田中角栄
テンプレート:Ambox-mini テンプレート:政治家 田中 角榮(たなか かくえい、1918年(大正7年)5月4日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、日本の政治家。建築士。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。
目次
来歴・人物
自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。大正生まれとして初の内閣総理大臣となり、在任中には日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論は一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いた。その後一連の金脈問題への批判によって首相を辞職、さらにアメリカの航空機製造大手ロッキード社の全日空への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件(ロッキード事件)で逮捕収監され自民党を離党した。
首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。また高等教育を受けていない学歴を持ちながら首相にまで上り詰めた当時は「今太閤」とも呼ばれた。さらに次世代のリーダーの一人として総理総裁の座を狙っていた頃は、その膨大かつ明晰な知識とやるといったら徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた。
道路法の全面改正や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法や日本列島改造論によるグリーンピアなど、衆議院議員として100本を超える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省や運輸省、大臣として着任していた通商産業省や郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。
経歴
小学校卒業まで
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。角栄の幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。
1933年(昭和8年)、二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒と公称することが多かったが、彼が学んだ当時の中央工学校は、学制上の学校ではなかった。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。
上京
- 1934年(昭和9年)3月 - 上京[1]。住み込みで井上工業等の会社に働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。途中、海城中学校から海軍兵学校への入学を真剣に考えたこともあったが、以下のように実業の道に入った。
- 1936年(昭和11年)3月 - 中央工学校土木科を卒業。建築技師として自活。
- 1937年(昭和12年) - 「共栄建築事務所」を設立する。
- 1939年(昭和14年)4月 - 応召、満州国で兵役に就く。
- 1940年(昭和15年)3月 - 陸軍騎兵上等兵となる。
- 1941年(昭和16年)
- 2月 - 肺炎を患い内地へ帰還。
- 10月 - 治癒と共に除隊。東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。
- 1942年(昭和17年)
- 3月 - 事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。
- 11月 - 長男正法が誕生(1947年9月、4歳で死亡)
- 1943年(昭和18年)12月 - 田中土建工業を設立。理研工業(理化学研究所の産業部門、現リケン等)などの仕事で急成長する。
- 1944年(昭和19年)1月 - 長女眞紀子が誕生。
- 1945年(昭和20年)8月 - 第二次世界大戦敗戦。滞在していた朝鮮半島から引き揚げる[2](最後は理研工業移転の仕事で大田(たいでん、テジョン)にいた)。田中土建工業は戦災を免れる。
初出馬から首相就任まで
- 1946年(昭和21年)4月 - 第22回衆議院総選挙。政治資金を献金した大麻唯男の勧めにより、進歩党公認で出馬するが、次点で落選。
- 1947年(昭和22年)4月 - 第23回総選挙。新潟3区から民主党公認で出馬し、当選。39,043票(3/12)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)1月23日 - 第24回総選挙に拘置所から獄中立候補し再選される(1948年12月27日公示・1949年1月7日保釈)。
- 1950年(昭和25年)
- 1951年(昭和26年)6月 - 炭鉱国管疑獄で無罪が確定。
- 1952年(昭和27年)6月 - 議員立法により新道路法成立。
- 1953年(昭和28年)4月 - 中央工学校の校長に就任。(1972年に退任)
- 1954年(昭和29年)5月 - 自由党副幹事長。佐藤栄作との関係が次第に深くなる。
- 1955年(昭和30年)
- 3月 - 衆議院商工委員長。
- 11月 - 自由民主党の結党に参加。
- 1957年(昭和32年)7月 - 第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。戦後初めて30歳代での大臣就任。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な指導力により、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の原型を完成させる。その過程で官僚のみならずマスコミも掌握した。特にテレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことはその後の田中の飛躍の原動力になった。
- 1961年(昭和36年)7月 - 自由民主党政務調査会長。
- 1962年(昭和37年)7月 - 第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。第1次佐藤栄作内閣まで留任。
- 1965年(昭和40年)6月 - 大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。
- 1966年(昭和41年)
- 1968年(昭和43年)
- 5月 - 自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。
- 11月 - 幹事長に復帰。
- 1969年(昭和44年)4月 - 眞紀子が鈴木直人元衆議院議員の三男、直紀と結婚。直紀は田中姓を名乗る。
- 1970年(昭和45年)9月 - 産経新聞の購読を通じた党への支持を求める幹事長通達を、「取扱注意・親展」で全国の県支部連合会と支部(党所属衆議院議員)に出していた事が発覚。11月4日の参議院決算委員会で和田静夫に取り上げられた。
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)
首相在任時
- 1972年(昭和47年)
