井上成美

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テンプレート:基礎情報 軍人 井上 成美いのうえ しげよし[注釈 1]1889年(明治22年)12月9日 - 1975年(昭和50年)12月15日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大将従三位勲一等功三級。海軍大将となった最後の軍人[4]

生涯

1889年(明治22年)12月9日宮城県仙台市でブドウ園を経営する旧幕臣・井上嘉矩の十一男として出生。「成美」という名は「論語」顔淵篇の一節 「子曰く、君子は人の美を成す、人の悪を成さず、小人はこれに反す」に由来し、父からそんな人間になるようにと何度も教えられた成美はこの名を誇りとした。[5]1902年(明治35年)3月31日宮城県尋常師範学校附属小学校高等科2年修了。4月1日宮城県立第一中学校の分校に入学。分校の廃校に伴い、1905年宮城県立第二中学校に移動。中学4年終了時の成績は「60人中1番、優科:数学、劣科:漢文、運動:不定[注釈 2]、嗜好:音楽と細工」とある。第二中学校の同級生の回想では「井上君は恐ろしく頭が良く、数学と英語が得意だった」という[7]

1906年(明治39年)10月31日海軍兵学校合格に伴い中学を5年生で中退。1906年11月24日海軍兵学校第37期に成績順位181名中9番で入学[8][注釈 3]。入校時の成績で決まる分隊の所属は第9分隊で、同分隊三号生徒15名中では先任者であった[10]。兵学校の三号生徒(一学年、井上在校時の兵学校の在校期間は3年)の頃の井上は、「英語の成績の悪い生徒」として教官から名指しされた。井上は、英語が抜群と評価されていた同期生に英語の勉強方法を尋ね「英語の小説、"Adventures of Sherlock Holmes" でも原書でどんどん読め」と助言され、同書を手に入れて読んでみたものの歯が立たなかった。兵学校入校時に181名中9番の好成績だった井上は、二号生徒(二学年)に進級する時は16番に席次が下がった。しかし、二号生徒になるまでには英語力を高め、二号生徒の一学期には首席となった。[11]井上は「訓練は厳しかったが、生活そのものは、リズムがあり、調和があった。そのような生活だったからこそ、国家が自分たち兵学校生徒を大事にしてくれる、と感じたし、自尊心も生まれてきて、国家に対する忠誠心とまではいかなくても、自分の選んだ道は自分に合っていたな、という気持になった」と回想している[12]。無遠慮な点があり、海軍部内には井上を良く言わない者が多く、同期生にも井上を嫌う者が少なくなかった[13]1909年(明治42年)11月19日海軍兵学校を成績順位179名中2番で卒業、恩賜の双眼鏡を拝受[14]、命 少尉候補生2等巡洋艦宗谷」乗組、第一期実習が始まり、練習艦隊近海航海出発。 大連-仁川-鎮海湾-佐世保-鹿児島-方面巡航 。12月29日帰着。1910年(明治43年)2月1日練習艦隊遠洋航海出発。 マニラ-アンボイナ-パーム島-タウンズビル-ブリスベーン-シドニー-ホバート-メルボルン-フリーマントル-バタヴィア-シンガポール-香港-馬公-基隆方面巡航。7月3日帰着。第二期演習が始まり、7月16日戦艦三笠」乗組[注釈 4]。12月1日装甲巡洋艦春日」乗組。1910年12月15日任 海軍少尉。兵37期の最先任者(クラスヘッド)となる[16]

