張学良

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テンプレート:中華圏の人物 張 学良(ちょう がくりょう)(1901年6月3日 - 2001年10月14日)は、中華民国軍人政治家張作霖の長男。漢卿

人物

青年時代

1901年、張学良は当時満州地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男として出生。母親(趙春桂)は不明な点が多く、張学良11歳の時に死去とされる。父・作霖に可愛がられ、大勢の家庭教師が付き高い教養を身につけた。16歳からは英会話も習得し、後に中国の軍閥の頭領としてはただ一人の英語の使い手となる(リットン調査団の一員であるドイツ人ハインリヒ・シュネーによると、「英語は少し話せるが、複雑な問題は交渉できなかったので必ず通訳を付けていた」)[1]。16歳の時に最初の結婚をさせられ、17歳の時に第一子が誕生、19歳の時には、父によって陸軍少将に任じられた。

1919年3月、父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の一期生として入学。若い頃から記憶力が良く、300名以上の学生の姓名、出身地、字を暗記していた。また、試験で一番を取った時、父親との関係(当時張作霖は事実上の満州王であり、学良はいわば王子様)で不正をしていると疑われたが、生徒の席同士を離してカンニングが出来ないようにしてから試験を行った結果、ようやく実力を認められたという。

20歳の時訪日したが、同年生まれで当時皇太子だった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという[2]。初めは人を救う医者になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後に述べている[2]

武官時代

1920年、19歳で東三省講武学堂を卒業し、旅団長に任ぜられた。年末には陸軍少将に昇格。西安事変の時には陸軍一級上将になっていた。これは蒋介石に次ぐ中国の最高軍事指導者の地位である。

満州の奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった。1920年に安直戦争が勃発すると19歳の張学良は軍を率いて直隷派の救援に向かい、側近の郭松齢の補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、1922年第一次奉直戦争1924年第二次奉直戦争でも活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。やがて郭松齢が処刑されると彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。

奉天軍閥

1928年6月4日、父・作霖が関東軍河本大作による張作霖爆殺事件により死亡すると、張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満州を継承した。 当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。 日本は林権助を派遣して張の翻意を試みたが失敗した。ただし張は日本との決定的な対立を避け、日本を軟化させた。 またこの年、総理大臣への野心を持っていた床次竹次郎を支援するため、前奉天領事赤塚正助、政友会代議士鶴岡和文を通じて50万元を床次に献金している。

27歳の張学良は父の満州における全権力及び巨額の財産を承継した。父が殺された日が張学良の誕生日であったため、それ以降彼は生涯にわたって誕生日を一ヶ月繰り上げて祝った。

1929年1月には、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものとし、富国強兵策を採り軍事、金融教育などの近代化を進めた。 彼は次第に自信を深め、同年7月にはソビエト連邦が保持していた中東鉄路を接収したことをきっかけに武力衝突を起こし大敗した(中ソ紛争)が、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸張し河北省を制圧、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。

満州事変

1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと言う。

満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたと後に述べている[2]

日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった。この時期蒋介石は下野していたが、蒋の意向も同じであった。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したため、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、張は「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。

その後、アヘン中毒の治療もかねてヨーロッパを歴訪し、イタリアムッソリーニドイツゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。


関東軍の本庄繁は張学良と親交があった。事変後、奉天に残された張学良の財産を2両の貨車に積み、北京に逃れていた張のもとに送り届けた。しかし、張は「この荷物は受け取れません。本庄さんと私は親友でしたが、今では敵同士になってしまいました。こんな風にしてもらうのは、侮辱されているようなものです」と受け取りを断った。しかし、関東軍参謀だった片倉衷によると、張の送り返した荷物は関東軍の元にも戻らず、行方は分からなくなってしまったという[3]

