中原誠
中原 誠(なかはら まこと、1947年9月2日 - )は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および、永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る[1]。通算1308勝は大山康晴、加藤一二三に次ぎ歴代3位。通算タイトル獲得数64期は歴代3位。
高柳敏夫名誉九段門下。棋士番号は92。日本将棋連盟会長(2003年~2004年)。第1回川崎市文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。鳥取県鹿野町名誉町民(2004年)。鳥取県生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。
目次
戦歴
24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。「棋界の(若き)太陽」[2]と呼ばれた。以後、大山康晴十五世名人の後継者として将棋界に一時代を築き、さらには米長邦雄・加藤一二三・谷川浩司らと数々の名勝負を繰り広げた。
デビュー・初タイトル
奨励会時代から「将来の名人候補」として高く評価されていたが、プロ入り直前の関門である「三段から四段への壁(奨励会A組、現三段リーグ)」をなかなか乗り越えられずに6期3年間も足踏みし、人間的にも苦悩したと語っている[3]。しかし、1965年秋18歳でプロ入り後は、順位戦において4年連続で順調に昇級・昇段を重ねていき、最速でA級八段となった。
タイトル戦への初登場は、山田道美に挑戦した1967年度後期の第11期棋聖戦(中原2-山田3)であるが、フルセットの末に惜しくも敗退する。しかし、半年後の1968年度前期の第12期棋聖戦(中原3-山田1)で山田に連続挑戦して勝利し、初のタイトル・棋聖位を獲得する。初挑戦、そしてタイトル奪取は弱冠20歳(当時最年少)の偉業であった(五段でタイトル挑戦は最低段。六段でタイトル奪取も最低段記録だった。)その後、大山康晴、山田を相手に2期防衛して3連覇。
これ以降、大一番の勝負で大山康晴と頻繁に当たるようになる。
大山康晴に代わり第一人者へ
1970年度、十段戦で大山を4-2のスコアで下し、大山の五冠独占の一角を崩す。さらに、直後の後期の第17期棋聖戦(中原3-大山0)でも大山をストレートで破り、初めて二冠となる。続く1971年度前期の第18期棋聖戦(中原3-大山1)で大山を相手に防衛に成功。これで棋聖位獲得通算5期となり、早くも永世称号の保持者となる(史上最年少記録)。この2つの年度は、タイトルホルダーが大山と中原の2名だけという、まさに二強時代であった。
A級2年目に名人挑戦権を得て、1972年の第31期名人戦七番勝負(中原4-大山3)で大山と戦う。フルセットの戦いの末に勝利し、棋界の頂点である名人位に初めて就く。この年度は、初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させた。なお、この後、大山が名人位に復位することは二度となかった[4]。
ライバル達との対決
1973年度からは、米長邦雄、加藤一二三、内藤國雄ら、大山康晴より若い、同じ世代の棋士達との戦いが主となる。特に、米長とはタイトル戦で数々の死闘を演じた。
1973年、第14期王位戦(中原4-内藤0)で内藤國雄から王位を奪い、初めて四冠王となる。しかし、直後の十段戦で捲土重来(けんどちょうらい)を期す大山に奪取される。それから1年間、三冠を防衛した中原は、翌年(1974年度)に十段を奪還して四冠に返り咲く。以降、中原と大山は、それぞれのタイトルを防衛し続け、1974年度から1977年度途中まで、
という構図が続き、中原は防衛戦で同世代のライバル達と当たる。大内延介と戦った1975年の名人戦(中原4-大内3、持1)では、途中2勝3敗となり角番に追い込まれるも、第7局で大内必勝の局面での大内の悪手(107手目▲7一角)に助けられて持将棋に持ち込み、薄氷の逆転防衛をする。翌1976年の第35期名人戦(中原4-米長3)でも防衛に成功して名人5連覇。永世名人(十六世名人)の資格を得る。
