第一次上海事変
第一次上海事変(だいいちじしゃんはいじへん)は、1932年(昭和7年)1月~3月に中国の上海共同租界周辺で起きた日華両軍の衝突である。
背景
当時の上海市にはイギリス、アメリカ合衆国、大日本帝国、イタリア王国などの国際共同租界とフランス租界からなる上海租界が置かれていた。日本は北四川路及び虹江方面に「約2万7千の在住民を有した」[1]。居留民の警護を目的とする各国軍が駐留していた。日本も海軍陸戦隊1000人を駐留させていた。このとき共同租界の防衛委員会は、義勇軍、市参事会会長、警視総監の他に、租界設置国各軍の司令官によって構成されていた。
事変の起きる前の日本と列強との関係について、日本側資料では「上海事件の起こる前に於ける日本と各国との関係は、すこぶる良好にして、即ち居留地外は上海市長呉鉄城の支配権内に在るも、居留地内は工部局が行政権を握り、其の執行機関たる参事会員は外人9名支那人5名を以て組織せるものなるが、各国人も予め支那側の横暴なることを熟知し日本に対し同情せり。」としている[1]。
1931年9月18日の柳条湖事件を契機として、満州を舞台として日華両軍は戦火を交えていた(満州事変)。
経過
租界における緊張の高まり
1932年、上海市郊外に、蔡廷鍇の率いる十九路軍の一部(第78師)が現れた。十九路軍は3個師団(第60師、第61師、第78師)からなり、兵力は3万人以上である。十九路軍は江西省での紅軍との戦闘で損耗し、再編成のために南京、鎮江、蘇州、常州、上海付近に駐留した。
日本は、防衛体制強化のため、上海に十数隻の艦隊を派遣した。また、「住民の生命や財産を守るため」として、虹口に隣接する中国領を必要に応じて占領する意図を明言していた。
共同租界の市参事会にとっては、日本軍の動きより市街の外に野営する十九路軍のほうが重要だった。十九路軍は5年前にあった上海クーデターにおける国民党軍を思い起こさせた。蔡廷鍇は、給与が支給されるまでは去らないと通告した[2]。しかし、蔡廷鍇の目的は未払いの給与の支払いだけではなく、繁栄を極めていた上海の街を手に入れようとしているというのが共同租界防衛委員会の全員の意見だった[2]。
1月9日に「民国日報」という新聞が、前日に発生した桜田門事件に関する不敬記事(不幸にして僅かに副車を炸く=>不幸にして随伴車の破損にとどまる)を掲載した。1月18日午後4時ころ、日本人の日蓮宗僧侶の天崎天山が襲われ、また水上秀雄と信者3人が三友實業社付近で襲撃され、水上は死亡し、2名が重傷を負った。中国の警察官の到着が遅れたため、犯人は逃亡した(この犯行は日本側に雇われた中国人によるものとする説がある。詳細は#田中隆吉の証言及び上海日本人僧侶襲撃事件を参照のこと)。これに対し、日本のみならず、工部局も「1月9日の民国日報の不敬記事及同月18日の日蓮宗僧侶等に対する抗日会の暴行事件に付いても、工部局は、民国日報の閉鎖、抗日会の解散を決議」[1]し、日本に同情的であったとされる。
日本人居留民がデモを行うとともに、1月20日に光村芳蔵ら青年同志会32人が拳銃や日本刀で武装し、三友實業社を襲撃・放火する。村井倉松総領事は呉鉄城上海市長に対し事件についての陳謝と加害者処罰及び抗日団体の解散などを要求した。これに対し、上海市長側は回答を延期した上で最終的に日本の要求を受け入れた。ところが、「支那の回答遷延中民情は日に日に悪化し、呉市長が日本の要求を容れたることを聞くや之を憤慨したる多数の学生等は大挙して市役所を襲ひて暴行し、公安隊の巡警は逃亡するの有様にて、支那の避難民は続々として我居留地に入り来り、物情騒然たる」[1]という状況であったとされる。
そのため1月26日には中国当局の戒厳令布告、中国人地区全域に土嚢と有刺鉄線のバリケードの構築、外国人住民に租界内への避難勧告がされた。
