草書体

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草書体(そうしょたい)は、漢字書体の一つ[1]

特徴

速く書くことができるように、同じく漢字の筆書体である行書とは異なり、字画の省略が大きく行われる。文字ごとに決まった独特の省略をするため、文字ごとの形を覚えなければ書くことも読むこともできないことが多い。実際は隷書の時代からあったが、一般に使われたのはそれから数百年の月日が過ぎてからである。また、書家による違いが大きい場合もあり、例えば「書」という字は楷書体では1通りの書き方であるのに対し、草書体は幾通りかの書き方がある。

歴史

の時代に篆書・隷書から発生したと考えられており、漢代以前にも草書風の書体が見出される。『説文解字』には「漢興って草書有り」と記されている。一説には前漢史游後漢張伯英が発明したとも言われる(中国の書論#書体の創始者を参照)。3世紀に一般化した。

変遷

初期の草書体は「章草」と呼ばれ、現在のように文字を続けて崩していく形式ではなく、1字1字を崩していく形式だった。やがて、これが文章全体を連綿と崩して書く、現在の草書体(今草)へと発展した。

草書の「草」は草稿などの「草」である。また「草」には「下書き」という意味もある(例:起草)。「ぞんざい」という意味もある。

草書体をさらに崩した書体を狂草と呼び、張旭懐素などの能書家が有名である。

のちに草書を整えた行書が生まれるが、両者に明確な区分はなく、省略が著しいものを草書、省略が少ないものを行書と呼びならわす。

用途

王羲之の書を見ると、草書作品の「十七帖」は知人への書簡集であり、行書作品の「快雪時晴帖」や「喪乱帖」は冒頭に「羲之頓首」の定型句を持つ改まった文書である。この例から判断できるように、草書は『砕けた通常の筆記体』であり、行書は『より厳粛な場に供する書体』と言える。

したがって、草書作品は石碑にはふさわしくなく、を媒体として広く常用された。芸術作品としての価値は、唐朝初期を底辺として、王羲之・献之親子やその子孫といわれる智永にかけての六朝隋朝期、狂草で新たな世界を開いた張旭懐素以降の唐朝後期から条幅が生まれた明朝にかけて高く評価されている。晋朝では「幼児も草書を書ける」と言われたほど流布した書体だけに、普遍的な書体として長く用いられたことになる。

明治以後の日本においては、楷書を『正式な書体』に位置づけ、行書を『日常的に用いる筆記体』と見なして教育を進めたため、草書は『非日常的な芸術向けの書体』として愛好されている。

また、中華人民共和国において識字率向上の手段として、従来の繁体字を省略した「簡体字」を考案したが、その字や部首の多くは草書を範としている。

草書、或は行書の日本化したものを「和様」と呼ぶことがある。御家流はこの流れである。

アルファベットのいわゆる「筆記体」を草書体と呼ぶことがある。

ファイル:Calligraphy of Cursive and Semi-cursive styleby Dong Qichang.jpg
草書の例 董其昌(中国・)筆 行草書羅漢賛等書巻(部分、東京国立博物館蔵) (釈文)癸卯参月 在蘇之雲隠山房 雨窓無事

脚注

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出典・参考文献

関連項目

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  1. 伊藤峻嶺 p.439