空海
テンプレート:Infobox Buddhist テンプレート:密教 空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日 (旧暦)(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお[1])。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
目次
生涯
佐伯真魚
宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)[2][3]、幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である[4]。
延暦7年(788年)、平城京に上る。上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した。(真魚は讃岐佐伯氏)[5]
延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる。
仏道修行
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した[6]。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多い。しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。
ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。
空海の得度に関しては、延暦12年(793年)に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、現在では、延暦23年(804年)、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知った、入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。無空や教海と名乗った時期があるとする文献もある。
入唐求法
延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。入唐(にっとう)直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもあるが定説はない。
第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。
同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。
空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している(風信帖#入唐を参照)。同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。
永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。
同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。
そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。
途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開宗したため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという[7]。
虚しく往きて実ちて帰る
「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。
空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていた。
真言密教の確立
大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。
この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。その後、2人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至る。2人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられる。だが、近年その通説には疑義が提出されている。
大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った。
弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を務めた。
弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。
弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃『弁顕密二教論』を著している。
弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在した。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。
この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆した。
弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。
弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に潅頂を授けた。
弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる。東寺は教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称は鎌倉時代以降に用いられる。
天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修した。3月には少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)。6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。 天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。ただし、これは実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した。現在は種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいる。
天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。
天長8年(831年)5月末、病(悪瘡といわれている)を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。