- 9月 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。首都北京で周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認。この際、田中は周恩来から一枚の色紙を渡され喜んでいる写真が新聞に掲載された。色紙の言葉は「言必信行必果」と書かれてあった。しかし、この言葉は『論語』から引用したもので、この言葉のあとに「硜硜然小人哉」と続く。この記事を見て安岡正篤は、この言葉の真の意味も知らないで喜んでいる田中を見て、田中の教養のなさと中国のしたたかさを周りの人にと指摘したと言われる。諸橋轍次『中国古典名言事典』(講談社刊)では、「その言葉は必ず真実であり、やるべきことは必ずやりとげる。それは士として持つべき資質だ。しかしながら、もしそれだけの人だとしたら、人間として小さい」と訳されている[3][4][5][6]。同日、中華民国が対日国交断絶を発表[7]。
- 12月 - 第33回総選挙。自由民主党過半数確保も議席減、日本共産党が躍進[8]。12月22日、第2次田中内閣発足で挙党一致体制へ。
- 1973年(昭和48年) - 地価や物価の急上昇が社会問題化。
- 5月 - 小選挙区制導入(小選挙区比例代表並立制)を提案。野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた(カクマンダーと称された)。
- 8月 - 金大中事件発生。当時の朴正煕政権を支持するとの立場から、韓国側の一方的な政治決着を受け入れた[9]。
- 9月 - 西ヨーロッパ訪問。
- 10月 - ソビエト連邦訪問[10]。日ソ国交回復時の鳩山一郎以来であり、ブレジネフ共産党書記長との会談において、「両国間にある未解決の問題の中に北方四島の問題が含まれる」という事を確認する日ソ共同声明を発表したが、領土問題についてはそれ以上の成果はなかった。一方、経済協力についてはシベリア開発などでの進展が見られた。
- 10月16日 - 第四次中東戦争から第一次オイルショックが発生。中東政策をイスラエル支持からアラブ諸国支持に転換すると共に中東地域以外からのエネルギーの直接確保に努めた[11]。
- 11月 - 内閣改造。福田赳夫が大蔵大臣就任。需要抑制・省エネルギー政策へ転換し、電源開発促進税法等電源3法を成立させ柏崎刈羽原子力発電所への補助金へ当てる。
- 1974年(昭和49年)
- 1月 - 東南アジア訪問。インドネシアの首都ジャカルタで反日デモ(マラリ事件)に遭遇する[12]。
- 7月 - 第10回参議院選挙。ヘリコプターをチャーターし、栃木県を除く46都道府県に訪れて演説等の選挙活動を行う。大敗をして、伯仲国会になる。三木武夫や福田赳夫が閣外へ去る[13]。
- 9月 - メキシコ訪問。日本メキシコ学院の設立のための援助資金を持ち、 エチェベリア大統領(当時)との会談の結果、「両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨の共同声明を発表。
- 10月 - 月刊誌『文藝春秋』で「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」が掲載。立花隆らが金脈問題を追及する。
- 11月 - 日本外国特派員協会における外国人記者との会見や、国会での追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。フォード大統領(当時)が来日して会談。現職米国大統領の訪日は初めて。
- 12月9日 - 内閣総辞職。椎名裁定により三木内閣発足[14]。首相在職通算日数は886日。
首相退陣後
- 1976年(昭和51年)
- 1978年(昭和53年)12月 - 第1次大平内閣発足。田中が強く支持。
- 1979年(昭和54年)10月 - 第35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「四十日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。
- 1980年(昭和55年)6月 - 第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。
- 1982年(昭和57年)11月 - 上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。
- 1983年(昭和58年)
- 1984年(昭和59年)10月 - 自民党総裁選。田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。12月、田中派内の中堅・若手により、竹下登を中心とした「創政会」の設立準備が進められる。
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
- 1987年(昭和62年)
- 1989年(平成元年)10月 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。
- 1990年(平成2年)
- 1992年(平成4年)
- 8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。
- 12月 - 経世会が分裂。
- 1993年(平成5年)
- 7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
- 12月16日 - 慶應義塾大学病院にて75歳で死去。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物は正二位・大勲位菊花大綬章以上に叙される事が慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため位階勲章は与えられなかった。
没後
- 1995年(平成7年)2月 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。
- 1998年(平成10年)4月 - 田中角栄記念館が新潟県柏崎市(旧西山町)に開館。
- 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震で墓石が倒壊する。
- 2009年(平成21年)3月 - 朝日新聞の『「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査』において、人物の分野で回答の21%を占め3位以下を引き離し2位となった[15](1位は31%の昭和天皇であった)。
- 2012年(平成24年)12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙にて角栄の地盤を受け継いだ娘の田中眞紀子が落選する。(この日は角栄の命日)
人間関係
- 田中内閣発足にあたっては三木武夫の支援を受け、この支持を恩義に感じた田中は三木を国務大臣として内閣に迎え入れ、後に副総理にも指名している。しかし、三木と田中は日中国交回復という点では一致していたものの、金の力に物を言わせる田中と政治浄化を信条とする三木とでは政治姿勢が全く異なり次第に対立していくようになった。そして1974年の参議院選挙の徳島県選挙区での公認候補選定を巡り、三木が「現職優先の原則」通り三木派で現職の久次米健太郎の公認を申し入れたのに対し、田中が元警察庁長官で新人の後藤田正晴に公認を与えたことから二人の関係は抜き差しならないものとなった。選挙の結果久次米が当選し三木の面目は保たれたものの三木は閣外へ去った(詳細は阿波戦争を参照)。その後反主流派の福田赳夫が三木に接近し福田もまた閣外へ去り田中倒閣への動きを先鋭化していくこととなった。ただ田中は、小派閥を率いて永田町を器用に遊泳する「バルカン政治家」の三木を「政治のプロは俺と三木だけだ」と評価していたとされる。
