衆議院議長
テンプレート:政治の役職 衆議院議長(しゅうぎいんぎちょう)は、衆議院において秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、衆議院を代表する役職(国会法19条、旧・議院法10条)。なお、衆議院議長の職務を代行する職である衆議院副議長や仮議長についても述べる。
日本国憲法下の衆議院議長
概要
参議院を代表する参議院議長とともに立法府を司る三権の長である。衆議院議長は憲法上及び国会法上の国会の役員であり(日本国憲法第58条1項、国会法16条1号)、衆議院議員の中から1名、議院によって選出される[1]。
衆議院議長及び参議院議長は立法機関の長として内閣総理大臣(行政)、最高裁判所長官(司法)と並ぶ三権の長の一角である。総理及び最高裁長官の就任には天皇からの任命が必要であるのに対し、議長はこれを必要としない。
栄典に関しては慣例上議長経験者は死去の際に従二位・桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)に叙されるが、これは正二位・大勲位菊花大綬章に叙される総理経験者より一段格下の扱いとなっている。一方法律上の報酬額に関しては議長は月額218万2000円であり、月額207万1000円の総理及び最高裁長官を上回っている。
議長はその重大な職権にも関わらず、慣例上自己の判断により権限を行使する機会の少ないポストであることから政界においては事実上の名誉職、「上がりポスト」とみられている。
戦後間もない1948年には衆議院議長職経験を持つ山崎猛が首班候補とする山崎首班構想があったり[2]、戦後日本政治の過渡期には衆議院議長経験者がさらなる権力意欲を目指して政権要職に就任する例は珍しくなかった[3]。
しかし、戦後日本政治の過渡期が過ぎてからは、衆議院議長は長老格の政治家が最後に就任する上がりのポストとされてきた。また前尾繁三郎や坂田道太は衆議院議長退任後に首相就任の声がかかった際に、「議長経験者が首相になるのは国会の権威の上からよくない」として辞退してこともあり、衆議院議長経験者がさらなる権力欲を目指すことは慎むべきとする風潮が浸透していった。衆議院議長候補にあげられた二階堂進や小渕恵三は首相に意欲を示していたために議長就任を断っている。自民党では衆議院議長経験者を首相経験者とともに最高顧問として遇するなど、公的な席や政界において三権の長の経験者として高い格式が与えられている。
一方で前述のように戦後日本政治の過渡期時代には議長経験者山崎猛が首相候補に擬せられたり、過渡期が過ぎた後も土井たか子と綿貫民輔が衆議院議長職経験後に小政党の党首に就任し、首班指名選挙で票を得た例があった。
なお、衆議院議長を経験後に内閣総理大臣になった者は存在しない(内閣総理大臣退任後に衆議院議長に就任した人物として幣原喜重郎がいるが、旧憲法と新憲法の時代をまたいでいる点に留意する必要がある)。
なお、日本社会党・民主党出身の副議長のうち、副議長経験後に党首になった者は存在しないが、国会対策委員長や国務大臣に就任した例がある。自民党で正副議長を独占していた時代における副議長はキャリアパスであり、その後に党幹部や閣僚に就任した例も多い(ただし首相になった者はいない)。
衆議院議長の職については、国会法(昭和22年4月30日法律第79号)(以下、本項において「法」という)により両議院に共通した規定と、衆議院規則(昭和22年6月28日議決)(以下、本項において「規則」という)による衆議院独自の規定とがある。
選任
衆議院議長の選挙は、議会召集日または議長が不在の場合において、集会した議員が総議員の3分の1に達した後で、事務総長による議長の職務代行のもとで行われる[4](法第6条、規則第3条)。議長選挙は無名投票[5] であり(規則第3条第2項)、半数を得たものを当選人とする(規則第8条)。投票の過半数を得た者がない場合は投票数上位2人について決選投票を行い、2人の得票数が同じ場合はくじで決定する(規則第8条第2項)。
議長・副議長の選挙の流れでは、事務総長の「これより点呼を命じます」の宣告で投票が始まり、参事の氏名点呼で呼ばれた議員から時計回りで壇上に上がり、木札の名刺(白色)を参事に渡した後に票を投じる。壇上には参事が2人おり、1人は木札の名刺を受け取り、目盛の付いたケースに積み上げる。もう1人は投票用紙を渡して票を投じる。投票終了後、事務総長が「投票漏れはありませんか」と投票漏れがないか確認し、なければ事務総長の「投票漏れなしと認めます。投票箱閉鎖・開票。これより名刺および投票の計算ならびに投票の点検を命じます。」の宣告が入る。最初に参事3人で名刺の計算を行い、事務次長に集計を記録。続いて投票箱を閣僚席後のテーブルに持って行き、10名の参事により開票作業が行なわれ、最後に集計を行なう。そして結果が記載された用紙を事務次長から事務総長に手渡され、事務総長から投票総数、名刺の数の符合(投票総数との一致)の有無、本投票の過半数、無効票の有無[6]が報告された後、投票の結果が報告される。事務総長自らの結果報告に続き、「右の結果、衆議院規則第8条により、○○君が議長に当選されました。」[7]と宣言する。