抗日演説

張学良は以下のような抗日演説を行っていた[1]テンプレート:Quotation

西安事件

1934年張学良は帰国すると共産軍討伐副司令官に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。1935年西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。11月末、共産党は張学良に抗日共闘を訴えるようになり、これに同調して極秘に周恩来と会見し両軍は停戦することになった。この時、既に対蒋介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。1936年、蒋介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。蒋介石は、「東北軍頼むに足らず」と知り、東北軍を福建に移し、代りに30万人の軍隊と100機の軍用機を集める計画を開始した。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月4日、蒋介石は再び西安に赴き、共産党・紅軍絶滅の最終決戦態勢をととのえ、東北軍・西北軍を督戦するために、陳緘・衛文煌など多くの軍首脳を招集した。12月10日、蒋介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定。これによって、中央軍が主力となる。11日夜の蒋張会談の際も蒋は張の提言を拒否する。12月12日、張学良と楊虎城西安事件を起こして蒋介石を拘束し第二次国共合作を認めさせた。

西安事件の前年の1935年、張学良は「中共は山賊にほかならない。やつらの大方のところは既に片付けた。残ったわずかな連中が小山賊団となってあちこちに散らばっているだけの事だ。」と吐き捨てるように語っていたが、私恨のためにテンプレート:要出典西安事件を起こした。共産党員は、これまで非常に長い間、蒋に追われ、皆殺しの対象(周恩来の首は高額の賞金がかけられていた)になっていたが、西安事件の時は蒋介石の生殺与奪を握った。

逮捕・軟禁

1937年1月に反逆罪により逮捕された。西安事件は蒋介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張を軍法会議にかける事に異議はなく、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。胡適は張にあてて電報を発している。胡適は、中国では全国的な指導者の出現が非常に困難である事、もし蒋介石に不幸があれば中国は20年あと戻りする事になるだろうという旨を述べたのち、こう言う。「まさに国難家仇を念い、懸崖で馬を勒すべし」。蒋介石を護送して南京へみずから来たうえで国民に謝罪せよ、張のこのたびの挙は“敵に抗する名目でその実自ら長城を破壊する”行いであり、張は“国家と民族の罪人”である。胡適は厳しい語気で張に警告している。しかし張は極刑もしくは国民党から永久除名にされず軍法会議により懲役10年の刑を受けた。このように極刑にされなかったのは蒋介石の寛大さと張は述べている。しかし、同じく監禁された西北軍司令官の楊虎城将軍は銃殺された[4]

1938年特赦を受けたがそのまま軟禁状態に置かれた。その後日中戦争期間を通じて軟禁状態に置かれ続けた[4]

第二次世界大戦後

1945年第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年台湾島に逃れたが、この際に張も台湾に移され50年以上も軟禁され続けた。この間、1955年キリスト教に改宗した。

1975年に蒋介石がなくなった際、張は「関懐之慇 情同骨肉、政見之争 宛若仇讎」(至れり尽せりのお世話は肉親のようだが、政見の争いとなれば仇敵になる)という弔詩文を送り、蒋介石を畏敬していたとされる[4]。蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになる。

1981年に台湾の記者からインタビューを受け、中国の植民地化を追求するために明帝国と清帝国の歴史を研究したことと、クリスチャンに改宗したことで回想録を書くことを断念したと述べている。[5]

1980年代後半には対外メディアとの接触が許され、事実上軟禁状態が解かれた形となった。1990年にはNHKの取材を受けたが「西安事件の真相についてとは証言はできない」とする態度を崩さなかった[2]。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」、「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。

同時に青年期にアヘン中毒であったとも語り、「父を殺され故郷を踏みにじられた怒りにより、禁断症状の苦しみを克服できた」と振返っている[2]

張学良は中華人民共和国から余生を送るよう丁重に招請されるが、これを拒絶した。その後、1991年アメリカハワイ州ホノルル市へ移住した。1994年の陸鏗のインタビューに対して、張は「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と断言している。そのままホノルル市に隠棲し、2001年に死去。100歳没。

評価

テンプレート:出典の明記

中華人民共和国

中華人民共和国内では、張学良は「第二次国共合作」の立役者であり、抗日統一戦線結成のきっかけを作った事から、非常に高く評価されており、「千古の功臣」「民族の英雄」と呼ばれ、張学良氏を主人公とする映画が作られたりもしている[6]

共産党からすれば、西安事変によって国共両勢力が統一し、日本軍と戦ったが、むしろ蒋介石に追い詰められていた窮境から脱出できたことが大きく[4]、張学良は逆境にあった中国共産党の救い主という面も指摘されている[4]

