度を迎える。

第32期王位戦(谷川4-2中田宏樹)では、三冠のうちの一冠を防衛。

第39期王座戦(谷川2-3福崎)での相手は、かつて谷川に「感覚を破壊された」[注 4]とまで言わせた穴熊の名手・福崎文吾であった。最初の2局で福崎の穴熊戦法の前に屈したのが大きく、王座を失冠した(二冠に後退)。この最終局は千日手指し直しとなったが、その終盤、喉が渇いて苦しそうにしている福崎に、谷川は自分の茶を差し出した。福崎はそれを飲み干した後、自らを勝ちに導く妙手を発見した[10]

しかし、それでも谷川は失速しなかった。

第4期竜王戦(谷川4-(持1)-2森下)で、矢倉の「森下システム」で知られる森下卓の挑戦を退けて、防衛に成功する。第1局は角換わりの出だしからの持将棋であった。

次に、第59期(1991年度後期)棋聖戦(谷川3-0南)で南芳一を破り、初めて棋聖位に就く。さらには、第41期王将戦(谷川4-1南)でも南を破り、初めての王将位を獲得する(1992年2月28日)。

これで、全7タイトルを各1回以上獲得したことになり[注 5]、また、大山康晴、中原誠、米長邦雄に次いで史上4人目の四冠王(竜王・棋聖・王位・王将)となった(4度目の最優秀棋士賞受賞)。

四冠達成までの過密スケジュール
1991年
11月22日 ○ 棋聖戦・挑戦者決定戦(阿部) = 棋聖挑戦権獲得
11月26日-27日 ● 竜王戦第4局(森下)
11月30日 ○ 天王戦・決勝(村山) = 優勝
12月1日 ○ 棋王戦・敗者復活戦1回戦(加藤(一))
12月4日-5日 ○ 竜王戦第5局(森下)
12月7日 ○ 王将リーグ6回戦(中原)
12月10日 ○ 棋聖戦第1局(南)
12月12日 ○ 棋王戦・敗者復活戦2回戦(塚田(泰)
12月13日 ○ 王将リーグ7回戦(屋敷) = 4勝2敗で4人が並ぶ
12月17日-18日 ○ 竜王戦第6局(森下)
12月20日 ● A級順位戦(高橋)
12月24日 ○ 棋聖戦第2局(南)
12月26日-27日 ○ 竜王戦第7局(森下) = 竜王防衛
12月29日 ○ 王将リーグ・プレーオフ1回戦(米長)
12月31日 ○ 王将リーグ・プレーオフ2回戦(中原) = 王将挑戦権獲得

1992年

1月7日 ○ 棋王戦・敗者復活戦3回戦(高橋)
1月10日 ○ 棋聖戦第3局(南) = 棋聖奪取
1月14日 ○ A級順位戦(石田
1月16日-17日 ● 王将戦第1局(南)
1月23日 ● 棋王戦・敗者復活戦決勝(南)
1月27日-28日 ○ 王将戦第2局(南)
2月3日 ● 全日プロ・準々決勝(中田(宏))
2月5日-6日 ○ 王将戦第3局(南)
2月12日 ● A級順位戦(南)
2月17日-18日 ○ 王将戦第4局(南)
2月27日-28日 ○ 王将戦第5局(南) = 王将奪取四冠達成
(3月2日 ● A級順位戦(大山))

※タイトル戦の各局の前日には、対局場検分と前夜祭のスケジュールもある。
※テレビ棋戦(NHK杯戦早指し選手権)の対局日は不明。

羽生世代との対決(1)

1992年度は6度のタイトル戦(うち、防衛戦が5つ)で「羽生世代」のうちの3人と対決する。

前期・後期の棋聖戦・第60期棋聖戦(谷川3-1郷田)と第61期棋聖戦(谷川3-(持1)-0郷田)では、郷田真隆を相手に2度防衛する。しかし、第33期王位戦(谷川2-4郷田)では郷田に敗れて三冠(竜王・棋聖・王将)に後退するとともに、郷田の史上最低段タイトル獲得(四段)の記録達成を許してしまう。

第5期竜王戦(谷川3-4羽生)では羽生に奪取され、二冠(棋聖・王将)に後退する。

第42期王将戦(谷川4-0村山聖)では防衛に成功したものの、第18期棋王戦(谷川2-3羽生)ではフルセットの戦いの末、奪取に失敗する。

そして、翌1993年度からは、タイトル戦の相手がほとんど羽生だけになる。

1993年度前期の第62期棋聖戦(谷川1-3羽生)で失冠し、王将のみの一冠となる。これで、羽生とのタイトル戦で3連続敗退となり、この頃から羽生に対して苦手意識を持ったという[7]。第41期王座戦(谷川1-3羽生)では奪取失敗。

