金子堅太郎
金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日(1853年3月13日) - 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治期の官僚・政治家。司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任し栄典は従一位大勲位伯爵。慶應義塾夜間法律科(後の専修学校講師)、日本法律学校(現日本大学)初代校長、二松學舍専門学校(二松學舍大学)舎長。
目次
概要
伊藤博文の側近として、伊東巳代治、井上毅らとともに大日本帝国憲法の起草に参画する。また、皇室典範などの諸法典を整備。
日露戦争においては、アメリカに渡り日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行った。また、日米友好のために尽力し、「日米同志会」の会長となる。
日本法律学校(日本大学の前身)初代校長を務め、専修大学(当時の専修学校)創立に携わった。目賀田種太郎や相馬永胤と時を同じくアメリカに留学し、ハーバード大学ロースクールで法律を学び、帰国後、東京帝国大学の初代行政法講座の初代担当者となる(1886年から1888年まで)。
枢密顧問官、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長などを歴任。後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁を経て、帝室編纂局総裁。『明治天皇紀』完成の功により伯爵を叙爵。
生涯
誕生
嘉永6年(1853年)2月4日、福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男として、筑前国早良郡鳥飼村字四反田(現在の福岡市中央区鳥飼)に生まれる。幼名は徳太郎。
万延元年(1860年)より金山和蔵、次いで翌年より正木昌陽に師事し、漢学修行に入る。文久3年(1863年)1月、藩校・修猷館に学ぶ。慶応4年(1868年)4月、父・清蔵を亡くし、家督を相続するが、清蔵は1代限りの生涯士分であったため、士籍を失い銃手組に編入され、鉄砲大頭役所使番、1か月後に中番、次いで勘定所給仕となる。銃手組の株を購入、4人扶持12石を得る。明治維新後、修猷館での成績が優秀であることから永代士分に列せられ、秋月藩へ遊学を命ぜられ、さらに家老から東京遊学を命ぜられて元昌平黌中博士で松山藩大参事・藤野正啓の漢学塾に所属。
留学
岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、團琢磨とともにアメリカに留学。はじめはボストンの小学校(グラマー・スクール)に入学、飛び級で卒業し、中学校(ハイスクールに)入学、中途退学後、ハーバード大学法学部(ロー・スクール)に入学。ハーバード大学入学前に、ボストンの弁護士オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(後にハーバード大学教授、連邦最高裁判事)に師事し、ヘンリー・スイフトとラスル・クレイの共同法律事務所に通い勉強する。ホームズの指示で、ブラックストンの『英法注解』、メインの『古代法』、カトルファージュの『古代都市』、モルガンの『古代社会』を読む。ハーバード大学入学後、小村壽太郎と同宿し勉学に励む。在学時代、やはりホームズの指示でハミルトン、マディスン、ジェイらの『ザ・フェデラリスト』、ハラムの『英国憲法史』、ルイースの『哲学史』、ラボックの『文化史』を学ぶ。またジョン・フィスク(ハーバード大学哲学教授)にも個人的に教示を受け、ハーバード・スペンサーについて学んでいる。
学外では著名な政治家・議員・文学者・哲学者・ジャーナリストと交際。在学中に大学のOBである、セオドア・ルーズベルトと面識を得る。また、上院議員チャールズ・サムナーの発言からエドマンド・バークの存在を知り、サムナーの愛読書でもあったバークの著作に親しむようになった。
ハーバード大学を卒業し法学士 (Bachelor of Laws) の学位を受領。
帰国後
都市民権政社の社員となり、のち東京大学予備門英語教員となる。この頃、小野梓、馬場辰猪らと「共存同衆」に所属して、英米法制度に関する論文作成、陪審員制度の提案、憲法私案の作成、演説会・講演会での講演など活発に自由民権運動を行う。慶應義塾夜間法律科および専修学校の立案・運営に深く参画し、「私擬憲法意見」を起草したが、政府内での軋轢を恐れて講師として出講しなかった[1]。
1880年(明治13年)、嚶鳴社の同志・河津祐之と沼間守一の紹介で元老院に出仕。同年、青森県令・山田秀典の次女・弥寿子と結婚。
当時のルソー的な自由民権派に対抗する保守漸進の理論がないか元老院副議長の佐々木高行から質問があり、これに答えてエドマンド・バークの名を挙げ、その著作のうち『フランス革命の省察』『新ウィッグから旧ウィッグへの上訴』の2書を名著として紹介する。やがてこれが元田永孚の目を経て、明治天皇に奉呈される。また毎週日曜に参議の山田顕義にバークについて講義する。後にこの2書を抄訳し、保守主義の政治思想をまとめた『政治論略』を刊行する。
