鳩山一郎
テンプレート:政治家 鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階は正二位。勲等は大勲位。
目次
概要
1912年(大正元年)に東京市議会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動。1954年(昭和29年)-1956年(昭和31年)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となり、日本とソビエト連邦の国交回復を実現した。
戦前の事績
戦前は主に立憲政友会の議員として活躍した。ただし、1924年(大正13年)の政友会分裂では政友本党に参加して一時期政友会を離脱していたが、1926年(大正15年)には自身が中心となって合計26名で政友会に復帰、田中義一総裁に気に入られて復党早々に幹事長に登用されて党内の反発を受けた[1]。1927年(昭和2年)の田中義一内閣でも内閣書記官長に就任するなど、重用された。1930年(昭和5年)、第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇の統帥権の干犯に当たるとして濱口内閣を攻撃、濱口首相狙撃事件の遠因となった。また、狙撃事件後傷の癒えぬ濱口雄幸に執拗な登院要求を行い、濱口は無理を押して登院したことが災いし5ヶ月後に死去した。統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱めるものであった為、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。鳩山は対立する立憲民政党政府を苦しめることを企図したようだが、議員としては政争に明け暮れて大局を見失っていたことになる。また、この時期の政友会は田中義一・鈴木喜三郎両総裁の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまった事になる。さらに第2次若槻内閣末期には山本悌二郎、森恪らと共に陸軍首脳であった永田鉄山、今村均、東条英機らに倒閣を持ちかける(これに関しては陸軍が拒否した)といった、議会人としては極めて問題のある行動にも及んでいた。
いずれにしても、こうした行動は戦後になってGHQから「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として追及され、公職追放の一因となった。
鳩山は犬養内閣から齋藤内閣にかけて文部大臣を務めたが、1932年(昭和7年)に義兄の鈴木が犬養毅の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。1933年(昭和8年)の京都帝国大学の滝川幸辰の学説・思想を非とするいわゆる滝川事件の際には、京大総長に対して滝川教授の免職を要求し、これが拒絶されると文官分限令によって一方的に滝川を休職処分にした。このことは戦後になって反対派の批判材料とされた。
樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された樺太工業問題の際には散々弁明したあげく「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ辞職の意思表示だと報道され、嫌気がさして辞職した。「明鏡止水」は流行語になった。 この事件は政友会の久原房之助による内閣攻撃の一環であり、枢密院の平沼騏一郎が後ろで糸をひいていたという。
帝人事件では台湾銀行頭取にはたらきかけて11万株の帝人株を払い下げさせたといわれたが、そもそもこの疑獄事件は砂上の楼閣で、ここでも平沼騏一郎の画策があったとされている。
1936年(昭和11年)2月20日の総選挙で総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大ひんしゅくを買う。鳩山は総裁代理として党を主導しようとしたが、特に軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島知久平・前田米蔵・島田俊雄らと対立した。1939年(昭和14年)の政友会分裂に対しては中島を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ自由主義的な正統派(久原派)を結成したが[2]、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山は久原とも対立した。1940年(昭和15年)に鳩山は民政党総裁の町田忠治と極秘に会談し、政友会の正統派と民政党を合同させて新体制運動に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために圧力をかけたのが久原であった。