慣例として議長は第一党、副議長は第二党の長老議員から選出される。また、1973年5月29日以降、慣例として正副議長は会派を離脱し無所属となる。ただし議長・副議長の職を離れた後は出身党派に復帰することが通例。
- 議長選挙
自由民主党の結党以来、常に与党でありかつ比較第1党である自民党出身者が全会一致で議長に選出されてきたが、1993年の与野党逆転の際、連立与党第1党である日本社会党の土井たか子と比較第1党である自民党の奥野誠亮のどちらを議長とするかという調整がつかず、異例の競合投票によって土井が議長に選出された。この際日本共産党は自党議員に投票し、連立与党、自民党のどちらの主張にも与さない形となった。なお副議長は自民党から出され、これについては全会一致が踏襲された。
- 副議長選挙
副議長選挙は、第二会派から出すことが慣例となっているが、2000年7月の副議長選挙においては、与党側が渡部恒三(無所属の会)を、野党側が石井一(民主党)を推して対立選挙となった。このときの議長選挙において、野党側は綿貫民輔(自民党)に投票せずに、白票を投じている(白票のほかにも投票者本人を記載した無効票、極少数のみ自党議員などに投じた票もある)。
任期
正副議長の任期は衆議院議員の任期と同じである(法第18条)。解散によってすべての衆議院議員が地位を失うと、議員のひとりである議長も当然にその地位を失う。衆議院議員総選挙が行われたときは、直後に召集された国会の最初の本会議で議長の選挙が行われる(#選出と職務の代行の手続きによる)。
なお、議会が自ら選任した役員を解任するには国会法等のなど議会法上に特段の定めがある場合を除きなしえない[8]。現在、国会法は常任委員長についてのみ解任規定を置いており(国会法30条の2)、議長に対しての不信任決議は法的拘束力を有しないとされている。
待遇
日本国憲法による衆議院の優越とは別に、立法府の長としての衆議院議長は参議院議長と同等の資格であり、歳費などの具体的な待遇もすべて同一である。また、議長・副議長はそれぞれ公邸へ入居することができる。
なお、衆議院議長は自衛隊を公式に訪問し又は視察する場合その他防衛大臣の定める場合において栄誉礼を受ける栄誉礼受礼資格者に定められている(自衛隊法施行規則13条)。
権限
内容
国会法第19条は「各議院の議長は、その議院の秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、議院を代表する」と定めており、議長の権限には議院秩序保持権、議事整理権、議院事務監督権、議院代表権があるが、国会法や議院規則などに規定されている議長の諸権限はすべてこれらのいずれかに属するとされる[9]。なお、議院秩序保持権の中には議事整理権の発動としての面をもつものもある[10]。
議院秩序保持権
議員秩序保持権には議院警察権(法114条)などが含まれる[11]。
- 議院警察権(法第14章(第114条~118条の2)、規則第16章第1節(第208条~第210条))
- 議場内部における現行犯逮捕の命令(規則第210条)
- 国会閉会中における議員辞職の許可(法第107条ただし書)
- 議員の議席の指定(規則第14条)
- 委員の選任及び辞任の許可(規則第37条)
- 7日を超えない議員請暇の許可(規則第182条)
- 議場内の秩序を乱した議員に対する退席命令(規則第233条)
- 議場に入る者のつえ等携帯の許可(規則第213条ただし書)
- 演壇登壇の許可(規則第217条)
- 号鈴を鳴らすことによって全ての者を沈黙させること(規則第218条)
- 1946年6月21日に号鈴が鳴らされた際、紛糾していた議場がさらに紛糾してしまったことから、それ以後は2000年11月20日に1回使用例があるのみで、号鈴には「鳴らずの鐘」という異名がある。
- 全ての秩序についての問題の決定(規則第220条)
- 傍聴人の身体検査(規則第228条)
- 取締のための傍聴人数の制限(規則第230条)
議事整理権
議事日程の決定(法55条)や委員会への付託(法56条2項)のほか、議長決裁権(憲法56条2項)などもこれに含まれる[12]。
- 議院会議中における委員会開催の許可(規則第41条ただし書)
- 公聴会開催の承認(規則第78条)
- 会議開始時刻の変更(規則第103条ただし書)
