李鴻章
李 鴻章(り こうしょう、リ・ホンチャン、テンプレート:ピン音、1823年2月15日(道光3年1月5日) - 1901年11月7日(光緒27年9月27日))は、中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。 日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った。
来歴
安徽省合肥出身。1847年(道光27年)の進士となる。同期には沈葆楨がいる。1851年(咸豊元年)に起こった太平天国の乱の際には団練を率いて太平天国軍と戦い、その後は曽国藩の幕僚となり、団練を元に曽国藩の湘勇に倣って淮勇を組織した。1862年(同治元年)、曽国藩の推薦で江蘇巡撫となり、上海防衛に功績をあげ、1863年(同治2年)から1864年(同治3年)にかけて蘇州・常州を奪回した。その間、1863年(同治2年)に江南製造局を創設している。李鴻章は1860年代以降の洋務運動の推進者の一人であり、1873年(同治12年)に輪船招商局を設立。他に電報局・開平砿務局などを創設した。
太平天国鎮圧後の捻軍鎮圧にも功績を上げ、1870年(同治9年)曽国藩の後を継ぎ直隷総督に就任した。この時に北洋大臣も兼ねたので淮軍はその後、北洋軍閥と呼ばれるようになった。李鴻章の代に北洋大臣が外交を管轄するようになり、外交を統括する機関であった総理各国事務衙門の機能は次第に縮小していった。李鴻章は清朝の重臣筆頭として西太后の厚い信任を得た。
1876年(光緒2年)、江華島事件に関連して、李氏朝鮮の宗属関係について日本の森有礼と協議。1881年(光緒7年)以降は李氏朝鮮との外交も、朝貢国との関係を扱う礼部から北洋大臣へと移管され、それまでは控えられていた朝鮮の内政や外交への干渉が強まり、朝鮮の属国化が進んだ。しかし1884年(光緒10年)の清仏戦争においては早々に講和をしベトナムに対する宗主権をフランスに明け渡した。これがロシア帝国を仮想敵国とみなす塞防派の左宗棠らに非難された。
日清戦争以後
1894年(明治27年、光緒20年)、李氏朝鮮に対する宗主権をめぐって清と日本の対立がより悪化した際、北洋海軍の練度では勝ち目がないと考えたため開戦には反対の立場を取ったが、両国の主戦派によって戦端は開かれた。日清戦争の敗北後、講和交渉で全権を任された李鴻章は1895年(明治28年、光緒21年)3月から下関の引接寺に滞在し、春帆楼へ通って講和会議の交渉を行った。3月24日、李鴻章が、引接寺と春帆楼を結ぶ道(現在の「李鴻章道」)で小山豊太郎に狙撃され、負傷するという事件が起こった[1][2]ため、日本側は列国の干渉をおそれ、まず休戦条約を調印し、4月17日に日清講和条約(下関条約)の調印を行った。日清戦争では清の軍隊の中で戦争に参加したのは北洋通商大臣指揮下の北洋艦隊(後の北洋軍)で、事実上は李鴻章の軍隊であった北洋艦隊が壊滅した事に対して、光緒帝は李鴻章の厳罰を望んだが西太后の寵臣であったため要職を外れる軽微な処分に留まっている。そして日清戦争の敗戦を以って、30年余りの洋務運動の挫折は明らかとなった。
阿片戦争以来の清の高官は、イギリスを仮想敵国とみなす海防派(代表的人物が李鴻章)と、ロシアを仮想敵国とみなす塞防派(代表的人物が左宗棠)に分かれていた。李鴻章の失態で海防派は打撃を受けたが、塞防派は左宗棠の死去により朝廷内に重鎮を欠いており、海防派は引き続いて要職を占めた。李鴻章も程なくして西太后の肝いりにより復権した。復権後、李鴻章は1896年(光緒22年)6月3日にロシアとの交渉に当たったが、李鴻章はロシアと密約(露清密約[3])を結び、事実上満州をロシアに明け渡す結果になった。
1900年(光緒26年)に起こった義和団事変の際には再び全権を任されて諸外国との交渉に当たり、1901年(光緖27年)9月7日に辛丑条約を締結し、その後まもない11月7日に病死した。諡は文忠。
長女、李菊藕(1866年(同治5年) - 1912年(中華民国暦元年))の婿が張佩綸で、二人の子供に張志沂(1896年(光緒22年) - 1953年)が居り、その子供が作家の張愛玲である。
著作
単著
編著
短編
共著
画像
- LiHungTschang.jpg
1896年、元ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクと李鴻章
- Li Hongzhang.jpg
若いころの李鴻章
脚注
関連文献
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- テンプレート:Cite book - 戦後日本で初めて書かれた李鴻章の評伝。
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外部リンク
テンプレート:S-off |-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
薛煥
|style="width:40%; text-align:center"|江蘇巡撫
1862年 - 1865年
|style="width:30%"|次代:
劉郇膏
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
曽国藩
|style="width:40%; text-align:center"|両江総督代理
1862年 - 1865年
|style="width:30%"|次代:
曽国藩
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
官文
|style="width:40%; text-align:center"|湖広総督
1867年 - 1870年
|style="width:30%"|次代:
李瀚章
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
曽国藩
張樹声
裕禄
|style="width:40%; text-align:center"|直隷総督兼北洋通商大臣
第1期:1871年 - 1883年
第2期:1884年 - 1895年
第3期:1900年 - 1901年
|style="width:30%"|次代:
張樹声
王文韶
袁世凱
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
譚鍾麟
|style="width:40%; text-align:center"|両広総督
1899年 - 1900年
|style="width:30%"|次代:
陶模
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