天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している。その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている。
承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。
承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われている。1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。2月30日、金剛峯寺が定額寺となった。3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。享年62(満60歳没)。
伝真済撰[8]『空海僧都伝』によると死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付された(火葬された)ようである。しかし後代には、入定した(即身仏となった)とする文献が現れる。 テンプレート:See
天長8年(831年)に病を得て以降の空海は、文字通り生命がけで真言密教の基盤の強化とその存続のために尽力した。とくに承和元年(834年)12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入ったとされている。なお、空海生誕地の善通寺の産湯井戸と高野山奥ノ院(入定地)は同一緯度(東西)に並ぶ。
弘法大師
延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。
最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになった。
弘法大師は「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもある。歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指す。空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いと言えるだろう。
真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認するのである。ただし、大師の諡号を贈った立場の真言宗醍醐派、および醍醐派の系統を一部取り入れている智山派では、ときに「南無遍照金剛」と大師をつけずに呼ぶ場合がある。
故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。
入定に関する諸説
高野山の人々や真言宗の僧侶の多くは、空海が死んだと言うことは半ばタブーとなっており、高野山奥の院の霊廟において現在も空海が禅定を続けていると信じている。奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。
現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年3月21日に空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついていることをあげている[9]。
このように一般には空海は肉身を留めて入定していると信じられているが、『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、いくつかの根拠を示して火葬されたとする説もある。桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。
このように空海に関しては、史実よりも伝承のほうが多い。
弟子
十大弟子
元慶2年(878年)11月11日に空海の弟子真雅が朝廷に言上した「本朝真言宗伝法阿闍梨師資付法次第の事」[10]によれば、空海の付法弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされる。後に、この10人を釈迦の十大弟子になぞらえ、弘法大師(空海)十大弟子と称するようになった。十大弟子の語の初出は慶長年間の成立とみられる頼慶『弘法大師十大弟子伝』。
その他の弟子
付法弟子とされる10人以外にも、多くの弟子の名が知られている。貞享元年(1684年)成立の智灯『弘法大師弟子伝』は計20人、弟子すべてを網羅することをめざした天保13年刊の道猷『弘法大師弟子譜』は計70人を載せている。
年譜
和暦 | 西暦 | 日付 | 年齢 | 事柄 |
---|---|---|---|---|
延暦11年 | 792年 | 18歳 | 長岡京の大学寮に入り、明経道を専攻する。 | |
延暦17年 | 798年 | 24歳 | 聾瞽指帰を著した。 | |
延暦23年 | 804年 | 31歳 | 東大寺戒壇院で得度受戒した。 | |
延暦23年 | 804年 | 12月23日 | 31歳 | 第16次遣唐使留学僧として長安に入った。 |
延暦24年 | 805年 | 5月 | 32歳 | 密教の第七祖・青龍寺の恵果和尚に師事。 |
延暦24年 | 805年 | 8月10日 | 32歳 | 伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を与えられた。 |
大同元年 | 806年 | 10月 | 33歳 | 20年間の予定を2年間で帰国したため、帰京の許可を得るまで大宰府の観世音寺に滞在することになった。 |
弘仁7年 | 816年 | 7月8日 | 43歳 | 朝廷より高野山を賜る。 |
弘仁12年 | 821年 | 48歳 | 満濃池の改修を指揮した。 | |
弘仁13年 | 822年 | 49歳 | 太政官符により東大寺に灌頂道場真言院を建立した。平城上皇に潅頂を授けた。 | |
弘仁14年 | 823年 | 正月 | 50歳 | 太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場にした。 |
天長5年 | 828年 | 12月15日 | 55歳 | 京に私立の教育施設「綜芸種智院」を開設した。 |
天長9年 | 832年 | 8月22日 | 59歳 | 高野山において最初の万燈万華会が修された。 |
承和2年 | 835年 | 3月21日 | 61歳 | 入定した。 |
延喜21年 | 921年 | 10月27日 | 東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。 |
評価
真言宗の開祖として
空海は、江戸時代を通して、お大師さんとして人々に親しまれていた。しかし、純正の日本に仏教という外来の不純な思想を持ち込んだとして、本居宣長などによって批判された。明治時代に入ると廃仏毀釈運動によって一時的にその評価が落ちることになった。
空海は、今もなお高野山に隠れているということから、空海が高野山に隠れてから50年ごとに「御遠忌」法要が営まれるが、明治17年(1884年)のそれは明治時代初頭であったため、上の理由から低調だったという。そのためか、昭和9年(1934年)の1100年御遠忌は単なる宗教行事にとどまらず、大阪朝日新聞や東京日日新聞などの新聞社を巻き込んだ一大キャンペーンとなった。