翌1月27日、日本を含む列国は協議を行い、共同租界内を列国で分担して警備することを決めた。1月28日、上海市参事会の非常事態宣言(戒厳令)がされ、列国の軍隊は1月28日「午後5時」[1]より各自の担当警備区域に着いた。日本軍は、最も利害関係のある北四川路及び虹江方面の警備に当ることとなった。当時の日本の兵力は「我陸戦隊は当時1000人に過ぎざりしを以て、9時半頃更に軍艦より1700名を上陸せしめ、合計2700名」[1]という状況であった。
最初の軍事衝突
日本側資料によると1月28日午後に最初の軍事衝突が発生し、翌日にかけての夜間に戦闘が続いた。その詳細は、「北四川路両側の我警備区域の部署に著かむとする際、突然側面より支那兵の射撃を受け、忽ち90余名の死傷者を出すに到れり。依て直に土嚢鉄条網を以て之に対する防御工事を施せり。元来此等の陸戦隊を配備したるは、学生、労働者等、暴民の闖入を防止するが目的にして、警察官援助に過ぎざりき。然るに、翌朝に至り前夜我兵を攻撃したるは、支那の正規兵にして広東の19路軍なること判明せり。」[1]という。
日本側資料によると、日本側からの先制攻撃ではなかったことが強調されている。すなわち「我司令官は陸戦隊の担任区域が支那軍と接するので不慮の衝突を避ける為、陸戦隊を配備に付けるに先ち、閘北方面に集結した支那軍隊の敵対施設を速に撤退することを要望する旨の声明を前以て発表し、且つ之を上海市長等に通告する等慎重周到なる手段を尽くしたのである。更に又陸戦隊の配備に就くに当っては、予め指揮官から「敵が攻撃に出ざる限り我より進んで攻撃行動を執るべからざる」命令をも与えて居るのである。」[3]としている。
また、日本側は「十九路軍は南京政府の統制に服するものではない。今回の上海事変は反政府の広東派及び共産党等が第十九路軍を使嗾して惹起せしめたるものと云ふべきである。斯の如く支那特有の内争に基き現政府に服して居らぬ無節制な特種の軍隊が軍紀厳粛なる帝国陸戦隊に対し、国際都市たる上海に於て挑戦し租界の安寧を脅かして居ることは、実に世界の公敵と云ふべきであって、我は決して支那国を敵として戦って居るものではなく、此第十九路軍のやうな公敵に対して自衛手段を採って居るに過ぎない。」[3]として正当であると訴えている。
戦闘の拡大
軍事衝突発生を受けて、日本海軍は第3艦隊 (司令長官:野村吉三郎中将) の巡洋艦4隻(那智など)、駆逐艦4隻、航空母艦2隻(加賀・鳳翔)及び陸戦隊約7000人を上海に派遣することとして、これが1月31日に到着する。更に、日本政府(犬養毅内閣)は2月2日に金沢第9師団(師団長植田謙吉陸軍中将)及び混成第24旅団(久留米第12師団の歩兵第24旅団を基幹とする部隊)の派遣を決定した。これに対して、国民党軍は第87師、第88師、税警団、教導団を第5軍(指揮官張治中)として、2月16日に上海の作戦に加わる。
2月18日に日本側の第9師団長は、更なる軍事衝突を避けるために、列国租界から中国側へ19路軍が20キロメートル撤退すべきことを要求した。しかしこれを19路軍を率いる蔡廷鍇が要求を拒否したため、2月20日に日本軍は総攻撃を開始した。日華両軍の戦闘は激烈を極めた。日本軍は大隊長空閑昇陸軍少佐(陸士22期)が重傷を負い中国軍の捕虜となり南京へ連行された(3月に少佐は日本軍に送還されたが3月28日に戦場跡へ戻り自決)。また、混成第24旅団の工兵ら(肉弾三勇士)の戦死などがあった。
2月24日に日本陸軍は善通寺第11師団及び宇都宮第14師団等を以て上海派遣軍(司令官:白川義則大将、参謀長:田代皖一郎少将)を編成し上海へ派遣した。3月1日に第11師団が国民党軍の背後に上陸し(七了口上陸作戦)、蔡廷鍇が率いる19路軍は退却を開始した。日本軍は3月3日に戦闘の中止を宣言した。
一連の戦闘を通じて、日本側の戦死者は769名、負傷2322名。中国軍の損害は1万4326人であった。36日間の戦闘によって上海全市で約15億6千元の損害を被った。中国側住民の死者は6080人、負傷2000人、行方不明1万400人と発表された。
この戦闘では、空母が初めて実戦に参加した(第一次大戦時、青島戦に参加した水上機母艦「若宮」を「空母」と見なさないなら)。
停戦協定