1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際して、自由主義政党人として、議会制民主主義を守る立場から反対した。1943年(昭和18年)の第81帝国議会では東條内閣による戦時刑事特別法改正案に反対し翼賛政治会を脱会した。その後は軽井沢で隠遁生活を送った。引っ込んだ理由としては、軍部のいうがままに流される議会に失望し、その潮流に巻き込まれたくなかったこと、東條英機首相の対抗馬になりうるのが近衛文麿や木戸幸一のようなインテリしかおらず、兵隊上がりの東條を退陣させることはとてもではないが無理であると考えたことが挙げられる。
戦後〜総理大臣として
テンプレート:Main 第二次世界大戦終結後、1946年(昭和21年)の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権問題を発生させたこと等をGHQが問題視したため、公職追放(1946年)となる(軍国主義台頭に協力したとの理由の他に戦前政友会の総裁の時にナチス・ドイツのヒトラーの行政政策を成功と言った事と戦後のアメリカに批判したことが各新聞の記事に載ったと理由 ─ 統帥権や滝川事件を参照のこと)[3]。また追放解除を目前に脳梗塞で倒れた(1951年)。
首相の座を目前にしての追放、病気と不運な状態が続いたことから世間の同情を集めることになった。貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂が不人気で政権を降りた後、首相になると(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。在任中、盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。これにより保守勢力と革新(この時点では社会主義)勢力を軸とした55年体制が確立された。また、吉田前首相のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった日ソ国交回復を成し遂げた。
日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。また、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。またエネルギー政策での功績では、原子力基本法を提出、成立させ後の原子力発電時代の礎を築いた。
1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言により国交を回復した後に内閣総辞職、政界を引退した。その後、友愛青年同志会[4]を育成するほかは、療養生活を送り、長男鳩山威一郎の末っ子鳩山邦夫が学習院初等科4年から5年に進級直前、1959年(昭和34年)3月7日に亡くなった。
近年1955年(昭和30年)に、在日米軍の駐留を認める旧日米安保に代わる条約として、在日米軍を撤退させ日本の集団的自衛権を認める「日米相互防衛条約」を検討し、アメリカに打診していたことが明らかになっている[5][6]。
逸話
- 文京区音羽の自邸、通称「音羽御殿」は、高等師範学校附属中学時代からの友人で建築家の岡田信一郎による設計。体が不自由だった鳩山は自邸を政治の場に活用し記者会見にも利用した。また、1945年に発表された「ピース(平和)」という名前の品種のバラを気に入り、音羽御殿に100本以上植えさせた。現在は鳩山会館として一般に公開されている。
- 文部大臣時代の1933年、聾学校での手話教育を口話教育に転換させた。
- 第一高等学校に入学が決まり、当時、皆寄宿寮制度であった一高の不衛生で蛮カラな寮に息子を入れる事を嫌がった母・春子が、当時の校長の狩野亨吉と自宅通学の可否を巡り悶着を起こすが、結局狩野校長に『入寮がお嫌いなら他の学校を選びなさい』と言われ、それでも『鳩山家には鳩山家の家庭教育が御座いますから』と食い下がる春子に、狩野は『じゃ、学校も廃して家庭教育にしたらよいでしょう』と言われ、しぶしぶ一郎を入寮させる。結果として一郎は春子が懸念するまでも無く、快適な寮生活を過ごした[7]。
- 鳩山が結婚前に薫に宛てたラブレターは本にまとめられて『若き血の清く燃えて』(講談社、1996年)として刊行されている。
- 教育者の家庭に育ち、政治家としてはアクの強さに欠ける面があったようだが、盟友の大野伴睦や三木武吉らに支えられ、政党政治家として筋を通した。
- 政界一家の2代目かつお坊ちゃん育ちのせいか、時折気に入らないことがあると同志や家族に向けてかんしゃくを起こすことがあり、妻の薫に対しても暴力を振るうことがあった。それに対して薫は「私を相手に暴力を振るうことがあっても同志の方にそのような振舞いをしてはいけません」と言って夫を諭した。後に脳梗塞で倒れても、以前の薫の教えを守っていたために同志達が離れることもなく、以後鳩山は薫を非常に大切にするようになったのだと言う。孫の邦夫の幼時の回想では、かんしゃくを起こした際にとりなす役目も薫がしていた。
- 分派政党を作っては合流といったことを繰り返したため、保守合同時の自由党総裁だった緒方竹虎から「出たり入ったり、また出たり」と皮肉を言われた。
- クリスチャン(キリスト教徒)でなおかつフリーメイソンである。
