桜井新
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桜井 新(さくらい しん、1933年4月8日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元参議院議員(1期)、元衆議院議員(6期)。
来歴・人物
新潟県南魚沼郡大和町(現南魚沼市)出身。新潟県立六日町高等学校併設中学校、新潟県立新潟工業高等学校を経て早稲田大学第一理工学部卒業。早稲田大学在学中から田中角栄の書生を務めた後、帰郷して建設業を経営した。
1971年、新潟県議会議員に立候補。この時は自らの会社の従業員を党員登録して、支部大会を半ば乗っ取る格好で自民党の公認を獲得、当選して2期務める[1]。1979年、越山会青年部長でありながら、衆議院旧新潟3区に無所属で出馬するも落選。しかし翌1980年、再度の出馬で初当選し、自民党に入党。以後連続6期当選(当選同期に古賀誠・太田誠一・久間章生・川崎二郎・森田一・高村正彦・柿澤弘治など)。
当選後は玉置和郎の側近として行動するが、玉置の死後清和会(安倍晋太郎→三塚博派)に入会。清和会内では、「亀井グループ」の中核メンバーとなった。
1994年6月、村山内閣で環境庁長官として初入閣。同年8月、後述の失言が理由で辞任した。
1998年、清和会を脱会し、亀井、平沼らと独立した派閥「亀井グループ」を旗揚げ。翌年、江藤・亀井派の結成に参加する。2000年、第42回衆議院議員総選挙で落選するが、翌2001年7月の第19回参議院議員通常選挙に比例区より出馬し当選。
2005年8月8日の郵政民営化法案の参議院本会議採決では反対票を投じたが、総選挙後の法案採決では賛成票を投じた。2007年の第21回参議院議員通常選挙には出馬せず、政界を引退。2013年6月には亀井・村上正邦の呼びかけに呼応し、円卓会議の創立に参加した[2][3]。
不祥事
- 1994年8月、環境庁長官として閣議後の会見において、「日本は侵略戦争をしようと思って戦ったのではない。日本だけが悪いという考え方で捉えるべきではない。アジアはそのお陰でヨーロッパの植民地支配からほとんどの国が独立した」と発言し、問題化。その日のうちに発言を撤回し、辞任した[4]。
政策
著作
- 『輝く日本を目指して 美しいふるさとをつくろう』展転社、2002年11月。
- 『甦れアジア、目覚めよ日本』展転社、1999年11月。
- 『我が挑戦 都市と農村の蘇生のために』東洋経済新報社、1985年6月。
所属していた団体・議員連盟
脚注
- ↑ 佐木隆三『越山 田中角栄』
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 日経新聞 1994年8月6日
- ↑ 河野太郎による指摘。ごまめの歯ぎしり