同年度、第63期(1993年度後期)棋聖戦(谷川2-3羽生)は、羽生へのリターンマッチとなる。最初の2局で2連敗したが、この2敗目の一局(1993年12月24日)での羽生の指し方は、従来の将棋の常識からかけ離れたものであった。まず、序盤早々、18手目△4二角と引いて4四の歩のタダ取りを許し、さらには、谷川の玉に迫っていた7九の と金を9九の香車を取るだけのために2手をかけて、△8九と(56手目)- △9九と(58手目)と「退却」させた。売られた喧嘩を谷川が買う乱戦となったが、最後は羽生の勝ちとなった。しかし、この2連敗の後、千日手2回による日程繰り延べがあり、その後に2連勝という粘りを見せてフルセットの戦いに持ち込んだ。その2勝目(1994年1月31日)は、タイトル戦としては非常に珍しい49手という短手数で羽生を投了に追い込んだものである。しかし、最終局の矢倉戦で敗れて奪取に失敗した。

第43期王将戦(谷川4-2中原)では、中原を相手に王将の一冠を死守した。一方、羽生は、この年度に佐藤康光に竜王位を獲られたものの、棋聖と王位を奪取して四冠となり、全冠制覇への道を歩んでいた。

執念・屈辱

1994年度は、第64期棋聖戦(谷川1-3羽生)棋聖戦と第42期王座戦(谷川0-3羽生)で羽生に挑戦するが、いずれも敗退する。一方、羽生は、二大タイトルの名人、竜王をそれぞれ米長邦雄、佐藤康光から奪取して史上初の六冠王となり、残るタイトルは、谷川が持つ王将位だけという状況になった。そして、羽生は第44期王将リーグで5勝1敗で郷田と並び、プレーオフを制して、ついに全七冠制覇をかけて谷川王将に挑んでくる。

そして迎えた第44期王将戦(谷川4-3羽生)は、第1局(1995年1月12日 - 13日)の谷川の先勝で始まった。

ところが、その第1局と第2局(1月23日 - 24日)の間に谷川は、阪神・淡路大震災1995年1月17日)で被災する。しかも、第2局より前の1月20日には米長邦雄とのA級順位戦があった。19日に妻の運転で神戸から大阪に脱出したが、13時間もかかったという[11]。それでも谷川は、対・米長戦で勝ち、羽生との王将戦第2局でも勝った。しかし、羽生も粘って3勝3敗とし、フルセットに持ち込んだ。

そして、青森県・奥入瀬で行われた最終第7局(1995年3月23日 - 3月24日)は相矢倉の将棋となったが、2日目に76手で千日手が成立し、その日のうちに指し直しとなった。指し直し局は、先手・後手が逆であるにもかかわらず、40手目まで千日手局と全く同じ手順で進み、「お互いの意思がピッタリ合った」[12]。41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。結果、111手で先手・谷川の勝ちとなり、4勝3敗で王将を防衛。最後の砦として羽生の七冠独占を阻止した。この日は、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。勝利したのが谷川であったのにもかかわらず、対局後にカメラやマイクが主に敗者である羽生善治に向けられたのも異例のことであった。後に谷川は、「震災がなかったら獲られていたかもしれない」と語っている[7]

1995年度、羽生は開幕から名人、棋聖、王位、王座、竜王と全て防衛に成功し、さらに王将リーグも再び制覇して2年連続で谷川王将の挑戦者となる。

この第45期王将戦七番勝負(谷川0-4羽生)では、羽生が開幕から3連勝し、あっという間に谷川を追い詰める。

山口県マリンピアくろいで行われた第4局(1996年2月13日 - 2月14日)の戦形は、勝っても負けても大差の内容になりやすい「横歩取り」となり、谷川は先手番で中原囲いを組むという新構想を見せる。2日目の模様は、NHKの衛星テレビで放送され、時間枠は午前9時から終局まで(12:00 - 13:30は中断)という異例の長さであった。その中継会場(大盤解説)は大入りで、その熱気で解説役の森下卓山田久美は汗だくだったという[13]

谷川にとって37手目が悔やまれる一手であった。2日目の15時半頃にはすでに羽生が勝勢。そして、もはや自玉に受けがなくなった谷川は、77、79手目の形作りの手で、首を差し出した。以下は易しい詰み。羽生が82手目△7八金と引いて王手をかけた手を見て、17時6分、ついに谷川は投了した。谷川にとっては屈辱の、七冠王誕生である。前年とは異なり4戦4敗であっけなくタイトルを渡す形となった。終局直後のインタビューでは「せっかく注目してもらったのに、ファンの方にも羽生さんにも申し訳ない[13]と述べた。

なお、羽生は対局前日の12日から風邪で熱を出しており、体調は不十分であった。これについて羽生は、「体調管理が悪いことは褒められたものではないが、その状態では負けてもしょうがないと思い、逆にプレッシャーを低減させた」と語っているテンプレート:要出典

