三塚博
テンプレート:Mboxテンプレート:政治家 三塚 博(みつづか ひろし、1927年8月1日 - 2004年4月25日)は、日本の政治家。元衆議院議員(10期)で、運輸大臣(第57代)、通産大臣(第50代)、外務大臣(第115代)、大蔵大臣(第102代)、衆議院議院運営委員長(第44代)自民党政務調査会長(第35代、第38代)、自民党幹事長(第31代)を歴任。正三位旭日大綬章。血液型O型。
来歴・人物
宮城県遠田郡北浦村(現美里町)で、男6人、女8人の14人兄弟の7番目として誕生。宮城県立小牛田農林学校(現宮城県小牛田農林高等学校)、東京高等獣医学校(現日本大学生物資源科学部)を経て早稲田大学第一法学部へ学士入学し、1951年に卒業。在学中は雄弁会に所属。
大学卒業後は本間俊一、保科善四郎両衆院議員秘書を経て、1959年宮城県議会議員選挙に立候補するも落選。捲土重来を期した次の1963年に宮城県議会議員に初当選。2期務める。1970年には自由民主党宮城県連の一方的な要請により仙台市長選挙に立候補し落選するが、1972年の第33回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し初当選を飾る。以降10期連続当選(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・村岡兼造・保岡興治・瓦力・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。派閥は福田派→安倍派に属した。
新人議員の頃に青嵐会の結成に参加。中川一郎の信用を得て、福田派議員でありながら1979年に設立された中川派の幹事長を務める。政策通であり、同じ派閥の加藤六月などと共に「運輸族」の有力議員として知られ、1985年に運輸大臣として初入閣。国鉄分割民営化、財政構造改革路線の推進に尽力した。1986年、安倍が福田派を継承すると、三塚は派内事務総長に就任し加藤、森喜朗、塩川正十郎と共に「安倍派四天王」のひとりに数えられる実力者へと成長する。派内の後継者候補と目されるライバルが四天王として並び立つ構図は、1988年のリクルート事件の発覚により加藤と森が謹慎を余儀なくされた事で崩れ、事件に無関与だった三塚は通産大臣、外務大臣、自民党政調会長をたて続けに歴任、異例のスピードで重要役職をこなす。
1991年に安倍が死去すると、加藤との「三六戦争」に勝利し、安倍派を継承。三塚派とした。派閥を率いて自民党総裁選挙に出馬し(結果は落選)、その後も自民党幹事長、第2次橋本内閣で大蔵大臣を務めるなど、首相・総裁候補として申し分のないキャリアを積んだが、第2次橋本内閣の蔵相時に山一証券・北海道拓殖銀行の破綻といった未曾有の金融危機に見舞われた際に目立った指導力を発揮出来ず、大蔵省接待汚職事件の責任を取って蔵相辞任。また、1997年の宮城県知事選挙で自民党推薦の市川一朗が敗北するなど、宮城政界への影響力も低下した。結果首相への夢はかなわず、翌年には森に派閥会長の座を譲って三塚派から森派とし、政界の第一線から退く形になった[1]。
その後清和政策研究会の名誉会長となる。2001年の自由民主党総裁選挙では自身と当選同期の小泉純一郎を支持した。2003年の第43回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退。2004年4月25日死去。発表されている死因は肺炎(一説には肺癌を発病していたという)。テンプレート:没年齢。
経歴
- 1959年4月 宮城県議会議員に立候補し、落選。
- 1963年4月 宮城県議会議員に初当選。(2期)
- 1970年1月 仙台市長選挙に立候補し、落選。
- 1972年12月 衆議院議員選挙に立候補し、初当選。以降10期連続当選。
- 1977年11月 運輸政務次官(福田内閣改造内閣)に就任。
- 1985年12月 運輸大臣(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)に就任。
- 1987年11月 衆議院議員運営委員長に就任
- 1988年12月 通産大臣(竹下内閣改造内閣)に就任。
- 1989年6月 外務大臣(宇野内閣)に就任。
- 1989年8月 自民党政調会長に就任。
- 1991年6月 安倍晋太郎の死去を受け清和会会長に就任。安倍派から三塚派となる。
- 1991年10月 自民党総裁選に立候補。
- 1992年12月 再び自民党政調会長に就任
- 1995年8月 幹事長を務めていた森が建設大臣として入閣したため、その後任として自民党幹事長に就任。
- 1996年11月 大蔵大臣(第2次橋本内閣)に就任。
- 1998年1月 一連の大蔵省接待汚職事件の責任を取り大臣を辞任。
- 1998年12月 派閥会長を森喜朗に禅譲し、三塚派から森派となる。
- 2003年10月 政界を引退。