1911年(明治44年)1月18日巡洋戦艦鞍馬」乗組。鞍馬は同年4月から11月まで英国ジョージ5世戴冠記念観艦式に遣英艦隊の旗艦として参加する。[17]。11月12日帰朝。1912年(明治45年)4月24日海軍砲術学校普通科学生。米内光政大尉と山本五十六大尉が教官をしており、井上は山本から兵器学を教わった。8月9日海軍水雷学校普通科学生。在校中の12月1日任海軍中尉[18]1913年(大正2年)2月10日二等海防艦高千穂」乗組。9月26日巡洋戦艦「比叡」乗組。1914年8月23日第一次世界大戦に伴い、日本はドイツに宣戦布告。「比叡」は、青島の独軍基地を攻略する陸軍部隊の間接掩護を命じられ、約1か月間、東シナ海方面で警戒任務に当たったが、戦闘は生じなかった。[19] 1915年(大正4年)7月19日第17駆逐隊附。駆逐艦「」乗組。第17駆逐隊は第一艦隊第一水雷戦隊に所属。井上の、最初で最後の駆逐艦勤務となった[20]12月13日海軍大尉・戦艦「扶桑」分隊長。1916年(大正5年)12月1日海軍大学校乙種学生。1917年(大正6年)5月1日海軍大学校専修学生、12月1日卒業、航海科を専門とする兵科将校となった[21]砲艦」航海長(「兼 分隊長」の辞令は出ていない[22])。1917年(大正6年)1月19日に、27歳で、原喜久代(20歳)と結婚。(喜久代の係累については「親類関係」を参照。)義姉たま(兄井上秀二の妻)の妹婿大平善一の親友阿部信行の義妹が喜久子という縁であった[23]第一次世界大戦において第一特務艦隊に属し、インド洋方面での通商保護に従事。1918年(大正7年)5月に帰投、同年7月に「淀」は日本が占領したドイツ領南洋群島を巡航して新占領地の整備に従事し、約5か月後に小笠原諸島・父島に帰投。[24]

1918年(大正7年)12月1日スイス国駐在。ドイツ語修得従事。1919年(大正8年)2月8日に長女の靚子が誕生した。靚子の誕生を見届けた井上は2月10日に神戸港を出発し、4月にスイスに着任した。毎日1時間、独国人教師について独語の個人教授を受けて独語習得に励み、スイス到着の2か月後に「独語の日常会話は支障ない程度に達した」旨を海軍次官に報告した。スイス人の独語には訛りがあり、独語習得の妨げとなるため、井上は早期に独国に移ることを望んだ。1920年(大正9年)7月1日平和条約実施委員。ベルリンで英仏伊の委員たちとドイツ軍武装解除に従事。井上の独語力は、独国当局者との折衝時に通訳を要さず、英国将校のために独語の通訳をするレベルに達していた。[25]在欧中に仏語も習得したいという井上の希望が通り、「平和条約実施委員」を免ぜられ、1921年(大正10年)9月1日フランス国駐在。パリでフランス語修得従事。仏国人教師の個人教授を毎日1時間受けた。井上の仏国駐在は僅か3か月だったが、日本への帰国後、海軍次官代理に「仏語は、読み・書き・会話、いずれも支障ないレベルに達した」旨を報告している。[26]井上は「海軍生活において、独語は日独伊三国軍事同盟に役に立った程度だが、仏語は、後々の勤務において外国人との付合いに使う機会が多く大変役に立った」と回想する[27]1921年(大正10年)12月1日任海軍少佐、帰朝。大西洋を渡り米国経由で2月に帰国した。生涯で唯一のアメリカ訪問だった[28]1922年(大正11年)3月1日軽巡洋艦球磨」航海長兼分隊長。主にシベリア出兵に伴う警備行動に従事[29]

1922年12月1日海軍大学校甲種第22期入校。大尉時代に欧州に3年間駐在し、甲種学生を受験できなかった井上は、従来の規則では受験資格を失う所だったが、規則改正により受験できた。井上は同僚から「井上、甲種入学の規則が変わったのは、貴様のためだって言う評判だよ」と冷やかされたという。井上の甲種学生選考試験での筆記試験成績は60番で、本来なら落第だった。海外勤務が長かったことを考慮して特例で口頭試験の受験を許され、口頭試験では1番で合格した[30]1924年(大正13年)12月1日海軍大学校甲種学生卒業、海軍省軍務局第一課B局員。井上は榎本重治海軍書記官と親友となった。[注釈 5] 1925年(大正14年)榎本重治海軍書記官に「治安維持法が近く成立するが、共産党を封じ込めずに自由に活動させる方がよいと思うが」と問われた井上は無言であった。それから二十数年が経った戦後のある日、横須賀市長井の井上宅を初めて訪ねてきた榎本の手を握って、井上は「今でも悔やまれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。いまのように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争が起きなかったのではあるまいか」と語った。[34]