元老院権閣の総理秘書官に就任、のちに大書記官に昇格。この頃、北海道視察の後に開拓に関する建白書を政府に建議。建白書では、網走集治監(網走刑務所)の囚人(思想犯多数)を開拓や道路建設に従事させるように提案した[2]。
太政官権大書記官兼元老院権大書記官、制度取調局御用掛を経て、枢密院書記官兼議長秘書となる。
伊藤博文内閣のもとで
内閣総理大臣秘書官として、伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治らとともに大日本帝国憲法・皇室典範、諸法典の起草にあたる。のちに憲法制定の功績により男爵となる。
その後、1889年(明治22年)から翌年にかけて、欧米諸国視察。帰国後、日本法律学校(日本大学の前身)初代校長就任。貴族院勅選議員、初代貴族院書記官長。さらに、国際公法学会会員としてスイス・ジュネーヴでの国際会議に出席。
それからは、第2次伊藤内閣の農商務次官、第3次伊藤内閣の農商務大臣、第4次伊藤内閣・司法大臣を歴任。
日露戦争前後
1904年(明治37年)、第1次桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月日露戦争が勃発すると、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトアメリカ大統領と面識があった金子は、伊藤博文枢密院議長の説得を受けて同月末出帆の船で渡米[注釈 1]、ルーズベルト大統領に常に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく日本の広報外交を展開した。
1905年(明治38年)8月、ポーツマス会議(第7回本会議)において、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求め、講和の成立に貢献している[3]。金子が帰国したのは、同年10月のことであった。
翌1906年(明治39年)には枢密顧問官に任じられ、自ら「憲法の番人」と称した[4]。
晩年
日露戦争後は、枢密顧問官のほか、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長を歴任。この間、子爵に叙爵される。また、後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁、帝室編纂局総裁などを歴任し、『明治天皇紀』完成の功により伯爵に昇爵、さらに『維新史』を奉呈する。東京上野日本美術協会で大橋翠石百幅展の発起人として開催する。勲一等旭日桐花大綬章を受ける。二松學舍専門学校(二松學舍大学の前身)舎長に就任。
生涯にわたり、日米友好のために尽力しており、上述のジュネーヴ国際会議出席後はアメリカを経て帰国しており、帰国後、渡米中に調査したことをまとめて「トラストの利害」「米国経済と日本興業銀行」等を発表。日本において憲法制定の功により男爵となった後、ハーバード大学から憲法制定等の功績により名誉法学博士号(L.L.D)を受けている。米友協会会長、日米協会会長を歴任した後、賀川豊彦・松田竹千代・三木武夫らとともに「日米同志会」を立ち上げて会長となる。晩年には日米開戦を憂慮していた。
年表
※日付は明治5年までは旧暦
- 嘉永6年(1853年)2月4日、福岡藩士・金子清蔵直道の長男として、筑前国早良郡鳥飼村字四反田に生まれる。幼名は徳太郎。
- 万延元年(1860年)、金山和蔵に師事。
- 文久元年(1861年)、正木昌陽に師事。
- 文久3年(1863年)1月、藩校修猷館に学ぶ。
- 慶応4年(1868年)4月、父・清蔵を亡くし、家督を相続するが士籍を失う。銃手組に編入され、鉄砲大頭役所使番、中番、勘定所給仕を経て、銃手組の株を購入。
- 明治2年(1869年)2月、永代士分に列せられ、秋月藩へ遊学。
- 明治3年(1870年)7月、東京遊学。
- 明治4年(1871年)
- 明治5年(1872年)
- アップルトン街に下宿して英語習得に励む。
- 9月 Rice grammar school(小学校レベル)に4年生として編入。
- 明治6年(1873年)社交性を発揮してダンスに熱心になる。
- 明治7年(1874年)
- 4月 同学卒業。卒業生代表として演説する。
- 9月 English High School 2年生に編入。
- 1876年(明治9年)
- 1878年(明治11年)
- 1880年(明治13年)1月、河津祐之と沼間守一紹介で元老院に出仕。
- 4月、元老院権少書記官となる。この頃、元老院副議長・佐々木高行に勧められ、『政治論略』を著す。
- 9月、専修学校の設立に携わる。
- 11月、山田弥寿子と結婚。
- 開拓使官有物払下げ事件に関与。
- 1881年(明治14年)、明治十四年の政変に関与。
- 1882年(明治15年)12月、元老院総理秘書官に就任。大書記官に昇格。
- 1884年(明治17年)4月、太政官権大書記官兼元老院権大書記官、制度取調局御用掛。
- 1885年(明治18年)、北海道視察(7月 - 9月)。視察中に月形潔から提案された内容をもとに、視察後、開拓に関する建白書「北海道三県巡視復命書」を政府に建議[2]。
- 12月、内閣総理大臣秘書官。
- 1886年(明治19年)、帝国大学講師として行政法講座を開始(1888年まで)。
- 1888年(明治21年)4月、枢密院書記官兼議長秘書。
