山階宮
テンプレート:日本の氏族 山階宮(やましなのみや)は、江戸時代末期、伏見宮邦家親王の王子、晃(あきら)親王が創設した宮家。
目次
経歴
山階宮晃親王
テンプレート:Main 初代晃親王は文化13年(1816年)に誕生。初名は清保。その翌年、京都山科にある門跡寺院・勧修寺を相続した。文政7年(1824年)に出家し、済範(さいはん)入道親王と称した。元治元年(1864年)徳川慶喜らが還俗を孝明天皇に願い、勅許をもって、改めて親王宣下と共に、山階宮の宮号を賜った。宮号は、山科の地名にちなんだものである。
晃親王は、国事御用掛として幕末の政界で活躍し、明治維新後は、議定・外国事務総督などの要職を占めた。皇族がヨーロッパの王室に倣って軍人になる中、文官であることを通した。1898年(明治31年)2月、83歳で薨去した。
山階宮菊麿王
テンプレート:Main 2代菊麿王は、晃親王の王子。一時、梨本宮守脩親王の養嗣子となるが、1885年(明治18年)に山階宮に復帰し、晃親王の後嗣となる。海軍に入り、海軍大佐まで進む。気象学研究にも打ち込み、費用は自弁で筑波山に気象観測所を建設した(山階宮筑波山測候所、現在の筑波山気象観測ステーション[1])。1908年(明治41年)、36歳で薨去した。
山階宮武彦王
テンプレート:Main 3代武彦王は、1898年(明治31年)に誕生。父宮の跡を次いで海軍に入り、海軍少佐に進む。海軍航空隊に入隊し東京上空を飛行したことから「空の宮様」として知られた。賀陽宮邦憲王の王女、佐紀子女王と結婚したが、1923年(大正12年)、関東大震災により鎌倉にあった宮家の別邸も倒壊。折悪しくこの別邸に滞在していた懐妊中の佐紀子妃は胎児とともに圧死した。佐紀子妃の薨去によって武彦王は精神に異常をきたし、1932年(昭和7年)、予備役に編入された。1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱、後は山階氏を名乗るが、その後も入退院を繰り返し、1987年(昭和62年)8月に藤沢の病院で逝去した。上記の経緯から武彦には正式な実子は無く、山階宮家の直系は断絶した。
分家
山階芳麿
テンプレート:Main 菊麿王の次男芳麿王は、1920年(大正9年)に臣籍降下し侯爵山階芳麿となった。東京帝国大学理学部を卒業し、北海道帝国大学より理学博士号を取得した鳥類学者である。山階鳥類研究所を創設し、所長となり、日本鳥類研究の第一人者として知られた。
筑波藤麿
テンプレート:Main 菊麿王の三男藤麿王は1928年(昭和3年)に臣籍降下し、侯爵筑波藤麿となる。東京帝国大学国史学科を卒業後、靖国神社宮司となる。東京代々木の自宅に筑波歴史研究室を設立し、国史の文献目録を収集した「国史学会」を発行した。藤麿の長男常治は早稲田大学教授。次男常秀は、出家して法名を常遍と称し、山階宮ゆかりの勧修寺の門跡となった。
鹿島萩麿
テンプレート:Main 菊麿王の四男萩麿王も1928年(昭和3年)臣籍降下し伯爵鹿島萩麿となるが、1932年に死去。海軍大尉。
葛城茂麿
テンプレート:Main 菊麿王の五男茂麿王は1929年(昭和4年)臣籍降下し伯爵葛城茂麿となった。終戦時には陸軍中佐であった。1947年に死去。
関連書籍
脚注
参考文献
- 茨城新聞社 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年10月8日、1099pp.
- 上野健一・林陽生・辻村真貴・寄崎哲弘(2006)"筑波山頂における自動気象観測の復活"大会講演予講集(日本気象学会).89:276.
外部リンク
- ↑ 上野ほか(2006):276ページ