愛新覚羅溥儀
テンプレート:基礎情報 中国君主 テンプレート:基礎情報 君主 テンプレート:Commons&cat 愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、繁体字: 愛新覺羅 溥儀、簡体字: 爱新觉罗 溥仪、テンプレート:ピン音、カタカナ転写: アイシンヂュエルオ プーイー、愛新覚羅の満洲語発音はアイシンギョロ、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、清朝第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満洲国皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1964年より中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員。
目次
- 1 概説
- 2 生涯略年表
- 3 生涯
- 3.1 生誕
- 3.2 第12代清朝皇帝
- 3.3 清朝崩壊と退位
- 3.4 袁世凱の皇帝即位
- 3.5 張勲復辟事件
- 3.6 ジョンストンとの出会い
- 3.7 「ヘンリー溥儀」
- 3.8 結婚
- 3.9 改革
- 3.10 慈善活動
- 3.11 紫禁城追放と日本への接近
- 3.12 ジョンストンとの別れと再会
- 3.13 国共内戦と東陵事件
- 3.14 文繍との離婚
- 3.15 満洲事変
- 3.16 満洲国建国と清朝復辟の画策
- 3.17 満洲国執政就任
- 3.18 皇帝即位
- 3.19 「傀儡」
- 3.20 日本皇室との関係
- 3.21 溥傑と嵯峨浩の結婚
- 3.22 日中戦争(支那事変)と第二次世界大戦
- 3.23 満洲国崩壊と退位
- 3.24 ソ連への抑留
- 3.25 婉容の死
- 3.26 東京裁判
- 3.27 収監
- 3.28 一市民へ
- 3.29 政治協商会議全国委員
- 3.30 死去
- 3.31 死後
- 4 家族
- 5 自伝
- 6 題材にした諸作品
- 7 脚注
- 8 参考図書
- 9 関連項目
概説
中華圏最後の皇帝(ラストエンペラー)として知られる。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝と称された。清朝滅亡後に日本政府の支持のもと満洲国の執政に就任、満洲国の帝政移行後は皇帝に即位し、康徳帝と称した。満洲国の崩壊とともに退位し、赤軍の捕虜となった。その後中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所からの釈放後は一市民として北京植物園に勤務、晩年には中国人民政治協商会議全国委員に選出された。
字を「浩然」あるいは「耀之」という。廟号は憲宗(1967年に与えられたが、公式ではない)、恭宗(2004年に与えられたが、公式ではない)。また、辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。末代皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。
生涯略年表
- 1906年:醇親王載灃の子として北京に生まれる
- 1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位
- 1912年:辛亥革命により退位
- 1917年:張勲復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位
- 1919年:イギリス人のレジナルド・ジョンストンを帝師として招聘
- 1922年:正妻の婉容、側室の文繍と結婚
- 1924年:クーデターにより紫禁城から退去。ジョンストンが帝師を退任
- 1925年:イギリスやオランダ公使館へ庇護を要請するものの拒否され、天津日本租界内張園に移転
- 1931年:文繍と離婚。満洲事変勃発後、大日本帝国陸軍からの満洲国元首への就任要請を受諾し、日本軍の手引きで天津を脱出、満洲へ移る
- 1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任
- 1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位
- 1935年:初の外国訪問として日本を公式訪問
- 1937年:譚玉齢を側室とする
- 1940年:日本を再び公式訪問、最後の外国訪問となる
- 1942年:側室の譚玉齢が死去
- 1943年:李玉琴を側室とする
- 1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後日本への亡命途中に、侵略してきたソ連軍の捕虜になる
- 1946年:極東国際軍事裁判にソ連の証人として出廷させられる、正妻の婉容死去
- 1950年:中華人民共和国に身柄を移され撫順戦犯管理所に収容される
- 1959年:模範囚として釈放され、その後北京植物園を経て政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員会に勤務
- 1962年:李淑賢と再婚
- 1964年:中国共産党政治協商会議全国委員に選出される
- 1967年:10月17日北京で死去
生涯
生誕
1906年に、清朝の第11代皇帝光緒帝の皇弟である醇親王載灃と、光緒帝の従兄弟で、西太后の腹心栄禄の娘である瓜爾佳氏・幼蘭の子として、清国(大清帝国)の首都である北京に生まれる。なお、祖父は愛新覚羅奕譞、曽祖父は道光帝となる。
第12代清朝皇帝
1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時依然として強い権力を持っていた西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となった。即位式は紫禁城太和殿で行われ、新しい皇帝の即位は世界各国で大きく報じられた。その後宣統帝は多くの宦官や女官らとともに紫禁城で暮らすこととなる。
西太后は宣統帝を後継者とするとともに、宣統帝の父・醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御した。
