重光葵
テンプレート:政治家 重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家である。まれに、「しげみつあおい」と読み間違えられることがある。
目次
来歴・人物
生い立ち
大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれた。しかし母の実家(重光家本家)に子供がなかったため養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。
外交官として
文官高等試験外交科合格後の1911年(明治44年)年9月、外務省に入省(第20回、芦田均・堀内謙介・桑島主計らと同期)、在ドイツ・在英国各公使館書記官、在シアトル領事を経て、各国において日本国公使として勤務していたが、1930年(昭和5年)には駐華公使となる。1931年(昭和6年)9月、日本陸軍の一部が突如中国東北部を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となる。これに対し重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線によって収めようと奔走。1932年(昭和7年)1月、第1次上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の下、中国との停戦交渉を行う。何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家・尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」[1]と語り、事件の7日後の5月5日、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。このとき重光の隣でやはり遭難し片目を失った海軍大将の野村吉三郎も、後に外相、そして駐米大使となり、日米交渉の最前線に立つことになる。なお、弁当箱状の爆弾が投げつけられた時、逃げなかったことについて「国歌斉唱中だったから」と答えている。
第1次上海事変を中国が国際連盟に提訴したことを引金に、1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする決議案(リットン報告書)が 賛成42ヵ国 対 反対1ヵ国(日本) で採択された。これを不服とする日本は国際連盟から脱退を宣言し国際社会から孤立していく。このころ重光は「欧米の国々は民主主義民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。
その後、駐ソ公使(張鼓峰事件、乾岔子島事件に関与)、駐英大使を歴任。特に日英関係が悪化する中での関係好転や、蒋介石政権への援助中止要請などに尽力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだった。その重光が欧州戦争に「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにもかかわらず日本政府は聞き入れず、1940年(昭和15年)09月27日、松岡洋右外相(第2次近衛文麿内閣)が日独伊三国同盟を締結し、アメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。
1941年(昭和16年)12月08日(日本時間)、太平洋戦争が始まる。日本は東南アジアの欧米の植民地を占領。外交官として重光はこれに対し「日本は卑しくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」[2]と怒っている。
戦時中の外相
東條英機内閣・小磯国昭内閣において外相を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対、しかしながら、東條首相のブレーンとして自らの主張を現実にするため、1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。
敗戦国の全権
重光は敗戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で外相に再任され、大日本帝国政府の全権として降伏文書(ポツダム宣言受諾による無条件降伏の契約書)に署名するという大役を引き受ける。1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、大本営代表の参謀総長梅津美治郎と共に日本全権として署名を行った。重光はこれを「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」と捉え[3]、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。
外相辞任後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者の弁護の準備を進めていたが、1946年(昭和21年)4月13日に来日したソ連代表検事のS・A・ゴルンスキーがジョセフ・キーナン首席検事に対して、重光が第二次世界大戦中に東條内閣、小磯内閣で外務大臣を務めたことに対して、重光をA級戦犯として起訴するよう強硬に要求してきた。当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時の民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さぶりに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認さぜるを得なくなった。結局、4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、1948年(昭和23年)11月12日に有罪・禁固7年の判決を受けた。裁判においては、高柳賢三・ジョージ・ファーネス両弁護人の尽力などもあって、その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものとなったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決はソ連を満足させるためのGHQによる政治的妥協であると評する声も多かった。事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。貴下の無罪は何人も疑わぬところであった」と憤りを表し、ケンワージー中佐などは「判決は絶対に覆るはずだ」とまで述べていたという。4年7ヵ月の服役の後、1950年(昭和25年)11月に仮釈放されている。連合国と日本の講和条約の発効後、講和条約の規定に基づいて、日本政府と極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府との合意により、恩赦により刑の執行を終了した。
