鳩山会館
鳩山会館(はとやまかいかん)は、内閣総理大臣を務めた鳩山一郎の邸宅を記念館として一般に公開したものである。東京都文京区音羽にあることから音羽御殿(おとわごてん)の通称で知られ、戦後政治史の舞台の一つに数えられている。
現在は、修復を加えて記念館として一般に公開され、往時の応接室や居間、鳩山家歴代の愛用品、記念品等を見学することができる[1]。
沿革
- 自由党の会合の場
1950年3月、民主自由党と民主党の大合同により自由党(現:自由民主党)が発足した。このとき一郎が中心人物の一人として動いたことから、彼の私邸が会合の場として度々用いられ、自由党の創設や政策論議を交わした[1]。一郎が首相に就任したのちにはソ連との国交回復に向けた打ち合わせもここで行われている[1]。
太平洋戦争中の空襲により屋根に損害を受けた。また、一郎の後継者・威一郎が書斎を増築するなどの改造が行われた。
- 記念館として
竣工後70年となり老朽化が著しく進んだが鳩山家の業績を伝える記念館「鳩山会館」として再生することになり、1995年に大規模な修復工事が行われた。このとき増築部分の書斎を撤去、屋根が竣工当時の姿に復元され外壁の焦げ跡も修復されるなど往時の姿を取り戻した。なお集会施設として使用するため、2階の寝室部分は大広間に改造された。1996年6月1日にオープン。
設計
設計者は一郎の高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)時代からの友人で当代の代表的建築家、岡田信一郎である。
岡田信一郎は様式建築を得意とし、その手腕は鳩山邸でも発揮されている。アダム・スタイルの応接間などイギリスの邸宅を思わせるが1階部分では部屋の境の扉を大きく開くことで各室を連続して使用することができ、日本家屋のような開放的な空間を作り出している。
施設概要
テンプレート:Double image aside 広さは2000坪。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造の洋館で、各所にハトやミミズクなど鳥をモチーフにした装飾が施されている。
なお2階の記念室は撮影禁止となっているが、応接室や庭園などの撮影は自由である。
1階
- 応接室
- 3つの応接室が並んでいる。当初は(西側から)応接間、居間、食堂として用いられていた。
- サンルーム
- 建物の南端に位置しており、ここから庭に出ることができる。
2階
- 大広間
- 修復時に寝室3部屋の間仕切りを撤去し、大広間に改装された。窓からは庭園が一望できる。北側の壁には一郎の書「和為貴」が飾られている。
- 鳩山一郎記念室
- かつて書斎として使用されていた部屋。一郎の残した書簡や軍服、文具などが展示されている。変わったものでは議員時代の給与明細や自動車の運転免許証、デスマスクなどが収められている。
- 鳩山威一郎記念室
- 鳩山威一郎は一郎の長男。大蔵事務次官や外務大臣を務めた。記念室には威一郎の遺品が展示されている。
- 鳩山薫記念室
- 鳩山薫(旧姓・寺田)は鳩山一郎の妻。共立女子学園理事長を務めた。客間として使用されていた和室を彼女の記念室としている。
その他
- ステンドグラス
- 階段の踊り場部分にある。五重塔の上を鳩が舞う図柄である。小川三知作。
- 庭園
- イギリス風の中庭[1]。周囲に植えられた色取り取りの花が、見る者を楽しませる。
- 鳩山和夫・春子像
- 朝倉文夫作。鳩山和夫は一郎の父で、早稲田大学校長や衆議院議長を歴任した人物。鳩山春子(旧姓・田賀)は和夫の妻で、共立女子職業学校(のちの共立女子学園・共立女子大学)の創設者の一人。庭園の一角に鯉の泳ぐ水場があり、それを見下ろすように夫妻の像が設置されている。
行事
会館では毎年4月には観桜会が催される。中央政界の重要人物が多く出席することから、多くの報道機関がこの観桜会に注目している。2001年4月3日に鳩山由紀夫の主唱で開催された観桜会では鳩山が所属する民主党の議員のみならず、日本共産党の志位和夫や社会民主党の土井たか子が出席した。
アクセス
かつて一部の女性ファッション誌が鳩山会館を「ゴスロリファッションが映える場所」と報じたことから愛好者が殺到、トラブルが多発した。このため2004年春以降、そうした衣服を身につけた女性の入館が規制されている[2]。
所有者
2013年に当時所有者であった鳩山安子が死去したため、現在は鳩山由紀夫が相続し、所有している。土地だけの評価額は50億円とも言われるが、施設の維持費に1億円かかる[3]。
岡山県勝山との関係
鳩山家の祖先は17世紀から、後に勝山藩主となる三浦氏の家臣であり、1764年、三浦氏の国替えに伴って三河国西尾(現在の愛知県)から勝山へ移った[1]。以後、代々三浦家に仕え、主に江戸藩邸勤めをしていた。
明治維新時の当主、鳩山重右衛門(十右衛門との表記もある)博房は、江戸留守居役として藩の江戸屋敷を取り仕切った[1]。1862年、文久の改革により参勤交代が3年に1度に緩和されると、各藩も経費のかかる江戸の屋敷を閉鎖することが多くなり、鳩山家も勝山の地に移り住む。一郎の父鳩山和夫は、6歳の時に勝山に移るが、約5年間後、江戸に戻った[1]。
館内の応接室にあるテレビで流されている鳩山会館の紹介ビデオの冒頭では「鳩山家の先祖、鳩山重右衛門博房は、作州勝山藩の江戸留守居役をしておりました。博房の四男とした生まれた和夫は・・・」と、鳩山家と勝山藩とのつながりを紹介している[1]。