なお、光緒帝の崩御に関して、当初から毒殺されたのではないかという説があり、2007年に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出されたため、毒殺の可能性がより濃厚になった。誰が光緒帝を暗殺したかについては、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、「西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために暗殺した」とする説がある一方で、「戊戌変法で光緒帝を裏切っている袁世凱が、光緒帝が復権して自身に報復するのを恐れて暗殺した」という説もあり、溥儀は自伝『わが半生』で「袁世凱による殺害」という見方を示している。しかし、いずれも証拠がなく、誰が光緒帝を暗殺したかは不明である。
清朝崩壊と退位
その翌年の1909年初めに醇親王は、兄である光緒帝を裏切って戊戌変法を潰したとして憎んでいた北洋大臣兼直隷総督の袁世凱を失脚させ、さらに袁世凱を殺害しようとしたが、内部情報を得た袁世凱はかろうじて北京を逃れ河南省彰徳に蟄居することとなった。
その後袁世凱は、清国政府による民間資本鉄道の国有化とその反対運動をきっかけに1911年10月10日に辛亥革命が勃発すると、湖北省の武昌で起きた反乱(武昌起義)の鎮圧を名目に政界に復帰した。袁世凱は清国政府に第2代内閣総理大臣の地位を要求するとともに、醇親王の摂政王退位を要求した。
反乱鎮圧のために袁世凱の武力に頼らなければならない清朝政府は袁世凱の要求を受け入れたが、袁世凱はさらに、孫文らと宣統帝を退位させる代わりに自らが中華民国臨時大総統に就任するという裏取引をし、隆裕太后に溥儀の退位を迫り、隆裕太后は皇族を集めて連日御前会議を開いた。
その席上粛親王善耆、恭親王溥偉などは退位に激しく反対したが、清朝皇族が頼りとしていた日本の陸軍士官学校留学生で皇族出身の良弼が暗殺されるという事態におよび、隆裕太后はついに皇帝退位を決断し、1912年2月に宣統帝は退位することとなった。なお、粛親王は日本租借地の旅順へ、恭親王はドイツの租借地の青島に逃れてその後も清朝復辟運動を行った。
溥儀の皇帝退位にあたり、清朝政府と中華民国政府との間に「清帝退位優待条件」が締結された。優待条件は、
- 皇帝は退位後も『大清皇帝』の尊号を保持し、民国政府はこれを外国元首と同等に礼遇すること。
- 溥儀が引き続き紫禁城(と頤和園)で生活すること。
- 中華民国政府が清朝皇室に対して毎年400万両を支払い、清朝の陵墓を永久に保護すること。
などが取りきめられた。そのため溥儀は退位後も紫禁城で宦官らと皇帝としての生活を続けた。またこの頃、弟の溥傑と初対面を果たした。
袁世凱の皇帝即位
その後、袁世凱は溥儀に代わり自らが皇帝となるべく奔走し、1915年12月12日に帝政復活を宣言して皇帝に即位した。その後、1916年1月1日より年号を洪憲と定め、国号を「中華帝国」に改めた。だが、北洋軍閥や日本政府などの各方面からの反対により即位直後の同年3月に退位し、失意の中で同年6月に死去した。
張勲復辟事件
袁世凱が死去した翌年の1917年に、対ドイツ問題で黎元洪大総統と政敵の段祺瑞の確執が激化し、同年5月23日には黎元洪が段祺瑞を罷免に追い込んだものの、民国期になっても辮髪を止めないほどの保守派で、革命後も清朝に忠節を尽す張勲が、この政治的空白時に乗じて王政復古によって政権を奪還しようと、中華民国の立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、すでに退位していた溥儀を再び即位させて7月1日に帝政の復古を宣言。いわゆる「張勲復辟事件」に発展した。
張勲は幼少の溥儀を擁して自ら議政大臣と直隷総督兼北洋大臣となり、国会及び憲法を破棄し、共和制廃止と清朝の復辟を成し遂げるも、仲間割れから段祺瑞に敗れオランダ公使館に避難。最終的に溥儀の復辟は13日間で挫折した。その後中国大陸は馮玉祥や蒋介石、張作霖などの軍閥による勢力争いという、混沌とした状況を迎えることとなる。
ジョンストンとの出会い
その後、溥儀の後見役的立場になっていた醇親王載灃と、西太后の側近であった李鴻章の息子で、清国の欽差全権大臣を務め、駐イギリス特命全権大使でもあった李經方の勧めによって、近代的な西洋風の教育と併せて英語の教育を受けることを目的に、1919年5月にイギリス拓務省の官僚で、中国語に堪能であったスコットランド人のレジナルド・ジョンストンを帝師(家庭教師)として紫禁城内に招聘した。
溥儀は当初、見ず知らずの外国人であるジョンストンを受け入れることを拒否していたものの、ジョンストンとの初対面時にその語学力と博学ぶりに感心し、一転して受け入れることを決断した。なおジョンストンは紫禁城内には居住せず、城外の後門付近に居住し自動車で通勤した。
「ヘンリー溥儀」
その後ジョンストンより日々教育をうける中で、洋服や自転車、電話や英語雑誌などのヨーロッパの最新の輸入品を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で辮髪を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらしたヨーロッパ(イギリス)風の生活様式と風俗、思想の影響を受けることとなる。
なおこの頃溥儀はキリスト教徒(プロテスタント)のジョンストンより、「ヘンリー(Henry)」という英名を与えられ、その後もこの名前を好んで使用した。なお溥儀は英名を持ったものの、同様の多くの中国人と同じくキリスト教徒にはならなかった上、この名前は欧米人に対してのみ使用し、決して公式の場で使用したり、中国人に対しては使用しなかった。
結婚
その後の1922年11月には、満洲旗人でダフール族の郭布羅氏・婉容を皇后として、蒙古旗人の鄂爾徳特氏・文繍を淑妃として迎え、紫禁城において盛大な結婚式を挙げる。なお溥儀は「時代遅れの慣習である」として淑妃を迎えることに反対したものの、側近らの勧めで1人だけ迎えることに同意した。またこの際には中国の皇帝として初めて外国人を招待した「歓迎会」を催した。
なお、結婚後に婉容の家庭教師として北京生まれのアメリカ人イザベル・イングラムが就任し、婉容にはイングラムより「エリザベス(Elizabeth)」の英名が与えられた。またこの頃自分用の自動車を入手した他、イギリスやアメリカへの留学を画策するものの、実現することはなかった。
改革
この頃、溥儀は中華民国内の混沌とした政情の中にあったものの、正妻とジョンストンらの側近、宦官らとともに紫禁城の中で平穏な日々を過ごしていたが、清国の大阪総領事や総理衙門章京、湖南布政使等を歴任した後の1924年に総理内務府大臣(教育掛)となった鄭孝胥の薦めを受けて、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進めた。
