神武天皇即位紀元

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神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇である神武天皇即位したとされる年を元年(紀元)とする、日本紀年法である。

略称は皇紀(こうき)という。外にも、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、神武紀元(じんむきげん)、日紀(にっき)[1]などともいう。年数の英字表記では、「Koki」や「Jimmu Era」などといい、皇紀2674年を「Koki 2674」「Jimmu Era 2674」などと表記する。紀元節(現在の建国記念の日)廃止までは、単に「紀元」と言った場合には、神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。

西暦2014年は、皇紀2674年である。

概説

ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Japans Indonesische identiteitskaart op naam van J.M. Durand- Leeuwenburgh TMnr 5615-9.jpg
インドネシアを占領した日本軍により発行された身分証明書。発行日の部分で、昭和17年と共に、皇紀の2602年も併記されている。

神武天皇即位紀元の元年は、キリスト紀元(西暦)前660年である。日本では明治6年(1873年)を紀元2533年と定め公式に使用した。

日本紀元神武天皇即位に求めることは、古代の『日本書紀』編纂以来、一般的な認識であった。第二次世界大戦前の日本では単に「紀元」というと皇紀を指していた。条約などの公文書には元号と共に使用されていたが[2]戸籍など地方公共団体に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく元号のみが用いられており、皇紀が多用されるようになるのは昭和になってからである。第二次世界大戦前において皇紀が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書がある。

第二次世界大戦後になると、単に「紀元」というと西暦を指す事が多い。また、現在では皇紀を見る機会はほとんどなく、政府の公文書でも用いられていないが、閏年の算定方法にその名残を見ることが出来る(日本の閏年の計算は、法的には神武天皇即位紀元を元に定めた勅令が根拠となっている(閏年ニ関スル件明治31年5月10日勅令第90号)[3]

その他にも、一部の日本史日本文学などのアマチュア愛好家・知識人神道関係者、全日本居合道連盟などが使用している。

アメリカ中央情報局(CIA)のWebページにある"The World Factbook"(各国要覧)の日本の項目[4]には、"Independence:3 May 1947 (current constitution adopted as amendment to Meiji Constitution)"とあるが、参考として神武天皇の即位(紀元前660年)と大日本帝国憲法の発布(1890年11月29日)も併記されている。

神武天皇は古代の人物であるが、歴史学的には3世紀に即位したとされる応神天皇以前の初期の天皇の実在性は不明確である。古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は3世紀前後であるとされており、神武天皇が紀元前660年に即位したことが事実であるという一致した見解は現在成立していない。この時期は、考古学的に縄文時代晩期にあたる。

制定

明治5年11月15日(当時の日本の太陰太陽暦天保暦で、太陽暦グレゴリオ暦では1872年12月15日)の太政官布告第342号により定められたもので、明治6年(1873年1月1日の日本における太陽暦採用と同時に施行された。

テンプレート:Quotation 引用は、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで公開されている、内閣官報局編「法令全書・明治5年」238ページの画像による。

「今般太陽暦ご頒行、神武天皇ご即位を以て紀元と定められ候につき、その旨を告げさせられ候ため、来たる25日ご祭典執り行われ候こと」つまり「このたび(天皇陛下が)太陽暦を頒布されるについて、神武天皇が即位された年を元年とすると定められたので、その旨を告知されるため、来たる25日に記念式典を執り行われることになった(ので参内する資格のある者はすべて出席すること)。ただし25日が喪中となるものは参内を遠慮すること」というもので、布告の本来の主旨は、天皇も列席して開かれる太陽暦への改暦を記念する式典への出席を命じる通知であった。

「閏年ニ関スル件」について

グレゴリオ暦を採用した日本では、「閏年ニ関スル件」(明治31年[皇紀2558年、西暦1898年5月10日勅令第90号)により閏年を神武天皇即位紀元の年数によるように改定された。この勅令は1900年グレゴリオ暦と同じ平年とするために定められた[5]。この勅令は特に廃止する必要もないため、法的には現在も有効である。

朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トスル。

紀元前660年となった根拠

『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」(読み下し文辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)と記述がある。『宋史』日本国伝(『宋史』491卷 列傳第250 外國7日本國[6])では「彥瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、即位は僖王(紀元前681年 - 紀元前677年)の時代の甲寅が即位元年とする。

明治維新後の1870年代初期に歴史学者那珂通世が、『日本書紀』はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた[7]。これは煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)ということに因む。

干支年について

干支による紀年は、前漢太初元年(紀元前104年)は乙亥(『呂氏春秋[8]』)、丙子(『漢書[9]賈誼[10])、丁丑(『漢書』翼奉[11])、甲寅(『史記[12]』歴書[13])となっていた。太初暦では同年を丙子から丁丑としたが、三統暦では丙子に戻し、合わせて太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌とする[14][15]など混乱があり[16][17]、前漢以前は後の60周期にはなっていなかった。なお『日本書紀』の暦は小川清彦の「日本書紀の暦日に就いて(第五稿)」(『日本暦日原典』に収録)によれば450年までは儀鳳暦の平朔で後代は元嘉暦を使用しているとする。

皇紀2600年記念行事

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「ゼロ戦」という通称で知られている大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」は、この皇紀2600年(西暦1940年)に採用されたことに因んだ名称である(軍用機の命名規則により、制式名称は皇紀の下2桁を冠する規定による)。大日本帝国陸軍の場合、同年制式採用兵器の数字は百式重爆撃機一〇〇式司令部偵察機一〇〇式輸送機など海軍とは異なり、零ではなく百(一〇〇)としている。

皇紀2601年(西暦1941年)に陸軍に採用された戦闘機一式戦闘機(通称)としている。

戦後に皇紀が用いられた例

皇紀と安田生命保険

安田生命保険が1970年ごろにコンピュータによる個人情報管理のシステムを構築したとき、作業に携わった技術者たちは、1900年を「00年」として年を処理すると、顧客の生年月日など1899年以前の情報の処理に不都合が生じることに気づき、あえて西暦の使用を避けて、皇紀2600年に当たる1940年を「00年」として用い、さらに負の数を100年分(1840年まで)処理することのできるパック10進数を採用することにした。この結果、偶然ではあるが、2000年問題の影響を回避することができたと言われる。実際に2000年問題で安田生命保険の業務になんらかの支障や影響が生じたかどうかは公表されていない。[18][19]

インドネシア独立宣言文

1945年8月17日インドネシア独立スカルノおよびハッタによって宣言された。

日本軍政下のインドネシアでは、皇紀が使われていた(元号は用いられていなかった)。この為、インドネシア独立宣言の日付は、既に日本がポツダム宣言を受諾していたにも拘らず、皇紀(2605年)の下2桁で記載されている。

今井敬経団連会長がインドネシアのユスフ・ハビビ大統領と会談した際に、ハビビが今井に独立宣言を見せて、日付の年が「05」となっているのは日本の皇紀2605年だと説明した[20]

類似の紀元

日本の皇紀以外にも、西暦やイスラム紀元と異なる独自の紀元を立てたり、あるいは古くからあったものを西暦に替えて使った事例がある。以下はその例。現在では使われていないものも多い。

脚注

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参考文献

関連項目

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外部リンク

  • 東方年表など
  • アジア歴史資料センター 収蔵資料一覧国立公文書館アジア歴史資料センター
  • 法制執務コラム集「うるう年をめぐる法令」参議院法制局
  • CIA - The World Factbook -- Japan →Government
  • 「天文台の電話番」p61、長沢工著、2001年、地人書館
  • テンプレート:Cite wikisource
  • 『日本書紀(一)』補注(巻第三)一八 400頁
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  • 太歳
  • こんどは太歳紀年法
  • テンプレート:PDFlink
  • 木星と太歳
  • 「天声人語」『朝日新聞』1999年2月22日付朝刊、1面
  • 坂本英樹「皇紀を採用した安田生命保険の先見の明」(坂本英樹の繋いで稼ぐBtoBマーケティング:ITmedia オルタナティブ・ブログ」 2014年7月5日閲覧
  • 私の履歴書」 今井敬 第24回、日本経済新聞 2012年9月25日