- 午後6時を過ぎた場合の延会宣告(規則第105条第2項)
- 自席で発言している者に対する演壇での発言許可(規則第124条)
- 発言通告をしない者が発言する場合の発言許可(規則第127条)
- 記名投票における投票時間の制限(規則第155条の2)
- 可否同数時の決裁権(議長決裁権)(憲法第56条第2項)
事務監督権
- 衆議院事務総長の監督(法28条1項)
- 衆議院法制局長の監督(法131条4項)
代表権
- 国会開会式の主宰(法9条)
- 国会開会式は衆議院議長が主宰することになっている(法第9条)。開会式は参議院議長と協議して日時及び場所の指定を行う(規則第19条)。
- 天皇臨席の下開催される国会開会式は参議院本会議場で開催されるが、式の主宰者は衆議院議長である。かつて開会式の際、天皇が詔書を読み上げたあと、衆議院議長は右足から階段を上がって詔書を受け取ったあと、天皇に背中を向けず、左足からそのまま降りなければならなかった(右進退左:うしんたいさ)。1985年、福永健司衆議院議長は体力の問題から、後ろ向きに階段を降りられないため辞任。これをきっかけに本会議場の玉座付近が改修され、階段はスロープに替えられた。ただし、それ以降にも山中貞則が福永の辞任と同様の理由で議長就任を辞退している。
- 全国戦没者追悼式
- 1963年以降、毎年8月15日に行われる全国戦没者追悼式には、衆参議長、首相、最高裁長官といった三権の長が出席する。しかし、2005年は8月8日に、2009年は7月21日にそれぞれ衆議院が解散となったため衆議院議長は空席となり、8月15日に行われる全国戦没者追悼式へは衆参議長のうち参議院議長のみの出席となった。
- 内閣への質問主意書の転送(法75条)
なお、皇室典範第28条により衆議院議長及び副議長は皇室会議の議員として、皇室経済法第8条により衆議院議長及び副議長は皇室経済会議の議員といて、それぞれ指定されている。また、衆議院議長は人事官弾劾の訴追については国会を代表する(人事官弾劾の訴追に関する法律第2条)。
議事整理権をめぐる論点
- 議題採決前の散会宣言
衆議院で議長が散会できる時は議場を整理し難い時、議事日程に記載した案件の議事を終った時、散会動議が提出されて賛成された時である。しかし、2002年12月10日、綿貫民輔議長が決算採決という議題がまだ残っているにも関わらず散会宣言を行った。これは、議事進行原稿を一気に2枚にめくったことが理由とされる。議長は宣言後に議題が残っていたことに気づいて散会の無効を宣言したが、散会は有効とされた。結局、決算採決は12日に行われたが、その際に本会議冒頭で綿貫議長は10日の議事において不手際があったことを陳謝した。
後に、この事件は2004年6月5日、参議院本会議で議長席に着いた副議長による散会宣言の有効性に関して、議長による散会宣言の例として引用されることがある。これには、散会の取消しの手続が異なる、衆議院の前例は参議院の慣例に縛られない、などの反論がある。
職務の代行
議長に事故がある場合(議事が長時間となり議長が休息をとる場合を含む。交代は概ね2時間を経過したところでおこなわれる)又は議長が欠けた場合は、議長の職務は副議長が行う(法第21条)。
本会議場の壇上中央には議長席があり、議長席から見て右脇(議席から見て左)には事務総長席があるが、副議長席といったものはなく、議長に事故等がない限り副議長は自らの議席で審議に参加する。この場合、慣例・先例により議長が投票(賛否表明)をしない案件であっても、議席の副議長は他の議員と同様採決に参加する。
副議長も事故がある場合は、仮議長を選挙又は議院の委任により議長において選任して議長の職務を行わせることになっており(法第22条第1項・第3項)、最年長議員を仮議長に指名する慣例となっている。
副議長又は仮議長が議長の職務を行う場合、自称(例:「議長は○○委員長に○○君を指名します」)・他称(例:議事進行係の「議長において○○されることを望みまーす」)は単に「議長」となり、「副議長は」「副議長において」のような呼び方はしないのが慣例である。
なお、仮議長の選挙の場合や、議長若しくは副議長が欠けたためその選挙の必要があるときに副議長若しくは議長に事故がある場合、議長及び副議長が共に欠けたことによる選挙の場合 においては事務総長が議長の職務を行う(法第22条第2項、法第24条)。
大日本帝国憲法下の衆議院議長
概要
勅任
帝国議会時代は衆議院本会議で議長及び副議長はそれぞれ選挙を行って候補を上位3人に絞り、3人の候補の中から勅任していた[13]。この投票は無記名投票で投票用紙に3名を連記する方法で行われ、候補者中に過半数に達しない者があるときはさらに決選投票が行われていた。実際の例では本会議における選挙で最も得票を得た第一候補者が勅任される例であった[14]。