そして、ついに1977年度後期の第31期棋聖戦(中原3-大山2)で大山からフルセットの末、棋聖を奪取し、大山に次いで史上2人目の五冠王となる。残るタイトルは棋王のみとなり、この年度、第3期棋王戦(中原0-加藤3)で加藤一二三に挑戦したが、惜しくもストレートで敗れ、全六冠制覇はならなかった。
その後は中原の相対的な不調と、米長・加藤の充実もあり、彼等とのタイトル戦での対戦は五分に近い成績となりタイトル数は漸減する。加藤一二三と対戦した、1982年度(第40期)名人戦では、持将棋・千日手を合わせて俗に「十番勝負」と呼ばれた名勝負となったが、3勝4敗で名人位を明け渡す。名人連覇は9期で終わった。
次世代との対決
1980年代半ばごろからは、谷川浩司や55年組の高橋道雄、中村修、南芳一、塚田泰明らとのタイトル戦での勝負が主となり、保持するタイトル数が三冠ないしは無冠となっていく。
1985年度、第43期名人戦(中原4-谷川2)で、前々期に史上最年少名人となっていた谷川から名人位を奪取して復位。
1986年度、第44期名人戦では大山が挑戦者の名乗りを挙げたが、中原が防衛。二人がタイトル戦の舞台で顔を合わせたのは、これが最後となった。
1987年度、第35期王座戦(中原2-塚田3)で王座を塚田泰明に奪われ、名人のみの一冠となる。さらには、翌年度(1988年度)、第46期名人戦(中原2-谷川4)で谷川に名人を奪われ、無冠の「前名人」となる。しかし、同年度の第36期王座戦(中原3-塚田0)で塚田から王座を奪還し、後期/第53期棋聖戦(中原3-田中2)では弟弟子である田中寅彦から棋聖を奪い、二冠に復帰。
1990年度、第48期名人戦(中原4-谷川2)で名人を谷川から奪還し、2度目の復位を達成するとともに三冠となる。しかし、前期/第56期棋聖戦(中原2-屋敷3)で新進気鋭の屋敷伸之に棋聖位を奪われ、史上最年少タイトル記録達成を許す。さらに第38期王座戦(中原1-谷川3)では谷川に敗れ、名人位のみの一冠となる。
1992年度、第50期名人戦(中原4-高橋3)では高橋道雄の挑戦を受けたが、出だしで1勝3敗を喫してしまう。当時までは名人戦では3連勝で逆転した例はなかったが、そのジンクスを破って防衛した。しかしながら、得意であるはずの矢倉戦となった第1、2、4局ですべて負けたことは話題となった。
1993年、第51期名人戦(中原0-米長4)は、米長邦雄と6度目の名人戦となったが、ストレート負けで初めて米長に名人位を明け渡し、史上最年長名人の記録達成を許すとともに、虎の子の一冠であった名人位を失う(羽生善治が名人戦に初登場する1期前のことであった)。同年度の王将戦では挑戦者となるが、谷川の前に敗れる。これが、中原にとって最後のタイトル戦登場となった。
1994年のNHK杯戦で、米長との決勝を制して優勝。これが、最後の公式棋戦優勝であった(非公式棋戦では、達人戦において2001年~2002年の連続優勝を含め、4度優勝している)。
1999年度のA級順位戦は、2勝7敗の成績で降級が決まる。A級陥落後はB級1組で2期だけ指した後、フリークラス宣言をし、フリークラスに転出した。永世名人資格者がB級1組で指すのもフリークラスで指すのも前例がないことであった[5]が、その後も2000年度の竜王戦1組優勝、2003年度の竜王戦挑戦者決定三番勝負進出、2004年の王位リーグ入り、2007年の棋聖戦での挑戦者決定トーナメント進出など、各棋戦の上位に顔を出すことがしばしばあった。
中原と羽生善治の両方が同時にタイトル保持者であった時期は4年ほどあったが、両者はタイトル戦の番勝負の舞台で戦ったことは一度もなく、その後もついに実現しなかった。結果論ではあるが、中原が名人をもう1期長く防衛するか羽生がもう1期早く名人挑戦していたならば実現していた。また、森内俊之と戦った2003年度竜王戦決定三番勝負は、勝っていれば羽生との初のタイトル戦となるところであったが、1勝2敗で敗れた。結果として、これが羽生とのタイトル戦を実現する最後にして最大のチャンスであった。なお、一般棋戦の決勝で羽生と当たったのは、1988年度のNHK杯戦のみである(羽生が名人経験者全4名を破って優勝し、話題となった)。
引退
2008年8月12日、王将戦二次予選準決勝で、A級八段の木村一基に勝った後の感想戦の最中に体に異変を起こし、病院に緊急搬送される。脳内出血と診断され、即、入院となった。その後、2009年3月31日まで休場することが発表された。この休場による最初の不戦敗の相手も、奇しくも木村一基であった。
