汪兆銘政権
汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は1940年から1945年にかけての中国に存在した中華民国の政権。行政院長(首相)は汪兆銘。首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府(なんきんこくみんせいふ)とも呼ばれた。
歴史
成立
日中戦争の勃発に伴い、蒋介石は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も当時の首相近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていた汪兆銘の擁立を画策した。
汪兆銘は日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日には蒋介石とは別個の国民政府を南京に樹立した。汪は自らの政府を国民党の正統政府であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。
政府発足後にイタリアやタイ、フランスのヴィシー政権や満州国などの枢軸国やバチカンなどが国家承認した。しかし枢軸側の一国だったドイツは、蒋介石政府軍事顧問だったアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンの意見を採用し、日中戦争では日本が敗北すると見ていたため、承認を躊躇し、承認したのは1941年7月になってからだった[1]。なおイギリスやアメリカ、ソビエト連邦やオランダなどの連合国側からの承認は得られなかった。
参戦と「主権回復」
1943年1月9日、独立政府としての実力を整えた汪兆銘政権は米英に対して宣戦を布告し、同時に日本との間に日本が中国で保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃に関する協定を締結した[2][3]。日本側は両国の提携拡大によって汪兆銘政権による中国の「物心両面の総動員」が日本の戦力整備に寄与することを期待した[2]。さらにイタリア政府は1月14日に自国が保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃を声明し[3]、フランスのヴィシー政府は翌2月23日に自国が保持していた4ヵ所の専管租界の返還と治外法権の撤廃を声明した[3]。これにより辛亥革命以来、中国の開放に不可欠な要件とされた不平等条約の中核である「治外法権の撤廃」と「租界の回収」が実現した。日本の『朝日新聞』は「中国の実質的な自主独立が達成された」と報じた[2]。
消滅
汪兆銘政府は、外交・内政において日本の介入を受け、日本政府が第二次世界大戦における日本軍の戦況悪化と共に重慶政府との和平を目指すようになり、さらには民衆の支持も得られなかったことから孤立し、1944年に汪兆銘が病死すると更に求心力を低下させた。同政権は1945年の日本の敗戦と共に消滅した。今日の中華民国や中華人民共和国のみならず、日本でも汪兆銘政権を「傀儡政府」と見なすのが一般的である。
軍隊
汪兆銘政府の軍隊は、物質的協力を受けている日本軍とは全く協力せず、重慶の蒋介石政権と本来の共通の敵であった共産ゲリラに対して軍事的な協力のもとで攻撃していたという。そのため、日本軍からすると軍事的価値は少なかったと言われている。
行政区画
脚注
関連項目
- 中華民国臨時政府 (北京)
- 中華民国維新政府
- 蒙古連合自治政府
- 華北交通
- 華中鉄道
- 中国聯合準備銀行
- 中央儲備銀行
- 北支那開発
- 中支那振興
- 満州国
- 大東亜会議
- 陳公博
- 褚民誼
- 周仏海
- 高宗武
- 今井武夫
- トラウトマン工作
- 大東亜共栄圏
- 日独伊防共協定