再起

テンプレート:Shogi diagram

羽生に7冠目を献上した屈辱の後、1996年、第9期竜王ランキング戦1組の2位で本戦出場となった谷川は、挑戦者決定三番勝負で佐藤康光を2勝0敗で破り、羽生竜王へのリベンジの機会をつかみ取る。そして第9期竜王戦七番勝負(谷川4-1羽生)で羽生から竜王位を奪取する。この七番勝負第2局の終盤80手目で、谷川が△7七桂(右図参照)と打った手は、まさに「光速の寄せ」(の復活)と言われた。一見、ただで取られるだけのところに桂馬を放り込んだと言ってもよい。この手を境に羽生の玉はたちどころに寄り形となり、谷川の勝ちとなった。当時、NHK将棋講座で講師を務めていた中原誠は、番組の中で「今回の竜王戦は面白くなりましたね。7七桂という手が出ましてね。」とコメントした。

なお、直後の第46期王将戦(谷川0-4羽生)でも、王将リーグで村山聖との4勝2敗同士のプレーオフを制して羽生に挑戦したが、こちらでは敗退している。しかし、第55期A級順位戦では1敗後の8連勝で、羽生名人への挑戦を決める。

そして、年度が明けての1997年の第55期名人戦(谷川4-2羽生)で勝利を収め、前年獲得した竜王も含め、二大タイトル(竜王・名人)を独占する。また、この名人獲得は通算5期であり、規定により永世名人(十七世名人)の資格を得た。翌朝NHK総合テレビのニュースに出演した谷川は、「内容が良くなかった」「まだ‘谷川時代’を作っていない」と語った。

名人戦と日程が並行した1997年4月 - 5月(棋戦としての年度は1996年度)の第15回全日本プロトーナメント決勝五番勝負(谷川3-2森下)では、森下卓を下して6度目の優勝をする。この決勝五番勝負では、谷川が後手番の2局において、先手・森下卓の相矢倉への誘いに谷川が応じず、後手急戦棒銀(原始棒銀)を見せて話題となった(その2局の勝敗結果は1勝1敗)。

同年度は、第10期竜王戦(谷川4-0真田圭一)で竜王防衛も果たし、(タイトル獲得数は羽生の四冠より少ないものの)2つのビッグタイトルを独占した。これが評価され、最優秀棋士賞(5度目)を受賞。また、1997年(1 - 12月)の獲得賞金・対局料ランキングで1位(11762万円)となった[注 6]。ちなみに、2位は羽生善治の10182万円、3位は屋敷伸之の3555万円であった。1993年以降羽生以外の棋士が1位になったのは、この年だけである(2012年現在)。

羽生世代との対決(2)

1998年度以降のタイトル戦は、羽生善治、佐藤康光、藤井猛、郷田真隆、丸山忠久森内俊之といった羽生世代の棋士達ばかりを相手にしての戦いとなった。

1998年度、第56期名人戦七番勝負(谷川3-4佐藤康)は、フルセットの戦いとなる。第6局までは、すべて先手を持った側が勝ちの展開で3勝3敗となった。谷川が先手で勝った3局は、すべて、谷川が得意とする角換わりの戦形を佐藤が受けて立ったものであった。最終第7局は、振り駒で谷川が先手を引き当てた。しかし、谷川は初手▲7六歩、2手目△8四歩の後、角換わりを目指す▲2六歩ではなく▲6八銀として矢倉を選択した。結果は佐藤が勝ち、「佐藤新名人」を誕生させてしまった。

同年度、第11期竜王戦(谷川0-4藤井)は、4組からの挑戦者として勢いに乗る藤井猛との戦いとなった。藤井は、革新的な四間飛車戦法「藤井システム」の創始者として知られる。谷川は、第1局は穴熊を見せつつ玉頭戦を仕掛けて負け。第2局は相振り飛車にしたが負け。第3局と第4局は、自陣の囲いが堅いままでも絶望の局面、いわゆる「姿焼き」となって負け。結局ストレート負けで「藤井新竜王」を誕生させてしまい、自身は無冠となった。

名人と竜王を失冠した谷川には、次期まで「前竜王・前名人」の肩書きを名乗る権利があった。しかし、本人の意向により、連盟から発表されたのは通常の「九段」の肩書きであった。

1998年度のA級順位戦は、村山聖の休場(同年に死去)により9人でのリーグ戦となる。谷川は7戦全勝で迎えた最終第8回戦で島朗に敗れる。これにより島はA級に残留となり、代わりに弟弟子であり仲もよい井上慶太がA級から陥落した。7勝1敗同士の森内俊之とのプレーオフを制して佐藤康光名人へのリターンマッチの権利を得たものの、「井上君には申し訳なかった」と語った。