その後、棋戦復帰を目指してリハビリテーションを続けていたが回復が思わしくなく、将棋に関わる活動ができないと判断して、2009年3月31日をもっての引退届を日本将棋連盟に提出。連盟理事会はこれを受理し、3月11日に発表[6]。発表当日、中原本人の記者会見[7]が行われた。左の手足に不自由を抱え、右手に杖を持って記者会見場に姿を現した中原であったが、元気そうに、淡々とした口調で「43年という長い期間、タイトル戦など多くの勝負の舞台を踏ませていただき、十分に勝負を堪能した。その点で悔いはない。」と述べた。ただし、「悔いがあるとすれば(挑戦を逃した2003年の)竜王戦挑戦者決定戦。羽生さんと一度タイトル戦を戦ってみたかった」ともコメントしている[8]。
休場中ではあるが、竜王戦1組在籍のままでの引退である。
引退後の活動について、「棋戦の解説、評論活動を行っていきたい」としている。日本将棋連盟は、多年にわたる中原誠の将棋への功績を評価し、2009年4月1日から70歳の誕生日を迎える2017年まで『名誉棋士会長』を委嘱した[9]。その後、3回目の役員変更となる2011年4月11日に辞退するまで務めた[10]。また2009年より、JR武蔵新城駅そばの「新城子供将棋教室」において、弟子の佐藤秀司と共に不定期にタイトル戦の大盤解説会を開いている。
棋風
「自然流」と呼ばれた(「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し手」原田泰夫)、全盛期は矢倉を主体とした本格派の居飛車党であった。棋士生活の晩年は振り飛車も軽快に指しこなした[11]。対振飛車において玉頭位取りなどが得意なように、自然に理想形を目指し、それを阻止にくる相手を的確にとがめて勝つ王道的な勝利が全盛期には多かった。特に大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「穴熊破り」、内藤戦での「対空中戦法」、後手を持っての「ひねり飛車破り」など、相手の得意戦法を堂々と受けてたった。また、米長戦、加藤戦では矢倉で同じ戦型を何度も戦うなど意地っ張りな面もあった。年を取るにつれて自分から積極的に動く棋風へと変化していき、別境地を開いたともいえる。
「桂使いの中原」「中原の右桂(みぎけい)」と言われるほど桂馬の使い方が巧みであり、中原の名局とされる将棋には必ずと言って良いほど桂使いの妙手が登場した。本人は、「大山名人の堅い守りを崩すには、桂馬の意表をついた動きが有効だと感じたため」「銀桂交換は桂の方が得」と言っている。
プロ間で流行した横歩取り8五飛戦法は、元々中原が用いていた中原囲いでの空中戦法に工夫を加えたものである。中原も後に採用した。1996年に中原流相掛かり・中原流横歩取り・中原囲いで升田幸三賞を受賞している。
高橋道雄との名人戦において矢倉戦で1局も勝てずに失冠しかけたころから棋風が変わり、前述の相掛かり、横歩取り中原囲い、短期間ながら名人戦にも採用した中原飛車、後手矢倉において中原流急戦矢倉、対振飛車における6五歩戦法などの独創的な戦法で勝率を保った。またその特徴として堅さよりも盤面全体の支配を目指していることがあり、独特の大局観に支えられている。また、細い攻めを繋ぐことにかけては超一流であったために、戦法自体がそれを前提としていることが多く、中原流相掛かりを除いて真似できる棋士が少なかった。
名人戦では大ポカを二回指している(第31期名人戦第3局対大山戦での▲8五金の見落とし、第48期名人戦第2局対谷川戦の△2五桂打はタダで取られるのをうっかりした)また第37期名人戦第4局では米長を相手に▲5七銀という歴史的妙手を指して勝っている。
引退前の数年間は「形勢楽観派」の代表的棋士とされ、対戦相手や控え室の棋士たちほとんどが「互角または中原不利」と考えている局面でも、局後の感想では「あの局面では自分が良かったと思う」と語ることが多かった[13][14]。
人物・エピソード
現役のまま永世称号を名乗る
1994年、当時の肩書きであった「前名人」を失う際、それまでの実績からして「九段」とは呼べないということで、特例で「十六世名人」を現役のうちから襲位させるかどうか話し合いが行われた。その結果、十六世襲位は見送られたが、代わりに「永世十段」を名乗ることで落ち着いた。
2007年9月2日、還暦を迎えたことにより、規定により「名誉王座」も名乗る。