戦後
重光は講和条約の発効、公職追放解除後は衆議院議員に3回選出された。改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。改進党総裁であった1952年(昭和27年)に野党首班として内閣総理大臣の座を吉田茂と争い、内閣総理大臣指名選挙の衆議院で2位。続く1953年(昭和28年)の総選挙後、少数与党となった吉田の日本自由党からの連立の呼びかけを拒否する。野党の首班候補として重光の内閣総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず決選投票で敗北。吉田との会談により閣外協力を受け入れた。その後、鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。1955年(昭和30年)の保守合同による自由民主党の結党に参加。
1954年(昭和29年)12月~1956年(昭和31年)12月の期間、第1~3次鳩山一郎内閣で第二次世界大戦中の3回に続いて4回目の外務大臣を務めた。1955年(昭和30年)4月、インドネシアでアジア・アフリカの29カ国が集まるアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、アジア・アフリカの国々が第三勢力として協力し合う方針を打ち出した。日本はこの会議でアジアの一員として国連加盟の支持を得た。9月1日、重光は国連本部を訪れレセプションを開催し、経済復興した日本が国際社会に貢献できると国連加盟をアピールしたが、12月の国連安全保障理事会でソ連に反対され、常任理事国として拒否権を行使され、国連への加盟は達成できなかった。国連加盟を果たすため、鳩山一郎内閣は国交がなかったソ連との国交回復を目ざし、1956年(昭和31年)7月、重光はモスクワで日ソ国交回復交渉に入るが、北方領土問題が難航し交渉を妥結できなかった。このことから重光は、『日ソ平和条約締結のためには歯舞・色丹の2島のみを返還するというソ連案を受け入れるしかない』という旨の電文を東京に打電した。しかし、鳩山は、重光の提案を拒否し、重光をスエズ会議に送ったうえで、自ら交渉に臨んだ。しかし、北方領土問題を何ら打開できず、米国からは弱腰外交だと批判されたため、鳩山は日ソ平和条約の締結および北方領土問題の解決を棚上げすることとし、10月19日、ソ連との国交回復を意味する日ソ共同宣言だけを行い、これによって『日本の国連加盟に反対しない』旨の内諾をソ連から得た。
同年12月18日、国連総会は加盟76か国の全会一致で日本の国連加盟を承認した。重光は日本の国連加盟が認められたことに対する加盟受諾演説で、「日本は東西の架け橋になりうる」と表明し[4][5]、国連総会に出席していた加盟国の代表団から拍手で受け入れられた。その直後に国連本部前庭に自らの手で日章旗を高々と掲げた重光は、その時の心境を「霧は晴れ 国連の塔は輝きて 高くかかげし 日の丸の旗」と詠んでいる。帰国前の12月23日、日本では第3次鳩山一郎内閣が総辞職して石橋湛山内閣が成立していたため外相の重光も辞任となる。日本への帰途、同行した加瀬俊一に対して笑顔で「もう思い残すことはない」と語った。
それから一月後の1957年(昭和32年)1月26日、重光は狭心症の発作により神奈川県湯河原町の別荘で急逝した。69歳だった。重光の外務大臣と国際連合への加盟実現の功績に対して、死後に勲一等旭日桐花大綬章が授与された。
人となり
重光を知る者は「欠点がないことが欠点だ」と彼を評することが多かった。重光は駐華公使のとき第1次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。義足をつけた状態での歩行は大変な困難だったにもかかわらず、彼自身はその事を気にする素振りはなかった。後年ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦するアメリカの水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという(もっとも、松葉杖を落とすなど署名にかなりもたつき、これを見苦しい引き延ばしと解釈したハルゼーに一喝されたという逸話も伝えられる)。
その後、公務に復帰した際、広田弘毅外相(斉藤実内閣)は、重光の体を気遣って当時外交懸案の少なかった駐ソ大使に任命し、駐ソ大使に予定していた東郷茂徳を駐独大使とした。ところが、張鼓峰事件の処理などを巡って重光とソ連外務省が対立、さらにはソ連のマスコミによって「無能な外交官」と批判された(松岡洋右がこの話を聞いて重光に同情し、後に松岡洋右外相の下で行われた主要国大使の一斉解任の際にも、重光駐英大使だけは対象から外されたという)。また、極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だったとされている(上記#敗戦国の全権)。他方、急遽駐独大使となった東郷茂徳のほうもナチス・ドイツに嫌われた挙句に駐独大使を追われ、極東国際軍事裁判では「親独派」の疑いをかけられる事となり、広田の配慮がどちらも裏目裏目に出る結果となった。
戦後、進駐軍が厚木飛行場に到着した際には、重光は外相兼大東亜相(東久邇宮稔彦王内閣)として横浜市に対し「米軍を絶対に首都には入れないこと、直接軍政はさせないこと、軍票は使用させないこと」を厳命した[6]。
巣鴨プリズンに収監されている頃に、障害者ながら社会福祉事業家として活躍していたヘレン・ケラーのニュースが耳に入ってきた際、元将官たちが「あれは盲目を売り物にして居るんだよ」とこき下ろしたことに対して、重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判し彼らの見解の偏狭さを嘆いている[7]。
近衞文麿とは親交があったが、敗戦後、近衞が戦争に関する自分の責任を回避すべく天皇や軍部に全責任を転嫁するかのような言動に終始したことについては「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と述べ、近衞を格別厳しく批判している。
戦後、鳩山一郎内閣で外相を務めた際、鳩山が「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と無神経に発言したため外交官出身の重光は鳩山との関係が悪化した。また鳩山が日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。
著作
著書
- 『昭和の動乱 (上・下)』 (中央公論新社〈中公文庫BIBLIO〉、2001年)