- 大平正芳とは長く盟友関係にあり、頭角を現す切っ掛けとなった1961年池田内閣での自民党政調会長就任、1962年第2次池田内閣での大蔵大臣就任は、大平との関係を生かしたもので、田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田勇人の側近でもあったからといわれる[16]。「大角連合」と呼ばれた[17]、田中の首相就任の際には大平の協力が、大平の首相就任の際には田中の支援があった[18]。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが2人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた[19]。日中国交正常化交渉の実務を取り仕切り[7]、日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた[20]。両者の関係は田中と大平の個人的関係にとどまらず、田中派と大平派は兄弟派閥として議員の交流も盛んであった。
- 党人派で副総裁を務めた川島正次郎と田中は佐藤内閣で近い関係にあり、佐藤長期政権を作ることで川島は田中の総理への道を切り開いた。一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は第2次大平内閣時に首班指名選挙での党分裂状態[21]や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした[22](四十日戦争・ハプニング解散)。
- 正妻・はなとの間には1男1女を儲けたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみ。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子がファーストレディの役目を代行した。
- 東京・神楽坂の芸者、辻和子との間に2男1女がいる(1女まさは夭折、2男は田中の子として認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した[23][24][25]。秘書であった佐藤昭子との間の1女は認知されていない田中の子供とされている。
- 2,575坪(約8,500m²)の敷地を誇る東京都文京区目白台一丁目の自邸は「目白御殿」と呼ばれ、政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」いわれた。この当時、政界で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。
- 中華人民共和国からは「日中国交回復を決断した偉大な政治家」として尊敬され、鄧小平が1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も多くの中国政府の要人が田中邸を訪問した(日中国交正常化)。
- 経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中が「刎頸の友」と呼んだ国際興業の小佐野賢治は、田中を資金面でバックアップしたとされ、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については現在でも不透明な部分が多い。
派閥
田中派は自民党内最大の派閥であり、特にロッキード事件以後は田中の「数は力なり」の信念の下で膨張を続け最盛期では約140人の国会議員が所属していた。その数の多さや華やかさなどからマスコミには「田中軍団」「田中親衛隊」等と評され流行語にまでなった。その中には、二階堂進、金丸信、竹下登などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に竹下派七奉行と呼ばれた羽田孜・橋本龍太郎・小渕恵三・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三、他に綿貫民輔、野中広務(京都府議時代から目をかけていた)などであった。なお、小沢は早世した正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、民主党への流れを作った。
派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが秘書集団であった。それが最も機能的に働いたのが第1次大平正芳内閣発足前夜の自民党総裁予備選であった。当初、現役総理の福田は「予備選に負けた側は本選を下りるべき」と明言するほど党員票の差があると見られていた。大平を推す田中派は後藤田正晴の指示の下、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番と言われた佐藤昭子、スポークスマン的な役割を担った早坂茂三、選挙戦を新潟から支えた国家老本間幸一、目白にあって城代家老と言われた山田泰司、総理大臣秘書を務めた榎本敏夫などがいる。しかし、田中が倒れた後は眞紀子によって遠ざけられた者も少なくない。
ロッキード事件による逮捕で自民党を離党した後も党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、マスコミは田中を「闇将軍」と呼んだ。田中自身が復権に固執(裁判で無罪判決が出た後に首相に返り咲く事)したため、自派からの自民党総裁選立候補を許さず、内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにしたが、配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。眞紀子曰く派閥分裂後は見舞客も年を追うごとに激減し没後墓参りに訪れた元田中派若手議員も稀であったという。
典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で内閣官房副長官(事務担当)を務めた元警察庁長官の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。
芸能界からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で山口淑子(大鷹淑子、李香蘭)、山東昭子、宮田輝などを当選させた。また、田中からの勧誘を断った芸能人に対しては他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。
選挙区
自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「雪国と都会の格差の解消」「国土の均衡ある発展」を唱え、関越自動車道や上越新幹線のような大規模事業から、長岡市や小千谷市などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備(小千谷市の塩谷トンネル等が知られる。当時戸数60戸の集落に10億円の建設費用を掛けて建設された為、反発も少なからずあった)等の生活密着型事業や柏崎刈羽原子力発電所誘致など、多様な公共事業を誘致した。さらに自身のためのテレビ番組も持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げると共に、業績を強烈にアピールした。
選挙区の旧新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「越山会」は、鉄の団結と評された。越山会は、建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票という交換取引の場ともなり、地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の信濃川河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。しかし、ロッキード事件後も、越山会は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。
