皇室

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皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。戦前(太平洋戦争敗北・日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。天皇と内廷皇族家族とする内廷と皇太子以外の男性皇族及びその家族である宮家で構成される。具体的には天皇を中心にその配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また皇太子をはじめとした男性皇族である親王、さらには生まれながらの女性皇族である内親王女王がある。親王妃王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。

神話と伝説

720年に完成した日本最古の史書『日本書紀』では、「高天原」より日向高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神アマテラスの孫ヒコホノニニギの孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる[1]。詳細は日本神話神武東征等を参照。

王家の始祖が(神々)や神話と結びつく事例(現人神)は、歴史上、世界各地で多数の事例が存在するが、現存する国連加盟国の君主制国家の中では、2011年現在、唯一[2]の事例となっている。

ギネス世界記録においても、エチオピア帝国の皇統(紀元前10世紀メネリク1世を始祖とする)に続いては世界第2位の古い皇統として記録されている。現在まで続いている皇統としては世界最古である。

皇室の構成

内廷

天皇は皇居内に御所を構える。宮内庁には同庁の内部部局として侍従職が天皇・皇后とその未婚の子女に関する事務を扱う機関として置かれている。

東宮家

皇太子および同妃、その子女は内廷皇族でありながら、天皇とは独立した生活を営む。赤坂御用地内に東宮御所を構える。また宮内庁には内部部局である東宮職が皇太子一家の事務を扱う機関として置かれている。

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秋篠宮家

今上天皇所生の直宮家、筆頭宮家。宮邸は赤坂御用地内に所在。

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常陸宮家

昭和天皇所生の直宮家。宮邸は東京都渋谷区の常盤松御用邸。

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三笠宮家

大正天皇所生の直宮家。宮邸は赤坂御用地内。かつては寛仁親王家として、独自の宮号を持たないが、皇室経済法では宮家としての扱いを受けていたが、寛仁親王の薨去に伴い合流となった[3][4]

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高円宮家

三笠宮崇仁親王の第三王子の高円宮憲仁親王が創設した宮家。憲仁親王は既に薨去しており、男子の後継者がいないため、妃の憲仁親王妃久子が宮家の当主を務める。宮邸は赤坂御用地内。なお、2014年度中に典子女王が婚姻により皇籍を離脱する予定である。

戦後断絶した宮家

戦後の11宮家の皇籍離脱後、大正天皇の男系子孫とその家族のみが皇族として残った。このうち、秩父宮高松宮桂宮の三家は、宮家成員の全員が没したことにより断絶し、消滅した。

皇室の構成図

[5]

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旧皇族11家

1947年昭和22年)にGHQの指令により皇籍離脱した、11宮家のうち、東伏見、山階、閑院、梨本家は既に断絶し、男系として続いているのは、それ以外の家系にあたる。皇籍離脱した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく(皇族ではないが民法上は天皇の親族である者もいる)、皇室の親族が所属する親睦団体の菊栄親睦会に所属して現在でも皇室と親しく交流を続けている。

皇室の活動

天皇が行幸等する場合は国外であっても三種の神器である八尺瓊勾玉を携帯する。戦後の人間宣言後に昭和天皇による地方巡幸が行われたが、この様な大規模な巡幸はあまり行われることはない。

宮中の公務

日本国憲法第6条および第7条により、天皇が行うものだが、皇族の中から摂政、もしくは国事行為臨時代行を置き、代行させることができる。新年祝賀(元日節会)、親任式認証官任命式勲章親授式信任状捧呈式の儀式として行われる。
  • 一般参賀
新年祝賀と天皇誕生日祝賀に際し、皇居において一般参賀を行う。天皇と皇族が皇居長和殿のベランダに出て祝賀を受ける。なお三権の長を招いて行う「新年祝賀の儀」は国事行為に該当する儀式だが、この「新年一般参賀」は国事行為以外の公務とされている。
天皇・皇后主催の社交の会。毎年、春と秋の2回、赤坂御苑において催される。