2007年11月17日(将棋の日)、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、森内俊之が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し本人が了承。前倒しで現役のまま襲位した[15]。1993年に無冠となってから、実に14年後のことであった。
2008年4月1日、60歳となってからの新しい年度を迎えた際には新たに「永世棋聖」「永世王位」を名乗ることとなった。永世王位を名乗る棋士は中原が初めて。
会長として・指導者として
二上達也の後を受けて2003年より日本将棋連盟会長を1期務めたが、2005年会長職を米長邦雄に譲り、自らは副会長に就いた。2007年5月の棋士総会において理事選挙に出馬せず、理事・副会長職を退任した。
指導者・師匠としても名伯楽ぶりを発揮しており、小倉久史・佐藤秀司・高野秀行・熊坂学をプロ棋士に育てた。また、女流棋界でタイトルを獲得した甲斐智美も弟子である。
その他のエピソード
- 温厚な人格者として知られているが、その一方で負けず嫌いであり、素人相手に指す時でも決して手加減をしないと言われている。
- 田中角栄が自民党総裁に就任した際、「五五角」と扇子に揮毫(きごう)して贈ったことがある。
- 趣味は囲碁と音楽鑑賞(クラシック音楽)大リーグテレビ観戦
昇段履歴
- 1958年 6級(奨励会入会)
- 1961年 初段
- 1965年10月1日 四段(関東奨励会三段優勝、東西決戦で桐山清澄に勝利)=プロ入り
- 1967年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1968年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1969年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
- 1970年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
- 1973年11月3日 九段(タイトル3期以上など、当時の九段昇段規定により)
- 2009年3月31日 引退
主な成績
- 通算成績
- 対局数2093(タイトル戦の持将棋3局を含む)
- 1308勝782敗 勝率0.6258
タイトル・永世称号
詳細は下の年表を参照。
タイトル | 番勝負 | 獲得年度 | 登場 | 獲得期数 | 連覇 | 永世称号 |
名人 | 七番勝負 4-6月 |
72(第31期)-76-(77)-78(第36期)-81 85-87, 90-92 (77年度は開催されず) |
18 | 15期 (歴代2位) |
9 (歴代2位) |
十六世名人 07.11.17に襲位 |
十段 | 七番勝負 10-1月 |
70(第9期)-72, 74-79, 82-83 | 15 | 11期 (歴代1位) |
6 (歴代1位タイ) |
永世十段 94.4.1から名乗る |
王位 | 七番勝負 7-9月 |
73(第14期)-78, 80-81 | 11 | 8期 | 6 | 永世王位 08.4.1から名乗る |
王座 | 五番勝負 9-10月 |
83(第31期)-86, 88-89 非タイトル戦時代の優勝10回 |
8 | 6期 (歴代2位) |
4 (歴代2位) |
名誉王座 07.9.2から名乗る |
棋王 | 五番勝負 2-3月 |
79(第5期) | 3 | 1期 | - | |
棋聖 | 五番勝負 6-7月 |
68前(第12期)-69前, 70後-72前, 77後-79後, 82後, 88後-89後 |
23 | 16期 (歴代1位タイ) |
5 | 永世棋聖 08.4.1から名乗る |
王将 | 七番勝負 1-3月 |
72(第22期)-77, 84 | 13 | 7期 | 6 | |
登場回数合計91、 獲得合計64期(歴代3位) |
一般棋戦優勝・将棋大賞
詳細は下の年表を参照。
- 一般棋戦優勝通算28回は歴代3位。
- 将棋大賞は、最優秀棋士賞5回、升田幸三賞1回(「中原流横歩取り」、「中原囲い」の戦法を編み出したことによる)など。
在籍クラス