任期
衆議院議長及び副議長の任期は議員の任期によるとされていた(旧議院法8条)。
職務の代行
各議院において議長に故障のあるときは副議長がこれを代理することとされていた(旧議院法13条)。
一覧
帝国議会(大日本帝国憲法)
議長
衆議院議長 | |||||
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代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | テンプレート:Nowrap | 所属会派 |
1 | 中島信行 | 1890年(明治23年)11月26日 | 1891年(明治24年)12月25日 | 解散 | 立憲自由党 |
2 | 星亨 | 1892年(明治25年)5月3日 | 1893年(明治26年)12月13日 | 除名 | 自由党 |
3 | 楠本正隆 | 1893年(明治26年)12月15日 | 1893年(明治26年)12月30日 | 解散 | 同盟倶楽部 |
4 | 楠本正隆 | 1894年(明治27年)5月12日 | 1894年(明治27年)6月2日 | 解散 | 立憲革新党 |
5 | 楠本正隆 | 1894年(明治27年)10月15日 | 1896年(明治29年)6月8日 | 議員退職 | 立憲革新党 |
6 | 鳩山和夫 | 1896年(明治29年)12月22日 | 1897年(明治30年)12月25日 | 解散 | 進歩党 |
7 | 片岡健吉 | 1898年(明治31年)5月15日 | 1898年(明治31年)6月10日 | 解散 | 立憲政友会 |
8 | 片岡健吉 | 1898年(明治31年)11月9日 | 1902年(明治35年)12月7日 | 任期満了 | 立憲政友会 |
9 | 片岡健吉 | 1902年(明治35年)12月7日 | 1902年(明治35年)12月28日 | 解散 | 立憲政友会 |
10 | 片岡健吉 | 1903年(明治36年)5月9日 | 1903年(明治36年)10月31日 | 死去 | 立憲政友会 |
11 | 河野広中 | 1903年(明治36年)12月5日 | 1903年(明治36年)12月11日 | 解散 | 憲政党 |
12 | 松田正久 | 1904年(明治37年)3月18日 | 1906年(明治39年)1月19日 | 辞職 | 立憲政友会 |
13 | 杉田定一 | 1906年(明治39年)1月23日 | 1908年(明治41年)12月23日 | 任期満了 | 立憲政友会 |
14 | 長谷場純孝 | 1908年(明治41年)12月23日 | 1911年(明治44年)9月6日 | 辞職 | 立憲政友会 |
15 | 大岡育造 | 1911年(明治44年)12月24日 | 1912年(大正元年)8月21日 | 任期満了 | 立憲政友会 |
16 | 大岡育造 | 1912年(大正元年)8月21日 | 1914年(大正3年)3月6日 | 辞職 | 立憲政友会 |
17 | 長谷場純孝 | 1914年(大正3年)3月7日 | 1914年(大正3年)3月15日 | 薨去 | 立憲政友会 |
18 | 奥繁三郎 | 1914年(大正3年)3月17日 | 1914年(大正3年)12月25日 | 解散 | 立憲政友会 |
19 | 島田三郎 | 1915年(大正4年)5月17日 | 1917年(大正6年)1月25日 | 解散 | 立憲同志会 |
20 | 大岡育造 | 1917年(大正6年)6月21日 | 1920年(大正9年)2月26日 | 解散 | 立憲政友会 |
21 | 奥繁三郎 | 1920年(大正9年)6月29日 | 1923年(大正12年)2月16日 | 辞職 | 立憲政友会 |
22 | 粕谷義三 | 1923年(大正12年)2月17日 | 1924年(大正13年)1月31日 | 解散 | 立憲政友会 |
23 | 粕谷義三 | 1924年(大正13年)6月26日 | 1927年(昭和2年)3月25日 | 辞職 | 立憲政友会→無所属 |
24 | 森田茂 | 1927年(昭和2年)3月26日 | 1928年(昭和3年)1月21日 | 解散 | 元憲政会 |
25 | 元田肇 | 1928年(昭和3年)4月20日 | 1929年(昭和4年)3月14日 | 辞職 | 元立憲政友会 |
26 | 川原茂輔 | 1929年(昭和4年)3月15日 | 1929年(昭和4年)5月19日 | 死去 | 元立憲政友会 |
27 | 堀切善兵衛 | 1929年(昭和4年)12月23日 | 1930年(昭和5年)1月21日 | 解散 | 元立憲政友会 |