自らの選挙区で後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。それでも倒れた翌年1986年の総選挙では本人の肉声が全く伝えられない中で田中はトップ当選する。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが眞紀子を支持した。眞紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。
浦佐駅東口には田中の巨大な銅像が建立されている(1985年除幕)。二階堂進が揮毫した。2005年「冬に雪をかぶって可哀相だ」との眞紀子からの要望によって銅像の上には新たに屋根が設けられた。一方、自ら校長も務めた母校の中央工学校が校内に銅像を立てようとした際には、「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言いこれを断っている。
外交
田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。背景として、1972年1月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交正常化を条件としたことがある。(詳しくは日中国交正常化を参照)これによって田中は中華人民共和国から「井戸を掘った恩人」と評価された。日中外交の先駆者という意味であり、田中が金脈問題で失脚した後も鄧小平が田中の私邸を訪問し敬意を表している。
田中はブラジル側にセラード農業開発協力事業という共同の農業開発プロジェクトを提案し、この事業推進の嚆矢となっている。この時期、米国の穀物相場暴騰による大豆の禁輸措置、第一次石油ショックなどを切っ掛けに資源の安定確保が日本の重大な外交課題となっていた事を背景に、ブラジルを訪問し共同プロジェクトを提案した。2001年までの終了するまでの21年間、3期に分けて実施され、国際協力事業団(現JICA)を通じて多数の農業専門家の派遣や農家の入植などにより、21年間で約600億円の資金が投じられプロジェクトが遂行された。熱帯の約面積2億ヘクタール(日本の約5倍ほどの面積)の潅木林地帯で、酸性の赤土に覆た耕作には不適とされてきた土地の土壌改良による穀物栽培の開拓が行われた。セラード農業開発の成果もあり、今ではブラジルはトウモロコシや大豆の生産・輸出大国となっている。
北方領土交渉においてレオニード・ブレジネフに「未解決か?」と訊き、ブレジネフは最初はっきりと断言せずあいまいな回答をしたため、田中は顔色を変え「イエスかノーなのか、最高責任者としてこの場で今すぐはっきりと回答してもらいたい」と迫り、驚いたブレジネフから「ダー(そうだ)」という回答を引き出した。
北朝鮮に対しては、1973年に金日成の提案した祖国統一・五大綱領を支持した。当時の大平正芳外務大臣は、同年7月4日の衆議院法務委員会で、このことに関する日本社会党赤松勇委員の質問に対し、「案ずるに、朝鮮民族といたしまして祖国の統一ということが最高の念願である、それを具体的に提唱されたことに対しまして評価されたことと私は思います。」と答弁している[26]。
日本国内閣総理大臣として初めてアメリカ大統領(ジェラルド・フォード)の訪日を実現させている。
野党との関係
議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多かった。
民社党との間では、1965年の「日韓国会」(日韓基本条約承認)から春日一幸とのパイプがあった。
公明党とは「言論出版妨害事件」をめぐり公明党側に配慮した行動をとったため、田中と公明党との友好関係が生まれた。田中は社会党・共産党の革新勢力を相対的に弱めるために中道の公明党には融和的態度をとったとされ、田中派や竹下派(後の平成研究会)所属議員の中にも公明党議員や公明党の支持母体創価学会と親密な関係を持つ者が少なくなかった[27]。テンプレート:Main
新潟では労働運動の影響で日本社会党の力が比較的強く、革新系首長・議員も多くいたが、田中はこれらとも別け隔てなく接し協力も惜しまなかった。そのため、中央政界で社会党が田中批判を行っても、新潟ではそのトーンが落ちるという指摘もあったテンプレート:要出典。
闇将軍
ロッキード事件発覚による受託収賄罪の逮捕、起訴されたことによって自民党を離党したが、すぐに保釈された上に受託収賄罪の刑事訴訟が長期裁判化して実刑確定[28]にならないまま係争中であることを口実に、自身は無所属候補として地元選挙区で1位当選し続け、自民党籍を持たない無所属衆議院議員(いわゆる「自民党周辺居住者」)ながら派閥領袖として田中派を通じて裏舞台から政界に影響力を維持し続け、マスコミは「闇将軍」と称した。特に大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の首相就任には田中の支持が不可欠でありキングメーカーのポジションであった。閣僚や党役員や国会の委員長人事にも関与し、自身の刑事訴訟における指揮権問題につながる法務大臣や党資金や選挙における公認権限を持つ自民党幹事長などの重要ポストを田中派及び田中に近い議員で多く占めた。また、田中が闇将軍として大きく影響力を与えた内閣は「角影内閣」「直角内閣」「田中曽根内閣」とも呼ばれた。また自身の無罪が確定した場合は自民党への復党による表舞台復帰と総理総裁への返り咲きすら目論んでいた。
1985年に病に倒れ、次第に影響力を失っていった。
語録
- 「三国峠をダイナマイトでふっ飛ばせば越後に雪は降らない。そしてその土を日本海に運べば佐渡と陸繋ぎになる」(初出馬時の演説)[29]
- 「政治は数であり、数は力、力は金だ」(=数の論理)
- 「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」
- 「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」
- 「中国国民全員が手ぬぐいを買えば8億本売れる」(日中国交正常化の際の発言)
- 「いままで政府が統一見解で述べておりますものは、自衛の正当な目的を達成する限度内の核兵器であれば、これを保有することが憲法に反するものではないというのが、従来政府がとってきたものでございます」(1973年3月17日参議院予算委員会での答弁)
- (日の丸・君が代が国旗・国歌として定着しているという認識を示した上で)「私はやはりある時期に、もうこの時期にでもいいと思いますが、国歌や国旗というものを明確にやっぱり国権の最高機関としての院の議決を得て法律として制定をすべきときが来ておると思います。そして制定をしたら、これは少なくとも、小中学校とか、国公立の学校においてこれを歌うということは当然でございます」(1974年3月14日参議院予算委員会での答弁)
- 「よっしゃよっしゃよっしゃ」ロッキード事件の賄賂を受領した際に述べたとされる発言
- 「跳ねた鯉が地面に落ちたら干物になるだけだ。魚の干物なら食うが、熊の干物は誰も見向きもしない」(中川一郎に『鯉は跳ねちゃいけませんか?』と、小派閥ながら自民党総裁選に出馬を決めたという報告を受けた際の返答)[30]
- 「私は、かつて日本と朝鮮半島が合邦時代が長くございましたが、その後韓国その他の人々の意見を伺うときに、長い合邦の歴史の中で、いまでも民族の心の中に植えつけられておるものは、日本からノリの栽培を持ってきてわれわれに教えた、それから日本の教育制度、特に義務教育制度は今日でも守っていけるすばらしいものであるというように、今度のASEAN五が国訪問で、しみじみたる思いでございました。これはかっての台湾統治の中でも、そのようなほんとうに民族的に相結ばれる心の触れ合いというものが、いまでも高く評価をされておるという一事をもってしても言えるものでございます。」(1974年1月24日衆議院本会議答弁で。この発言が日韓併合を正当化するものだと南北朝鮮から批判を受けた。)
- 「政治家は発言に、言っていい事/悪い事、言っていい人/悪い人、言っていい時/悪い時、に普段から気を配らなければならない」(伊藤惇夫が2013年6月19日TBS『ひるおび!』で政治家のブログ炎上に関して語った田中のエピソード)