第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあった。1年のブランクの後、主催が朝日新聞社から毎日新聞社に代わった第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31~35期の順位戦は存在しない。つまり、中原のA級以上在籍は29期連続である。なお、第30期と第36期は、名人9連覇の途中に当たる。
記録(歴代1位のもの)
- 棋聖位在位 - 16期
- 年度最高勝率 - .855(47勝8敗)(1967年度)
- 通算100勝達成 最速 - 121局 .826
- 最年少永世称号資格獲得 - 23歳11か月(永世棋聖)
- 最年少実力制永世名人資格獲得 - 28歳9か月
- 順位戦A級全勝 - 1971年(この年は休場者がいたため8戦。他に森内俊之と羽生善治が9戦全勝を達成している)
- 年度勝率7割超 - 10年連続
- 公式最短手数勝利 - 10手(1974年第25期棋聖戦本戦1回戦[16])
その他、大山康晴以来史上2人目の1300勝を達成している(2007年9月27日)。
主な対戦相手との勝敗
(「持」は、タイトル戦での持将棋)
対戦相手 | 対局 | 勝 | 敗 | 持 | 勝率 | タイトル戦 |
---|---|---|---|---|---|---|
米長邦雄 | 187 | 106 | 80 | 1 | 0.570 | 獲得14 敗退6 |
大山康晴 | 162 | 107 | 55 | 0.660 | 獲得16 敗退4 | |
加藤一二三 | 109 | 67 | 41 | 1 | 0.620 | 獲得5 敗退4 |
谷川浩司 | 98 | 42 | 56 | 0.429 | 獲得3 敗退3 | |
内藤國雄 | 71 | 47 | 24 | 0.662 | 獲得4 敗退2 |
※米長との187対局は、同一カード対局数の歴代1位記録
その他表彰
- 1972年 第1回川崎市文化賞
- 1981年 将棋栄誉賞(通算600勝達成)
- 1985年 塩竈市民栄誉賞
- 1986年 将棋栄誉敢闘賞(通算800勝達成)
- 1990年 現役勤続25年
- 1992年 特別将棋栄誉賞(通算1000勝達成)
- 1999年 通算1200勝達成
- 2004年 鳥取県鹿野町名誉町民
- 2005年 現役勤続40年
- 2008年 紫綬褒章受章
著書
十六世名人でかつ日本将棋連盟会長であったこともあり、著書は大変多い。入門書も多く著述している。ここでは一例を挙げる。
- 『決断の一手!』日本将棋連盟、2008年7月、ISBN 978-4-819-70010-8
- 『将棋脳—これであなたの脳はよみがえる』サンマーク出版、2006年10月、ISBN 978-4-763-19671-2
- 『実践型詰め将棋 三手・五手・七手詰め』日東書院、2006年8月、ISBN 978-4-528-01512-8
- 『中原誠の解いてごらんよ詰将棋』フローラル出版、2001年12月 、ISBN 4-930831-38-5
- 『自然流中原誠の実践名勝負』東京書店、1999年10月、ISBN 978-4-885-74427-3
- 『自然流 中原誠の振飛車破り』東京書店、1999年5月、ISBN 4-88574-426-6
- 『横歩取り中原流—必殺陣第二弾!』日本将棋連盟、1995年4月、ISBN 978-4-819-70322-2
- 『中原流振り飛車破り』池田書店 、1994年11月、ISBN 978-4-262-10118-7
- 『中原流急戦将棋』池田書店、1994年7月 、ISBN 4-262-10117-7
- 『中原流相がかり—必殺の5九金型』、日本将棋連盟、1994年3月、ISBN 978-4-819-70319-2
- 『居飛車穴熊 3度将棋が強くなる』大泉書店、1987年10月、ISBN 978-4-278-08119-7
- 『急戦腰掛銀 3度将棋が強くなる 』大泉書店、1987年8月、ISBN 978-4-278-08118-3
- 『中原誠自然流名人戦激闘譜』、池田書店、1987年4月、ISBN 978-4-262-10114-9
- 『急戦矢倉 3度将棋が強くなる 』大泉書店、1987年2月、ISBN 978-4-278-08117-0
- 『必殺美濃破り 3度将棋が強くなる 』大泉書店、1986年8月、ISBN 978-4-278-08116-2
- 『必殺穴熊破り 3度将棋が強くなる 』大泉書店、1986年2月、ISBN 978-4-278-08115-4