- 戦後、青森へ遊説に行くため、上野で汽車に乗ろうとすると、車両が中華民国人に占拠され、車両を出て行こうとしない老人が殴られるのを目撃した。青森から東京に戻る際には、朝鮮人が列車を占拠しようとしたが、駅長が拒否するという事件にあった。自衛隊はこういうことが起こらないために必要だと述べている。
- 大の甘党で、赤飯に砂糖をかけて食べたという。
- バラの花を好み、総理在任中も休日には「とどろきばらえん」(東京都世田谷区)を訪れバラを観賞し、苗木を購入、自宅の庭に植えさせている。政界引退後はバラ栽培に没頭した。
- プロスポーツにも造詣が深く、読売ジャイアンツでは後援会会長を務め、プロボクサー田中敏朗を支援した。
友愛
友愛(Yūai)の提唱者
鳩山一郎の提唱する「友愛」は、1938年に出版されたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書『The Totalitarian State against Man』(直訳: 全体主義国家対人間)[8][9]を原点としている。鳩山一郎は、英訳の本書を早稲田大学教授市村今朝蔵から受け取って翻訳し[10]、「Fraternity」(フラタニティ。元のドイツ語はBrüderlichkeit ブリューダーリッヒカイト)を「友愛」と訳出、『自由と人生』の邦題で1952年に洋々社から出版した[11]。一郎は友愛の普及に努め、一郎の孫の代に引き継がれるに至っている。財団法人日本友愛青年協会は、鳩山一郎の「友愛」を、文字通りの友愛(Yuai)と紹介している。
友愛は『自由と人生』で述べられる「友愛思想」「友愛革命」「友愛社会」に即した思想である。日本友愛青年協会の見解としては、友愛は体系化された理論ではなく、今後、人々が研究を深めることで完成されるという。
クーデンホーフ=カレルギーの思想に則った「友愛」が目指すのは、母性愛による優しい世界づくりである。各論は、相互尊重、相互理解、相互扶助、人道主義、人格主義、協力主義、騎士道、武士道、淑女紳士としての人間関係構築、等である。[12] 友愛運動の理念であるところの、人格の尊厳に基づく相互尊重、相互理解、相互扶助(または相互協力)を、友愛3原則という[13]。
友愛青年同志会
1953年(昭和28年)、友愛を標榜する友愛青年同志会が結成され、鳩山一郎が会長に就任した。一郎は10万人の会員を率いる会長として政財界で指導力を発揮した。1959年(昭和34年)、友愛を更に広めるべく財団法人日本友愛青年協会が設立された(一郎の妻、薫が理事長就任)。1973年(昭和48年)、友愛青年同志会は友愛青年連盟に名称を変更。1998年(平成10年)、友愛青年連盟は財団法人日本友愛青年協会と合併し、2011年から一般財団法人日本友愛協会となった。関連団体に友愛婦人会(1958年結成)、友愛クラブ(1967年発会)がある。また、各地に友愛山荘が設立されている。[13]
フリーメイソン
フリーメイソンリーは友愛の団体である。日本のフリーメイソンリーに取材をしたジャーナリスト赤間剛の著書『フリーメーソンの秘密 世界最大の結社の真実』(1983年)によると、赤間がフリーメーソン・ライブラリーのカードを閲覧したところ、鳩山一郎は「1951年3月29日入会」「(ロッジ番号)No.2」とあった[14]。入会場所は「東京ロッジ No.125」[15]。
鳩山は河井彌八とともにフリーメイソン第二階級、第三階級に昇進した(1955年3月26日)[16][17]。
鳩山は「友愛精神」という言葉の他、「兄弟愛」という言葉を用いて昇進の挨拶をした(1956年6月5日)[18]。
経歴
- 1883年(明治16年) 東京市牛込区(現・東京都新宿区)東五軒町に出生。父・鳩山和夫は文部省第1期留学生、弁護士、東京府議会議員。母・春子は東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の英語教師、明治19年共立女子職業学校(共立女子大学)を創立。
- 1895年(明治28年) 高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。
- 1900年(明治33年) 高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
- 1903年(明治36年) 旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)卒業。
- 1907年(明治40年) 東京帝国大学英法科卒、父の弁護士事務所に勤める。
- 1908年(明治41年) 愛国団体玄洋社出身の衆議院議員秘書課長寺田栄の長女寺田薫と結婚。
- 1911年(明治44年) 父・和夫が死去(衆議院議員兼東京市議、東京弁護士会会長)。
- 1912年(大正元年) 父の補欠選挙で東京市会議員に初当選。
- 1915年(大正4年) 立憲政友会公認で衆議院議員に当選。
- 1918年(大正7年) 長男・威一郎誕生。
- 1924年(大正13年) 政友会分裂に伴い、政友本党に参加。
- 1925年(大正14年) 政友本党を離党、翌年に同交会を経て政友会に復党。
- 1927年(昭和2年) 田中義一内閣の内閣書記官長(1929年まで)。