2001年の張学良の死去の際に中国の江沢民国家主席は、遺族への弔電で張学良を「偉大な愛国者」「中華民族の永遠の功臣」であるとし、「65年前の民族滅亡の危機に際して、楊虎城将軍と共に愛国精神、抗日と民族滅亡阻止の大義を掲げ、西安事変を発動し旧日本軍に対して中国共産党との共同抗戦を訴えた。更に10年にわたる内戦を終結させ、第2次国共合作を促し、全民族の抗戦に歴史的貢献をした」と記した[4]

中華民国・台湾での評価

中華民国内では、張学良は満州事変後も庇護した国民党に対して国共合作を認めさせるために蒋介石を脅迫して反共戦を頓挫させるとともに、国民党が取った対日戦略(「安内攘外」)を破綻させ、十分な対抗力がないまま日本軍と正面衝突したために計り知れない犠牲を強いられたと西安事件をみなす見解も強い[4]。父張作霖の七光りで将軍になったものの美女狩りや麻薬吸引に余念のない放蕩息子にすぎないとの評価もある[4]。張学良の東北軍は、ソ連軍に敗北、五個師団が壊滅、陝北での剿共戦では直羅鎮・楡林の戦闘で紅軍に敗北、二個師団が壊滅しており、張が多くの戦闘で負け続けたことも指摘されており、そのため、1936年の西安事件だけが歴史的に張が脚光をあびた唯一の瞬間であったともとらえる向きもある[4]。シカゴ大学歴史学博士許倬念も「中国の抗日開始は早すぎた。もしもう五年遅ければ状況はまったくことなっていたはずだ」と述べている。

このような見方からすると張学良は罪人であり、中国共産党を生き延びさせたきっかけをつくり、のちに国民党が中国大陸から追放された原因をつくった人ともみなされている[4]胡適は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている。ただし、1945年に締結した双十協定には「内戦を避け徹底的な三民主義を実行する」「共産党は国民政府が中国の合法的な指導者の地位にあることを承認する」という要項が含まれているので、必ずしも張学良だけの責任ではない。

参考文献

  • 張学良 大石隆基 述. 松誠堂書店, 1931.
  • 張学良の横顔 吉本浩三 赤炉閣書房, 1932.
  • 張学良と蒋介石 藤川京介 森田書房, 1936.
  • 張学良の私生活? 最上鷹三郎 三興閣, 1936.
  • 張学良と中国 西安事変立役者の運命 松本一男 サイマル出版会 1990.2 「張学良 忘れられた貴公子」中公文庫
  • 東北軍閥政権の研究 張作霖・張学良の対外抵抗と対内統一の軌跡 水野明 国書刊行会, 1994.8.
  • 張学良 その数奇なる運命 傅虹霖 川崎将夫,酒井亨訳. 連合出版, 1995.11.
  • 張学良はなぜ西安事変に走ったか 東アジアを揺るがした二週間 岸田五郎 1995.5. 中公新書
  • 張学良 日中の覇権と「満洲」 西村成雄 岩波書店, 1996.5. 現代アジアの肖像
  • 張学良伝奇 中国夜明け前の群像 趙雲声 ドスビダニヤ訳. 早稲田出版, 2009.12.
  • 臼井勝美:NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』(1991/8 角川書店 のち文庫
  • 澁谷由里『「漢奸」と英雄の満洲』 (講談社選書メチエ、2008年)
  • 儀我壮一郎『張学良少帥と日本』(専修大学社会科学年報第44号)[2]

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

  • 満州国見聞記 p88
  • 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 NHK取材班、臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』
  • NHK取材班、臼井勝美『張学良の昭和史最後の証言』 pp.142-144
  • 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 4.8 4.9 [3]「西安事変 張学良の功罪」サーチナ2001年11月29日
  • 保坂正康『日本陸軍の研究』P・101~102 朝日文庫 朝日新聞社 2006年
  • レコードチャイナ:張学良旧居を訪れ学ぶ大学院生―遼寧省瀋陽市