東京日日新聞
- 東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は日本の日刊新聞である『毎日新聞』(まいにちしんぶん)の東日本地区の旧題号で、現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身にあたる。略称は「東日」(とうにち)。
- 東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は毎日新聞社の傍系企業であった東京日日新聞社が昭和20年代に東京都で発行していた夕刊紙。略称は同じく「東日」(とうにち)。
目次
概要
現・毎日新聞
東京日日新聞は1872年(明治5年)2月21日、条野伝平、西田伝助、落合幾次郎が創刊した東京最初の日刊紙。当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、2年後銀座に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。1873年(明治6年)、岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着するも、1874年(明治7年)入社と共に主筆に就任した福地源一郎が社説欄を創設してから、紙面を一新。政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。桜痴(福地源一郎)の社説、 吟香の雑報、それに成島柳北の雑録が、 この新聞の三大名物と謳われた。この時に校正主任として招かれたのは、語学者で福地とともに遣欧使節団に加わった経験のある市川清流である。
しかし、1880年(明治13年)頃から政府批判の高まりとともに「御用新聞」との批判も強まった。1888年(明治21年)、社長交代を契機に論調を中立路線に転換し大幅に部数を伸ばすが、1891年(明治24年)に長州藩閥の機関紙と化し、再び政府寄りとなる。その後伊藤博文や井上馨、三井財閥の支援を受け、1904年(明治37年)には三菱財閥により買収。加藤高明が社長に就任するが経営不振は打開されず、1911年(明治44年)に『大阪毎日新聞』(おおさかまいにちしんぶん)の社長・本山彦一が『東京日日新聞』を買収して東京へ進出した。
『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年(明治22年)から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『朝日新聞』と並ぶ関西の有力紙となっていた。
第一次世界大戦の勃発を他紙に先駆けて報道。ロシア革命の報道やレーニンの会見でも注目を集める。シベリア出兵には慎重論をとり、国内問題では米騒動などの社会問題も取り上げ、普通選挙運動にも賛成の立場をとったが、同様の論調をとる東西『朝日新聞』と覇権争いを全国的に繰り広げた。こうした動きは結果的に両社の発展につながったと言える。
業績を回復した『東京日日新聞』は、大正期には東京五大新聞(東京日日新聞・報知新聞・時事新報・國民新聞・東京朝日新聞)の一角に数えられ、1923年(大正13年)9月1日に発生した関東大震災も大毎のバックでこれを乗り切った。震災報道では朝日陣営の後手に回ったが、報道そのものは東京日日の方が評価が高かったとされる。1926年 (大正15年)12月25日には光文事件の失態を犯す。この後、東都新聞界は大阪資本の朝日・東日の二強体制となり、1929年(昭和4年)には『國民新聞』主筆の徳富蘇峰が移籍。1936年(昭和11年)には『時事新報』を合同した。1939年(昭和14年)、東京・有楽町に完成した新社屋には当時東京でも珍しいプラネタリウム「東日天文館」が設置され、壁面には電光ニュースがまたたいた[1]。
太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった1941年12月8日の朝刊では、「東亜攪乱・英米の敵性極まる」「断固駆逐の一途のみ」の見出しで、主要紙では唯一開戦をスクープした[2]。戦争中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行った[3]。
1943年(昭和18年)1月1日、東京日日新聞と大阪毎日新聞は新聞統制により題字を『毎日新聞』(まいにちしんぶん)に統一。編集機能を東京に集約して、名実共に全国紙となった。明治初期から長年続いた伝統ある「東京日日新聞」の題字は一旦消滅した。(以降、毎日新聞参照。)
夕刊東京日日新聞
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)12月4日に、毎日新聞社の系列会社である東京日日新聞社による新興夕刊紙として「東京日日新聞」が“復刊”した(題字は復活したが、号数は1号から数えていた)。
復刊(新創刊)の背景として、終戦直後の用紙統制が既存紙よりも新興紙に多く割り当てられる事が挙げられる。このとき勃興した新興紙として1945年12月に民報社より「民報」が創刊され、1947年8月「東京民報」に改題した後、民報社は鈴木郁三に買収され、更にその鈴木が毎日新聞社と手を組んだことで「東京民報」は1948年11月30日をもって終刊。民報社が東京日日新聞社と改称して「東京日日新聞」を新創刊した。
既存紙もダミー子会社を設立して用紙を確保しようと腐心していた時期であり、毎日新聞社もまた新興紙の買収といった形で東京日日新聞を復刊(新創刊)したのであるが、翌1949年(昭和24年)11月27日に毎日新聞東京本社による夕刊紙「夕刊毎日新聞」の発行(1951年(昭和26年)10月1日毎日本紙の夕刊に切り替え)で競合したため、内容を娯楽物中心に変更。高田保の時事エッセイ「ブラリびょうたん」の企画が好評を博した。1954年(昭和29年)9月1日より朝刊紙に転換したが退勢を挽回できず、1955年(昭和30年)8月31日をもって休刊となった。