- 「人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。」[31]
- 「田中はなぜ倒れないか。人間、はだかになったことがないからびくびくするんだ。おれははだかになっているんだもの。」(1983年10月13日、ロッキード裁判で有罪判決をうけた翌日の言葉)[32]
- 「中曽根は象に乗っているのに、どうしてきつねやたぬきに乗り換えるのか。」(1987年ごろ、ロッキード裁判の判決直後に中曽根康弘首相が福田や三木に接触していることを聞いて)[33]
エピソード
テンプレート:複数の問題 田中角栄といえば、カネに対する大胆さ・豪快さが印象強く、これに関連する話は枚挙に暇がない。彼は金を最大限に生かして相手の信頼を獲得するために、相手の予想(期待)より多くの金を渡すことも多々あった。
- 田中が初出馬の時、進歩党の大麻唯男から300万(現在の価値で15億)もの資金調達を頼まれ、用意した。以後大麻は田中に頭が上がらなくなり、次回の選挙のとき公認した。
- 田中派の一回生議員が美人局に遭い、解決のために多額の金銭が必要となってしまった。様々なツテに頼ったがどうしても100万円(現在の価値では3倍以上)と少し足りない。選挙を終えたばかりで借金のあった議員は万策尽き、田中の事務所に電話をかけて借金の申し込みをした。事情を聞いた田中から「分かった。すぐに金を用意するから取りに来るように」と言われ、急いで事務所に向かうと、田中本人は急用で外出しており、議員は留守番の秘書から大きな書類袋を受け取ったが、その中を確認するとなんと300万円も入っており、同封されたメモには以下のように書かれていた。「トラブルは必ず解決しろ。以下のように行動しなさい。1. 100万円使ってトラブルを解決すること。2. 100万円を使って世話になった人に飯を奢る乃至、必ず御礼をすること。3. 残りの100万円は万一のトラブルの為に取って置くように。4. これらの金は全て返却は無用である。」その議員は感涙し、後々まで田中への忠誠を守り通した。
- 派閥が違う上に田中とほとんど面識のない議員が資金繰りに窮し、田中の事務所に来て借金を300万申し込んだ。わざわざ派閥の違う自分にまで助けを求めねばならないほど追い詰められている相手の窮状を察した田中は、その日のうちに金を用意し、「困ったときはお互い様だ。この金は返さなくていい。俺が困ったとき頼む」と言ってその議員に紙袋を渡したが、議員が後で紙袋の中を確認すると500万も入っていた。実は、その議員は田中に遠慮して、借金を申し込む際の金額を「300万」としていたものの、実際には500万を用意しないと絶体絶命の状況であり、結果として彼は田中の機転のおかげで人生を救われた形になった。彼はその夜、ベッドで枕に顔をうずめて泣き、田中に忠誠を誓った。
- 福田派に属していた反田中派の議員が入院した際、真っ先にお見舞いに訪れたのは田中で、挨拶もそこそこに議員の足元に紙袋を差込み帰った。中を見ると驚くことに300万入っていた。次に派閥のボスの福田が見舞いに来たが、一通りお見舞いの言葉を述べるとぎこちない様子で「こんな時、不自由するだろう。ほんの心づもりだ」と言って白い封筒を差し出した。その議員は不自然だったため礼儀として遠慮すると、福田は封筒を懐に戻した。最後に総理の中曽根が来ると見舞いの口上の後、機械的に茶封筒を差し出した。福田の時損をしているので遠慮せず受け取ると、中曽根は政治家の心得のようなものを説いて、いつまでたっても封筒を離さないので気が引けて議員から手を離すと、中曽根は封筒をしまいこんだ。この議員は以後も福田派として動いていたものの、ピンチのときは党派を超えて田中を支えた。
- 福田派の福家俊一が入院した時、いち早く見舞いに訪れ、分厚い袋に500万もの金を入れて足元に忍ばせた。その後4回ほど田中は見舞いに訪れたが、その度に500万を忍ばせていたという。福家は以後、田中の批判をしなくなった。
- お金を渡すときは細心の注意を払い、相手によってプライドをくすぐり、あるいはプライドを逆なでしない枕詞を使用し、賄賂と取られないように細心の注意を払って渡していた。政治家に対しては「お金はいくらあっても邪魔になりませんから」「資金はあると思いますが、まげて収めてください」「党のため、国のため、あなたには当選してもらわなくてはなりません」等。官僚に対しては「このくらいの金で君は動く男じゃないだろう? 俺の気持ちだ!」「俺だって見返りを要求するほど愚かな男じゃない」等。また料亭で働く人々に対しては女将に「これを皆さんにお願いいたします」など徹底的に腐心してプライドを傷つけず渡していた。
- 田中は日本の官僚を極めて高く評価し、「歩く肥大した図書館」と呼んでいた。彼らに取り入るため以下のことを行った。田中が大蔵大臣時代に予算編成で休日返上で不眠不休で頑張っている彼らに、「大臣室に来てくれ」と一人ずつ呼び「いつもご苦労様。感謝している。これでタオルでも買ってくれ」と現金の入った封筒を渡し、驚く官僚に田中は「こんなことで影響を受けたりしないだろう?」「お前たちは日本最高のエリートだ。この程度で俺に配慮するはずないだろう?」「俺も見返りなど要求はしない。俺の気持ちだ受け取ってくれ」といった話術と迫力をもって黙らせた。ボーナスの時期になるとポケットマネーで課長以上の人間に総額2000万以上もの金を使いボーナスを渡していた。
- 大臣には大臣機密費という自分の裁量で自在に使える機密費があるが、田中は郵政、大蔵、通産大臣時代一度も手を付けず「部下の面倒も見なければならんだろう、自由に使ってくれ」と全て事務次官に渡していた。それだけではなく特に課長クラスには目をかけ、飲み食いできる金額を別に渡していたという。
- 田中派ではない村岡兼造が1976年に落選した際、即座に連絡を入れ「次の選挙まで俺の部屋を使え」と提案。考えた末断られたが「砂防会館の事務所を使え、すでに話は通してある」と再度提案。村岡が話を受け入れると、間もなくして田中派の行政管理庁長官を務めた議員から秘書官の誘いがきた。「仕事できなくても肩書きだけでもいい」と、さらに30万の給料が支給されていた。言うまでもなくすべて田中が手を回しており、村岡は落選しても事務所を二つ持つことが噂になり、見事再選を果たした。彼も田中の虜になった。
政治家としても大胆な逸話が数多い。
- 総理だった佐藤栄作に仕えていた田中は三度破産したといわれている。佐藤首相との関係は、ほとんど主人と奴隷のようなもので徹底的に尽くし恩を売っていたが、そこまでの佐藤政権への支えがあってこそ次期総理の座をつかんだといえる。
- 郵政大臣に就任した直後視察すると、昼休みとはいえ麻雀にふけったり、机の上に足を投げ出したりと弛んでいたため、怒り心頭の田中はことの原因を調査し、省内が二大派閥に割れていることを調べ上げ、二大派閥のボス同士を次の人事異動で勇退(更迭)させた。これで省内の雰囲気もよくなったという。
- 大蔵大臣時代の1962年に翌1963年度の所得税法改正の審議の際、担当官僚の大蔵省主税局税制第一課長であった山下元利のミスで誤った税率表を使っていた。審議中な為に訂正は不可能の上、肝の部分が違っており作成した役人達は青くなった。大臣の首も飛ぶことも予想され、作成した役人、その上司の首が確実に飛ぶ出来事である。これをマスコミや他の党が黙っているはずがないのだが、山下がこのことを辞表を忍ばせ田中の元に訪れると、笑いながら「そんなことで辞表は出さなくていい」と改定表を持ち、堂々と「先日提出の表には間違いがございます」と何食わぬ顔で訂正した。野党もマスコミも沈黙したまま。もちろん田中が裏で手を回したのはいうまでもない。山下は後に政界入りした後は田中派入りしている。こういった責任をかぶるということをためらわずし、アイデアがない時は想像もできないアイデアを出す為(例えば道路関係の法律。建設省は田中には頭が上がらなかった)、田中を慕った官僚は非常に多い。