- 1931年(昭和6年) 犬養内閣の文部大臣。五・一五事件後、斎藤内閣で引き続き文部大臣(1934年まで)。
- 1933年(昭和8年) 文部大臣として滝川事件に関与。
- 1934年(昭和9年) 帝人事件で汚職の疑いをかけられ辞職(斎藤内閣も後に総辞職)。
- 1937年(昭和12年) 中島知久平・前田米蔵・島田俊雄とともに政友会総裁代行委員に就任する。
- 1939年(昭和14年) 政友会の分裂に伴い、正統派に所属する。
- 1942年(昭和17年) 翼賛選挙に非推薦で出馬、無所属で当選。
- 1943年(昭和18年) 東條内閣を批判し、軽井沢へ隠遁。
- 1945年(昭和20年) 終戦後軽井沢から上京、日本自由党結成(総裁)。
- 1946年(昭和21年) 総選挙で日本自由党が第一党になるが公職追放の措置を受ける。
- 1951年(昭和26年) 脳出血で倒れる、追放解除。
- 1954年(昭和29年) 日本民主党結成(総裁)、総理大臣になる。第1次鳩山一郎内閣発足。
- 1955年(昭和30年) 1月「天の声解散」、総選挙で民主党は比較第一党となるも少数与党にとどまる。3月、第2次鳩山一郎内閣発足。
- 1955年(昭和30年) 保守合同で自民党結成(55年体制を参照)。第3次鳩山一郎内閣発足。
- 1956年(昭和31年) モスクワで日ソ共同宣言(日ソ国交回復)、内閣総辞職。
- 1959年(昭和34年) 逝去。墓所は東京都台東区の谷中霊園。大勲位菊花大綬章が没後受勲された。
家族・親族
- 祖父:博房(美作勝山藩士)
- 父:和夫(弁護士、代議士、衆議院議長)
- 母:春子(信州松本藩士・渡辺努(明治になって多賀に改姓)の長女、教育者、共立女子学園の創立者のひとり)
- 姉:カヅ(政友会総裁・鈴木喜三郎に嫁ぐ)
- 弟:秀夫(民法学者、嫁は数学者・菊池大麓の次女・千代子。息子道夫はソニー常務取締役兼中央研究所所長。)。
系譜
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著書
- 『鳩山一郎・薫日記』上・下(伊藤隆、季武嘉也編 、中央公論新社、1999年・2005年)
- 『鳩山一郎回顧録』(文藝春秋新社 1957年)口述筆記
- 『私の自叙伝』(改造社、1951年)
- 『私の信条』(東京文庫、1951年)、ほか著書は戦前に複数刊行。
参考文献
- 鈴木幸夫 『閨閥(けいばつ) 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社 昭和40年 82-88頁
- 宮崎吉政『鳩山一郎』〈日本宰相列伝19〉 (時事通信社、1989年)
- 堀徹男 『さようなら、みなさん! 鳩山日ソ交渉五十年目の真相』(木本書店、2007年)
- 豊田穣『英才の家系 鳩山一郎と鳩山家の人々』(講談社1990年、講談社文庫、1996年) ISBN 4-06-263447-3
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥(菊池・鳩山・石橋家 個性豊かな人物群)』 角川書店 1983年 165-168頁
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 45-60頁
- Itoh, Mayumi (2003), The Hatoyama Dynasty: Japanese Political Leadership Through the Generations, Palgrave-Macmillan (伊東真弓著 『鳩山一族 四世代に渡る日本の政治指導家』 パルグレイブ マクミラン出版 ) , ISBN: 1-4039-6331-2, http://www.amazon.com/The-Hatoyama-Dynasty-Leadership-Generations/dp/1403963312
脚注
関連項目
外部リンク
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
吉田茂
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第52・53・54代:1954年 - 1956年
|style="width:30%"|次代:
石橋湛山
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
田中隆三
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部大臣
第40代:1931年 - 1934年
|style="width:30%"|次代:
齋藤實(兼任)
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
塚本清治
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣書記官長
第28代:1927年 - 1929年
|style="width:30%"|次代:
鈴木富士彌
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