このキャンペーンのなかで、かつて不純な思想を持ち込んだと批判された空海は、外来の思想を日本流に換骨奪胎して紹介し、日本文化の形成に一役買った人物として評価されるようになった。昭和9年には、日本と中国の戦争すなわち日華事変がすでに開始しており、戦争に臨むにあたり、「英雄」という存在のもとで国民を団結させる必要があったことから、空海が再評価されたのである[11]。日本統治時代の影響を受けてか、台湾には空海を祀る廟が存在する。
その後、昭和59年(1984年)の御遠忌までには高野山道路(当時は有料道路として開通・平成5年に国道370号・国道480号に指定される)が整備され、1150年御遠忌は参詣客が大幅に増え過去最高だった。当時の高野山の宿坊の参籠者はどこも定員をはるかに超し、客室以外の場所でも宿泊するほどの人出であったと、高野山内寺院の関係者はいう。これに合わせて映画「空海」(空海役:北大路欣也)が制作され、全国的な盛り上がりとなる[12]。
書家として
テンプレート:JIS2004 書は在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ、殊に王羲之や顔真卿の書風の影響を受け、また篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての体をよくした。中国では五筆和尚といわれ、日本では入木道の祖と仰がれ、書流は大師流と称された不世出の能書家である。真跡としては次のものがある。
- 聾瞽指帰(ろうこしいき)
- 『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦16年(797年)24歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の『風信帖』に見られる書風とは異なる。金剛峯寺蔵。国宝。
- 灌頂歴名(かんじょうれきめい、『灌頂記』とも)
- 弘仁3年(812年)から弘仁4年(813年)にかけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している。神護寺蔵。国宝。
- 風信帖(ふうしんじょう)
- テンプレート:Main
- 国宝指定名称は『弘法大師筆尺牘(せきとく)』。空海が最澄に送った書状3通を1巻にまとめたもので、1通目の書き出しの句に因んで『風信帖』と呼ばれる。もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は豊臣秀次の所望により、天正20年(1592年)献上したことが巻末の奥書きに記されている。現存の3通は、いずれも行草体の率意の書で、空海の書として『灌頂歴名』とともに絶品とされる。年号は不詳であるが、弘仁3年(812年)頃とされている。第1通目は、9月11日付で「風信雲書」の書き出し。書風は謹厳である。第2通目は、9月13日付で「忽披枉書」の書き出し。書風は精気があり、また情緒もある。第3通目は、9月5日付で「忽恵書礼」の書き出し。流麗な草書体である。全体は王羲之の体である。東寺蔵[13]。
- 崔子玉座右銘(さいしぎょく ざゆうのめい)
- 後漢の崔瑗の『座右銘』100字(五言二十句)を草書で2、3字ずつ、数十行に書かれたものである。もとは白麻紙の横巻で高野山宝亀院の蔵であったが、今は同院に冒頭10字が残るだけで、ほかは諸家に分蔵され、100字中42字が現存する。字径が12cm - 16cmもあるので古筆家は『大字切』(だいじぎれ)と称している[14][13]。
空海を含む讃岐の佐伯氏は、書と深く関わりを持っていた一族であったと考えられている。空海の門人で同じ佐伯氏の出身である実慧は若い頃に同じ一族と思われる讃岐国多度郡出身の佐伯酒麻呂らに儒学を学んだとされている(『弘法大師弟子伝』)が、酒麻呂とその一族が平安時代前期において、長期に渡って書博士の地位を占めていた事が『日本三代実録』に記されている。
文人として
空海は当代一流の文人としても知られる。勅撰三集の一つ『経国集』に8首の詩が入集しているが、これは入集した詩人全体の中で4番目に多い[15]。空海の著作の一つ『文鏡秘府論』は詩作法・作文法の解説書で、その序文によれば、当時、多くの若者が詩作・作文の教授を乞うため空海のもとを訪れていたらしい。 また、空海の詩文を弟子の真済が集成した『性霊集』の序文によれば、空海は詩、上表文、碑銘文、願文などあらゆる種類の文を、草稿なしですぐに書き上げるのが常であったという。実際、『日本後紀』天長2年(825年)閏7月19日条(『類聚国史』巻177より)は、仁王会の東宮講師に配された空海が、通例では当代の著名な文人にあらかじめ作らせておく呪願文を、講説の直前に即座に書き上げたと伝えている。
弘法大師の伝説
弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに越えている。柳田國男は大子(オオゴ、神の長男を意味)伝説が大師伝説に転化したという説を提出している。また中世、日本全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖が弘法大師と解釈されたことも有力な根拠である。ただ、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、その伝説形成の底辺には、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇があると考えられる。
弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたるが、特に弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといわれている[16]。弘法水は、場所やそのいわれによって、「独鈷水」「御加持水」などと呼ばれている。
鎌倉 - 江戸時代の学者などにより、空海は本朝における男色の開祖とされることもある[17]。徳川時代の川柳や笑話などにも、しばしば衆道を唐土から導入した人物として登場する。
発見したとされる温泉
弘法大師が発見したとされる温泉は、日本各地に存在する。以下にそれを記す。 テンプレート:Col-begin
- あつみ温泉(山形)
- 大塩温泉(福島)
- 芦ノ牧温泉(福島)
- 出湯温泉(新潟)
- 瀬戸口温泉(新潟)
- 清津峡温泉(新潟)
- 関温泉(新潟)
- 燕温泉(新潟)
- 川場温泉(群馬)
- 法師温泉(群馬)
- 修善寺温泉(静岡)
- 伊豆山温泉(静岡)
- 湯村温泉(山梨)
- 鹿塩温泉鹿塩温泉(長野)
- 海の口温泉(長野)
- 赤引温泉(愛知)
- 龍神温泉(和歌山)
- 関金温泉(鳥取)
- 湯免温泉(山口)
- 千羽温泉(徳島・四国八十八か所23番札所近く)
- 清水温泉(徳島)
- 東道後温泉(愛媛)
- まむし温泉(福岡)
- 杖立温泉(熊本)
- 熊の川温泉(佐賀)
- 波佐見温泉(長崎)
テンプレート:Col-end ただし上記には、後年、開湯伝説を作った際に名前が使われただけの温泉もある。高野聖のうちには、その離農的な性格から、いわゆる山師的なものもおり、それらが温泉を探り当てた際に宗祖たる空海の名を借用したともいわれる。