- 田中がソビエト連邦(当時)を訪れる際、秘書から前もって「盗聴されるから気を付けて下さい」と忠告を受けた。しかし、田中は発想を転換してこの盗聴を利用し、「石鹸が悪い、トイレットペーパーが悪いと大声で怒鳴ると、翌日には上等のものに変わっていた。盗聴されるのもいいものだ!」と帰国後笑って秘書に伝え、秘書を絶句させた。
- 中曽根と田中はあまり仲がよくなかったが、ある時、中曽根が外交のため中国訪問を希望しているという情報が田中に伝わってきた。すぐさま中曽根へ中国の要人への紹介状をしたためて送り、中曽根は大喜びした。
- 相手を説得させる時は極力一対一で会い、一対一での説得ならば誰にも負けないと豪語した。盟友の大平正芳は「田中とは一対一で会わずに複数で会うこと。一対一で会えば、必ず言うことを聞かされてしまう」と述べていた。福田も田中の意見に流されるのを嫌って一対一で会うことは極力避けていた。
- 決断が非常に早く、陳情等は1件約3分でテキパキこなした。できることはできると断言し、その案件は100パーセント実行され、信頼された。また、できないことはできないとはっきり言い、「善処する」といった「蛇の生殺しのような、曖昧な言い方」を嫌った。本人曰く『「できない」と断ることは勇気がいること』。
- 交渉をする時、余計なことを言わずに相手を呑んでかかるという手法を使っていた。通産大臣時代にケネディ特使とやりあったとき、「これが決裂したらあなたの責任になる」と恫喝し、ケネディを追い払った。翌年の対米繊維輸出は約十九パーセントの増額であった。ブレジネフの時も領土問題を避けようとすることに対し「入れろ!」と机を叩きながら恫喝。最後には「入れなければ、我々は共同声明を出さずに帰国する」とまでいい口頭で了解させた。
- 新幹線のグリーン車に乗っている時、批判的なある社会党の議員と支援の労組幹部と鉢合わせとなったが、田中は「いやー君にはまいったよ」と賞賛し、直後に支援の幹部に「彼が自民党にいたらとっくに大臣もしくは三役になっている」とおだてた。この話が労組に知れ渡り、「あの先生は本当にできる人なんだ」という噂がたち、その議員は株を大きく上げた。この手の話法を政敵を取り込む際によく使っていた。
また、カネがらみだけではなく特に下の人間を大切にし、そのための努力・気配りを怠らなかった。
- 驚異的な記憶力の持ち主であることは衆目の一致するところであり、有権者に逢うと即座に名前、家族の年齢、悩み、仕事などを瞬時に思い出していた。これらに関しては曰く「まあ美人の顔を覚えるようなものだ」。どうしても思い出せない時は「あなた誰だっけ?」と聞き、相手が苗字で返すと「そうじゃない! 苗字は知っているが、名前を聞いているんだ」と少なくとも苗字は知っていたかのように装っていた。
- 全盛期、年賀葉書は七~八千枚届いていたとされる。差出人はほとんど面識もない選挙民が大半であるが、これらに全て目を通し、一枚一枚の葉書にも気を配っていた。
- 秘書に対してはもちろんのこと、守衛の人間にも毎日労いの言葉をかけたり、自分の運転手にまで立派な医者を当てるなどしていた。
- 田中の秘書の一人が小佐野と佐藤昭子を切るように辞職覚悟で忠告し、田中は前者は了解したが後者は無理だと言い、秘書は辞職した。後にその元秘書が心筋梗塞で倒れた時、田中は病院へ急行。当時総理は辞していたが、病院は大騒ぎとなった。田中は元秘書の担当医を見つけるといきなり土下座の格好で彼を助けてくれと懇願し、病院側はその迫力に背筋が凍ったという。手付けに100万円渡し、集中治療室の元秘書を励ました。元秘書は頷き、田中が去った後涙した。
- 郵政大臣就任後に開かれたパーティーで官僚を招き、夫婦同伴で来るように促した。行くと田中は夫人たちを褒め、前例のないもてなし方に役人達は田中を見直した。
- ある時、若い青年団員たちが新潟の田中邸を訪ねてきた。突然の訪問であったにも関わらず田中は大いにもてなした。青年団員が、自分達は田中のライバル福田赳夫の選挙区である群馬三区から来たこと、家族が福田後援会の重鎮であることを田中に伝えると、田中はなおのこと喜び、彼らに鯛を振る舞った。「俺は尻尾を食べるから、君たちは頭を食べなさい。今後おおいに出世し給えよ。」と終始上機嫌だったという。
- 冠婚葬祭、特に葬儀には細やかな心配りを見せ、そのエピソードは多数ある。
- 田中派の重鎮、竹下登の父が死去したとき、飛行機をチャーターし、総勢69人の田中派の議員が人口四千人の村を訪れた。
- 河本派議員の渋谷直蔵の妻が死去した折、田中はすぐさま花を贈った。本葬まで一週間あると知ると「花が枯れてはいけない」と新しい花にその都度取り替えていた。
- 大手会社の社長が妹を亡くしたとき、田中は誰よりも早く花輪を届け、花が枯れたら故人もかわいそうだということで毎日花を取り替えさせて、関係者を感動させ涙させた。
- 社会党の某議員のとても大切にしていた夫人が亡くなったとき、社会党議員の誰よりも早く田中は式場に現れ関係者を驚かせた。恩を感じた議員は田中が窮地のときは党の枠をこえて行動した。
- 自民党では反田中派の松野頼三の妻が亡くなった時、誰よりも早く駆けつけ、これ以降、松野はあまり田中批判をしなくなった。
- 政敵だった社会党委員長の河上丈太郎が亡くなった時、わざわざ火葬場まで出向き、12月の寒さと雨の中、2時間立ち続けて野辺の送りまで行い、社会党議員を感動させた。
- 盟友の石破二朗が死去した際、国会議員による友人葬において葬儀委員長を務め、鳥取県民葬より多くの弔問客を動員させた。友人葬が終わって目白の田中邸に石破家を代表する形で訪れた長男の石破茂に対し「君がお父さんの遺志を継いで、衆議院に出るんだ! 日本のすべてのことはここで決まるのだ」と口説き、政治家になる気がなかった石破茂を政界入りさせる気にさせた。
- 田中派議員の小林春一が妻を亡くし途方に暮れていた時、田中から連絡が入り事務所に向かった。お悔やみの言葉をかけられ渡された封筒には100万円はいっており、小林はその金で立派な仏壇を特注し、田中に忠誠を誓った。
- 大石三男次という後援会の大幹部の父が亡くなった際、田中は葬儀に出たかったが、別の葬儀が重なったため大石に電話をして葬儀は伸ばせないかと尋ねた。大石は恐縮しながらも無理であると断ったが、田中は当時幹事長で激務であるにもかかわらず時間を割いて葬儀に駆けつけた。とんぼ返りする田中を見て大石は改めて田中を支援しようと誓った。
- ロッキード事件で逮捕起訴されて表舞台に復帰する見通しが立たないにもかかわらず、実母のフメが亡くなった時は葬儀参列者が3000人を越えた。飾られた花輪は600本以上あったが、それでも実際に贈られた数の半分以下だったという(あまりにも多すぎて断ったため)。前夜に国鉄のストライキがあったにもかかわらず東京から6時間かけて車を飛ばし駆けつけた議員(当時は関越自動車道が全線開通しておらず、東京からの車での移動にはこれほどの時間がかかっていた)や、飛行機で新潟へ行きそこから車を使ってまで来た議員もいた。
- ロッキード事件で東京地裁で169回もの公判等が行われたが田中は事前に届出をすませておけば、必ず出廷する必要はないにもかかわらず、一日も休まず通った。これは秘書の早坂茂三も同じである。田中は絶対無罪だと確信していたという。控訴審有罪に対して上告中に死去したため公訴棄却となったが、控訴審で有罪になった事件が最高裁で無罪になることは余程のことが無い限りはあり得ない(実際、秘書の上告審で有罪確定となり、5億円収受が認定されている)。
- 角栄節と呼ばれる、ダミ声で非常に癖の強い話し方で知られ、長い間、多くのお笑いタレントの物真似の定番だった。首相就任直前、田中事務所の裏金集めを騙る詐欺事件が発生。犯人は歌手崩れの若い女性で、対面では秘書を名乗りつつ電話口では自ら物真似で田中本人をも演じてみせるという手口だった。これは、若い女性ですら作り声で真似られるほど個性的で、かつ広く知られたものだったことを物語っている。逮捕、服役後まもなく獄中死。顛末は佐木隆三「犯罪百科」などに詳述されている。
- 軽井沢の別荘に番記者を呼び出し、俺の不都合なことを書くなという旨を言って恫喝したことがある。この暴言を書いたのは『文藝春秋』と『週刊現代』だけで、他の番記者は記事にしなかった。このことを立花隆は猛批判している。
