津田真道
津田 真道(つだ まみち、文政12年6月25日(1829年7月25日) - 明治36年(1903年)9月3日)は、日本の武士(幕臣)、官僚、政治家、啓蒙学者。福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らと明六社を結成。岡山県出身。
来歴
美作国津山藩上之町(現:岡山県津山市)の生まれ。幼名は喜久治。後に真一郎、行彦とも名乗った。嘉永3年(1850年)に江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。
藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のテンプレート:仮リンクに学ぶ。オランダ留学中の1864年(元治元年)にフリーメイソンリーに入会している。4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任、大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』)。
明治維新後は新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画。明治2年(1869年)、人身売買禁止を建議。明治4年(1871年)、外務権大丞となり日清修好条規提携に全権・伊達宗城の副使として清国へ行く。のち陸軍省で陸軍刑法を作成。さらに裁判官、元老院議官。明治23年(1890年)には、第1回衆議院議員総選挙に東京8区から立候補して当選、大成会に属して初代衆議院副議長に就任。同年10月20日、錦鶏間祗候となる[1]。明治24年(1891年)12月17日に衆議院副議長として商法及び商法施行条例の一部施行に関する法律案の第三読会開催案が可否同数になり、日本政治史上初の国会の議長決裁を行い、消極的に決した(否決)。
明治29年(1896年)に勅選貴族院議員となる。男爵、法学博士。
脚注
参考文献(近年)
- 『津田真道全集 〈上下〉』 大久保利謙・桑原伸介・川崎勝編、みすず書房、2001年
- 『津田真道 研究と伝記』 大久保利謙編、みすず書房、1997年
- 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』東洋書林 1997年
関連項目
外部リンク
- ↑ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。