日独伊三国同盟
日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)とは、1940年(昭和15年)9月27日に日本、ドイツ、イタリアの間で締結された「日独伊三國間條約」に基づく日独伊三国の同盟関係を指す。第二次世界大戦における枢軸国の原型となり、その後複数の枢軸国やその友好国も加盟した。
目次
概要
日独伊三國間條約では1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年(昭和12年)の日独伊防共協定では曖昧だった三国の協力関係が具体化され、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか一ヵ国が第二次世界大戦のヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。
このため日本はナチス党率いるドイツと対立するイギリスやオランダとの関係が悪化し、アメリカ合衆国の対日感情も悪化することになった。また、ドイツにとってはヨーロッパ戦線におけるアメリカの参戦を牽制する狙いがあった。
三国はイギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどに比べると植民地獲得が遅れており、日本は1895年に台湾を併合した他、第一次世界大戦の戦勝国となった結果、ヴェルサイユ条約によって1920年に国際連盟の委任統治領として、グアムを除く赤道以北(内南洋)を託された。しかし1910年に併合した朝鮮の経営に対しては赤字となっていた。ドイツは第一次世界大戦で30年近く保持していた各地の植民地を失い(太平洋にある植民地の多くが戦勝国の日本の手に渡った)、イタリアは1911年に初の植民地獲得となった。
締結に至る経緯
日独伊三国同盟への動きは、1938年夏から39年夏までの日独伊防共協定強化への動きと、40年夏から三国同盟締結に至るまでの動きの二つに分けられる。前者は対ソ同盟を目指したものであり、独ソ不可侵条約の締結により頓挫した。後者の交渉ではソ連を加えた4ヵ国による対米同盟を日独外相は望んでいたが、全ての関係者の思惑が一致したわけではなかった。
日本側の利害関係
既に日中戦争で莫大な戦費を費やしていた日本は、蒋介石政権を支援するアメリカと鋭く対立していた。 日本政府は日独伊防共協定を強化してドイツと手を結び、アメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていた。また、日本がアジア太平洋地域の英仏蘭の植民地を支配することを、事前にドイツに了解させる意図もあった。実際、外務事務当局が起案した「日独伊提携強化案」には、前述した地域が日本の生存圏内にあることをドイツは認めるべきという趣旨のことが明記されている。
ドイツ側の利害関係
アドルフ・ヒトラーは激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、主義や思想、地政学的に対立するソ連をゲルマン民族の生存圏の拡大の為に撃破しなくてはならないと考えていた。そのため、ソ連と満蒙の利権を争っていた日本と手を結ぶことを考え、日本が対ソ戦に参加することでソ連兵力を東西に分断し、更には対英参戦により極東のイギリス植民地・英連邦諸国からの人的・物的支援を絶つことによって戦争を優位に進めることができると考えていた。
イタリア側の利害関係
エチオピア侵攻によって国際的に(欧州における主要国の英仏には侵攻の事前に連絡していたにも関わらず)孤立していたイタリアは、同じく1933年に国際連盟を脱退し孤立していたドイツと結びつく余地があった。 独伊はその後、揃ってスペイン内戦に介入し、1936年10月にいわゆるベルリン・ローマ枢軸構想を掲げた。もっとも、オーストリアを自国の勢力圏と考えていたムッソリーニにとっては、38年3月のドイツによるオーストリア併合には相当な難色を示していたようである。
しかし1939年4月にアルバニアを併合すると、再びイタリアの立場は孤立化した。これに対抗するべく5月には独伊軍事同盟条約(鋼鉄協約)に調印している。第二次世界大戦勃発は、ムッソリーニにとっては誤算だった。イタリアはイギリスと交渉を根気強く進めていたのだが、ヒトラーのポーランド侵攻によって、今までのムッソリーニの努力は全て水の泡と化し、イギリスやアメリカ等の世論もムッソリーニを世界平和を乱す社会悪と認識していった。もはやイギリス、アメリカとの交渉が不可能となり、ムッソリーニは同じファシズム国と考えていた日本とも関係を強めてアジアにおけるファシズムの影響力を強め、戦後世界でのイタリアの発言力を強めようと考えていた。更に、ドイツと既に同盟を結んでいたという既成事実がイタリアの条約参加に拍車をかけた。
第一次交渉
日独防共協定が締結された後、国民政府を援助する米英を牽制する目的で軍事同盟への発展を唱える動きがあった。特に駐独大使大島浩、駐伊大使白鳥敏夫は熱心であり、同盟案に参戦条項を盛り込むべきと主張し、独伊政府にも参戦の用意があると内談していた。1938年7月に開催された五相会議において同盟強化の方針が定まり、1939年3月の会議で決定された。この時平沼騏一郎首相が同盟強化案を昭和天皇に奏上しているが、参戦条項は盛り込まないこと、大島・白鳥両大使が暴走すれば解任することなどを確認している[1]。
