美作勝山藩
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勝山藩(かつやまはん)は美作国真島郡勝山(岡山県真庭市勝山)に拠点を置いた藩。藩庁は勝山城に置かれた。高田藩(たかだはん、たかたはん)、美作高田藩(みまさか たかだはん、みまさか たかたはん)とも称される。藩主家は三浦氏。
藩史
江戸時代中期の明和元年(1764年)譜代大名の三浦明次が三河国西尾藩より転封。真島郡内の96村と大庭郡内の1村を与えられ2万3千石で立藩した。真島郡高田村の高田城を藩庁としたため、当初は高田藩などとも称されるが、しばらくして、高田城を勝山城に改称し、これを受けて勝山藩と称されるようになる[1]。
2代矩次は真島郡新庄村(現・真庭郡新庄村)にある鉄鉱山経営を奨励し財源確保に努めた。幕末には鉄鉱山は藩営となった。
明治2年(1869年)真島藩(ましまはん)と改称。明治4年(1871年)廃藩置県により真島県となる。北条県を経て岡山県に編入された。
歴代藩主
- 三浦(みうら)家
譜代 2万3千石 (1764年 - 1871年)
- 明次(あきつぐ)〔従五位下、志摩守〕
- 矩次(のりつぐ)〔従五位下、志摩守〕
- 前次(ちかつぐ)〔従五位下、志摩守〕
- 毘次(てるつぐ)〔従五位下、主計頭〕
- 誠次(のぶつぐ)〔従五位下、志摩守〕
- 峻次(としつぐ)〔従五位下、壱岐守〕
- 義次(よしつぐ)〔従五位下、備後守〕
- 朗次(あきつぐ)〔従五位下、志摩守〕
- 弘次(ひろつぐ)〔従五位下、備後守〕
- 顕次(たかつぐ)〔従五位下、備後守〕
家老等
戸村(とむら)家 佐竹氏の一族で、佐竹義人の三男義倭を祖とする。
九津見(くづみ)家 足利氏の一族で、足利義視の子と言われる恒視を祖とする。
幕末の領地
関連項目
参考文献
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
- 『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 文春新書、2003年
- 『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 八幡和郎/著 光文社新書、2004年
- 『落合町史 地区誌編』勝山町史編集委員会 編(勝山町)1982年
脚注
外部リンク
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テンプレート:江戸時代の藩- ↑ 藩の名称については、近代以降に学術上の便宜から過去の大名領の支配体制を呼称するようになったので、当時は正式な呼称はなかった。