1925年(大正14年)12月1日に中佐に進級。[35]1927年(昭和2年)10月1日海軍軍令部出仕。11月1日イタリア日本大使館附海軍駐在武官兼艦政本部造船造兵監督官兼航空本部造兵監督官。横浜港から渡欧。この頃、妻の喜久代は肺結核に罹患した。ローマに着任した井上は、イタリア人やイタリア軍についてネガティブな経験を重ねた。これは、井上が軍務局長時代に日独伊三国同盟に反対する理由の一つとなった[36]1929年(昭和4年)8月1日帰朝。11月30日任海軍大佐。同年12月に帰国した。[37]帰国した井上は、喜久代の肺結核が悪化して看護が必要であるため、海軍人事当局に「海上勤務では家庭が破滅するから、しばらくは陸上の閑職に置いてほしい」旨を願い出て、1930年(昭和5年)1月10日海軍大学校教官に補された。井上は人事当局の配慮に感謝し、空気の良い鎌倉に家を借りて喜久代の療養を優先した。井上は海大教官として甲種学生への戦略教育を担当した。井上の戦略教育は理詰めであり「戦訓を基礎としない兵術論は卓上の空論に過ぎない」「精神力や術力(技量)を加味しない純数学的な(戦略)講義をすることは、士気に悪影響を及ぼす」という批判も受けた。[38]

軍務局一課長

1932年(昭和7年)10月1日- 軍令部出仕兼海軍省出仕、軍務局第一課勤務。海軍省軍務局長寺島健少将の指名により[39]1932年(昭和7年)11月1日海軍省軍務局第一課長に補された。海軍省軍務局は海軍軍政の要であり、井上が補された一課長は、局の筆頭課長であった。[40]同日に妻の喜久代が肺結核で死去した(37歳没)。[41]

井上は、五・一五事件における海軍青年士官を中心とす首謀者たちが世論から英雄視されている風潮に、危機感を覚えた。井上は、この事件に刺激された陸軍の青年将校たちが「海軍に先を越された」と考え、必ずことを起こすに違いない、と予想していた。[42]井上は海軍省を「海軍の兵力」で守る準備を始めた。海軍省の構内にある東京海軍無線電信所が、「官衙」ではなく「部隊」であり、武装できることに気づき、小銃20挺を配備した。東京海軍無線電信所長が、井上と同期の武田哲郎中佐(のち大佐)であったのが幸いした。さらに「軍事普及並びに宣伝用」という名目で戦車一台を海軍省内に常駐させた。[43]

テンプレート:Main 1933年(昭和8年)3月、軍令部が「軍令部条例並に省部事務互渉規定改定案」を提起した際、軍令部の試案を通読した井上は、この件を自ら処理することとした。海軍省を代表する井上に対する、軍令部側の代表は、軍令部第二課長の南雲忠一大佐であり、南雲は井上を何度も「殺すぞ」と脅迫した[44]。井上は、表書は「井上成美遺書 / 本人死亡せばクラス会幹事開封ありたし」、本文は「どこにも借金はなし。娘は高女(高等女学校)だけは卒業させ、出来れば海軍士官に嫁がせしめたし」という遺書を執務机に入れていた。[45]「軍令部条例並に省部事務互渉規定改定案」(決裁権限者海軍大臣)を主務課長の井上が決裁しないため、改定案は成立せず、8月に入ると軍令部は自身で改定最終案を作り、海軍大臣大角岑生大将に突きつけ、軍令部長伏見宮は大角海相に辞職をちらつかせた[46]大角海相は伏見宮の圧力に屈し[47]、海相以下の海軍省首脳部が改定案に同意した。