宮中祭祀

テンプレート:See 五穀豊穣や国家国民の安寧を祈るものである。代表的なものは主に現在の祝日(春分の日春季皇霊祭など)にあたる日に行われている。

行幸・行啓

テンプレート:See 急遽、戦災(東京大空襲)や被災した地域に行幸することがしばしばあるが、一般にかねてより計画されたものとなる。 テンプレート:節stub

国際親善

  • 各国の王室との関係は親密である。取り決めによってそれぞれの王室に不幸があった場合、半旗を掲げることと、服喪することが慣例になっている。
  • 天皇の国事行為の「外国の外交官の接受」の一環である「信任状奉呈式」に際しては、皇室の馬車での送迎を認めている。馬車を使用した場合、東京駅から皇居宮殿御車寄までの道のりになる。自動車での送迎も可能であるが、馬車を希望する大使が多いと言われる。皇室の馬車による送迎は各国親善に役立っているという(宮内庁ホームページ)。2007年8月、馬インフルエンザの影響により馬車による送迎が見送られた事がある。

国民との関わり

皇室行事

  • 明治天皇及び過去の天皇の巡行にならい、昭和天皇以降も全国への「巡幸」が行われている。
  • 明治以降の皇室及び過去の皇室の伝統にならい、皇室による社会福祉や教育など社会的な活動として、「公務」が行われる(単なる「公務」ではなく必ず敬語が添えられる)。
  • 主に式典の主賓としての列席及び祝辞、弔辞、開会または閉会の「おことば」として挨拶をするなどが代表的な活動といえる(勅語を発するのは主権在民原則に照らし許されない)。
  • 更に、医療・社会福祉施設・児童施設への訪問や戦没者などへの慰霊碑などへの参拝も積極的に行われている。

一般参賀

  • 新年の一般参賀は正月に皇居において天皇はじめ皇族が7回(但し2010年は5回)、長和殿に「お出まし」として姿を現し、国民の参賀を受ける。
  • 又、天皇誕生日にも同様、一般参賀が行われる(2008年度は過去最高の2万2655人が参賀:宮内庁発表)。
  • この一般参賀の参列者の多くは日章旗小旗を片手に振りながら拍手で出迎えるのが恒例となっている。

歌会始

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  • 皇室の行事の一つで新年を賀するために宮中で行われる和歌の会。
  • 一定の題にしたがって国民からの詠進歌を募集している。

勤労奉仕

  • 宮内庁では、国民の自主的な意思に基づく奉仕による皇居の清掃活動への参加を受け付けている。
  • 主に希望者は複数名からなる団体として申し込みをし、清掃活動を行うことができる。
  • 多数応募がある場合は抽選となる。主な内容は除草、清掃、庭園作業などである。
  • 毎年、学校関係の団体、地域の婦人会など多くの申し込みがある。
  • 1945年昭和20年)の敗戦直後に有志「皇国(みくに)奉仕団」が皇居の荒れ様に心を痛めて始めたのが興りといわれる。
  • 勤労参加者には、天皇皇后及び皇太子・同妃より会釈を賜る(面会と挨拶伝達)ことができ、以前は恩賜のたばこが授与されたが、現在では菓子が授与されている。

皇居参観

氏・姓・名字

日本の皇室は現在の日本国につながる国家が始まって以来ずっと続いているため、天皇や皇族は氏姓および名字を持たないとされる。宮家の当主が有する「○○宮」の称号は、宮家の当主個人の称号(宮号)とされており、苗字には当たらない。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位の存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったとされる。このことは、東アジア世界において非常に独特なものである。これにより、古代より現在に至るまで、日本で王朝が変わったことがないとされる。延久4年(1072年)に日本の仏教僧である成尋北宋神宗への謁見で「本国の王は何というか」と尋ねられた際に「本国の王に姓なし」と答えた文献がある。

しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王(天皇の前身)は、姓を有していたとされる。5世紀倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている[7][8]

また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある[7](ただし、中国にも2字姓がないわけではない……「諸葛氏」「司馬氏」など)。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている[7]

吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている[7]

関連項目

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皇室の伝統文化

皇室に関係する法律

皇室に関係する行政機関等

皇室を扱うテレビ番組

脚注

  1. 岡田英弘「第五章 最初の王朝」(『倭国』中央公論社,1977, pp.147-183)、「神話が作った大和朝廷」(『日本史の誕生』筑摩書房,2008)pp.245-267。
  2. テンプレート:Cite book
  3. テンプレート:Cite news
  4. テンプレート:Cite news
  5. テンプレート:Cite web
  6. 皇太子徳仁親王の学友である賀陽正憲
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店<岩波新書>、1997、ISBN 4004305101
  8. 吉村武彦 「倭の五王の時代」 『古代史の基礎知識』 角川書店<角川選書>、2005、ISBN 4047033731

外部リンク

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