同年6月には、美術品が多く置かれている紫禁城内の「建福院」の目録一覧を作成し、宦官による美術品の横領を一掃することを目論んだものの、目録作成直後の6月27日未明に一部の宦官らが「建福院」に放火し、横領の証拠隠滅を図った。これに激怒した溥儀は中華民国政府の力を借りて約1,200名いた宦官のほとんどを一斉解雇し、国民やマスコミから称賛をうけた。またその後も女官を追放するなど、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進め議論を呼んだ。
慈善活動
当時溥儀は、中華民国内における洪水や飢饉、さらには生活困窮者に対して常に同情を寄せ、これらの支援のために多くの義捐金を送ったものの、その全ては自らの命令で、さらに匿名で行った。
また1923年9月1日に日本で起きた関東大震災においては、即座に日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、併せて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金とするように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額と同じ金額を皇室から支出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。その後日本政府は代表団を溥儀のもとに送り、この恩に謝した。なおこの際に、「溥儀は何の政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちを持って行った」とジョンストンは自書の中で回想している[1]。
紫禁城追放と日本への接近
その後も中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘はますます活発化し、1924年10月にはの馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)が発生し、直隷派の曹錕が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配することとなった。さらに馮玉祥と孫岳は政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方的な清算を通達し、溥儀とその側近らを紫禁城から強制的に退去させた。
当初溥儀は醇親王の王宮である北府へ一時的に身を寄せ、その後ジョンストンが総理内務府大臣の鄭孝胥と陳宝琛の意向を受けて上海租界や天津租界内のイギリス公館やオランダ公館に庇護を申し出たものの、ジョンストンの母国であるイギリス公館からは内政干渉となることを恐れ受け入れを拒否された[2]。
しかし、かつて関東大震災の義捐金などを通じて溥儀と顔見知りであった日本の芳沢公使は即座に受け入れを表明し、溥儀ら一行は11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになった[3]。翌1925年2月には鄭孝胥と日本の支那駐屯軍、駐天津日本国総領事館の仲介で、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府の勧めにより天津市の日本租界の張園に移ることとなる。
なおこの事は、1905年の日露戦争の勝利によるロシア権益の移譲以降、満洲への本格進出の機会を狙っていた日本陸軍(関東軍)と溥儀がその後緊密な関係を持ち始めるきっかけとなるものの、この頃の日本政府及び日本陸軍の立場は、あくまでジョンストンの申し出を受けて溥儀を一時的に租界内に庇護するだけであり、溥儀との関係を積極的に利用する意思はなかったばかりか、中華民国および満洲に強い影響力を持っていた溥儀の扱いに困惑していた[3]。
ジョンストンとの別れと再会
溥儀が清室優待条件を失ったことを受けて同年に帝師を辞任したジョンストンは、天津港よりP&Oの汽船でイギリスに帰国した。なお、ジョンストンはイギリスに帰国する直前に天津に滞在していた溥儀を訪問し、この際に溥儀はジョンストンに記念品を下賜している[4]。
しかしジョンストンは、溥儀と別れた2年後に1927年にイギリスの租借領であるポート・エドワード(威海衛)の植民地行政長官(弁務官)に就任することとなり再び中華民国へと戻ることとなり、1930年10月に威海衛がイギリスから中華民国へ返還されるまでこの地に駐在した。
イギリスに帰国したジョンストンは、その知識、経験と語学力を生かしてロンドン大学の東洋学及び中国語教授に就任し、1931年に太平洋会議への出席のために再び中華民国を訪れた際に溥儀と再会する。
その後1934年に、溥儀の家庭教師時代から溥儀の満洲国「元首」(執政)までの動向を綴った「紫禁城の黄昏」(原題:『Twilight in the Forbidden City』)を著し[5](なお同書は溥儀に捧げられている)、翌1935年には満洲国を訪れ「執政」となった溥儀と再会するなど、生涯を通じて溥儀との交流は続いた。
国共内戦と東陵事件
なお、この頃も中華民国国内の政治的状況は混沌としたままで、1927年4月には「上海クーデター」が勃発し、蒋介石率いる中国国民党右派が対立する中国共産党を弾圧した。その後、蒋介石は南京にて「南京国民政府」を設立し、党および中華民国政府の実権を掌握するものの、同年7月に国共合作を破棄したことで、ソビエト連邦からの支援を受けた中国共産党の残党が反発し国共内戦がはじまる。
また、溥儀を紫禁城から追放するきっかけとなった北京政変後の1926年に政権を掌握した張作霖の政権も磐石なものではなかった。張作霖は、孫文の没後にその後を継いだ中国国民党右派の蒋介石が1928年に開始した北伐により、からくも北京より脱出したものの、同年6月、乗っていた列車を関東軍に爆破されて死亡した(張作霖爆殺事件)。その後張作霖の息子の張学良は蒋介石に降伏し、その後両者は相通じて関東軍に対し挑発行動を繰り返すこととなる。
このような政治的混乱のなかで、1928年に国民党の軍閥孫殿英の軍隊が河北省の清東陵を略奪するという事件が発生した(東陵事件)。なかでも乾隆帝の裕陵と西太后の定東陵は墓室を暴かれて徹底的な略奪を受けた。溥儀は国民政府に抗議したが、孫殿英は国民党の高官に賄賂を贈っていたためになんら処罰されることはなく、溥儀を大いに憤慨させた。東陵事件は溥儀にとって紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な事件であり、これによって清朝復辟の念を一層強くしたという。