そして迎えた1999年度の佐藤康光との第57期名人戦(谷川3-4佐藤)は、最初の2局で連敗した。しかし、第3局と第5局で前年と同様、谷川得意の角換わりを佐藤が受けて立って谷川が勝つなどして3連勝し、奪還まであと1勝とした。次の第6局では佐藤が居飛車穴熊を用い、2日目の深夜まで続く長手数の将棋となった。ダイジェストを短時間で伝えるだけの予定だった深夜のNHK BS2の放送枠(1999年6月8日 23:40 - 24:00)は生中継と化した。司会の吉川精一アナウンサーは冒頭に「なお熱闘が続いています」を2度繰り返した。放送が始まった時は189手目で、谷川が佐藤の玉を詰ますことができるかどうかの難解な局面であったが、詰ますことができず、佐藤の203手目を見て23:54に谷川は投了した。そして、最終局も佐藤の勝ちとなり、谷川は名人を取り返すことができなかった。なお、このシリーズで谷川は、後手番の2局で、当時本格的に流行し始めた戦法・「横歩取り8五飛」を採用している。

この名人戦の直後、第70期棋聖戦(谷川3-0郷田)で郷田真隆から棋聖位を奪取し、「無冠」を返上する。このとき、テレビのインタビューで、「1つぐらいは…(タイトルを持っていないと)」と苦笑しながら語り、依然、第一人者となるべき身の自覚と向上心を示唆した。

2000年度は、王位戦で2年連続挑戦するなどして、第71期棋聖戦(谷川2-3羽生)、第41期王位戦(谷川3-4羽生)、第50期王将戦(谷川1-4羽生)という3つのタイトル戦で羽生と対決する。特に棋聖戦と王位戦は日程が重なり、また、どちらも最終局までもつれ込んだため、‘十二番勝負’と言われた。結果は、3つとも敗退し無冠となる。しかし、この年度の第59期A級順位戦では最終9回戦で佐藤康光との同星決戦(6勝2敗同士)を制し、丸山忠久名人への挑戦権を得る。

そして、2001年度の第59期名人戦(谷川3-4丸山)は、3年前の佐藤との名人戦と同様、第6局まですべて先手が勝ち、最終局だけ後手が勝つという展開(千日手指し直しがあった点は異なる)で、丸山の防衛となった。この名人戦は、後手の谷川の四間飛車に対して丸山が「ミレニアム囲い[注 7]」を2度用いたり、横歩取り8五飛が3度現れたりするなど、当時の流行を象徴する戦いとなった。

テンプレート:Shogi diagram

2002年度、第43期王位戦七番勝負(谷川4-1羽生)で羽生善治から王位を奪取。およそ2年ぶりにタイトル保持者となる。このシリーズの全6局(第5局の千日手指し直しも含む)は、全て異なる戦形であった(第1局から順にゴキゲン中飛車超急戦、横歩取り青野新手3六歩、矢倉、角換わり腰掛け銀、向かい飛車、相穴熊)。なお、この王位戦の第1局で、ちょうど公式戦通算1000勝特別将棋栄誉賞、史上7人目)を記録したので、当時、NHKに解説役で出演した棋士が「1000勝で先勝」という駄洒落を言っている。

2003年度の第44期王位戦(谷川4-1羽生)は、羽生に奪還を許さず2連覇した。羽生を相手に、同一タイトル戦で2年連続勝利したのは谷川が初である[注 8]。また、同年度、第29期棋王戦(谷川3-1丸山)では、丸山忠久得意の、先手・角換わり、後手・横歩取り8五飛を打ち破って棋王位を奪取。1998年の名人失冠以来、約6年振りに二冠(王位・棋王)となる。

しかし、これら2つのタイトルは、次年度(2004年度)に、第45期王位戦(谷川1-4羽生)と第30期棋王戦(谷川0-3羽生)で、いずれも羽生に奪取されてしまい。またも無冠に追い込まれる。

2003年12月19日、A級順位戦の対・島朗戦において、棒銀の銀をタダ捨てした名手を指す。出だし、島が自分から角交換をして「先後逆の角換わり」の将棋となり、右図はその53手目、谷川の棒銀による銀交換を先手の島が拒否して、7七にいた銀を▲8八銀と引いた局面である。ここで、「△7七銀成」(54手目)が炸裂。以下、▲同桂△3八馬▲同金△8九飛▲7九銀△8八飛行成▲同金△7九飛成▲4八玉△8八竜▲4七玉△4五金と進み、たちまち寄り形。この54手目△7七銀成で将棋大賞の升田幸三賞を受賞した。同賞では、戦法でも囲いでもない特定の一手に対する初の授与であった。

竜王戦で、第1期(1988年度)から第18期(2005年度)まで18期連続で1組に在籍(竜王在位を含む)。第1期からの連続記録としては最長である。

2005年度の第64期A級順位戦では8勝1敗で羽生と並んでトップタイとなる。二者によるプレーオフは2006年3月16日に行われ、流行の、後手番一手損角換わりの戦形となった。最終盤で羽生は127手目に▲3一角と打ち捨ててから谷川の玉を猛然と詰ましにかかったが、谷川は巧みに詰みを逃れて156手で勝利。この一局の内容は高く評価され、将棋大賞で新設されたばかりの「名局賞」を、羽生とともに受賞した。

