張景恵
テンプレート:参照方法 テンプレート:政治家 張 景恵(ちょう けいけい、1871年(清同治10年) - 1959年11月1日)は中国の政治家・軍人。字は敘五。満州国国務総理大臣で、中華民国軍事参議院院長や実業総長などを歴任した。通称「豆腐総理」(実家が豆腐屋だったことによる)。
プロフィール
生い立ち
1871年、遼寧省台安(現在の遼寧省鞍山市台安県)に生まれる。青年期に日清戦争が始まると台安近辺も戦場となったため、台安県八角台に武装自衛団を組織した。この後、この武装自衛団は馬賊として職業化していき、張作霖に帰順して義兄弟となる。
軍歴
1905年に張作霖が清朝の東三省総督趙爾巽に帰順すると張景恵もこれに従い、奉天で治安維持のための軍務を歴任する。1910年には奉天講武堂で軍人としての専門教育を改めて受けている。
テンプレート:中華圏の人物 1911年に辛亥革命が勃発すると、清朝の武官であった張景恵は革命勢力を弾圧した。しかし結局清朝は崩壊し翌1912年に中華民国が成立することになるが、趙爾巽が清朝から横滑りで奉天都督に就任したために配下である張景恵も中華民国陸軍第27師団長に任命され、革命勢力から追われる事なく継続し奉天で軍務に当たることとなった。もっとも、張景恵を招聘した趙爾巽はすぐに下野してしまったため、しばらくは昇進もない状態が続いた。1916年に当初の中華民国で軍権を掌握していた袁世凱が死亡し、袁世凱が率いていた北洋軍閥が分裂状態に陥ったため張作霖と同様に勢力を強めることとなる。
張作霖爆殺事件
迷走する北京政府を尻目に張作霖は着実に『奉天派』を組織してゆき、その中で張景恵は瞬く間に出世を果たし、1918年には奉天軍副総司令に就任している。この後も奉天派の重鎮として張作霖と行動を共にし、1926年に北京政府の中華民国陸軍総長に就任した。
だが1928年に国民党の蒋介石の北伐によって張作霖が失脚すると、張景恵も同時に失脚する。巻き返しを図るために奉天に戻ろうとした張作霖の乗った列車は爆破され(張作霖爆殺事件)、随伴していた張景恵も重傷を負う。
張作霖の後を継いだ張学良は、その基本方針が「国内他勢力と合同してでも諸外国に対抗できる国力を持つ」事だったため、1929年1月に蒋介石の南京国民政府に帰順した。張景恵もこれに従って南京国民政府で軍事参議院院長を務める。
満州国へ
1931年9月に満州事変が勃発すると南京政府と袂を分かち、満州に帰ってしまう。満州に帰った張景恵は奉天派時代からの関東軍とのコネを活かし、黒竜江省省長に就任、次いで1932年2月には東北行政委員会委員長に選ばれ日本軍政に協力した。1932年3月9日に満州国が正式に成立すると、翌10日に参議府議長に任命され[1]、14日には東省特別区長官も兼任した[2]。さらに同年8月3日、満州国国務院軍政部総長を兼務している[3]。
満州国総理大臣就任
1935年(康徳2年)5月21日、前任者の鄭孝胥が日本に反対意見を述べて更迭されたことにより、関東軍の強い推薦によって満州国の国務総理大臣に就任した[4]。
表向きは皇帝の愛新覚羅溥儀に次ぐ満州国の№2となったが、同国は関東軍に実質支配されていたため、政治的実権はほとんどないに等しいものであった。第二次世界大戦中の1943年11月には東京で開かれた大東亜会議には満州帝国代表として出席した。
死去
1945年8月17日に満州帝国が崩壊すると、張景恵ら満州人閣僚は「治安維持会」を結成し、蒋介石率いる中華民国への合流を目指したが、直後に侵攻してきたソ連の捕虜となり、シベリアに連行された。
その後、1949年に成立した中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監。1959年に獄中で病死した。撫順戦犯管理所で同室になった溥儀によると、張は「もうろくしてしまっていて、普段から働きもせず、ほとんど話さなかった。」とのことである。
家族
第6子の張紹紀は日本語、ロシア語に精通しており、戦後、張夢実と改名した。彼は満州国時代から中国共産党の地下組織と接触しており、後に北京国際関係学院の日本語学部主任となる。2004年に選挙により中華人民共和国の第7期全国政協委員となる。
人物
実際は日本に対抗心を持ち、その横暴を憂慮していたと言われるが、溥儀の自伝「わが半生」では、満州国時代に日本に媚びて出世した卑屈な人物として描かれ、映画「ラストエンペラー」でもアヘン密売で軍費捻出を図る日本に、麻薬取引に暗躍した実績を買われて総理になったというエピソードが登場するため、悪いイメージを持たれがちである。しかし、ソ連軍の満州侵略に際し首都を移すことに反対するなど芯は強かった。 また、皇弟溥傑の妻嵯峨浩の自伝によると、関東軍に冷遇されがちだった溥傑夫妻に何かと便宜を図るなど、人情味あふれる人物だったとする証言もある。
普段は執務室で座禅を組み、閣議でもほとんど発言せず、部下の報告には必ず「好(よろしい)」と答えたことから、「好好先生」という渾名が付けられていた。また、演説原稿に読めない字があると中断して部下に聞きに行くなど、文人であった前任者の鄭孝胥ほどに文化的素養がなく、こうした点が日本人から「扱いやすい」と見られ、長期にわたり国務総理大臣の地位にいることができたとする見方もある。馬賊出身ということもあって軽く見られがちだった張だが、日本訪問時の晩餐会では完璧なテーブルマナーを見せ、日本側を驚かせたこともあるなど、決して一部の対立関係にある人物が唱えるような卑しい人物ではなかったといわれている。
その一方で、部下が日本の専横を訴えると「給料さえ払っておけば何でもやるのだからいいではないか」と諭し、日本の敗戦を知ったとき「戦というものは八分くらいの勝ちで止め、交渉に持ち込むものだが、日本は止めずに最後まで戦おうとした。惜しい軍隊をなくした」と言ったという。その一方大東亜会議の場では、この会議を舐めきった様子だったと、後日当時大東亜会館支配人の三神良三は語っている。
注
参考図書
- 浅田次郎『中原の虹』(1〜4巻, 講談社, 2006年〜2007年) ISBN 978-4-06-213606-8 & ISBN 978-4-06-213739-3 & ISBN 978-4-06-214071-3 & ISBN 978-4-06-214393-6
- 澁谷由里『馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道』(講談社, 2008年) ISBN 978-4-06-2584043
- テンプレート:Cite book
関連項目
テンプレート:CHN1912(北京政府)
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テンプレート:CHN1928(国民政府)
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