文繍との離婚
溥儀の住んでいた日本租界のある天津は、この頃の国共内戦の主な戦闘地域から離れていたことや、日本やイギリス、フランスなどの列強をはじめとする外国租界が多かったため、両軍が租界を持つ諸外国に刺激を与えることを恐れたこと、さらに張作霖爆殺事件以降、急速に関東軍の支配が強まっていたこともあり、国共内戦の影響を受けることはなかった。
引き続き日本政府は溥儀の扱いに苦慮していたものの[3]、この様な状況下で溥儀を自国の租界から追い出すわけにもいかないため、溥儀はその後も天津の日本租界の張園、後に移転した協昌里の静園に留まり、婉容と文繍、そして鄭孝胥をはじめとする紫禁城時代からの少数の側近らとともに静かに暮らしていた。
しかし、正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居後1931年に離婚し、中国の歴史上初の離婚歴を持つ皇帝となる。離婚後文繍は溥儀に対して慰謝料を求めて告訴した上で、溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露する。この事を受けて文繍は離婚後すべての位を剥奪され平民となり、小学校の教師として1950年に死亡する。
満洲事変
1931年9月18日、満洲に展開する関東軍を含む日本陸軍が、中華民国の奉天郊外の柳条湖で発生した南満洲鉄道の線路の爆破事件を、「張学良ら東北軍による破壊工作」と断定し(いわゆる「柳条湖事件」)関東軍は満洲を根城にしていた張学良軍との間の戦い、いわゆる「満洲事変」を開始した。
すぐさま関東軍は奉天や長春、営口などの近隣都市を占領したばかりか、その後21日に、林銑十郎中将の率いる朝鮮駐屯軍が独断で越境し満洲地域一帯に侵攻した。さらに関東軍は、軍司令官本庄繁を押し切ったばかりか、不拡大方針を進めようとした日本政府、日本陸軍の決定を無視して、「自衛のため」と称して戦線を拡大する。
その後関東軍はわずか5ヶ月の間に全満洲地域を占領したが、張学良は蒋介石率いる中華民国政府の指示により、まとまった抵抗をせずに満洲地域から撤退し、間もなく満洲一帯は関東軍の支配下に入った。
満洲国建国と清朝復辟の画策
その後、関東軍は国際世論の批判を避けるため、満洲地域に対して永続的な武力占領や植民地化ではなく、日本の影響力を残した国家の樹立を目論み、親日的な軍閥による共和国の設立を画策した。
しかしこの様な形での新たな共和国の設立は、中華民国のみならず、中国大陸に多くの租界と利権を持つイギリスやアメリカ・フランスそして国際連盟加盟国をはじめとする国際社会の支持を得にくいと判断したことから、国家に正統性を持たせるために、清朝の皇帝で満州族出身であり、北京政変による紫禁城追放以降日本租界へ身を寄せていた溥儀を元首に擁いた君主制国家を設立することを画策した。
この様な目論みを受けて、関東軍の特務機関長であった土肥原賢二が溥儀の説得にかかるために天津へ向かい、その後溥儀と会談し「満洲国元首」就任の提案を行った。
かねてから「清朝の復辟」を熱望していた上、東陵事件後にその思いを強くした溥儀は、土肥原による満洲国元首就任の提案を受けて、清朝の復辟を条件に満洲国執政への就任に同意した。その後溥儀は、天津の自宅を出て湯崗子温泉を経て11月13日に営口に到着、旅順の南満州鉄道が経営するヤマトホテルに留まった。
なお溥儀が旅順へ向かった後、粛親王善耆の第14王女で当時関東軍に協力していた川島芳子が、天津に残された婉容を連れ出すことを関東軍から依頼され、実際に婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。
この様な溥儀の行動に対して、宋子文ら中華民国の有力者が、当時太平洋会議のために中華民国に滞在していたジョンストンに対し溥儀の決定を翻させるように働きかけるように依頼した他、中華民国内のマスコミも溥儀の動きを憂慮したものの、東陵事件における蒋介石や張学良の反応に失望していた上、清朝の復辟を強く望んでいた溥儀は、これらの中華民国の有力者による反対意見を退け、関東軍の提案を受け入れることとなった[6]。
満洲国執政就任
その後、関東軍は遼寧(当時は奉天省)・吉林・黒竜江省の要人との協議を開始し、1932年2月18日に、後に満洲国の国務院総理となる張景恵を委員長とする東北行政委員会が、蒋介石率いる中華民国政府からの分離独立を宣言し、その後、東北行政委員会の委員を中心に内閣を編成した。なお溥儀は、その後に満洲国の元首に就任することが決定していたにも拘らず、この満洲国建国に至る関東軍との協議に参加できなかったばかりか、協議の概要さえも伝えられることはなかった。
大同元年(1932年)3月1日に、張景恵の公邸で満洲国建国宣言が行われ、満洲国に在住する主な民族による「五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)」を掲げ、新京に首都を置く満洲国が建国され、満洲国の建国を受け溥儀は同年3月9日に満洲国の「執政」に就任した。
この際に溥儀は、かつて皇帝であったこともあり、格下である執政への就任を嫌がり、あくまで皇帝への即位を主張するが、関東軍から「時期尚早」として撥ねつけられてしまう。なお、執政となった溥儀は、関東軍の日本人将校から、皇帝へ対する敬称である「陛下」ではなく、執政に対する呼び方である「閣下」と呼ばれ激怒したと伝えられている。
なお、溥儀が執政に就任した直後の3月に、国際連盟から柳条湖事件及び満洲事変と満洲国、および日本と中華民国の調査のために派遣されたイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン率いる、いわゆる「リットン調査団」が満洲国を訪問し、5月には溥儀にも調査の一環として謁見した。この時期、関東軍参謀長だった小磯國昭(後の日本国内閣総理大臣)に対し、「中原への進出を企図して関東軍の支援を求め、達成後は日本に満洲を割譲する」とまで言ったが小磯に諌められている[7]。
皇帝即位
その後、溥儀は1934年3月1日に満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となる。なお、溥儀の皇帝即位に併せて国名も「満洲帝国」と呼ばれることが多くなった。元号も「康徳」に変更された(満洲国側によって当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更を余儀なくされた)。また同時に、紫禁城時代からの教育掛で満洲国総理内務府大臣でもあり、建国前に溥儀と日本陸軍との間を取り持った鄭孝胥が国務院総理に就任した。