そして、11度目の名人戦登場となる第64期(2006年度)名人戦(谷川2-4森内)を迎えたが、第1局では、終盤に森内が自陣の7二と8二に銀を並べ打つという珍形の強い受けを見せて勝ち、また、第2局では、一転してゴキゲン中飛車・超急戦での一方的な内容で居飛車側の森内が勝つという出だしとなった。あとは、先手番に自信を持つ森内に着実に2勝を上積みされて敗退。9年ぶりの名人復位はならなかった。

奮闘

第67期(2008年度)A級順位戦は、最終局1局だけ残した時点でも降級の可能性があるという、谷川にとっては初めての危機を迎え、このことは地方紙でさえ取り上げられた。そして、最終局(2009年3月3日)の対・鈴木大介戦は、「勝った方が残留、負けた方が降級」という決戦となった。この大事な一局で先手番の谷川が選択し、誘導した戦形は、相振り飛車であった。結果は谷川の勝ちとなり、A級残留に成功した。

2007年度、2008年度と、タイトル戦登場も優勝もない年度が続いたが、2009年度はJT将棋日本シリーズで優勝し、同棋戦での最多優勝記録を6に更新した。なお、前年度獲得賞金・対局料ランキング13位だった谷川には、もともと日本シリーズへの出場権がなかったが、渡辺明(竜王として出場予定)が近親者から新型インフルエンザを感染している可能性があって欠場したため、繰り上げ出場した。優勝後のインタビューでは、「本来、出場できる立場ではなかった」とし、優勝賞金(500万円)は主催者や連盟と相談の上、小学生への普及のために使ってほしいとの旨を語った[14]。そして、翌年の9月に3000セット(東京都に2000セット、大阪市に1000セット)の将棋盤を寄付した[15]

第69期(2010年度)A級順位戦で残留し、第70期順位戦をA級のまま迎えることが決定。これで、A級在籍の連続記録を30期(名人在位を含む)に伸ばして中原誠の記録を抜き、歴代単独3位となった[注 9]

2011年3月10日、第24期竜王戦2組昇級者決定戦1回戦で中川大輔に勝ち、史上4人目の公式戦通算1200勝(1901局・698敗・3持将棋、勝率0.632)を達成。48歳11か月での達成は最年少。四段昇段後34年2か月での達成は、中原誠十六世名人に次ぎ2位[16]

「永世棋聖」獲得(棋聖位通算5期)まであと1期と迫っているが、2000年度の棋聖失冠以降、2009年度のベスト4が最高である(当時新人の稲葉陽にリーグと準決勝の両方で負けた)。

2012年4月26日、竜王戦2組昇級者決定戦1回戦において阿久津主税に敗れて、3組への陥落が確定(A級棋士で3組以下に在籍するのは屋敷伸之以来)。

第71期(2012年度)A級順位戦では、2勝6敗で谷川(4位)・高橋道雄(8位)・橋本崇載(9位)の3人が並び、降級の可能性を残して最終局(2013年3月1日)に臨んだ。順位が他の2名より上位のため勝てば自力で残留を決められる対局であったが、屋敷伸之に敗れ、谷川の残留は他の対局の結果へ委ねられることになった。しかし高橋と橋本が揃って敗れたため、辛くもA級残留を果たした。

第72期(2013年度)A級順位戦に参加し、連続A級在籍記録は升田幸三を抜き歴代単独2位となったが、2014年1月7日に渡辺明に敗れ1勝6敗となった後、10日に行方尚史屋敷伸之が勝った為、B級1組への降級が決定し、連続在籍記録は32期で途絶えた。なお、永世名人がB級1組所属となるのは第59期(2000年度)の中原誠十六世名人以来となる[17][18]

棋風

他の棋士が思いつきにくい手順でたちまち敵の玉を寄せることから、「光速の寄せ」、「光速流」というキャッチフレーズが付いている。 森内俊之は、「終盤にスピード感覚を将棋に持ち込んだ」元祖とも言える存在であり、寄せの概念を変えたと評している[19]

しかし、2009年には「光速の寄せなくなっちゃったんで」と谷川本人も冗談めかして言った[20]ように、必ずしも「光速」にこだわらない棋風へと変化しつつある。

また、有力な指し手が2つ以上見えた場合、駒が前に進む手を優先して選ぶことから、「谷川前進流」とも言われる。

谷川が色紙などに揮毫するときに、好んで書く言葉として、「光速」、「前進」、「飛翔」、「危所遊」(松尾芭蕉の「名人危所に遊ぶ」より[21])などがある。これらは、谷川自身の将棋観・特徴を表している。ちなみに、谷川は達筆であるが、一目で谷川が書いたとわかる独特の字を書く。

谷川は振り飛車も指すが、基本的には居飛車党である。プロデビューしたばかりの四段時代は振り飛車党であったが、その後、居飛車党に鞍替えした。

昭和と平成の境目の前後の頃には先手番の角換わりを最も得意とし、他の居飛車党の棋士達から恐れられた。

相矢倉は後手番が少しだけ不利だということが‘定説化’した頃(2000年頃)からは、後手番では矢倉を指すことがかなり少なくなり、たとえば四間飛車を多用した。その後、横歩取り8五飛相振り飛車ゴキゲン中飛車など、流行の戦法を取り入れて、指し方が多様化する。