日中両国、および英米仏伊4カ国による停戦交渉が3月24日から上海で開始された。上海戦に対する英米など列強の反応は、満州事変に比べてはるかに強硬であった。これは上海をはじめとする華中における列国の利権が脅かされたためである。そして5月5日には、日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限区域(浦東・蘇州河南岸)を定めた停戦協定が成立した(上海停戦協定)。
なお、停戦交渉中の4月29日に上海日本人街の虹口公園で行われた天長節祝賀式典に際して、朝鮮人の尹奉吉が爆弾を爆発させて白川義則大将、河端貞次上海日本人居留民団行政委員長が死亡し、野村吉三郎中将、植田謙吉中将、村井倉松総領事、重光葵公使らが重傷を負った(上海天長節爆弾事件)。
停戦協定によって租界を含む外国人居住地域の北・西・南へ15マイルを非武装地帯とし、この地帯は中国人警察官からなる中国保安隊(平和維持部隊)によって治安維持が行われることとなった。平和維持部隊の武装は最小限のピストルなどに留められた。この協定にはイギリス、アメリカ合衆国、フランス、イタリアの各代表が立会人として署名し、協定の執行と運営を監督する為に日英米仏伊の領事と上海市長からなる国際委員会が設置された。しかし、国際委員会には平和維持部隊を監督する権限がなく、平和維持部隊がどの程度武装しているかは把握できなかった。
1935年には上海共同租界内で中山水兵射殺事件が起きた。当時の日本の新聞は「日本を利用して蒋介石政権の転覆を図ろうとする勢力によって起こされた」としている[4]。1936年にも日本水兵射殺事件が引き起こされた。
1937年には大山勇夫海軍中尉(当時)殺害事件が起き、それに続く中国政府軍による上海攻撃で日中両軍は全面戦争に突入する第二次上海事変が勃発することとなる。
田中隆吉の証言
上海日本人僧侶襲撃事件について、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐は、自らが計画した謀略であったと証言している。田中少佐によると、柳条湖事件の首謀者板垣征四郎大佐と関東軍高級参謀花谷正少佐らの依頼によって、世界の目を他にそらすために計画し、実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」川島芳子であったという。
田中の証言によると、彼の愛人であった川島芳子が中国人の殺し屋を雇い、1932年1月18日の夜、上海の馬玉山路を団扇太鼓をならしながら勤行していた日蓮宗僧侶を襲わせた(上海日本人僧侶襲撃事件)。この事件が、中国人に反感を抱いていた上海の日本人居留民の怒りを爆発させ、青年団が中国人街を襲い、各所で暴力事件が続発したため、上海の工部局は戒厳令を敷いた。治安悪化で日本人が不安に駆られる中、田中隆吉の工作による発砲事件により、日華両軍の軍事衝突が起きたとする。
上海事変は満州事変から列強の目を逸らすという目的を達したものといえる。国際都市上海を戦場に変え、世界世論の注目を浴びた戦闘は続き、その間に黒竜江省省長である張景恵らによる東北行政委員会が、満州民族出身の元清朝皇帝愛新覚羅溥儀を執政として3月1日に満州国の建国を宣言した。日華両国の停戦協定が成立したのは5月5日のことであった。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 昭和7年2月10日の枢密院「上海事件ニ関スル報告会議筆記」大角海軍大臣発言。原文は句読点及び濁点等なしの片仮名書きであるが、句読点及び濁点等を付し平仮名に改める。また算用数字に改める。
- ↑ 2.0 2.1 ハリエット・サージェント『上海―魔都100年の興亡』浅沼昭子訳、新潮社、1996年10月
- ↑ 3.0 3.1 日本海軍省「上海事変と帝国海軍の行動」昭和7年2月22日。促音を小文字に改める。
- ↑ テンプレート:Cite web
第一次上海事変を描いた作品
- 映画
- 『戦争と人間 第一部 運命の序曲』(日本、山本薩夫監督、1970年)
- 『パープル・バタフライ』(中国・フランス、ロウ・イエ監督、2003年)