結成
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総裁
初代 : 1956年
|style="width:30%"|次代:
石橋湛山
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
結成
|style="width:40%; text-align:center"|日本民主党総裁
初代 : 1954年 - 1955年
|style="width:30%"|次代:
自由民主党へ
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
結成
|style="width:40%; text-align:center"|日本自由党総裁
初代 : 1945年 - 1946年
|style="width:30%"|次代:
吉田茂
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
鈴木喜三郎(総裁)
|style="width:40%; text-align:center"|立憲政友会総裁代行委員
1937年 - 1939年
|style="width:30%"|次代:
革新同盟と正統派に分裂
- 転送 Template:End
テンプレート:内閣官房長官 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:自民総裁
テンプレート:自由民主党 (日本)- ↑ 井上寿一『昭和戦前期立憲政友会の研究』2004年、慶応大学出版会、pp28-29
- ↑ 1939年(昭和14年)4月に政友会が分裂した際は久原・三土忠造・芳澤謙吉の3人が政友会正統派の総裁代行委員に就任し、1ヶ月後に久原が正統派の総裁に就任した。
- ↑ かつての著作『外遊日記 世界の顔』(1938年)がヒトラー礼賛本とされ、公職追放の一因になったと言われるが、特にファシズム礼賛という内容ではない。また実際には鳩山ではなく評論家の山浦貰一がゴーストライターとして執筆したと言われている。
- ↑ 鳩山はリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの友愛思想に感銘を受け、クーデンホーフ=カレルギーのドイツ語の著作の英訳書である『The Totalitarian State against Man』(1938年)を『自由と人生』(1952年)と題して自ら翻訳出版日本友愛青年協会の沿革。翌1953年に友愛青年同志会を結成した(後の財団法人日本友愛青年協会)という経緯がある。
- ↑ 読売新聞(夕刊) 2010年(平成22年)7月27日
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ ドナルド・T・ローレン 『友の憂いに吾は泣く(下)』(講談社)より。
- ↑ 『The Totalitarian State against Man』は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーによるドイツ語の原書『Totaler Staat, totaler Mensch』(1937年)の英訳書である。ドイツ語の原書は1965年に改名され『Totaler Mensch, totaler Staat』として再出版された。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書に関しては1968年出版の『Für die Revolution der Brüderlichkeit』(直訳: 友愛革命のために 出版社: Verlag Die Waage ISBN 3-85966-030-6)も参照。
- ↑ 英訳書『The Totalitarian State against Man』は、サー・アンドリュー・マクファディエン(Sir Andrew McFadyean)による英訳。英訳書序文の著者はヘンリー・ウィッカム・スティード(Henry Wickham Steed)。英訳書の他、フランス語訳の『L' Homme et l'Etat totalitaire』(1938年)もあり、訳者はマルセル・ボーフィス(Marcel Beaufils)。日本語訳は本文参照。
- ↑ 2005年「日・EU市民交流年」に向けて - リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーが生み出した「人と人との交流」- (『友愛』2004年9月10日号より転載) 東北大学大学院法学研究科・法学部RCK通信
- ↑ 1953年、乾元社から再出版。1967年、洋々社から再出版。
- ↑ 鳩山友愛塾公式サイト 設立趣意書
- ↑ 13.0 13.1 財団法人日本友愛協会公式サイト
- ↑ 赤間79ページ
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 赤間88ページによれば1955年5月25日に「昇進が行われた」とある。
- ↑ 赤間85ページ