- 郵政大臣就任後「三つの歌」というラジオ番組に出演し、浪花節の「天保水滸伝」の一節をうたい、「公共放送でヤクザ礼賛の浪花節を歌うな」と猛抗議をうけてあやうく大臣の椅子から落ちそうになったことがある。また、幹事長時代には、木村俊夫の選挙運動の際に木村の後援会の宴会が催されたが木村自身がどうしても出席できず、木村の秘書が田中に支援を要請。田中は快諾し宴会で天保水滸伝、杉野兵曹長の妻をうたい、大盛り上げをした。結局木村は当選。田中派になった(ただし、表面的には無所属)。
- 時間を守れない男は仕事ができないという持論だった。さらに悪口を言わないというのも持論だった。
- 田中が自民党幹事長を務めていた時、彼にあやかって「角栄」と名付けられた田中姓の少年がいた。ところが、後に田中がロッキード事件で逮捕されると、この少年は学校でいじめを受けるようになり、彼は最終的に「角栄の名が与えられた精神的苦痛は大きい」として、家庭裁判所で改名を認められている(昭和58年3月30日・神戸家庭裁判所)。
ニックネーム、渾名
- 「今太閤」 - 本人は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑において信長を理想としており、自分が秀吉に擬えられることは好んでいなかった(太閤、豊臣秀吉参照)。
- 「コンピューター付きブルドーザー」
- 「角さん」
- 「自民党周辺居住者」
- 「目白の闇将軍」
- 「下町の総理」
- 「キングメーカー」
一族
家族・親族
- 妻:田中はな - 旧姓・坂本
- 長女:田中眞紀子 - 第131代外務大臣
- 長男:田中正法 - 4歳で死亡
- 長女の夫:田中直紀 - 第10代防衛大臣。旧姓・鈴木。鈴木直人の子。
- 娘:はなの連れ子。池田勇人の甥と結婚。
- 甥:山科薫 - AV男優・監督※実際には辻和子の甥。
- もう1人の長男:田中京 - 音楽評論家、作家 ※辻和子との子
- もう1人の二男:田中祐※辻和子との子
演じた俳優
- 河津清三郎(『華麗なる一族』、1974年)
- 金子信雄(『日本の首領 野望篇』、1978年) - 役名は平山英格。
- 金子信雄(『日本の首領 完結篇』、1978年) - 役名は平山英格。
- 金田龍之介(『日本の黒幕』、1979年) - 役名は平山栄吉。
- 中谷一郎(『金環蝕』、1975年) - 役名は斎藤庄蔵。
- 藤岡重慶(『不毛地帯』、1979年) - 役名は田淵。
- 西郷輝彦(『小説吉田学校』、1983年)
- 伊武雅刀(『カッくんカフェ』、1984年)
- 小松方正(『ファーストレディ さらば愛しき昭和』、1990年)
- 的場浩司(『大いなる完』、1998年) - 役名は鉄馬完。
- 渡辺哲(『カクエイはかく語りき』、2006年)
- 北村晴男(『ニッポン人が好きな100人の偉人』、2008年)
- 不破万作(『運命の人』、2012年) - 役名は田淵角造。
- 橋本一郎(『負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜』、2012年)
テレビ番組
田中角栄を題材にした楽曲
- 「田中音頭」(歌:三波春夫)‐1972年発表。
論文
- 国立情報学研究所収録論文 国立情報学研究所.2010-05-12閲覧。
写真集
- そばで密着し2年半で、2万カットにもおよんだ、なお葬儀の遺影にも用いられた。
- 福田文昭撮影 『田中角栄 張込み撮影日誌1974―1993』葦書房、1994年
論文
- 田中角栄関連論文(国立情報学研究所収録) 国立情報学研究所.2010-05-13閲覧。
その他
テンプレート:雑多な内容の箇条書き テンプレート:出典の明記
- 初出馬の際氏名のひらがな表記は「たなか かくえ」であった。この時の政見発表演説会の演題は「若き血の叫び」。
- 演説や答弁を始める時「まーこのー」と前置きしてから話を始めることがあり、現在でも田中の演説のものまねをする際、この前置きの言葉が使われることが多い。
- バセドウ病の持病があり、暑がりであったことから、東京拘置所に拘置されているときに、アイスクリームを自費で買えるように法務大臣に圧力を掛けて、購入できるようにしたらしい。現在でも東京拘置所ではアイスクリームが自費購入できるとの事。
- 無類の暑がりで大蔵大臣だった昭和39年に大臣室に冷房を入れさせた。そして冷房の目盛りは常に“強”にして大臣室を冷やしていた。このため大臣の側近や大蔵省幹部の間では真夏の暑い日でさえ「大臣室へ行く時は上着を着ていけ、さもないと風邪をひく」と言われていたという。
- 学生時代、英和辞典を隅から丸暗記して、覚えたページは破り捨てたという。
- 馬主としても有名で、1965年の優駿牝馬優勝馬のベロナ(名義は夫人であったが、実質上は田中自身の持ち馬)や、長女の眞紀子から名を取ったマキノホープ、マキノカツラ、マキノサクラ、マキノスガタなどの馬を所有していた。また、1965年には東京馬主協会会長を務めている[34]。
- 中曽根康弘を「遠目の富士山」「出たがり屋の婆芸者」「なるものになったらお前らなんか見向きもしない。天井向いて歩く」、橋本龍太郎を「備前長船の風切り小僧」「あのタイプは切れるが人に好かれない」、宮澤喜一を「英語屋」「あれは一流の秘書官で政治家じゃない」「金襴緞子のお姫様」、小渕恵三を「光平さんの倅は目立たない男だ。ビルの谷間のラーメン屋。なかなかやるねぇ」、池田大作を「ありゃ法華経を唱えるヒトラーだ」などと評していた。
- 自らが掲げた日本列島改造論が、田中政権下での狂乱物価やオイルショックなどで頓挫した後、「列島改造と気負わずに、『日本を極楽にする方法』とした方が国民の皆に判ってもらってよかったんじゃないか」と、反省を込めた一言を秘書だった早坂茂三に対して述懐している[35]。
- 自派閥のメンバーには絶対的な服従を強いる強権的な姿勢が目立った反面、敵対する勢力に対しては最後まで追い詰めることは避け、しばしば苦境に立った政敵に救いの手を差し伸べた。
- 小室直樹の著作を愛読し、高く評価していた。小室はロッキード事件の際「田中無罪論」を展開したが、それ以前からの読者である。
- 味付けの濃い食べ物を好んだ。日中国交樹立の際に、中国側にお気に入りの味噌汁とあんパンを出された事が中国側への破格の譲歩につながったとも言われる。総理在任中は常にミネラルウォーターを持ち歩いていた。
- 日本各地の選挙情勢をくまなく把握し、その見通しは滅多に狂わなかったという。
- 家紋は剣片喰(かたばみ)である。
- 苦学生である田中は教育問題、とりわけ公教育の重要性を認識しており、首相在任時には公立学校の教員給与を引き上げたり、教員の地位や質の向上に努めた(人材確保法案)。これには、特に自民党文教族にとっては、労働争議の活発な日教組を懐柔し、骨抜きにするという意味合いもあった。日教組側は、(1)給与は労使交渉で決めるべきで、上から一方的に決めるのはおかしい (2)3段階の給与を5段階に細分化するのは教職員の分裂を企図するもの ――という理由で反発した[36]。しかし、待遇改善の魅力は大きく、最終的に日教組側は妥協した。
- 1957年12月31日、第8回NHK紅白歌合戦に審査委員として出演した(当時、郵政大臣)。
- 内閣総理大臣まで務めたことがあるにも関わらず、勲章を受章していない。なお、リクルート事件で秘書が略式起訴となった宮沢喜一は勲章受章対象となった(宮沢本人の生前の意向により勲章辞退)。栄典は全くないが、名誉市民の称号は得ている。
- 倒れてからは、体力のある介護人が必要と、元十両力士の凱皇の介護を受けて過ごした。
- 男なら「かくえい」、女なら「すみえ」と読ませるつもりで、生まれる前から「角栄」の字を当てることが決まっていたという。
- 有権者の面倒見がいい事で知られコネで就職させた有権者の子弟は数百人に登るという。
- 1972年7月に首相就任してから10月に国会で所信表明演説をするまで113日経過している。これは日本国憲法下で初就任した首相の中では最も遅い記録である。