なお、同日に新京市内で行われた皇帝即位式の際に溥儀は、満洲国のスローガンの1つである「五族協和」を掲げる上で、満洲族の民族色を出すことを嫌った関東軍からの強い勧めで満洲国軍の軍服(大総帥服)着用で行われたが、溥儀の強い依頼により、新京市内の順天広場に置かれた特設会場にて、即位式に先立って即位を清朝の先祖に報告する儀式である「告天礼」が行われ、この際に溥儀は満洲族の民族衣装である龍袍を着用した。しかし同時に満洲国政府からは「これは清朝の復辟を意味しない」旨の声明が出されていた。
溥儀の皇宮は、執政当時と同様に満洲国の首都の新京(現在の長春)中心部に置かれた。当初溥儀夫妻は内廷の緝煕楼(しゅうきろう)に住んでいたが、「皇宮とするには狭く威厳が足りない」と考えた満洲国政府により、1938年に新たに同徳殿が皇宮として建てられた。しかし、関東軍による盗聴を恐れて溥儀自身は一度も皇宮として利用しなかった。
「傀儡」
関東軍の主導によって作られた満洲国の憲法上では、皇帝は国務院総理を始めとする大臣を任命することができたが、次官以下の官僚に対しては「日満議定書」により、関東軍が日本人を満洲国の官吏に任命、もしくは罷免する権限を持っていたので、関東軍の同意がなければ任免することができなかった。実際に、関東軍の高級将校で「御用掛」である吉岡安直や工藤忠が常に溥儀とともに行動し、その行動や発言に対し「助言」するなど、皇帝の称号こそあるにしろ、事実上関東軍の「傀儡」と言えるような状況であった。
また、国政に関わるような重要事項の決定には、皇帝の溥儀だけでなく関東軍の認証が必要であり、また満洲国の官職の約半分が日本人で占められ、建国当初は満洲国独自の軍隊や国籍法が存在しないことなど、関東軍の影響力は大きかった。
1937年2月には、溥儀と関東軍の植田謙吉司令官の間で念書が交わされ、「満洲国皇帝に男子が居ない場合、日本の天皇の叡慮によりそれを定める」とされ[8]、実際に溥儀に男子がいなかったことから、事実上溥儀の後継者は日本(関東軍)が定めることとなった。これ以降溥儀は、以前に比べて関東軍による暗殺(と溥儀の暗殺による親日本的な志向を持つ皇帝への交代)を恐れるようになって行ったと言われている。
また、溥儀は1937年に満洲旗人他他拉氏出身の譚玉齢を側室として迎え祥貴人としたが、譚玉齢は1942年に死去し、溥儀はこの死について「関東軍による毒殺」と疑い、東京裁判においてもそのように証言している。しかし遺族はそれを戦後否定しており、実際に単なる病死であったと証明されている。なお譚玉齢の死後は漢族の李玉琴を側室として迎え福貴人とした。
1940年7月に溥儀が2度目の訪日を行い伊勢神宮を訪れた後には、溥儀の発案で満洲国帝宮内に「建国神廟」が作られ、神体として天照大神が祀られた。なお、満洲国建国に際しても溥儀と一緒に満洲入りし、満洲国の初代国務院総理として溥儀を支えた鄭孝胥は「我が国はいつまでも子供ではない」と、建国後も実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから、溥儀の皇帝即位のわずか1年後の1935年5月に辞任に追い込まれた。
このような関東軍が過度に介入する形での満洲国の運営、さらに実権を伴わない形での溥儀の皇帝就任に対しては日本国内からの反発も多かった。一例として、当時の政界に強い影響力を持っていたアジア主義者の巨頭で玄洋社の総帥の頭山満は、満洲国の建国当時からの日本政府と関東軍の過剰な介入に憂慮を示し、1935年に溥儀が来日した際に招待を受けたものの、「気が進まない」との理由でこれを断わっている。
日本皇室との関係
満洲国において関東軍との関係はこの様な状況ではあったものの、日満友好を促進する狙いと、満洲国並びに溥儀の威信を国内外に高めることを目的として、1935年4月に溥儀が昭和天皇の招待により日本を国賓として公式訪問する。
公式訪問時には満州海軍艦は使用せず、日本側が大日本帝国海軍の練習戦艦「比叡」を、御召艦として提供した。さらに両国の深い関係を表すように、溥儀が初訪日した際には昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行くという、日本の歴史上無い異例の歓待を行なった。
また、溥儀の初の訪日を記念して日本政府は記念切手を4種発行したほか、訪日中は新聞やラジオ、雑誌やニュース映画など日本中のマスコミが溥儀の行動や発言を逐一報道し、いわゆる「追っかけ」も発生するなど、溥儀自身の人柄もあいまって日本の皇室や指導者層のみならず日本国民からも高い人気を集めた。また、皇太后節子は溥儀を「満洲殿」と呼び、我が子のように接した他、多くの皇族が訪日した溥儀を温かく迎えた。
1940年6月に皇紀2600年記念行事が東京で行われた際にも、タイ王国や中華民国(汪兆銘政府)などの日本の友好国(なお当時アジアの独立国は日本と満州国の他は、タイ王国と中華民国しか存在していなかった。他は全て欧米諸国の植民地であった)の首脳陣同様に奉祝のために再び訪日し、満洲国から横浜港に到着した際に高松宮宣仁親王の出迎えを受けた後、東京駅では出迎えた昭和天皇と5年振りに固い握手を交えた[9]。なお溥儀は、1935年と1940年の2回の訪日ともに、この頃よりアヘン中毒などいくつかの病気が伝えられた婉容を同伴せず単独で訪日を行った。
なお当時の溥儀は、年齢が近い(昭和天皇の方が5歳年長)上に自分と同じ君主制国家の国家元首であった昭和天皇の「兄弟分」であるという気持ちが強かったとされている。また、溥儀が初来日から帰国した際には「もし大満洲帝国皇帝に不忠であれば、それは大日本帝国天皇に不忠であり、日本天皇に不忠であれば満洲皇帝に不忠となる」と満洲国政府首脳部に対して訓示を行った他、2度目の訪日の際に伊勢神宮を訪問した際には「日満一神一崇」を表明するなど、大満州帝国皇帝としての自らの地位を強固にする為日本国の皇室との親しい関係を表明していた。
溥傑と嵯峨浩の結婚
1937年には、当時日本の陸軍士官学校を卒業し千葉県に住んでいた溥傑と、嵯峨侯爵家の令嬢で天皇家の親戚(先代侯爵嵯峨公勝の夫人仲子は、明治天皇の生母の中山慶子の実弟、忠光の娘)に当たる嵯峨浩の縁談が関東軍の主導で進められ、1938年2月6日に駐日満洲国大使館の発表で2人の結婚が内定し、同年4月3日に東京の軍人会館(現・九段会館)で挙式が行われ大きな話題を呼んだ。