- 1889年(明治22年)7月、欧米諸国視察。日本法律学校(日本大学の前身)初代校長就任(1893年(明治26年)辞任)。
- 1890年(明治23年)
- 6月、帰国。
- 10月、貴族院勅選議員、初代貴族院書記官長。
- 1892年(明治25年)6月、国際公法学会会員としてジュネーヴ国際会議に出席。その後、アメリカへ立ち寄り、同年11月帰国。
- 1894年(明治27年)1月、第2次伊藤内閣の農商務次官就任。
- 1898年(明治31年)4月、第3次伊藤内閣の農商務大臣就任。
- 1899年(明治32年)
- 5月、ハーバード大学から名誉法学博士号(L.L.D)を授与される。
- 7月、帰国。帰国後、渡米中の調査をもとに「トラストの利害」「米国経済と日本興業銀行」等を発表。東京株式取引所理事長に就任。
- 1900年(明治33年)
- 1904年(明治37年)2月、渡米し、日露戦争についてセオドア・ルーズベルト大統領と交渉(翌年10月帰国)。
- 1906年(明治39年)1月、枢密顧問官に就任。
- 1907年(明治40年)、子爵。日本大博覧会会長、日本速記会会長に就任。
- 1908年(明治41年)、語学協会総裁、東京大博覧会会長に就任。
- 1910年(明治43年)、後の維新史編纂会の発足に関わる。
- 1914年(大正3年)、臨時帝室編修局総裁。
- 1915年(大正4年)、「明治天皇紀」編纂局総裁、維新史料編纂会総裁に就任。
- 1917年(大正6年)、日米協会会長就任。
- 1922年(大正11年)、帝室編纂局総裁に就任。
- 1927年(昭和2年)、東京上野日本美術協会で大橋翠石百幅展の発起人として開催。
- 1928年(昭和3年)11月10日、勲一等旭日桐花大綬章を受ける。
- 1932年(昭和5年)、二松學舍専門学校(二松學舍大学の前身)舎長に就任。
- 1938年(昭和13年)、前年の「明治天皇紀」完成の功により伯爵に昇爵。賀川豊彦・松田竹千代・三木武夫らとともに「日米同志会」を立ち上げて会長となる。
- 1941年(昭和16年)、「維新史」奉呈。朝河貫一から日米開戦の回避を求める書簡が送られる。
- 1942年(昭和17年)5月16日、永眠(89歳)、従一位大勲位菊花大綬章。
逸話
- 金子は、留学当初は海軍軍人を目指しており、アナポリス海軍兵学校への入学を志望していた。病臥の折り、米国人医師から、とくに身体が頑強というわけではないので海軍軍人の家柄でないのならばやめた方がいいと忠告され、法学に針路を変え、ハーバードに入学したという[注釈 2]。1889年(明治22年)から翌年にかけての外遊で、欧米名士に面会の際、大日本帝国憲法と日本の議会運営についての意見を求めると同時に、日本海軍についての意見を聴取し、帰国後、報告しているのは、留学時代の当初の希望だった海軍への関心が持続していることを示す[5]。ボストンを発ち帰国の途に就く際、同地で直前に出版されたアルフレッド・セイヤー・マハン『海上権力史論』原書初版を購入し、持ち帰った。これが、マハンのシーパワー論が日本に紹介される発端となった[6]。
- 主著に『政治論略』がある。これはエドマンド・バークの本邦初訳である。
脚注
注釈
参照
参考文献
- 松村正義「日露戦争と金子堅太郎: 広報外交の研究」 新有堂、1987年。ISBN 4-88033-010-8
- (英訳) Matsumura Masayoshi, Baron Kaneko and the Russo-Japanese War: A Study in the Public Diplomacy of Japan (2009) ISBN 978-0-557-11751-2
- 猪木正道『軍国日本の興亡』中央公論社<中公新書>、1995年3月。ISBN 4-12-101232-1
- 佐々木克「金子堅太郎」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459
- 前坂俊之『明治三十七年のインテリジェンス外交――戦争をいかに終わらせるか』祥伝社<祥伝社新書198>、2010年。ISBN 4396111983
- 『金子堅太郎著作集』日本大学精神文化研究所
- 藤井新一『帝国憲法と金子伯』大日本雄弁会講談社
- 高瀬暢彦『金子堅太郎「政治論略」研究』日本大学精神文化研究所
- 松村正義 『金子堅太郎 槍を立てて登城する人物になる』2014年 ミネルヴァ書房 ISBN 978-4-623-06962-0
関連項目
関連人物
外部リンク
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- ↑ 慶應義塾百年史別巻大学編法学部。
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 猪木(1995)p.61
- ↑ 佐々木(2004)
- ↑ 金子堅太郎『欧米議院制度取調巡回記』大淵和憲校訂、信山社<日本憲法史叢書6>、2001年、ISBN 4-7972-5047-X。
- ↑ マハン著、水上梅彦訳『太平洋海権論』(小林又七、1899年)巻頭、金子堅太郎「序文」。麻田貞雄「歴史に及ぼしたマハンの影響---海外膨張論を中心に」、麻田訳『アメリカ古典文庫 8 アルフレッド・T・マハン』研究社、1977年、7-8頁。
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