東京日日新聞社は編集局を有楽町の毎日新館に置き、印刷も毎日新聞東京本社に委託したが、既存の会社を買収した経緯から会社組織そのものは全くの別会社を装っており、資本構成に毎日新聞社の名はなかった。その後、毎日新聞社、サン写真新聞社、スポーツニッポン新聞社とともに連名でイベントを開催するようになったが、逆に印刷は東京日日新聞印刷工場を港区芝に設立して独立した。
この新生東日の紙面構成は一日概ね4頁で、1面は総合面(政治経済)であり、毎日新聞夕刊に引き継がれる「近事片々」も戦前に引き付き掲載されていた。2面はスポーツと家庭面であり、毎日新聞主催の都市対抗野球や選抜高校野球、プロ野球毎日オリオンズの記事が多く掲載された。3面は社会面であり、正真正銘の「三面記事」が載った。4面は芸能面で映画演劇が主だが、放送番組を扱う場合は主としてラジオ東京(JOKR)の記事が多く載っていた。
沿革
現・毎日新聞
- 1872年3月29日(明治5年2月21日) 『東京日日新聞』、東京浅草の日報社から創刊。
- 1875年 『東京日日新聞』、新聞の個別配達実施。
- 1876年 日報社、『中外物価新報』の印刷発行を三井物産から請け負う。
- 1911年 大阪毎日新聞社は日報社を合併(『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の題号はそれぞれ変更せず)。大毎発行の『毎日電報』を『東京日日新聞』に吸収させる(東京日日は地紋の桜模様や「余録」欄等を継承)。
- 1926年12月25日 大正の次の元号を「光文」と誤報(光文事件)。
- 1936年12月25日 「時事新報」を合同[4]。
- 1943年1月1日 東西で異なっていた題号を『毎日新聞』とする。編集機能を東京に集約統合して、正式に全国紙となった。
夕刊東京日日新聞
紙齢
現在の東日本の毎日新聞(東京本社・北海道支社発行)の紙齢(創刊からの号数を示すバックナンバー)は、東京日日新聞時代からの物を加算している。1987年(昭和62年)8月30日付で、日本の日刊紙では初めて紙齢40,000号を達成した。
題字
- 1872年(明治5年)2月21日の創刊号から同年3月1日までは右横書き篆書の袋文字で飛雲模様が入り、「東亰日日新聞」(「日日」は籀文で、くにがまえに烏とくにがまえに正、「新」も異体字で偏が「立+未」)
篆書は当時の書の名人であった謙堂が揮毫したもので、その文字の飛雲模様を落合幾次郎が付けた。 - 1872年3月2日より同年6月29日までは明朝体の右横書きで「東京日日新聞」
- 1872年7月2日より1873年(明治6年)2月28日までは縦書き楷書で「東京日=新聞」(「=」は繰り返し文字)
- 1873年3月2日より翌3日までの2日間は楷書で右横書き「官許」以下縦書きで「東京日=新聞」
- 1873年3月7日より6月12日までは同じく右横書き「官許」以下縦書きで「東亰日=新聞」であるものの、書体が隷書になる。(「新」の偏は「立+未」)
- 1873年6月15日から1874年(明治7年)6月4日まで右横書き「官許」以下縦書きで「東京日々新聞」となり、書体が明朝体に変更。
- 1874年6月5日からは上部の「許官」が抜け、11月30日まで縦書き明朝体で「東京日々新聞」
- 1874年12月2日以降は右横書き筆文字で「東亰日日新聞」(「新」の偏は「立+未」)福地源一郎が揮毫した。
- 明治30年代後半に時期不詳ながら縦書きになり「東亰日日新聞」(聞のもんがまえは「门」)。同じく福地源一郎が揮毫したもの。
- 1911年(明治44年)3月1日にそれまで無地だった地紋に横線と桜花が入る。これは大阪毎日新聞の経営に移ったためで、同社が東京で発行していた『毎日電報』から承継したもの。(大正中頃まで「大阪毎日新聞社経営」「毎日電報合同」の明朝体活字が右肩に入る。その後の昭和初期頃に、時期不詳ながら題字と地紋が一部補正される。)テンプレート:Main
- 1936年(昭和11年)12月25日、題字の右肩に縦書きで「時事新報合同」の文字が入る。翌12月26日から題字の下に黒地に白抜きの右書きで『時事新報』の題字が小さく入り、その下に右書きゴシック体活字で「合同」と記されるようになる。テンプレート:Main
- 夕刊東京日日新聞の題字と地紋は、現・毎日新聞時代の物(1911年3月1日から1942年12月31日まで使用)と同一の物を使用していた。
社旗と社章
- 社旗は『東京日日新聞』の「東」の字を六芒星に象り、その中央に「京」の字を象った白抜きに「日日」の字を円形に配したマーク(社章)を中心に、赤の二本帯線を背後に引いた意匠であった。
発行所の変遷
- 1872年2月21日 東京府浅草茅町一丁目24番地(創業者の一人である条野伝平宅。現在の東京都台東区柳橋一丁目13)
- 1872年3月12日 東京府日本橋元大坂町新道(現在の東京都中央区日本橋人形町一丁目の北部)
- 1873年2月25日 東京府浅草瓦町16番地(創業者の一人である西田伝助宅。現在の東京都台東区柳橋一丁目32。三菱東京UFJ銀行浅草橋支店所在地。)
- 1874年5月11日 東京府銀座二丁目3番地(現在の中央区銀座二丁目6)
- 1876年12月31日 東京府尾張町一丁目1番地(現在の中央区銀座五丁目1。ニューメルサ所在地)
- 1909年3月31日 東京府東京市麹町区有楽町一丁目2番地(現在の新有楽町ビルヂング所在地)
- 1943年7月1日 東京都麹町区有楽町一丁目2番地(都制施行。上記と同一住所)
主な事業
- 本因坊戦
- 名人戦 (将棋)
- 都市対抗野球大会
- 東京オールドボーイズ庭球大会
- 東日天文館
- 日本音楽コンクール(時事新報より承継)
- 大相撲優勝額掲示(時事新報より承継)
- 東京日日マガジン(日曜附録。週刊誌のはしり。ただし発刊当時、既に別途『サンデー毎日』が発行されていた。)