伝説・伝承
弘法大師が由来とされる伝説や伝承があるもの。以下にそれを記す。
ことわざ・慣用句
- 弘法も筆の誤り
- 空海は嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになった[18]が、「應」の一番上の点を書き忘れ、まだれをがんだれにしてしまった。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている。このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っているが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。
- 弘法筆を選ばず
- 文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないということ。ただし、性霊集には、よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかった、という、全く逆の意味の言及がある。「弘法筆を選ぶ」として、逆の意味のことわざとして用いられることもある。
- 護摩の灰
- 弘法大師が焚いた護摩の灰と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師をいう。後に転じて旅人の懐を狙う盗人全般を指すようになった。
- 生麦大豆二升五合(なまむぎだいずにしょうごんごう)
- 民間テンプレート:どこに伝わる呪文で、これを唱えれば難事を避けることができるという。本来の字義からは離れてしまっているが、空海の御宝号「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」が転訛したもの。
著作文献
- 『定本弘法大師全集』〈全11巻〉高野山密教文化研究所、1997年完結
- 『弘法大師空海全集』〈全8巻〉筑摩書房、1983-1986年、復刊2001年
- 『弘法大師著作全集』〈全4巻〉勝又俊教編、山喜房仏書林、復刊1994年
著作(文庫・新書判)
- 『三教指帰 文鏡秘府論・序』福永光司訳注、中公クラシックス、2003年
- 『空海「三教指帰」』加藤純隆/加藤精一訳注、角川ソフィア文庫、2007年
- 『空海「秘蔵宝鑰」』加藤純隆/加藤精一訳注、角川ソフィア文庫、2010年
- 『空海「般若心経秘鍵」』加藤精一訳注、角川ソフィア文庫、2011年5月
- 『空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」』加藤精一訳注、角川ソフィア文庫、2013年7月
- 『空海コレクション1 秘蔵宝鑰、弁顕密二教論』宮坂宥勝監修、頼富本宏訳注、ちくま学芸文庫、2004年
- 『空海コレクション2 即身成仏義、声字実相義ほか』宮坂宥勝監修、頼富本宏ほか訳注、ちくま学芸文庫、2004年
- 『空海コレクション3・4 秘密曼荼羅十住心論 上・下』 福田亮成校訂・訳注、ちくま学芸文庫、2013年10・11月
関連作品
伝記
- 松長有慶『大宇宙に生きる 空海』中公文庫、2009年
- 松長有慶『空海・心の眼をひらく 弘法大師の生涯と密教』大法輪閣、2002年
- 加藤精一『空海入門』角川ソフィア文庫、2012年
- 渡辺照宏・宮坂宥勝『沙門空海』ちくま学芸文庫、1993年
- 宮坂宥勝・梅原猛『仏教の思想9 生命の海〈空海〉』角川文庫ソフィア、1996年
- 宮坂宥勝『空海 生涯と思想』ちくま学芸文庫、2003年
小説
- 空海の風景(司馬遼太郎、中央公論社、1976年)。のち中公文庫
- 曼陀羅の人 - 空海求法伝(陳舜臣、TBSブリタリカ、1984年)。新版 集英社文庫・たちばな出版ほか
- 密教誕生(桐山靖雄、平河出版社、1984年)
- 沙門空海 唐の国にて鬼と宴す(夢枕獏、徳間書店、2004年)
- 空海(三田誠広、作品社、2005年)
- 新・日本の七不思議(鯨統一郎、東京創元社、2011年)
- 空の如く 海の如く(新田純子、毎日ワンズ、2014年)
映画
- 空海(1984年・東映)、主演:北大路欣也 監督:佐藤純彌 脚本:早坂暁 音楽:ツトム・ヤマシタ
- 曼荼羅/若き日の弘法大師・空海(1991年・東宝東和) 主演永島敏行 監督:テン・ウェンジャ 音楽:喜多嶋修
ドキュメンタリー
- NHKスペシャル 空海の風景(2002年・NHKエンタープライズ) 前編「大唐渡海の夢」、後編「弘法大師への道」 原作:司馬遼太郎
- 空海への道(1997年・NHKエンタープライズ) 第1巻「同行二人 四国遍路 今に生きる空海」 第2巻「甦る空海の生涯」 第3巻「空海 ふたつの素顔 出演:一龍斎貞山、河野多紀、内海清美、早坂暁、植木等、井沢元彦、古井由吉
脚注
関連項目
外部リンク
- エンサイクロメディア空海(密教21フォーラム)
- 全真言宗青年連盟
- 近代デジタルライブラリー - 弘法大師全集など、主なものがここに公開されている。
- ↑ 金剛峯寺公式サイト
- ↑ 『続日本後紀』承和3年(836年)2月紀による。
- ↑ 母の名は「玉依御前」「阿古屋御前」などと称されるが、正確なところは不明である。
- ↑ 空海の誕生日を「6月15日」とするのは、頼瑜(1304年没)の『真俗雑記』が初見である。
- ↑ 007平城京の寄宿先「佐伯院」 エンサイクロメディア空海
- ↑ 『聾瞽指帰』は、序文と巻末の十韻詩が『三教指帰』とは異なるが、本文は同一である。なお、『聾瞽指帰』については、近年空海筆に対する賛否があり確定していない。米田弘仁「三教指帰」(『日本仏教の文献ガイド』所収)などに詳しい。
- ↑ 平山徳一『五島史と民俗』(私家版 1989年)
- ↑ 真済に仮託して10世紀ごろ書かれたとするのが通説。
- ↑ 『真言礦石集』第三
- ↑ 「本朝伝法灌頂師資相承血脈」(『大日本古文書』家わけ19、醍醐寺文書之一、279号)所載。
- ↑ 森正人、『四国遍路の近現代-「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』(創元社、2005年)を参照
- ↑ 映画の制作に当たり、十八派に分断されていた真言宗が、祖師のもと一致団結すべしという機運が盛り上がり、宗派を縦断した映画制作委員会が結成される。
- ↑ 13.0 13.1 木村卜堂 『日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)P.18 - 21
- ↑ 鈴木翠軒・伊東参州 『新説和漢書道史』(日本習字普及協会、1996年11月、ISBN 978-4-8195-0145-3)P.212
- ↑ 『経国集』の全20巻中、伝存するのは梵門(仏教詩部門)を収めた巻十を含む6巻しかなく、全容が不明であることを考慮しても、空海の詩は仏教詩だけでなく、雑詠の巻十一、巻十三にもある。
- ↑ 日本文理大学・河野研究室 名水の部屋弘法水の水文科学的研究
- ↑ ほか多数
- ↑ 史実としては、南側の複数の門を担当している。東側の諸門は嵯峨帝自身が、北側を橘逸勢が、西側を(三筆に数えられていない)小野美材が担当。