当初溥儀は嵯峨浩のことを「関東軍のスパイ」かと疑ってかかったものの、その後2人の間に子供が生まれたことや、溥傑と嵯峨浩の関係が良好なことを受けて嵯峨浩に対する警戒を少しずつ解いて行ったと言われている。
日中戦争(支那事変)と第二次世界大戦
溥儀が皇帝に就任した4年後の1937年7月7日に、北京西南の盧溝橋で起きた盧溝橋事件を契機として日本軍と中華民国軍の間で日中戦争(支那事変)が勃発した。その後、中華民国内において内戦状態にあった国民党と共産党は、日本軍に対抗するための抗日民族統一戦線である国共合作(第二次国共合作)を構築した。
その後の1941年12月7日の太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦により、日本がイギリスやアメリカ、オランダやオーストラリアなどの連合国と交戦状態に入ると、満洲国も日本に併せて連合国各国に対し宣戦布告をし、事実上枢軸国の一員として第二次世界大戦に参戦することとなった。しかし、日本軍とイギリス軍やアメリカ軍、中華民国軍との戦闘地域から離れていることや、満洲国の事実上の宗主国である日本と隣国ソビエト連邦との間に日ソ中立条約が存在することから、満洲国内は中華民国軍や中国共産党軍によるゲリラ攻撃がたびたび行われていたものの、戦争状態にはならず平静が続いた。
1943年には溥傑が日本の陸軍大学校に教官として配属されたため、溥傑とその一家は東京に居を移すこととなった。この頃、日本軍はまだまだ各地で勢いを保っていたものの、事実上1国だけでイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなど複数国からなる連合国と対峙していた上、国力を超えて戦線が拡大していたこともあり、1944年に入ると各地で次第に敗戦の色を濃くしてゆく。なお、同年溥傑は学習院に入学した長女の慧生を東京に残し、妻や次女の嫮生と新京に戻った。
その後も主な戦場から遠く離れた満洲国内は平静を保ったものの、多くの関東軍が南方戦線へ移動するのと同時に、多くの食料が食糧難になってきていた日本に輸出されるようになっていく。さらに1945年に入ると、工業地帯や軍の基地などが、イギリス領インド帝国経由で中華民国内陸部の成都基地から飛来したアメリカ軍の爆撃機などの攻撃をたびたび受け、これらの爆撃機と満州国軍の戦闘機との空中戦が行われるなど、少しずつ戦火の影響を受けるようになってゆく。
満洲国崩壊と退位
その後1945年8月8日に、先立って行われたヤルタ会議でのイギリスやアメリカなどのほかの連合国との密約により、ソ連政府はモスクワに終戦仲介依頼に来ていた駐ソ連日本特命全権大使佐藤尚武に対し、1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約の一方的な破棄を突如通告し、その数十分後にソ連軍の大部隊が北西の外蒙古(現在のモンゴル)および北東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面の3方向からソ満国境を越えて、日本の同盟国である満洲国に侵攻した。
日ソ中立条約の存在に頼り1942年以降増強が中止され、主力を1943年後半以降劣勢となっていた南方戦線にとられていた関東軍と、同様に装備が貧弱な満州国軍は、1945年5月のドイツの敗北以降、対日侵攻に備えてヨーロッパ戦線から転進しソ満国境付近に集結していたソ連軍に対して、各部隊が分断され効果的な反撃もできないままに潰滅し、居留民の保護もままならず敗走を続けた。
溥儀やその家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連軍の進撃が進むと8月10日に首都の新京の放棄を決定し、8月13日に日本領の朝鮮との国境に程近い通化省臨江県の大栗子に、南満州鉄道の特別列車で避難していた。しかし、事実上1国で連合国と戦っていた日本が8月15日に連合国に対して降伏したことにより、その2日後の8月17日に国務院が満洲国の解体を決定、8月18日未明に大栗子で満洲国の消滅を自ら宣言するとともに、満洲国皇帝を退位した。
ソ連への抑留
満洲帝国皇帝を退位した溥儀は、日本政府より日本への亡命を打診されたこともあり、 8月19日朝に満洲軍の輸送機で大栗子から奉天へ向かい、奉天の飛行場で岐阜基地から京城、平壌経由で送られてくる日本陸軍の救援機(四式重爆撃機)を待機していた[10]。しかし同日昼に、日本陸軍の救援機の到着に先立ち奉天に進軍して来た赤軍の空挺部隊に捕らえられた。
その後溥儀や溥傑、毓嶦及び吉岡ら満洲帝国宮中一行は直ちにソ連領内に移送され、さらにソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所に収監された。なおその後溥儀ら一行の身柄はソ連に留め置かれ、中華民国に引き渡されることはなかった。
婉容の死
なお、婉容や浩は溥儀や溥傑の航空機による日本への亡命に同行できず、地上での移動を余儀なくされた末に、わずかな親族や従者と共に満洲国内に取り残され、侵攻して来た中国共産党軍に捕らえられた。さらに大戦終結後まもなく国共内戦がはじまり、中国共産党軍が中国国民党軍に追われる中で各地を転々連れまわされ、通化では通化事件に巻き込まれることとなった。
逃亡中にアヘン中毒の禁断症状が出た婉容は、その後嵯峨浩などの親族や従者と引き離され、吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のために、誰にも看取られることも無いままに孤独死したといわれる。死後どこに埋葬されたかは現在でも分かっていない。
東京裁判
溥儀がソ連の強制収容所に収監された翌年の1946年に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下において空路東京へ護送され、同年8月16日よりソ連側の証人としてソ連に有利な証言を強要された。その際、板垣征四郎(当時は大佐)から「本庄繁司令官の命令として満洲国における領軸になって欲しい」、という依頼があった事を証言し、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」と主張した。
後に溥儀の発言の信憑性が低下した要因に、溥儀は法廷において興奮することが多く、「顧問の話では、板垣はもしもこの申し出を拒絶すれば、生命の危険があると脅迫した。それで、両名と顧問の1人の羅振玉は、板垣の申し出を受諾するようにと私に勧めた」、「本当の気持ちは拒絶したかった。しかし4人の顧問は受諾を勧めた。当時、日本軍の圧迫を如何なる民主国家も阻止しなかった。私だけでは抵抗出来なかった」、「私の意志は拒絶するにあったが、武力圧迫を受け、しかも一方に顧問から生命が危険だから応諾せよと勧められて、遂にやむを得ず受諾したのだ」、「日本は満洲を植民地化し、神道による宗教侵略を行おうとした」と証言した。