28 | 藤沢幾之輔 | 1930年(昭和5年)4月21日 | 1931年(昭和6年)4月13日 | 辞職 | 元立憲民政党 |
29 | 中村啓次郎 | 1931年(昭和6年)12月23日 | 1932年(昭和7年)1月21日 | 解散 | 元立憲民政党 |
30 | 秋田清 | 1932年(昭和7年)3月18日 | 1934年(昭和9年)12月13日 | 辞職 | 立憲政友会 |
31 | 浜田国松 | 1934年(昭和9年)12月24日 | 1936年(昭和11年)1月21日 | 解散 | 立憲政友会 |
32 | 冨田幸次郎 | 1936年(昭和11年)5月1日 | 1937年(昭和12年)3月31日 | 解散 | 元立憲民政党 |
33 | 小山松寿 | 1937年(昭和12年)7月23日 | 1941年(昭和16年)12月22日 | 辞職 | 元立憲民政党→衆議院議員倶楽部→翼賛議員同盟 |
34 | 田子一民 | 1941年(昭和16年)12月24日 | 1942年(昭和17年)5月25日 | 任期満了 | 翼賛議員同盟→翼賛政治会 |
35 | 岡田忠彦 | 1942年(昭和17年)5月25日 | 1945年(昭和20年)4月9日 | 辞職 | 翼賛政治会 |
36 | 島田俊雄 | 1945年(昭和20年)6月8日 | 1945年(昭和20年)12月18日 | 解散 | 大日本政治会→日本進歩党 |
37 | 樋貝詮三 | 1946年(昭和21年)5月22日 | 1946年(昭和21年)8月23日 | 辞職 | 日本自由党 |
38 | 山崎猛 | 1946年(昭和21年)8月23日 | 1947年(昭和22年)3月31日 | 解散 | 日本自由党→無所属 |
副議長
衆議院副議長 | |||||
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代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | テンプレート:Nowrap | 所属会派 |
1 | 津田真道 | 1890年(明治23年)11月26日 | 1891年(明治24年)12月25日 | 解散 | |
2 | 曾禰荒助 | 1892年(明治25年)5月3日 | 1893年(明治26年)8月31日 | 議員辞職 | |
3 | 楠本正隆 | 1893年(明治26年)11月26日 | 1893年(明治26年)12月15日 | 議長就任 | |
4 | 安部井磐根 | 1893年(明治26年)12月18日 | 1893年(明治26年)12月30日 | 解散 | |
5 | 片岡健吉 | 1894年(明治27年)5月12日 | 1894年(明治27年)6月2日 | 解散 | |
6 | 島田三郎 | 1894年(明治27年)10月15日 | 1897年(明治30年)12月25日 | 解散 | |
7 | 元田肇 | 1898年(明治31年)5月18日 | 1898年(明治31年)6月10日 | 解散 | |
8 | 元田肇 | 1898年(明治31年)11月9日 | 1902年(明治35年)12月7日 | 任期満了 | |
9 | 元田肇 | 1902年(明治35年)12月7日 | 1902年(明治35年)12月28日 | 解散 | |
10 | 杉田定一 | 1903年(明治36年)5月9日 | 1903年(明治36年)12月11日 | 解散 | |
11 | 箕浦勝人 | 1904年(明治37年)3月18日 | 1908年(明治41年)12月23日 | 任期満了 | |
12 | 肥塚龍 | 1908年(明治41年)12月23日 | 1912年(大正元年)8月21日 | 解散 | 立憲国民党 |
13 | 関直彦 | 1912年(大正元年)8月21日 | 1914年(大正3年)12月25日 | 解散 | 立憲国民党 |
14 | 花井卓蔵 | 1915年(大正4年)5月17日 | 1915年(大正4年)12月26日 | 辞職 | 中正会 |
15 | 早速整爾 | 1915年(大正4年)12月26日 | 1917年(大正6年)1月25日 | 解散 | 中正会→憲政会 |
16 | 浜田国松 | 1917年(大正6年)6月21日 | 1920年(大正9年)2月26日 | 解散 | 立憲国民党 |
17 | 粕谷義三 | 1920年(大正9年)6月29日 | 1923年(大正12年)2月17日 | 議長就任 | 立憲政友会 |
18 | 松田源治 | 1923年(大正12年)2月17日 | 1924年(大正13年)1月31日 | 解散 | 立憲政友会 |