ちなみに、谷川の「光速の寄せ」を信用したがために、対局相手が自ら転ぶケースも時たま生じている。一例として谷川が永世名人の資格を獲得した第55期名人戦の第1局の最終盤を挙げる。羽生は72手目に△6五飛と指して谷川の馬と金に両取りをかけた。馬は羽生の玉に迫っている駒で、金は谷川の玉を守っている駒であった。それに対して谷川はほとんど時間を使わず、羽生玉の近くに▲4一銀と打った。しかし、この手は詰めろではなかった。ところが、羽生は谷川を信用して、その手が詰めろだと錯覚したため、金を取って必至をかければ勝ちになるところを、自陣を攻めている馬の方を取ってしまい、結果、谷川の逆転勝利となった。

デビュー直後にはハメ手として古くから知られている横歩取り4五角戦法を再発見して連採、森安秀光東和男を36手で倒しブームを巻き起こしたことがある。

エピソード・人物

  • 羽生善治が優勝、森内俊之が3位となった第7回(1982年度)小学生将棋名人戦で、谷川は解説役であった。当時、谷川はA級八段になり、20歳を迎える頃で、羽生と森内は小学校6年生での出場であった。優勝した羽生に対して谷川は「これから勉強していけばプロも夢じゃない」と話しており、映像としても残っている。
  • 対局中の姿勢・所作について、原田泰夫九段はこれを評して「礼儀作法も実力のうちといいますが、谷川君の立ち居振る舞いは実にきちっとしている。ノブレス・オブリージュ(高い地位に伴う義務)を具現していますよ」と語っている[22]
  • 第25回(2000年度)小学生将棋名人戦で優勝した都成竜馬(1990年1月17日生)は谷川の弟子として奨励会に入会、2007年7月に三段昇段、第44期(2013年度)新人王戦藤森哲也四段との決勝3番勝負を制し、奨励会三段として史上初の優勝を遂げた。
  • 初めて名人在位していた頃の十段リーグ戦で、対戦相手の加藤一二三前名人が先に入室して上座に座っていた。谷川は頭に血が上ったが、手洗いに行って頭を冷やした後、黙って下座に就き、さらに対局開始から初手を指すまで10分を使って冷静さを取り戻した結果、勝利を収めた[23][注 10]。そして後日、「将棋世界」誌(日本将棋連盟)の自戦記で遠回しに非難した。ちなみに、漫画・テレビドラマ『月下の棋士』で谷川をモデルとする滝川「名人」が大原「十五世名人」と「名人戦」で対決する。その第1局で大原は故意に上座に座り滝川の心を乱すことに成功するが、滝川は自室に戻り、自らへの戒めとして腕の皮膚を噛み千切る、というシーンがある。

谷川将棋への評価

  • 初代永世竜王資格者となった渡辺明は、プロになった頃に谷川の将棋を並べていたと答えている[24]

詰将棋

  • 詰将棋作家としての一面がある。詰将棋専門誌「詰将棋パラダイス」が主催する「看寿賞」の1997年度特別賞を受賞した。
  • 詰将棋作家の若島正が主催する「詰将棋解答選手権」に2007年から参加し、40代でありながら果敢に挑戦している。
  • 2008年に、初の詰将棋作品集『光速の詰将棋』を刊行した。
  • 2011年に、永世名人としては225年ぶりの図式集百番『月下推敲』を刊行した。2012年、本作が、第24回将棋ペンクラブ大賞特別賞を受賞する。

神戸人として

  • 実家は浄土真宗の寺。阪神・淡路大震災で全壊した[25]
  • 本願寺出版社が発行する門徒向けの雑誌『大乗』に「将棋道場」という記事を連載している[26]
  • 私立滝川高校(神戸市)卒業。
  • 阪田三吉の曾孫弟子にあたる。阪田の弟子・藤内金吾一門の流れを汲む一人であり、内藤國雄、森安兄弟(正幸、秀光)、若松政和(谷川の師匠)ら藤内一門は「神戸組」(藤内の将棋道場が神戸市の三宮にあった)とも呼ばれ、将棋界に一大勢力を築いた。
  • 熱心な阪神タイガースファンであり、2008年1月にはタイガースの練習場に足を運び将棋盤と駒をプレゼントし、さらに岡田彰布監督にアマチュア三段の免状を授与している[27](ただし免状の署名は、米長邦雄会長・森内俊之名人・渡辺明竜王・内藤國雄九段で、谷川の署名はない)。また、今岡誠(2004年アマ二段)とも交流がある[28]NHK-BS2で2000年1月に放送された『羽生善治の新春 大逆転五番勝負』で、藪恵壹(当時・阪神タイガース)を応援するために、法被姿でビデオ出演した。弟弟子(飲み仲間でもある)の井上慶太は谷川以上に熱烈なタイガースファンであり、その思いは井上には負ける、と谷川を特集した『情熱大陸』(毎日放送)で語っている。他球団では、兵庫県出身で元東京ヤクルトスワローズ古田敦也(アマ三段[29])とも親交があり、共著[30]もある。
  • 1997年6月17日、神戸市から「神戸文化栄誉賞」を授与された平成9年フォトニュース(神戸市)
  • 1997年6月23日、兵庫県「誉」賞受賞(十七世名人資格獲得による)。同賞の受賞者は、スポーツの世界大会優勝者など錚錚たる顔ぶれである[31]。2000年には内藤國雄九段も受賞している(公式戦1000勝)。谷川の次の受賞者(1年半後)は、奇しくも同じ名前の伊東浩司(陸上短距離)である。
  • 2005年6月18日、神戸市の神戸大使を委嘱された[32]