それ以外にも、「私の妻は日本軍に毒殺された」と興奮しながら語り、日本軍を糾弾するとともに「満洲問題に関する責任は全て日本にある」と強調した。これに対して、被告側の弁護団は、反対尋問において、満洲国建国当時の南次郎陸相に送られた、日満提携を認める「宣統帝新書」を証拠として提出して溥儀の証言内容の信憑性を追及した。溥儀の証言は、信憑性が低いとみなされ、判決文において引用されることはなかった。なお、ジョンストンの著書である『紫禁城の黄昏』も弁護側資料として提出されたが、さしたる理由も提示されないままに却下され裁判資料とはされなかった[11]。
後に認めた自叙伝『わが半生』では、「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」、「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」と記している。ちなみに、東京裁判において、検察陣から直接尋問を受けた証人は溥儀のみだった。
収監
その後の1950年には、ソ連と同じく連合国の1国であリ、国連の常任理事国でもあった中華民国ではなく、国共内戦にソ連の援助を受けて勝利した中国共産党によって前年に中国大陸に樹立された中華人民共和国へ身柄を移された。
その後、裁判で裁かれる事すらないままに、第二次世界大戦当時には存在すらしていなかった同国の「戦犯」として、撫順の政治犯収容所(「戦犯管理所」と称される)に弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満洲国の閣僚や軍の上層部61人、さらに1,000人を超える日本軍の捕虜らとともに収監され、「再教育」を受けることとなった。その後同年10月にハルビンの政治犯収容所に移動させられ、1954年には再び撫順の政治犯収容所に移動させられた。
なお収監中の溥儀は模範囚と言われるような礼儀正しい言動を行っていたと伝えられている。一方で「収監されてから暫く、溥儀の生活力のなさ(自分で服や靴を履けない、掃除をしない、作業が決まって溥儀のところで滞るなど)により周りから不満も絶えなかった」とも伝えられている。
政治犯収容所に収監中の1957年12月10日に、かつて可愛がっていた溥傑の長女の慧生が、学習院の同級生の大久保武道と静岡県伊豆市内で自殺した事件(天城山心中)を知り、悲しんでいたことを日記内に記している。
一市民へ
1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した戦争犯罪人に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も、1960年11月20日に釈放された。
釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、一般市民の生活に慣れることを目的に、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった[12]。その後は政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う。
その後1962年には、看護婦をしていた一般人の李淑賢と結婚し李淑賢は溥儀の5人目の妻となった[13]。なお溥儀にとって最後の結婚となったが、夫婦ともども高齢であることもあり子を授かることはなかった。
政治協商会議全国委員
全国政治協商会議文史研究委員会専門委員として文史資料研究活動を行う傍ら、1964年には、多民族国家となった中華人民共和国内において、満洲族と漢族の民族間の調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。
なお、毛沢東や多くの共産党幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であったものの、その後不幸な運命を辿った溥儀に対して常に同情的だったと言われている。
死去
溥儀は中華人民共和国に文化大革命の嵐が吹き荒れる中で癌を患った。清朝皇帝という「反革命的」な出自の溥儀の治療を行うことで紅衛兵に攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、周恩来の手配で北京市内の病院に入院することになった。
しかし、溥儀が治療を受けていることを知った紅衛兵が病院に押しかけて騒いだため、医師たちは彼に治療を施さず放置した。その報告を受けて怒った周恩来は院長に直接電話して溥儀の治療を行わせた。しかし既に末期状態だった彼は治療のかいもなく1967年10月17日に死去した。死の間際に所望したのは晩年の好物だったチキンラーメンだった[14]。
死後
溥儀の遺骨は当初北京郊外の八宝山墓地に埋葬されたが、1995年河北省易県にある清朝の歴代皇帝の陵墓清西陵の近くの民間墓地「華龍皇園」の経営者が、李淑賢に溥儀の墓を作ることを提案し、これに同意した彼女によって溥儀の遺骨は同墓地に移された。
また、後に溥儀の墓の側に婉容と譚玉齢の墓も造られたが、婉容の遺骨は見つかっていないため縁の品のみが収められている。
それに関連して2004年に「愍皇帝」の謚号と「恭宗」の廟号が贈られた。ただし、これらは公式に認められたものではなく、愛新覚羅家の遺族などの関係者から承認されているものではない。改葬に関しても愛新覚羅家の遺族からの反対も受けている。
家族
正妻である婉容と側室である文繍と1922年に結婚するが、後に文繍と離婚、その後アヘン中毒になった婉容とも満洲国崩壊を受け逃亡する中生き別れになる。なお、満洲国時代に北京の旗人出身の譚玉齢(他他拉氏、祥貴人)、長春の漢族出身の李玉琴(福貴人)を側室として迎えたが、それぞれ死別、離婚している。
溥儀は自伝『我的前半生』で婉容については「私が彼女について知っているのは、吸毒(アヘン)の習慣に染まったこと、許し得ない行為があったことぐらいである」とだけ書いている。「許し得ない行為」とは満州国皇帝時代に愛人を作り、その子供を産んだとされる事を指すと思われる。しかし、子供は溥儀の命により生まれてすぐにボイラーに放り込まれ殺害されたと言われる。