19 | 小泉又次郎 | 1924年(大正13年)6月26日 | 1927年(昭和2年)3月25日 | 辞職 | 憲政会→無所属 |
20 | 松浦五兵衛 | 1927年(昭和2年)3月26日 | 1928年(昭和3年)1月21日 | 解散 | 元政友本党 |
21 | 清瀬一郎 | 1928年(昭和3年)4月20日 | 1930年(昭和5年)1月21日 | 解散 | 元新正倶楽部 |
22 | 小山松寿 | 1930年(昭和5年)4月21日 | 1931年(昭和6年)12月22日 | 辞職 | 元立憲民政党 |
23 | 増田義一 | 1931年(昭和6年)12月23日 | 1932年(昭和7年)1月21日 | 解散 | 無所属 |
24 | 植原悦二郎 | 1932年(昭和7年)3月18日 | 1936年(昭和11年)1月21日 | 解散 | 立憲政友会 |
25 | 岡田忠彦 | 1936年(昭和11年)5月1日 | 1937年(昭和12年)3月21日 | 解散 | 元立憲政友会 |
26 | 金光庸夫 | 1937年(昭和12年)7月23日 | 1939年(昭和14年)8月31日 | 辞職 | 元立憲政友会 |
27 | 田子一民 | 1939年(昭和14年)12月23日 | 1941年(昭和16年)12月22日 | 辞職 | 元立憲政友会(中島派)→衆議院議員倶楽部→翼賛議員同盟 |
28 | 内ヶ崎作三郎 | 1941年(昭和16年)12月24日 | 1942年(昭和17年)5月25日 | 任期満了 | 翼賛議員同盟 |
29 | 内ヶ崎作三郎 | 1942年(昭和17年)5月25日 | 1945年(昭和20年)6月7日 | 辞職 | 翼賛政治会 |
30 | 勝田永吉 | 1945年(昭和20年)6月8日 | 1945年(昭和20年)12月18日 | 解散 | テンプレート:Nowrap |
31 | 木村小左衛門 | 1946年(昭和21年)5月22日 | 1947年(昭和22年)2月15日 | 辞職 | 日本進歩党→無所属 |
32 | 井上知治 | 1947年(昭和22年)2月21日 | 1947年(昭和22年)3月31日 | 解散 | 日本進歩党 |
仮議長
衆議院仮議長 | ||||
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氏名 | 就任日 | 退任日 | 選出理由 | 選出方法 |
森田茂 | 1927年3月25日 (昭和2年) |
テンプレート:Nowrap また議長副議長の辞職勅許につき議長副議長候補者の選挙等のため |
投票により選出 (355票中236票) | |
山崎猛 | 1946年8月22日 (昭和21年) |
1946年8月23日 (昭和21年) |
副議長事故(欠席)につき決議案(議長不信任の件)審議の間 また議長辞職勅許につき議長候補者の選挙等のため |
投票により選出 (414票中229票) |
※1927年3月25日の仮議長選挙については全院委員長不在のため出席年長議員加藤政之助が議長席に着き議長の職務を行った。
※1946年8月22日の仮議長選挙については全院委員長大久保留次郎が議長席に着き議長の職務を行った。
国会(日本国憲法)
- 退任事由の凡例
- 任期満了…議員任期満了による退任
- 解散…衆議院解散による失職
- 辞任…辞任願(辞職願)の提出による辞任
- 死去…死去
議長
衆議院議長 | |||||
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代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | 退任事由 | 所属政党 |
39 | 松岡駒吉 | 1947年5月21日 | 1948年12月23日 | 解散 | 日本社会党・右派 |
40 | 幣原喜重郎 | 1949年2月11日 | 1951年3月10日 | 死去 | 民主自由党 |
41 | 林讓治 | 1951年3月13日 | 1952年8月1日 | 辞任 | 自由党 |
42 | 大野伴睦 | 1952年8月26日 | 1952年8月28日 | 解散 | 自由党 |
43 | 1952年10月24日 | 1953年3月14日 | 解散 | 自由党 | |
44 | 堤康次郎 | 1953年5月18日 | 1954年12月10日 | 辞任 | 改進党 |
45 | 松永東 | 1954年12月11日 | 1955年1月24日 | 解散 | 日本民主党 |
46 | 益谷秀次 | 1955年3月18日 | 1958年4月25日 | 解散 | 自由民主党・池田派 |
47 | 星島二郎 | 1958年6月11日 | 1958年12月13日 | 辞任 | 自由民主党・岸派 |