その他

  • 血液型はO型。
  • 藤井猛は1998年度の竜王戦七番勝負で谷川と対決する直前に囲碁・将棋ジャーナルに出演したが、番組の司会であり、同じ西村一義門の姉弟子でもある山田久美女流から、「谷川竜王はカニが苦手だそうです」とのことで、カニの絵が描かれた扇子をプレゼントされた。
  • 食べ物ではカニ以外にエビも苦手[33]。本人によれば「体質的に子どもの頃、小学生の時に食べて当たったことがある」ことが原因で、現在は「食べても大丈夫だが、対局時は万が一を考えて避けている」とのこと[34]
  • 2006年、NHK将棋講座『谷川浩司の本筋を見極める』の中の「将棋ワンポイントクリニック」のコーナーで、谷川が医師の扮装、アシスタントの島井咲緒里女流が看護婦姿、というコスプレで登場したことが1度だけある。
  • 知ってるつもり?!の村山聖九段の回で谷川が紹介された時、「速の寄せ」という誤ったテロップが流れた。
  • 中原以降の名人全員(加藤・中原・米長・羽生・佐藤・丸山・森内)と、名人戦の舞台で戦っている。
  • 2011年5月、日本将棋連盟の理事選挙に出馬し、当選。専務理事として、渉外部を担当。
  • 2012年12月、米長邦雄逝去を受け、第二次世界大戦後15人目となる日本将棋連盟会長に就任した[1]。現任理事の任期満了となる2013年5月まで務めた後、翌月に行われた総会と理事会を経て会長に再任された。任期は2015年5月まで[35]

昇段履歴

  • 1973年 5級 = 奨励会入会(関西)
  • 1973年12月(小学5年) 4級(9勝2敗)
  • 1974年4月( 〃 ) 3級(6連勝)
  • 1975年3月(小学6年) 2級(9勝3敗)
  • 1975年7月(中学1年) 1級(11勝4敗)
  • 1975年9月( 〃 ) 初段(9勝3敗)
  • 1976年2月( 〃 ) 二段(12勝4敗)
  • 1976年7月(中学2年) 三段(12勝4敗)
  • 1976年12月20日( 〃 ) 四段(8連勝) = プロ入り - 史上唯一の中学2年棋士、史上2人目の中学生棋士
  • 1979年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1980年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1981年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1982年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
  • 1984年4月1日 九段(前年度名人位獲得) - 当時の九段昇段最年少記録[注 2]

主な成績

タイトル・永世称号

末尾の年表 も参照。

タイトル 番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号資格
竜王 七番勝負
10-12月
90(第3期)-91, 96-97 6 4期 2
名人 七番勝負
4-6月
83(第41期)-84, 88-89, 97 11 5期 2 永世名人
十七世名人
王位 七番勝負
7-9月
87(第28期), 89-91, 02-03 11 6期 3
王座 五番勝負
9-10月
90(第38期) 6 1期
棋王 五番勝負
2-3月
85(第11期), 87, 03 7 3期
棋聖 五番勝負
6-7月
91後(第59期)-92後, 99(第70期) 9 4期 3
王将 七番勝負
1-3月
91(第41期)-94 7 4期 4
登場回数合計57、 獲得合計27期歴代4位

(2010年度終了現在。番勝負終了前は除く。最新は2006年度名人挑戦。)

一般棋戦優勝

末尾の年表 の「一般棋戦優勝」の欄も参照。

※印の決勝五番勝負の決着は、翌年度までずれこんでいる(1994年度と1996年度は5月まで、1999年度は4月まで)。
合計 22回
非公式戦での優勝
優勝経験のない棋戦

谷川のプロデビュー(1976年12月20日)以降に存在した棋戦のうち、新進棋士の棋戦を除けば、谷川に優勝経験がない棋戦(タイトル戦を含む)は、下記の3つだけである(ただし、前身の棋戦は同一の棋戦と見なす[注 11])。