- 首相時代に石油危機を迎えたのを機に電源三法を成立させるなど石油から電力エネルギーへの転換とりわけ火力発電から原子力発電への転換を積極的に図り、自らの実家があった西山町の隣町である刈羽村に原子力発電所を誘致している。電源三法制定の際には秘書官の小長啓一に「これからの時代は原発だ。」と述べるなど原子力時代の先見を明かしていたという。
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book - 廣済堂出版(2003年刊)の増訂版。著者はTBSの田中番記者。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 政務秘書早坂茂三の著書は〈集英社文庫〉で再刊。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book - 『早坂茂三の「田中角栄」回想録』 (小学館、1987年刊) の改題。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book - 日本経済新聞社(1998年刊)の再刊。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
関連項目
関連人物
</td><td>
- 小佐野賢治
- 佐藤昭子
- 早坂茂三
- 鳩山邦夫
- 小沢一郎
- 小渕恵三
- 二階堂進
- 石破二朗
</td><td>
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外部リンク
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
佐藤栄作
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第64・65代:1972年 - 1974年
|style="width:30%"|次代:
三木武夫
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
宮澤喜一
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 通商産業大臣
第33代:1971年 - 1972年
|style="width:30%"|次代:
中曽根康弘
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
水田三喜男
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大蔵大臣
第67・68・69代:1962年 - 1965年
|style="width:30%"|次代:
福田赳夫
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
平井太郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 郵政大臣
第12代:1957年 - 1958年
|style="width:30%"|次代:
寺尾豊
テンプレート:S-par
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院商工委員長
1955年
|style="width:30%"|次代:
神田博
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
佐藤栄作
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総裁
第6代:1972年 - 1974年
|style="width:30%"|次代:
三木武夫
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
三木武夫
福田赳夫
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党幹事長
第9代:1965年 - 1966年
第11代:1968年 - 1971年
|style="width:30%"|次代:
福田赳夫
保利茂
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
福田赳夫
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党政務調査会長
第9代:1961年 - 1962年
|style="width:30%"|次代:
賀屋興宣
- 転送 Template:End
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テンプレート:Normdaten- ↑ 馬弓良彦著『人間田中角栄』(ダイヤモンド社)には「旧制海城中学校に編入する予定で上京した」と、書かれているが、角栄自身が長い政治家人生の中でそのような発言をした事は皆無であり、上京直後に井上工業に入社している事、また、過去に角栄自身が「家が貧乏だったから高小を出たらスグに働かなくてはならなかった」と述べている事等から、当該部分は創作である可能性が高い。
- ↑ 福永(2008)、47頁。
- ↑ 諸橋(1972)、テンプレート:要ページ番号
- ↑ 諸橋(1979)、テンプレート:要ページ番号
- ↑ 諸橋(1993)、テンプレート:要ページ番号
- ↑ 諸橋(2001)、テンプレート:要ページ番号
- ↑ 7.0 7.1 福永(2008)、166-173頁。
- ↑ 福永(2008)、173-174頁。
- ↑ 福永(2008)、175-177頁。
- ↑ 福永(2008)、180頁。
- ↑ 福永(2008)、182-185頁。
- ↑ 福永(2008)、185頁。
- ↑ 福永(2008)、185-186頁。
- ↑ 福永(2008)、189-191頁。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 読売新聞2012年9月22日27面 「戦後転換期 第2部(1965~79年) 第23回 田中角栄」。
- ↑ 福永(2008)、162頁。
- ↑ 福永(2008)、266-227頁。
- ↑ 福永(2008)、166頁。
- ↑ 福永(2008)、173頁。
- ↑ 福永(2008)、254-255頁。
- ↑ 福永(2008)、263-264頁。
- ↑ 辻(2004)
- ↑ 辻(2006)
- ↑ 田中(2004)
- ↑ 衆議院会議録情報 第071回国会 法務委員会 第40号
- ↑ 山田直樹 『創価学会とは何か』(新潮社 2004年4月15日)によれば自自公連立政権樹立前の1998年8月中旬、竹下登元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けたとある。
- ↑ 実刑確定になれば、公職選挙法第11条・第99条及び国会法第109条により国会議員を失職し、刑期満了まで国会議員となることができない。
- ↑ 『田中角栄―その巨善と巨悪』
- ↑ 小説吉田学校にはゴルフをしながらのやりとりとして書かれている
- ↑ 大下英治『田中角栄秘録』イースト新書 008 2013年 イーストプレス
- ↑ 早野透『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』中公新書 2186 2012年。ISBN 978-4-12-102186-1
- ↑ 保坂正康『田中角栄の昭和』朝日新書 244、2010年。ISBN 978-4-02-273344-3
- ↑ 『東京馬主協会三十年史』東京馬主協会 1978年
- ↑ 『早坂茂三の「田中角栄」回想録』111頁参照 (小学館、1987年刊)
- ↑ 丸山和昭 「人材確保法」の成立過程 ―政治主導による専門職化の視点から―