48 | 加藤鐐五郎 | 1958年12月13日 | 1960年2月1日 | 辞任 | 自由民主党・石井派 |
49 | 清瀬一郎 | 1960年2月1日 | 1960年10月24日 | 解散 | 元自由民主党・三木派 |
50 | 1960年12月7日 | 1963年10月23日 | 解散 | ||
51 | 船田中 | 1963年12月7日 | 1965年12月20日 | 辞任 | 自由民主党・大野派 |
52 | 山口喜久一郎 | 1965年12月20日 | 1966年12月3日 | 辞任 | 自由民主党・旧河野派 |
53 | 綾部健太郎 | 1966年12月3日 | 1966年12月27日 | 解散 | 自由民主党・藤山派 |
54 | 石井光次郎 | 1967年2月15日 | 1969年7月16日 | 辞任 | 自由民主党・石井派 |
55 | 松田竹千代 | 1969年7月16日 | 1969年12月2日 | 解散 | 自由民主党・旧森派 |
56 | 船田中 | 1970年1月14日 | 1972年11月13日 | 解散 | 自由民主党・船田派 |
57 | 中村梅吉 | 1972年12月22日 | 1973年5月29日 | 辞任 | 自由民主党・中曽根派 |
58 | 前尾繁三郎 | 1973年5月29日 | 1976年12月9日 | 任期満了 | 元自由民主党・大平派 |
59 | 保利茂 | 1976年12月24日 | 1979年2月1日 | 辞任 | 元自由民主党・福田派 |
60 | 灘尾弘吉 | 1979年2月1日 | 1979年9月7日 | 解散 | 元自由民主党・無派閥 |
61 | 1979年10月30日 | 1980年5月19日 | 解散 | 元自由民主党・無派閥 | |
62 | 福田一 | 1980年7月17日 | 1983年11月28日 | 解散 | 元自由民主党・旧船田派 |
63 | 福永健司 | 1983年12月26日 | 1985年1月24日 | 辞任 | 元自由民主党・鈴木派 |
64 | 坂田道太 | 1985年1月24日 | 1986年6月2日 | 解散 | 元自由民主党・無派閥 |
65 | 原健三郎 | 1986年7月22日 | 1989年6月2日 | 辞任 | 元自由民主党・中曽根派 |
66 | 田村元 | 1989年6月2日 | 1990年1月24日 | 解散 | 元自由民主党・竹下派 |
67 | 櫻内義雄 | 1990年2月27日 | 1993年6月18日 | 解散 | 元自由民主党・渡辺派 |
68 | 土井たか子 | 1993年8月6日 | 1996年9月27日 | 解散 | 元日本社会党 |
69 | 伊藤宗一郎 | 1996年11月7日 | 2000年6月2日 | 解散 | 元自由民主党・旧河本派 |
70 | 綿貫民輔 | 2000年7月4日 | 2003年10月10日 | 解散 | 元自由民主党・橋本派 |
71 | 河野洋平 | 2003年11月19日 | 2005年8月8日 | 解散 | 元自由民主党・河野グループ |
72 | 2005年9月21日 | 2009年7月21日 | 解散 | ||
73 | 横路孝弘 | 2009年9月16日 | 2012年11月16日 | 解散 | 元民主党・横路グループ |
74 | 伊吹文明 | 2012年12月26日 | 現職 | 元自由民主党・伊吹派 |
副議長
衆議院副議長 | |||||
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代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | 退任事由 | 所属政党 |
33 | 田中萬逸 | 1947年5月21日 | 1948年12月23日 | 解散 | 民主党 |
34 | 岩本信行 | 1949年2月11日 | 1952年8月28日 | 解散 | 民主自由党 |
35 | 1952年10月24日 | 1953年3月14日 | 解散 | 自由党 | |
36 | 原彪 | 1953年5月18日 | 1954年12月15日 | 辞任 | 日本社会党・左派 |
37 | 高津正道 | 1954年12月15日 | 1955年1月24日 | 解散 | 日本社会党・左派 |
38 | 杉山元治郎 | 1955年3月18日 | 1958年4月25日 | 解散 | 日本社会党・右派 |
39 | 椎熊三郎 | 1958年6月11日 | 1958年12月13日 | 辞任 | 自由民主党 |
40 | 正木清 | 1958年12月13日 | 1960年1月30日 | 辞任 | 日本社会党 |
