北白川宮
テンプレート:日本の氏族 北白川宮(きたしらかわのみや)は、明治初期、伏見宮邦家親王の第13王子・元聖護院門跡の智成親王が創設した宮家。元は智成親王が兄宮嘉言親王から継承した聖護院宮を改称したもの。
目次
系譜
聖護院宮嘉言親王
テンプレート:Main 先代嘉言親王は、1821年(文政4年)に誕生。天保2年に出家、雄仁入道親王と称した。同年、光格天皇の猶子となり、天保3年に親王宣下。慶応4年還俗し聖護院宮を名乗るも、同年に薨去。聖護院宮は弟宮で元は同じ聖護院預かりとなっていた智成親王が継承した。
聖護院宮→北白川宮智成親王
テンプレート:Main 初代智成親王は、1856年(安政3年)に誕生。慶応2年に親王宣下。聖護院に入る。出家し信仁入道親王と称した。明治維新によって還俗。照高院宮と名乗ったが、その後、兄宮嘉言親王から聖護院宮を譲られる。そののち、北白川宮に改称した。 1872年(明治5年)、17歳で薨去。兄の能久(よしひさ)親王を後嗣とするよう遺言した。
北白川宮能久親王
テンプレート:Main 2代能久親王は伏見宮邦家親王の第9王子で、嘉言親王の弟宮、智成親王の兄宮に当たる。1848年(弘化4年)に誕生。1858年(安政5年)に仁孝天皇の猶子として11歳で親王宣下。上野の輪王寺に入寺得度し、公現入道親王と名乗る。戊辰戦争の時、幕府側に附く。彰義隊に担がれて上野戦争に巻き込まれ、その後 奥羽列藩同盟に擁立され仙台に赴いた(東武皇帝として即位したとする説あり)。維新後、蟄居・伏見宮家預りとなる。
1869年(明治2年)に許されて伏見宮に復帰する。1870年(明治3年)にドイツに留学。1872年に北白川宮を相続し、1877年(明治10年)に帰国した。帰国後は陸軍に勤務。 陸軍中将にまで進む。日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、1895年(明治28年)、現地で戦病死した。享年49。
北白川宮成久王
テンプレート:Main 3代成久王は、能久親王の第3王子。1887年(明治20年)に誕生。1895年、父宮の薨去により宮家を相続。1909年(明治42年)に明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚した。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。陸軍砲兵大佐となる。しかし、1923年(大正12年)パリ郊外で自動車事故のため37歳で薨去。同乗していた妃房子内親王と朝香宮鳩彦王も重傷を負った。
北白川宮永久王
テンプレート:Main 4代永久王は、成久王の第1王子。1910年(明治43年)誕生。1923年、成久王薨去により、宮家を相続した。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、父宮の遺志を砲兵畑を歩み陸軍砲兵少佐となる。1935年(昭和10年)、尾張徳川家の流れを汲む男爵 徳川義恕(よしくみ)の娘・祥子(さちこ)と結婚。1940年(昭和15年)、日華事変に出征、蒙疆方面で演習中、軍用機の不時着事故により戦死。31歳だった。
妃祥子は、東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)を卒業。永久王との間に道久王と肇子女王を儲ける。1969年(昭和44年)女官長に就任し、平成改元後は、皇太后宮女官長として皇太后良子(香淳皇后)に長く仕えた。兄の徳川義寛は侍従長。次兄・津軽義孝は常陸宮妃華子の父に当たる。祥子の弟義恭の親友だった三島由紀夫は17歳の頃、祥子に片思いしていた経験に基づいて短篇小説『玉刻春』を書き、『輔仁会雑誌』168号に発表したことがある[1]。祥子はまた、三島晩年の長篇小説『春の雪』(『豊饒の海』第1部)でも伯爵令嬢綾倉聰子のモデルとなった[2]。
北白川宮道久王
テンプレート:Main 5代道久王は、永久王の第1王子。1937年(昭和12年)に誕生1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱し、、北白川道久を名乗る。学習院大学卒業後、島津忠承の娘・慶子と結婚。3女を儲ける。前神宮大宮司。2005年(平成17年)11月15日、紀宮清子内親王(現・黒田清子)の結婚式において、斎主を務めた。
能久親王、成久王、永久王と3代続けて不幸が続いたことから、北白川宮家は「悲劇の宮家」と言われた。しかし、一方で戦後の混乱の中、堅実に家柄を守り抜いた。
また、道久王の妹にあたる肇子女王は明仁親王(当時)の、道久王の長女も皇太子徳仁親王の妃候補に名が上がった。