- 2004年4月 聖路加国際病院にて死去(享年76)
エピソード
- 東京高等獣医学校(現日本大学生物資源科学部)で獣医師免許を取得している。
- 株仕手戦を巡る国際航業事件、師の子息である本間俊太郎宮城県知事が逮捕されたゼネコン汚職への関与を指摘されるなど、疑惑の対象となることが多く、「疑惑のデパート」と揶揄された。
- 前述の中川の総裁選出馬の件に関して、三塚の先輩である浜田幸一は著書『日本をダメにした九人の政治家』にて、「金で総てを動かし、中川さんが苦しんでいるさまを横目に出世していった三塚君の人間性を許すわけにはいかない」と厳しく断じ、「この男が首相にでもなろうものなら、間違いなく日本は滅びてしまう」と警鐘を鳴らし、「三塚博よ、真っ先に辞職を」と迫った。なお、浜田はこの本の中で三塚を9人の中でも特に一番厳しく糾弾している。
- その一方で、宗教法人の幸福の科学は三塚を「哲人政治家」として高く評価し、1995年には自らの政権の首相として三塚を推薦する事を表明した上、同団体系の出版社から『三塚博総理大臣待望論』[2]を刊行した。
- 有害図書の規制を強硬に主張し「少年の健全な育成を阻害する図書類の販売等の規制に関する法案」(未提出)作成の中心人物となったことで知られる。特に当時、角川書店から刊行されていた『ポップティーン』を始めとする少女向け情報誌を予算委員会で「性欲雑誌」と激しく攻撃。この煽りを受けて複数の雑誌が休廃刊ないし大幅な路線変更を余儀無くされた。
- 中選挙区時代、旧宮城1区で愛知揆一・和男親子との間で、選挙戦の際に得票数をめぐって激しい争いが行われた。「三愛戦争」と呼ばれたこの争いは、1994年の小選挙区制導入で愛知和男が宮城1区、三塚が宮城3区と住み分けが成立したことで解消された。
- 1982年に国鉄現場を抜き打ち視察を行い、同行していたマスメディアに国鉄の現場の腐敗ぶりを広く知らしめることで国労の遵法闘争に終止符を打って国鉄分割民営化への道筋を切り開くなど、政治家としての実力自体はかなり高いほうではあった。
- なお、分割民営化の案が想定されていた当時、本州のJRに関して東日本と西日本と二分割論が主流であった与党において、「大阪の会社に東海道新幹線をやるわけにはいかん」と、三分割論を強硬に推進した中心人物とされているテンプレート:要出典。結果、中部地方には東海道新幹線を所有するJR東海が誕生し、JR西日本は山陽新幹線を有するのみにとどまった。これが、後の信楽高原鉄道列車衝突事故や福知山線脱線事故につながったとする指摘があるなど、その手腕には賛否両論がある。
幸福の科学との関係
幸福の科学の刊行物によれば、1991年に妻の寿子が同教団に入会し、その後本人も正会員になったとされる[3]。幸福の科学は三塚を会員と認識していたが、1995年8月14日時点の本人側の見解を報じた報道には、「幸福の科学からの一方的支持であり、ただただ困惑している」との三塚代議士事務所のコメントおよび「書籍は購読しているが、正会員という認識はない」という本人の発言がある[4]。
また1996年に本人は「ほめ殺しだろうと、私のスタッフはガードした。代表の大川(隆法)さんとは会ったことはない」と述べている[5]。
一方、1995年7月10日の東京ドームでの幸福の科学の祭典「御生誕祭」で大川隆法の講演「新生日本の指針」に参加し、会場の舞台の画面に三塚の映像メッセージが示され[4]、集まった5万人に紹介された[6]。この大川の講演では、当時発生した松本サリン事件や地下鉄サリン事件に代表される「オウム事件」の解決に尽力したのは三塚であり「事実上の内閣総理大臣」として国家危機管理に獅子奮迅の努力をされたと評価された[7]。
また当時の経済運営や、日米貿易摩擦などの外交問題での政治手腕なども評価をし「次期総理大臣に推薦」[8]との大川隆法の言葉があり、それに賛同する東京ドームの観衆から大きな拍手で評価された。この祭典の状況はマスコミに報道され、書籍『新生日本の指針』[9]やVHSビデオで頒布された。
幸福の科学は書籍『三塚博総理大臣待望論』を1995年8月に発刊したり、雑誌「ザ・リバティ」1995年10月号で、「首相候補を採点する」などの特集で、三塚を最高点で評価した。1995年8月8日には東京日比谷の野外音楽堂を中心に日比谷公園に約10万人が集まり、「三塚総理実現のための集い」が開かれたりした[10]。
その後三塚は自民党幹事長に就任するなど、派閥領袖として順調な展開をするが、幸福の科学の応援が、地元宮城の選挙区で反発や派閥内の指導力に陰りがでるなどの事態となり、応援の辞退を教団側に申し入れた。
著作
- 『国鉄を再建する方法はこれしかない』(ユニコーン書林 1984年)ISBN 4880941085
- 『さらば国有鉄道』(ネスコ 1986年)ISBN 4890360360
関連書籍
- 『三塚博 全人像』(関口茂著 行政問題研究所 1992年)ISBN 4905786924