1959年に特赦された後、1962年に看護婦をしていた漢族の李淑賢(1924年 - 1996年)と再婚し、その後の生涯を沿い遂げることになる。しかし生涯で子はもうけていない。溥儀に子供ができなかったことについて義妹の嵯峨浩は「同性愛であったため」と推測し、2人目の正妻である李淑賢は同性愛を否定し、「インポテンツだったため正常な夫婦関係が築けなかった」と主張している。
自伝
『我が半生』(原題:我的前半生、英語題:The former half of my life)は、唯一の自伝である。執筆は、中華人民共和国で「政治犯」として「再教育」を受けていた1957年後半から一年余りをかけて、20万字の初稿を完成させた。その後内容のいくつかの部分において専門家の意見が分かれるなどし、第一稿、第二稿が作られたのち、最終的に1964年3月に正式出版された。日本語訳本(小野忍・新島淳良・野原四郎・丸山昇訳、各.全2巻で筑摩叢書、新版ちくま文庫)が出版されている。また、残された日記の断片が『溥儀日記』(王慶祥編、学生社)として出版されている。
2007年、同書が中華人民共和国において大幅に加筆した完全版として出版されることとなった。極東国際軍事裁判での偽証を謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと後に反省したことなど、1964年版当時に削除された16万字近い部分が今回盛り込まれている。
中華人民共和国国内での報道によると、今回1964年版前の第一稿、二稿から、
- 序言≪中国人的骄傲(中国人の誇り)≫
- 第六章《伪满十四年》的第一节≪“同时上演的另一台戏——摘录一个参与者的记述”(第6章「満州国14年」の第1節“もう一人を同時に演じる ― 一参加者の記述より引用する”)≫
- 第七章《在苏联的五年》的第四节≪“远东国际军事法庭”(第7章「ソ連の5年」の第4節 “極東国際軍事法廷”)≫
- 第十章《一切都在变》的第四节≪“离婚”(第10章「新しい一章」の第4節“離婚”)≫
などを含んでいる。
溥儀には継承者がおらず死去した際に遺言書がなかったため、版元の群衆出版社から北京市の西城裁判所へ、同書を「相続人のない財産」とする認定請求を提出した。裁判所は請求に基づき審査を開始したが、まだ裁判所の判断は示されていない。
題材にした諸作品
書籍
- 皇帝溥儀:私は日本を裏切ったか(1952年、世界社 ISBN B000JBBCCK、絶版)
- 実際に溥儀に仕え信任厚かった工藤忠による回想録、歴史的価値が高い。
- 『中原の虹』浅田次郎著 講談社(2006-2007) のち文庫
映画
- 溥儀を主人公とした映画
- ラストエンペラー(1987年、イタリア・中国・イギリス)
- 火龍(1986年 中国・香港)
- 溥儀役:レオン・カーフェイ。収容所から出所してから病院で亡くなるまでの溥儀と再婚した李淑賢夫人との生活を描いている。
- 溥儀の周辺を描く映画
- 流転の王妃(1960年、日本)
- 悲劇の皇后 ラストエンプレス(1985年、中国・香港)
テレビドラマ
- 溥儀を主人公としたテレビドラマ
- 溥儀の周辺を描くテレビドラマ
- 流転の王妃・最後の皇弟(2003年、日本、テレビ朝日)
- 末代皇妃〜紫禁城の落日〜(2004年、中国)
- 李香蘭(2007年、日本、テレビ東京)
- 男装の麗人〜川島芳子の生涯〜(2008年、日本、テレビ朝日)
宝塚歌劇
漫画
- その時歴史が動いた コミック版 世界英雄編(2005年1月、ホーム社 ISBN 978-4-8342-7321-2)
- 『ラストエンペラー最後の日「満州国」と皇帝・溥儀』を収録。作画は狩那匠。TV番組「そのとき歴史が動いた」2002年1月16日に放送したものを漫画化したもの。
脚注
参考図書
- レジナルド・ジョンストン『完訳 紫禁城の黄昏』(上下.中山理訳、渡部昇一監修、祥伝社、2005年)。ISBN 4-396-65032-9&ISBN 4-396-65033-7。/文庫再刊、2008年
- 愛新覚羅浩『「流転の王妃」の昭和史―幻の"満州国"』(主婦と生活社 1984年、新潮文庫 1992年)
- 凌海成『最後の宦官 溥儀に仕えた波乱の生涯』(斌華/衛東共訳、旺文社 1988年、河出文庫 1994年)
- 舩木繁『皇弟溥傑の昭和史』(新潮社 1989年)
- 秦国経編著『溥儀 1912-1924 紫禁城の廃帝』(宇野直人/後藤淳一共訳 東方書店 1991年)
- 王慶祥『溥儀・戦犯から死まで 最後の皇帝溥儀の波瀾にみちた後半生』(王象一/徐耀庭共訳 学生社 1995年)
- 賈英華『愛新覚羅溥儀最後の人生』(日中文化学院監訳、時事通信社 1995年)
- 李淑賢『わが夫、溥儀―ラストエンペラーの妻となって』(王慶祥編、林国本訳 学生社、1997年)ISBN 978-4-311-60326-6
- 賈英華『最後の宦官秘聞 ラストエンペラー溥儀に仕えて』(林芳/NHK出版監訳、日本放送出版協会 2002年)
- 『A級戦犯―戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社、2005年)ISBN 978-4-404-03323-9 (4-404-03323-0)
- 入江曜子『溥儀―清朝最後の皇帝』(岩波新書、2006年)ISBN 978-4-00-431027-3
- 波多野勝『昭和天皇とラストエンペラー 溥儀と満州国の真実』(草思社、2007年)
- 太平洋戦争研究会『秘録東京裁判の100人』(ビジネス社、2007年)ISBN 978-4-8284-1337-2
- 山田勝芳『溥儀の忠臣・工藤忠――忘れられた日本人の満洲国』(朝日選書、2010年)
関連項目
テンプレート:清の皇帝テンプレート:Link GA- ↑ ジョンストン 2005年 下巻
- ↑ ジョンストン 2005年 下巻 P.365
- ↑ 3.0 3.1 3.2 ジョンストン 2005年 下巻 P.366
- ↑ ジョンストン 2005年 下巻 P.388
- ↑ ジョンストン 2005年
- ↑ ジョンストン 2005年 下巻 P.393
- ↑ 小磯の日記である葛山鴻爪より
- ↑ 満州国と溥儀「歴史群像シリーズ 満州帝国」学研
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 「溥儀幻の救出劇」中日新聞2003年8月4日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ 仔細については李淑賢著『わが夫、溥儀』で詳しく知ることができる
- ↑ 愛新覚羅浩 『「流転の王妃」の昭和史―幻の"満州国" 』(主婦と生活社、1984年)、ISBN 4391108186