しかしドイツは参戦条項を盛り込むべきと要求し、陸軍内部にも呼応する声が多く板垣征四郎陸軍大臣以下陸軍主流は同盟推進で動いた。英米協調派が比較的多かった海軍には反対が多く、 海軍大臣の米内光政以下、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美は特に「条約反対三羽ガラス」と条約推進派(親独派)から呼ばれていた。 また元帥・軍令部総長で海軍の最高実力者だった伏見宮博恭王をはじめ、前海相の永野修身、元首相・海相の岡田啓介、さらに小沢治三郎、鈴木貫太郎など、陸軍では石原莞爾・辰巳栄一などが条約締結に反対していた。その他内大臣湯浅倉平、外相有田八郎、蔵相石渡荘太郎、元老西園寺公望も反対派であった。また昭和天皇も参戦条項に反対しており、5月9日に陸軍参謀総長閑院宮載仁親王が参戦条項を認めてもよいという進言を行った際には明確に拒否している[2]。しかし5月に第一次ノモンハン事件が勃発し、その最中の8月27日に独ソ不可侵条約が締結されると平沼内閣は総辞職し、三国同盟論も一時頓挫した。平沼の後の阿部信行・米内光政両内閣では三国同盟案が重要な課題となることはなかった。
同盟締結
1940年になってフランスが敗北し、ドイツが俄然有利になると三国同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍ではこの「バスに乗り遅れるな」という声が高まり、オランダ領インドネシアやマレー半島を確保しようする「南進論」の動きが高まった。陸軍首脳は親英米派の米内内閣倒閣に動き、近衛文麿を首班とする第2次近衛内閣が成立した。陸軍は独伊との政治的結束などを要求する「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」案を提出し、近衛もこれを承認した。近衛内閣には外相として松岡洋右が入閣したが、彼は日・独・ソ・伊4ヶ国同盟を主張していた。一方、石黒忠篤農林大臣らは反対派であったが、9月5日に吉田が病気を理由に辞任し、後任に及川古志郎が就任した。
9月7日にはドイツから特使ハインリヒ・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。松岡は南進論を選んだ際にアメリカが対日戦を考える可能性は高く、同盟を結んでも阻止できる確率は「五分五分」と見ていたが、現在のままでは米英のいいなりになると主張、同盟締結を強硬に主張した。近衛もほぼ同意見であり、9月13日の四相会議、14日の大本営政府連絡会議、16日の閣議を経て同盟締結の方針が定まった[3]。しかし一方で松岡は、条約が想定しているドイツ・アメリカ戦争について、日本が自動的に参戦することを避けようとしていた。松岡と自動参戦の明記を求めるスターマーの交渉の結果、条約本文ではなく交換公文において「第三条の対象となる攻撃かどうかは、三国で協議して決定する」こととなり、自動参戦条項は事実上空文化したテンプレート:Sfn。及川海軍大臣も近衛・松岡・木戸らの説得により条約締結賛成にまわった。彼が述べた賛成理由は「これ以上海軍が条約締結反対を唱え続けることは、もはや国内の情勢が許さない。ゆえに賛成する。」というものである。また海軍次官で彼とともに松岡らの説得を受けた豊田貞次郎は、英独戦への参加義務や、米独戦への自動参戦義務もないことで、「平沼内閣時に海軍が反対した理由はことごとく解消したのであって、(三国同盟が)できたときの気持ちは、他に方法がないということだった」と回想しているテンプレート:Sfn。
同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は「今しばらく独ソの関係をみきわめた上で締結しても遅くはないか」と危惧を表明したが、近衛首相は「(ドイツを)信頼致してしかるべし」と奉答した。天皇は続いて「アメリカと事をかまえる場合に海軍はどうだろうか。海軍大学の図上演習ではいつも対米戦争は負けると聞いた」と、戦争による敗北の懸念を伝えたが、近衛は日露戦争の際に伊藤博文首相が「万一敗北に至れば単身戦場に赴いて討ち死にする」と語ったことを引き合いに出し、及ばずながら誠心奉公すると回答した。これを近衛から伝え聞いた松岡や中野正剛らは号泣したという。ただし、伊藤の話は金子堅太郎から近衛が聞いたという話であり、西園寺公望は疑わしいと見ていた[4]。
9月19日の御前会議で原嘉道枢密院議長は「…本条約は米国を目標とする同盟条約で、これを公表することにより、米国の欧州戦線への参戦を阻止しようとする独伊の考えである。米国は最近、英国に代り東亜の番人を以て任じ、日本に対し圧迫を加えているが、なお日本を独伊側に加入せしめないため、かなり手控えているだろう。然るにこの条約発表により、日本の態度が明白となれば、日本に対する圧迫を強化し、極力蒋介石を援助して日本の事変遂行を妨ぐるだろうし、又、独伊に対し宣戦していない米国は、日本に対しても経済圧迫を加え、日本に対し石油、鉄を禁輸する共に、日本より物資を購入せず、長期にわたり日本を疲弊、戦争に堪えざるに至らしむる如く計るだろうと考える…」と質問した。また、ヨーロッパ戦線にアメリカが参戦した際に日本が参戦しなければならないのかという議論もあったが、松岡は手続き上の問題が残されていると言って押し切り、同盟締結は正式に決定された。