- 『三塚博 黒い履歴書―ゼネコン疑惑の主役 汚れた領袖の悪行を暴く』(菊池久著 ポケットブック社 1993年)ISBN 4341140558
所属団体
- 神道政治連盟国会議員懇談会
脚注
関連人物
関連項目
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
越智伊平
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院議院運営委員長
第44代:1987年 - 1988年
|style="width:30%"|次代:
山口敏夫
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
安倍晋太郎
|style="width:40%; text-align:center"|清和会会長
第3代 : 1991年 - 1998年
|style="width:30%"|次代:
森喜朗
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
森喜朗
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党幹事長
第31代 : 1995年
|style="width:30%"|次代:
加藤紘一
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
森喜朗
村田敬次郎
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党政務調査会長
第38代 : 1992年 - 1993年
第35代:1989年 - 1990年
|style="width:30%"|次代:
橋本龍太郎
加藤六月
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山中貞則
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党税制調査会長
1989年
|style="width:30%"|次代:
西岡武夫
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
久保亘
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大蔵大臣
第102代:1996年 - 1998年
|style="width:30%"|次代:
橋本龍太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
宇野宗佑
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第114代:1989年
|style="width:30%"|次代:
中山太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
田村元
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 通商産業大臣
第50代:1988年 - 1989年
|style="width:30%"|次代:
梶山静六
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山下徳夫
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 運輸大臣
第57代:1985年 - 1986年
|style="width:30%"|次代:
橋本龍太郎
- 転送 Template:End
テンプレート:財務大臣 テンプレート:外務大臣 テンプレート:経済産業大臣 テンプレート:国土交通大臣 テンプレート:衆議院議院運営委員長 テンプレート:自由民主党政調会長 テンプレート:自由民主党幹事長 テンプレート:自由民主党税制調査会長 テンプレート:清和政策研究会会長
テンプレート:安倍派四天王- ↑ 三塚から森への禅譲に反発した亀井静香や平沼赳夫をはじめ中堅・若手議員の一部は三塚派を離脱し、翌年村上・亀井派を結成した
- ↑ 書籍『三塚博総理大臣待望論』小川空城 編纂共著、幸福の科学出版、1995年8月10日発行、ISBN 978-4-87688-260-1。
- ↑ 書籍『新生日本の指針』p19,p110
- ↑ 4.0 4.1 テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 書籍『新生日本の指針』p19,p110
- ↑ 書籍『新生日本の指針』p18
- ↑ 書籍『新生日本の指針』p110
- ↑ 書籍『新生日本の指針』大川隆法 著、幸福の科学出版、1995年7月31日発刊、ISBN 978-4-87688-259-5。
- ↑ 雑誌『ザ・リバティ』1995年10月号p2