紅衛兵

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テンプレート:中華圏の事物 紅衛兵(こうえいへい)は、中華人民共和国文化大革命時期に台頭した全国的な青年学生運動。学生が主体であるが、広義には工場労働者を含めた造反派と同じ意味で使われることもある。

概要

紅衛兵は、1966年から1968年にかけて実権派打倒に猛威を振るい、文化大革命期間中に出た死亡者、行方不明者(数百万人とも数千万人ともいわれる)の一部の虐殺に加担したとも言われている。

また、当時は中華人民共和国の成立に貢献した政治家や知識人も弾圧を受けた。その1人である彭徳懐も逮捕されて拷問を受け、それが原因で死亡している。

歴史

1950年代人民公社政策や大躍進運動の失敗によって実権を失っていた毛沢東1965年から実権派に対する奪権を目指し、文化大革命を計画。1966年5月29日清華大学附属中学(日本の高校に相当)の学生たちがこの動きを支持するために秘密裏に紅衛兵を組織したのが始まりである。紅衛兵という名称は、当時清華大学附属中学学生だった張承志の発案だと、本人が述べている。同年6月には北京地質学院附属中学、北京石油学院附属中学、北京大学附属中学、北京鉱業学院附属中学、北京第25中学の学生が「紅衛兵」「紅旗」「東風」などの秘密学生組織を相次いで設立した。

紅五類(労働者、貧農・下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士、およびその子女)であり紅衛兵団体の加入認証を得た者が紅衛兵となる。対して地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子、およびその子女は黒五類とされ、出身のみの理由で吊るし上げの対象となった。親が黒五類であることを告発・糾弾して、出身にも関わらず紅衛兵となった例もあるとされるが、稀である。

北京の紅衛兵は「破四旧」(旧い思想・文化・風俗・習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出し、毛沢東語録を手に劉少奇鄧小平に代表される実権派、反革命分子を攻撃した。ジーンズをはいた若者を取り囲んで服を切り刻んだり、老舗の商店や貴重な文化財を片っぱしから破壊し、果ては多くの人々に暴行を加え死傷させた。同年8月1日中国共産党主席毛沢東は清華大学付属中学紅衛兵に書簡を送り、「造反有理(造反にこそ道理あり)」として支持を表明した。のちにこの言葉に「革命無罪革命に罪なし)」が付随した。8月12日中国共産党中央委員会全体会議が発表した「プロレタリア文化大革命に関する決定」でも革命的青少年が大字報・大弁論の形式で「資本主義の道を歩む実権派」を攻撃することを擁護し、紅衛兵運動は党に公認された。

毛沢東は8月18日から11月26日にかけて全国から上京してきた紅衛兵延べ一千万人と北京天安門広場で会見し、紅衛兵運動は全国に拡大する。しかし、紅衛兵運動は派閥に分裂し、大規模な武闘を繰り返すようになり、毛沢東にも統制できなくなった。各派閥が「自分達の方がより革命的である」ことを証明するために他のグループよりさらに過激な運動に走ったり、敵対派閥を「反革命的だ」と攻撃するような事態に陥ったためである。最終的には毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞まで出現し、もはや毛沢東すら紅衛兵をコントロールできない事が明らかになってしまった。武闘の結果、大量の死者が発生してもいた(重慶文革墓群は、現存する唯一の武闘犠牲者集団墓地である)。毛沢東は人民解放軍を投入して各地に革命委員会を樹立し、秩序再建を図る一方、1968年7月28日聶元梓ら紅衛兵運動の指導者を呼んで運動の停止を命じた。1968年から1969年にかけて知識青年上山下郷運動が展開され、農村支援の名目のもとに約千六百万の中学卒業生が農村や辺境に追放された。

その後も紅衛兵は青年大衆組織として存続したが、再建された共産党組織の指導、統制下にあり、もはや当初の紅衛兵とは別のものとなった。文革後期から各地で再建され始めた共産主義青年団との組織重複もめだった。文革終結後の1978年8月19日、中共中央は共産主義青年団第10回大会準備委員会「紅衛兵問題についての指示を請う報告」を承認、紅衛兵組織の取り消しを全国に伝達し、紅衛兵は最終的に消滅した。

関連文献

関連項目

外部リンク

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