41 | 中村高一 | 1960年1月30日 | 1960年10月24日 | 解散 | 日本社会党 |
42 | 久保田鶴松 | 1960年12月7日 | 1961年6月8日 | 辞任(不信任[15][16]) | 日本社会党 |
43 | 原健三郎 | 1961年6月8日 | 1963年10月23日 | 解散 | 自由民主党 |
44 | 田中伊三次 | 1963年12月7日 | 1965年12月20日 | 辞任 | 自由民主党 |
45 | 園田直 | 1965年12月20日 | 1966年12月27日 | 解散 | 自由民主党 |
46 | 1967年2月15日 | 1967年11月25日 | 辞任 | ||
47 | 小平久雄 | 1967年12月4日 | 1969年7月16日 | 辞任 | 自由民主党 |
48 | 藤枝泉介 | 1969年7月16日 | 1969年12月2日 | 解散 | 自由民主党 |
49 | 荒舩清十郎 | 1970年1月14日 | 1972年1月29日 | 辞任 | 自由民主党 |
50 | 長谷川四郎 | 1972年1月29日 | 1972年11月13日 | 解散 | 自由民主党 |
51 | 秋田大助 | 1972年12月22日 | 1976年12月9日 | 任期満了 | 自由民主党 |
52 | 三宅正一 | 1976年12月24日 | 1979年9月7日 | 解散 | 元日本社会党 |
53 | 岡田春夫 | 1979年10月30日 | 1980年5月19日 | 解散 | 元日本社会党 |
54 | 1980年7月17日 | 1983年11月28日 | 解散 | ||
55 | 勝間田清一 | 1983年12月26日 | 1986年6月2日 | 解散 | 元日本社会党 |
56 | 多賀谷真稔 | 1986年7月22日 | 1989年6月2日 | 辞任 | 元日本社会党 |
57 | 安井吉典 | 1989年6月2日 | 1990年1月24日 | 解散 | 元日本社会党 |
58 | 村山喜一 | 1990年2月27日 | 1993年6月18日 | 解散 | 元日本社会党 |
59 | 鯨岡兵輔 | 1993年8月6日 | 1996年9月27日 | 解散 | 元自由民主党 |
60 | 渡部恒三 | 1996年11月7日 | 2000年6月2日 | 解散 | 元新進党 |
61 | 2000年7月4日 | 2003年10月10日 | 解散 | 元無所属の会 | |
62 | 中野寛成 | 2003年11月19日 | 2005年8月8日 | 解散 | 元民主党 |
63 | 横路孝弘 | 2005年9月21日 | 2009年7月21日 | 解散 | 元民主党 |
64 | 衛藤征士郎 | 2009年9月16日 | 2012年11月16日 | 解散 | 元自由民主党・町村派 |
65 | 赤松広隆 | 2012年12月26日 | 現職 | 元民主党 |
仮議長
衆議院仮議長 | ||||
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氏名 | 就任日 | 退任日 | 選出理由 | 選出方法 |
庄司一郎 | 1950年1月23日 | 副議長不在(訪米)につき一日限り | 議長に指名一任 | |
1950年1月25日 | 1950年3月13日 | 副議長不在(訪米)の間を通じて | 議長に指名一任 | |
山口喜久一郎 | 1954年6月5日 | 副議長事故(欠席)につき議長堤康次郎不信任決議案審議の間 | 議長に指名一任 | |
清瀬一郎 | 1958年12月13日 | 議長・副議長辞任につき新議長・副議長選出までの間 | 議長(席の事務総長)に指名一任 | |
田中伊三次 | 1961年6月8日 | 副議長事故(欠席)につき議長清瀬一郎不信任決議案審議の間 | 議長に指名一任 | |
原健三郎 | 1965年12月3日 | 議長事故(欠席)につき副議長田中伊三次不信任決議案審議の間 | 議長(席の副議長)に指名一任 | |
福永健司 | 1965年12月20日 | 議長・副議長辞任につき新議長・副議長選出までの間 | 議長(席の事務総長)に指名一任 | |
田中伊三次 | 1969年7月16日 | 議長・副議長辞任につき新議長・副議長選出までの間 | 議長(席の事務総長)に指名一任 | |
久野忠治 | 1989年6月2日 | 議長・副議長辞任につき新議長・副議長選出までの間 | 議長(席の事務総長)に指名一任 |
その他
- 衆・参両院議長に支給されている交際費について、両院が使途の明示を拒否し続けていることが、一部メディアの報道により明らかになった。両院議長は三権の長である以上、交際費の使途を公開すべきとの指摘が出ている[17]。