太閤

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太閤(たいこう)、正式名称太閤下は、摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指す[1][2]。敬称は「殿下」であり、呼びかけの場合は「太閤殿下」となる。

また出家した太閤のことを禅定太閤(ぜんじょう たいこう)、略して禅閤(ぜんこう)という。

沿革

摂政・関白を子弟に譲った者が「太閤」と呼ばれた例は平安時代からあった。例えば藤原道長後一条天皇の摂政を息子頼通に譲り、続いて任じられた太政大臣の職も辞任した後は「太閤」と呼ばれていた[3]鎌倉時代の関白、二条良実は弟の一条実経に関白の地位を譲った後に引き続き内覧に任じられたことから「太閤」の名乗りを用いた[4]。その子孫である二条良基は13年にわたって関白を務めたことから、直接の血縁関係にない他家の当主が関白になった後も「太閤」を名乗って内覧として権勢を振い、その後3度も摂関に再任された。

豊太閤

しかし近世以降、「太閤」といえば関白を甥の豊臣秀次に譲った後の豊臣秀吉のことを指すことが専らで、このことから「大師弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言までできるほどだった。

秀吉のことを、史家はその姓から豊太閤(ほうたいこう)と呼ぶことが多い。その秀吉が行った全国規模の検地は古くから太閤検地と呼ばれている。また秀吉が大坂城を築いて天下に号令した大坂の地は、やがて江戸時代になると「天下の台所」と呼ばれるまでの経済発展を遂げたが、地元大阪では今日でもその最大の貢献者である秀吉を敬愛して「太閤はん」と呼び親しんでいる。

今太閤

明治維新で旧来の太政官制が廃止され摂政・関白がなくなると、太閤の語もやがて過去のものとなるはずだったが、百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引し、艶福家の点でも共通する伊藤博文が、豊太閤に倣って今太閤(いまたいこう)と呼ばれるようになった。さらに戦後には高等教育の学歴を持たずに内閣総理大臣まで上り詰めた田中角栄も今太閤と呼ばれるようになった。

このように「今太閤」は貧しい生まれから立身出世して大きな権力を握るに至った者の代名詞として使われるようになり、この他にも保守政治家の三木武吉阪急電鉄小林一三松下電器松下幸之助大映永田雅一らも今太閤と、また吉本興業吉本せいは女今太閤と呼ばれた。

脚注

  1. 広義では太政大臣左大臣右大臣といった三公までを指す。
  2. 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)1678頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)1503頁参照。
  3. 藤原実資小右記寛仁2年6月20日
  4. 五代帝王物語

参照文献

文献資料

  • 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
  • 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059

関連項目


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