在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞

末尾の年表 の「将棋大賞」の欄を参照。

※:2003年度の「升田幸三賞」の受賞対象は、第62期A級順位戦、対・島朗戦(2003年12月19日)の中の一手(54手目△7七銀成)。
※:2006年度の「名局賞」の受賞対象は、第64期A級順位戦プレーオフ、対・羽生善治戦(2006年3月16日)。

記録(歴代1位のもの)

著書

  • 光速の寄せ 戦型別終盤の手筋(全5巻、日本将棋連盟、ISBN 4-8197-0323-4ほか)
  • 谷川浩司の戦いの絶対感覚(2003年4月、河出書房新社、ISBN 4-309-73134-1)
  • 無為の力 マイナスがプラスに変わる考え方(河合隼雄との共著・2004年11月、PHP研究所、ISBN 4-569-63937-2)
  • 復活(毎日新聞社)
  • 構想力(2007年10月、角川書店 ISBN 978-4-04-710117-3)

その他多数

  • 毎日コミュニケーションズから、「年度別の全棋譜」を集めた「谷川浩司全集」が順次、刊行されていた(引退後ではなく順次刊行というのは、将棋界唯一の企画)が、2005年刊行の「平成15年度版」(「新・谷川浩司全集4」)を最後に、刊行が途絶えている。

年表

谷川浩司の年表

脚注

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出典

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参考文献

関連項目

外部リンク

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  1. 以下の位置に戻る: 1.0 1.1 日本将棋連盟、新会長に谷川専務理事を選出 朝日新聞 2012年12月25日閲覧
  2. 以下の位置に戻る: 2.0 2.1 光より速く(第2回柏将棋フェスティバル)
  3. 元の位置に戻る 日本経済新聞 1997年10月14日夕刊
  4. 元の位置に戻る 中平邦彦 『名人谷川浩司』(池田書店)91頁
  5. 元の位置に戻る NHK ホリデーインタビュー「”負けず嫌いを貫く”~プロ棋士・谷川浩司~」
  6. 元の位置に戻る 「週刊将棋」1988年12月28日号
  7. 以下の位置に戻る: 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 別冊宝島380「将棋王手飛車読本」
  8. 元の位置に戻る 『第四十二期将棋名人戦全記録』(毎日新聞社
  9. 元の位置に戻る 「米長邦雄の本」(日本将棋連盟)。
  10. 元の位置に戻る 将棋世界」(日本将棋連盟)2000年1月号付録
  11. 元の位置に戻る 将棋マガジン』(日本将棋連盟)1996年3月号「米長邦雄のタイトル戦教室」
  12. 元の位置に戻る 日本将棋連盟書籍編『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年。ISBN 978-4819702102
  13. 以下の位置に戻る: 13.0 13.1 将棋マガジン』(日本将棋連盟)1996年4月号「同時進行ドキュメント」
  14. 元の位置に戻る 2009年11月28日放送の「囲碁・将棋ジャーナル
  15. 元の位置に戻る 谷川浩司JT覇者が東京都・大阪市に盤駒寄贈(日本将棋連盟)
  16. 元の位置に戻る 谷川浩司九段が1200勝を達成!
  17. 元の位置に戻る テンプレート:Cite web
  18. 元の位置に戻る テンプレート:Cite web
  19. 元の位置に戻る 『日本将棋用語事典』p.71 斜体部は当該ページより引用。ママ。
  20. 元の位置に戻る 第35回将棋の日 次の一手名人戦の解説において
  21. 元の位置に戻る NIKKEI NET 将棋王国
  22. 元の位置に戻る 日本経済新聞2001年12月25日夕刊
  23. 元の位置に戻る 『集中力』谷川浩司著(角川書店)
  24. 元の位置に戻る 「渡辺明五段に聞く 3年目で開眼、「プロらしい将棋」に」日経ネット 2003年6月23日
  25. 元の位置に戻る 震災を語る(神戸新聞)
  26. 元の位置に戻る 定期刊行物:大乗(本願寺出版社)
  27. 元の位置に戻る 『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)2008年6月30日号「5年目岡田野球の変貌」
  28. 元の位置に戻る 阪神・今岡選手に二段免状贈呈!(関西将棋会館)
  29. 元の位置に戻る ヤクルト古田捕手に参段免状贈呈(NIKKEI NET 将棋王国)
  30. 元の位置に戻る 『心を読み、かけひきに勝つ思考法』(PHP研究所)および『「勝負脳」を鍛える』(PHP研究所)
  31. 元の位置に戻る 「誉」賞・スポーツ優秀選手特別賞(兵庫県)
  32. 元の位置に戻る 神戸大使(神戸市)
  33. 元の位置に戻る 棋士、それぞれの海外旅行 - 将棋ペンクラブログ・2013年1月17日
  34. 元の位置に戻る 第32回近鉄将棋まつり
  35. 元の位置に戻る 日本将棋連盟新役員のお知らせ 日本将棋連盟新役員のお知らせ 2013年6月15日閲覧