ISBN 4122039185 & ISBN 4122039193/初版1952年(中央公論社 上・下) - 『重光葵 外交回想録』 (中公文庫、2011年) ISBN 4122055156 / 復刻版(人間の記録7:日本図書センター、1997年)
元版 毎日新聞社(初版1953年、新版1978年、序文加瀬俊一) - 『巣鴨日記 (正・続)』 (文藝春秋新社、1953年)、『文藝春秋』 昭和27年8月号に抜粋掲載。
文書集
- 『重光葵手記』(伊藤隆・渡辺行男編、中央公論社、1986年)、ISBN 4120015181
- 『続 重光葵手記』(伊藤隆・渡辺行男編、中央公論社、1988年)、ISBN 4120016846
- 『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』(伊藤隆・武田知己編、中央公論新社、2004年)、ISBN 4120035492
- 『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(服部龍二編、日本図書センター、2002年)
- 1931年12月に重光が作成・提出した中国外交に関する報告書『革命外交』に解説を付し復刻した文献
- 『重光葵・外交意見書集 (全3巻)』(武田知己監修、重光葵記念館編、現代史料出版)
- 「第1巻 駐ソ大使・駐英大使時代」(2010年)
- 「第2巻 駐華大使・外務大臣時代(上)」(2007年)
- 「第3巻 外務大臣時代(下)・その他」(2008年)
参考文献
評伝
- 豊田穣 『孤高の外相 重光葵』(講談社、1990年)、ISBN 4-06-204611-3
- 渡邉(渡辺)行男 『重光葵 上海事変から国連加盟まで』(中公新書、1996年)、ISBN 4-12-101318-2
- 阿部牧郎 『勇断の外相 重光葵』(新潮社、1997年)、ISBN 4-10-368805-X
- 岡崎久彦 『重光・東郷とその時代』(PHP、2001年6月/PHP文庫、2003年9月)、ISBN 4-569-66038-X
- 福冨健一 『重光葵 連合軍に最も恐れられた男』(講談社、2011年8月)、ISBN 4-06-217115-5
- 植松三十里 『調印の階段』(PHP研究所 2012年8月)、ISBN 4-569-80649-X
研究書・論文
- 武田知己『重光葵と戦後政治』(吉川弘文館、2002年)、ISBN 4-642-03743-8
- 牛村圭『「勝者の裁き」に向きあって――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房〈ちくま新書〉、2004年)、ISBN 4-480-06162-2
- 浅野豊美『帝国日本の植民地法制――法域統合と帝国秩序』(名古屋大学出版会、2008年)、ISBN 4-815-80585-7
- 小泉憲和『重光葵と昭和の時代――旧制五高で学んだ外交官の足跡』(原書房〈明治百年史叢書〉、2010年)、ISBN 4562045594
- 臼井勝美『中国をめぐる近代日本の外交』(筑摩書房、1983年)
- 酒井哲哉『大正デモクラシー体制の崩壊――内政と外交』(東京大学出版会、1992年)
- 田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究――戦後日ソ関係の起点 1945~1956』(有斐閣、1993年)
- 波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』(東京大学出版会、1996年)
- 小池聖一『満州事変と対中国政策』(吉川弘文館、2003年)
- 田浦雅徳「重光葵――その世界構想」『彷書月刊(特集・昭和の外交官)』、1988年3月号 通巻第31号
- 御厨貴「昭和20 年代における『第二保守党』の軌跡――『芦田日記』『重光日記』にみる芦田・重光・三木」、近代日本研究会編『年報・近代日本研究(9)戦時経済』(山川出版社、1987年)
その他
- 小林よしのり『いわゆるA級戦犯――ゴー宣SPECIAL』(幻冬舎、2006年、ISBN 4-344-01191-0)
脚注
外部リンク
- 重光葵記念館
- 衆議院>憲政記念館>重光葵(しげみつまもる)とその時代
- 科学研究費成果報告書「近現代日本の政策史料収集と情報公開調査を踏まえた政策史研究の再構築」(基盤研究 (B) (1)、代表者伊藤隆平成15・16年度、代表者伊藤隆、課題番号:15330024)より
- 重光研究を行っている武田知己・大東文化大学准教授による、重光関係資料の紹介(2004年8月23日)
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
岡崎勝男
東郷茂徳
谷正之
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第82-84代:1954年 - 1956年
第71代:1945年
第67・68代:1943年 - 1945年
|style="width:30%"|次代:
岸信介
吉田茂
鈴木貫太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
緒方竹虎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国務大臣(副総理)
1954年 - 1956年
|style="width:30%"|次代:
石井光次郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
青木一男
東郷茂徳
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大東亜大臣
第2代:1944年 - 1945年
第5代:1945年
|style="width:30%"|次代:
鈴木貫太郎(兼任)
廃止
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
結成
|style="width:40%; text-align:center"|改進党総裁
初代 : 1952年 - 1954年
|style="width:30%"|次代:
日本民主党へ
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テンプレート:外務大臣
テンプレート:在イギリス日本大使
テンプレート:在ロシア連邦日本大使
テンプレート:在中国日本大使
テンプレート:A級戦犯
- ↑ 『隻脚公使』より。
- ↑ 『昭和の動乱』より。
- ↑ 五百籏頭真『占領期』49頁
- ↑ 外務省>報道・広報>演説国際連合第十一総会における重光外務大臣の演説
- ↑ 外務省>報道・広報>演説国際連合第十一総会における重光外務大臣の演説の英語版
- ↑ 第一項については実現していない。
- ↑ 『巣鴨日記』(『文藝春秋』1952年(昭和27年)8月号掲載)