- 『中原の必勝やぐら中飛車』池田書店、1985年8月、ISBN 978-4-262-10213-9
- 『矢倉戦 3度将棋が強くなる』大泉書店、1985年4月、ISBN 978-4-278-08114-5
- 『棒銀戦 3度将棋が強くなる』大泉書店、1985年2月、ISBN 978-4-278-08113-8
- 『ひねり飛車 3度将棋が強くなる』大泉書店、1984年12月、ISBN 978-4-278-08112-1
- 『中原の必勝左美濃—対四間飛車』、池田書店、1984年11月、ISBN 978-4-262-10212-2
- 『中飛車 3度将棋が強くなる』大泉書店、1984年8月、ISBN 978-4-278-08111-1
- 『中原攻めの実戦集—大山十五世名人との対振飛車戦15局』永岡書店、1984年5月、ISBN 978-4-522-01570-4
- 『四間飛車 3度将棋が強くなる』大泉書店、1984年1月、ISBN 978-4-278-08110-7
- 『中原のやぐら教室 』池田書店、1983年11月、ISBN 4-262-10211-4
- 『矢倉戦法II』筑摩書房、1983年6月、ISBN 4-480-69802-7
- 『矢倉戦法I』筑摩書房、1983年3月、ISBN 4-480-69801-9
- 『中原の四間飛車で勝つ』 池田書店、1982年2月、ISBN 978-4-262-10209-2
- 『中原の中飛車教室』 池田書店、1980年10月、ISBN 4-262-10208-4
- 『中原の駒別次の一手《歩・香・桂》』 池田書店、1978年4月、ISBN 4-262-10206-8
- 『中原の寄せと詰め』池田書店、1977年3月、ISBN 978-4-262-10205-4
脚注
関連項目
テンプレート:将棋永世名人 テンプレート:日本将棋連盟会長 テンプレート:Navboxes テンプレート:将棋大賞最優秀棋士賞
テンプレート:升田幸三賞- ↑ 1994年4月1日に「永世十段」、2007年9月2日に「名誉王座」、同年11月17日に「十六世名人」を、2008年4月1日に「永世棋聖」および「永世王位」を名乗る。参考リンクは以下に列挙(いずれも日本将棋連盟の「お知らせ」より)。
- ↑ 2008年正月にNHK教育テレビで放送された「お好み対局」にて、中原自身が語るところによると、「棋界の太陽」は原田泰夫による命名とのこと。
- ↑ 漫画『実録シリーズ傑作選/若き王将』など、複数の書籍で読むことができる。
- ↑ 大山康晴は、この後も第33期名人戦(中原4-大山3)と第44期名人戦(中原4-大山1)の舞台に2度登場しており、いずれも中原誠への挑戦であったが、敗退している。
- ↑ (永世名人ではないが)名人経験者がA級からの陥落後も現役で指し続けた前例としては、塚田正夫のB級1組、米長邦雄のフリークラス(B級1組への降級が決まったときにフリークラス宣言)があった。
- ↑ 中原誠十六世名人が引退へ(日本将棋連盟)
- ↑ 将棋の中原誠16世永世名人が引退表明 産経新聞 2009年3月11日閲覧
- ↑ 中原誠十六世名人「羽生さんと戦いたかった」
- ↑ 中原誠十六世名人が引退へ(3/11) 日本将棋連盟プレスリリース
- ↑ [1]
- ↑ 大山康晴から名人位を奪取した第31期名人戦第7局では、振り飛車党の大御所であった大山に相手にツノ銀中飛車を採用して勝利を収めたことでも有名。
- ↑ 第24回朝日オープン将棋選手権本戦第17局 「『中原先生、入玉が好きだからなあ』。控室では真部一男八段や佐藤義則八段らがテレビに映るこの将棋を見てあれこれ話していた。」
- ↑ NIKKEI NET 将棋王国 「『棋界の太陽』と評された中原は大局観に優れた「楽観派の巨匠」で、攻めっ気にあふれた将棋」
- ↑ 『週刊将棋』2009年3月25日号、甘竹潤二「将棋&囲碁 観想戦の楽観派」
- ↑ これ以前にも永世名人襲位の話が出ていたようだが、まだ名乗るには早いと判断して断ったと、『将棋世界』2008年1月号の中(インタビュー冒頭、38ページ)で明かしている
- ↑ 先手の佐藤大五郎がハメ手戦法の鬼殺しを採用しようとしたが、わずか10手の局面で投了した。棋譜は▲7六歩△3四歩▲7七桂△6二銀▲7八金△8四歩▲8六歩△5四歩▲6八飛△4二玉まで10手で後手中原の勝ち