また9月26日の枢密院では深井英五顧問官は「条約の前文には、万邦をしてその所を得しむとあるが、ヒットラーは嘗て『他の民族に対し弱肉強食は天地の公道なり』と揚言しており、思想観念が相反するではないか」と述べ、石塚英蔵顧問官は「ドイツ国との条約は過去の経験上、十全を期し難し、政府は如何にして彼の誠意を期待し得るか」と警告し、石井菊次郎は「由来、ドイツと結んで利益を受けた国はない。…ヒットラーも危険少なからぬ人物である。わが国と防共協定を結んでおきながら、それと明らかに矛盾する独ソ不可侵条約を結んだ…」と述べた。しかし結果的には承認された。
9月27日、東京の外相官邸とベルリンの総統官邸において調印が行われた。
日独伊三國間條約の主要条項
条約の正式名称は、日本では「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約」(昭和15年条約第9号、日独伊三国同盟条約)と言う。
- 第一条 日本國ハ「ドイツ國」及「イタリヤ國」ノ欧州ニオケル新秩序建設ニ関シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
- 第二条 「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、日本國ノ大東亜ニオケル新秩序建設ニ関シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
- 第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。
条約原文
条約調印式はベルリンで行われ、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、イタリア外相ガレアッツォ・チアーノ、日本からは特命全権大使の来栖三郎が条約に調印した。条約原文は英文テキストでこれにベルリンで署名調印され、約3週間後に日本で印刷されたテキストを駐日ドイツ大使館クーリエに依りドイツに運ばれ改めて署名調印された。現在見られるのは後者の方で外務省外交史料館に展示されている。
締結とその後の状況
条約締結後の外務省情報部長須磨弥吉郎は10月4日、「9月27日は日本のみならず世界の史的転換への一日であった」とラジオ演説を行い、条約の意義を強調した。当時アメリカは第三条の自動参戦条項が松岡によって骨抜きにされていたことを知らず、対日警戒感をいっそう強めたテンプレート:Sfn。条約締結を知った駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーは日米両国の友好関係継続は「絶望」になったとみなし、「これは、過去に私が知っていた日本ではない」と嘆いた。イギリスは10月に閉鎖される予定であった援蒋ビルマルートの継続を通知した。中国国民党との和平交渉桐工作も中止が命令された[5]。アメリカが参戦条項の実態を知ったのは、1946年にオットとスターマーを尋問した時と見られているテンプレート:Sfn。
日米開戦直前、来栖三郎が対米講和の特命全権大使に任命され、野村吉三郎駐米大使を補佐した。しかし、来栖は日独伊軍事同盟の調印者であり、逆にアメリカの感情を逆撫でしたものとして、対米交渉が不調に終わった一因にされたとも言われている。
同盟拡大の動き
1940年11月にハンガリー、ルーマニア、スロバキア独立国が、1941年(昭和16年)3月にはブルガリア、6月にはクロアチア独立国が軍事同盟に加盟した。また、ユーゴスラビアも1941年3月末に同盟に加盟しているが、加盟に反対する国軍がクーデターを起こし、親独政権が崩壊した結果、加盟は取り消されている。さらに1941年11月にはデンマークも加盟した。
また枢軸国の一員であるフィンランドは1940年8月にドイツと密約を、同じく枢軸国であるタイも1941年12月日本と日泰攻守同盟条約をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満州国は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化していた。また、防共協定には加盟したスペイン(フランコ政権)も三国同盟には加わらず、終戦まで中立を守り通した。
ドイツとソ連の間では重大な動きがあった。1940年11月15日、ヴャチェスラフ・モロトフは駐在ドイツ大使フリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シューレンブルク(de:Friedrich-Werner Graf von der Schulenburg)をクレムリンに招き、ソ連は「日独伊ソ四国同盟」を締結する準備があると告げた[6]。条件は、ドイツ軍のフィンランドからの撤退、ソ連ブルガリア協定の締結、ボスポラスとダーダネルス両海峡における海軍基地建設のための長期借地権、北サハリンにおける日本の石炭・石油採掘権の放棄だった[6]。スターリンは四国同盟の調印を了承していたが、ソ連侵攻を考えていたヒトラーは返答しなかった。スターリンは最後まで四国同盟締結の希望を失わず[7]、ドイツ軍の奇襲を許してしまった。
松岡外相は三国同盟にソ連も参加させた四国によるユーラシア枢軸構想(四国連合構想)によってアメリカに対抗しようと考えていた。松岡はそのため1941年3月から独・ソ・伊三国を歴訪し、それぞれの指導者を歴訪した。この結果日ソ間で結ばれたのが日ソ中立条約である。リッベントロップも同じような構想を抱いていた。しかし、日伊に通告なく始められた独ソ戦によってその構想は消えてしまった。近衛は、独ソ戦によって三国同盟の意味が無くなったとして同盟を破棄することも考えたが、陸軍の反発を恐れて結局この考えを公に提起することは無かった[8]。松岡は直ちに対ソ攻撃するよう主張したが、陸軍内部ではソ連の敗北が明らかになってから参戦する「熟柿論」が台頭したため、参戦は行われなかった。
同盟の実態
同盟条約の条文に拠れば、いずれか一ヵ国が現在戦争に関係していない国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じる。このため、1941年6月22日未明に独ソ戦が始まった後の1941年7月には、日本はドイツに呼応して挟撃する動き(関東軍特種演習)を見せたものの結局はソビエト連邦と中立関係を保った。
一方、日本が1941年12月8日に英米と開戦した後、相互援助義務は生じないにも関わらず、ヒトラーとムッソリーニは12月11日にアメリカに対して宣戦布告した。その後日独伊3国によって、日独伊単独不講和協定(1941年12月11日締結、17日公布)が締結され、更に翌年1月18日には共通の戦争指導要綱に関して日独伊新軍事協定も結ばれて同盟関係は強化された。連合国側も同様に1月1日に連合国共同宣言を発し、世界は二大同盟による戦争に突入した。
しかし、合同幕僚長会議などを設置し緊密に連絡を取り合っていた連合国に対し、枢軸国では戦略に対する協議はほとんど行われなかった。対ソ宣戦、対米宣戦の事前通知も行われず、一枚岩の同盟とは言えなかった。
同盟の消滅
1943年(昭和18年)10月13日、連合国に降伏したイタリア王国はドイツに宣戦し、同盟を破棄した。日独両国は共同声明を発して同盟を再確認し、更に三国同盟にはドイツの傀儡であるイタリア社会共和国が加わったが、1944年に入ると東欧の同盟国は次々に離脱した。1945年(昭和20年)4月25日にイタリア社会共和国は解体され、5月7日にドイツ、8月15日には日本が降伏し、三国軍事同盟は消滅した。
脚注
関連人物
- 大島浩(駐ドイツ日本大使、1938-39年、1940-45年)
- 松岡洋右(日本外相)
- アドルフ・ヒトラー
- 来栖三郎(駐ドイツ日本大使、同盟締結時の日本代表)
- ベニート・ムッソリーニ
- ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
- ガレアッツォ・チャーノ(イタリア外相、同盟締結時の伊代表)
参考文献
- 三宅正樹『日独伊三国同盟の研究』(南窓社、1975年)
- 義井博『増補版 日独伊三国同盟と日米関係』(南窓社、1987年)
- 日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部 編『太平洋戦争への道5 三国同盟・日ソ中立条約』(朝日新聞社、1963年)
- 鹿島平和研究所 編・堀内謙介監修『日本外交史21 日独伊同盟 日ソ中立条約』(鹿島研究所出版会、1971年)
- 半藤一利『ドキュメント 太平洋戦争への道 「昭和史の転回点」はどこにあったか』(PHP文庫、1999年) ISBN 4-569-57260-X
- 第六章 ドキュメント日独伊三国同盟 p199~p242
- 相澤淳『海軍の選択 再考 真珠湾への道』(中央公論新社、2002年) ISBN 4-12-003304-X
- 海軍が三国軍事同盟に反対であったという通説に対する新説を説く。
- 三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書、2007年) ISBN 978-4-02-259916-2
- 平間洋一『第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から』(錦正社、2007年) ISBN 978-4-7646-0320-2
- 児島襄『天皇』 全4巻(文春文庫、1981年)
関連項目
外部リンク
- The text of the Tripartite Pact
- Youtube Playlist : Tripartite Pact signing every participated countries