1933年(昭和8年)9月16日土曜日朝、寺島軍務局長が井上を局長室に呼び、「こんな馬鹿な案によって制度改正をやったという非難は局長自ら受けるから、枉(ま)げてこの案に同意してくれないか」と井上に言ったが、井上は「自分が正しくないと思うことに、私は同意出来ません。同意しろと言われるのは、私に節操を捨てろと迫られるに等しく、私は節操を捨てたくありません。どうしても通す必要があるなら、一課長を更迭してこの案に判を捺す人を持って来られたらよろしいでしょう。私としても、事態を紛糾させた責任は感じております。今日まで、正しいことの通る海軍と信じて愉快に御奉公して参りましたが、こんな不正の横行する海軍になったのなら、私はそのような海軍に居りたくありません」という旨を返答し、軍服を背広に着替えて鎌倉の家に帰った。海軍次官藤田尚徳中将の使者がその晩に井上宅を訪問して翻意を促したが、井上は拒否した。[48]海軍大臣秘書官矢牧章少佐は、週明けの9月18日月曜日に、第二種軍装の胸に勲章を吊った井上が海軍大臣室から出て来たため、井上が大角海相に進退を伺い、予備役編入を願い出たと解釈した。矢牧が入れ替わりに大臣室に入ると、大角は「そうまで思いつめんでええと言うんだが、井上が諾かんのだ。何遍言っても諾かんのだ。困ったな、困ったな」と赤い顔をして言ったという[49]。軍令部条例と省部事務互渉規定が大角海相の決裁により改正され、昭和天皇は裁可する際に「一つ運用を誤れば、政府の所管である予算や人事に、軍令部が過度に介入する懸念がある。海軍大臣としてそれを回避する所信はどうか」と問うた。これは正に井上が危惧し、反対した所だった。[50]

1933年9月20日横須賀鎮守府付。予備役編入を前提とするような辞令だった[49]。伏見宮が「井上くんによいポストをやってくれ」と口添えし[51]、井上は予備役編入されず、11月15日付で練習戦艦比叡」艦長に補された[52]1935年(昭和10年)4月1日、井上は大連港の桟橋に「計算尺が操艦しているようなやり方で」ぴったり接舷させて、大連港港務部長に「戦艦が本港に横付けしたのは初めてです」と操艦の腕を賞賛された。当時、戦艦のような大型艦船は入港しても沖合いに錨泊するのが普通だった[53]。井上は「比叡」飛行長今川福雄大尉の操縦する94式水偵にしばしば同乗した。飛行科出身でない艦長が、搭載機に同乗するのは異例であった。井上と親しく接した今川は、井上の人格に惚れ込み、井上の了解を得て、井上の名前「成美」にあやかって息子を成雄(しげお)、娘を美子(よしこ)と名付け、戦後も度々井上宅を訪ねた。[54] 井上は、「比叡」の若手士官が、国粋思想の影響を受けた会合に出席するのを禁じた。その上で「軍人勅諭」を平易に説いた冊子「勅諭衍義」を「比叡」乗組の士官全員に配布した。この「勅諭衍義」は後に井上が兵学校長に着任した際にも、教官兼幹事に参考資料として配布された。その際に井上が自らつけた説明文に「本稿記述の当時(昭和9年)は5.15事件後にして海軍部内思想動揺時代[之は少々過言かも知れず、然し本職は左様考えて対処せり]なりしことを念頭に置きて之を読むの要あり」とある。井上は「比叡」の若手士官たちに「軍人が平素でも刀剣を帯びることを許されているのは、国を守るという極めて国家的な職分を担っているからである。統帥権の発動もないのに勝手に人を殺せということではない」と繰り返し諭した。[55]井上は、翌朝まで帰艦しない予定で上陸した。従兵長の下士官が、その隙に艦長室のベッドで熟睡してしまった。予定を切り上げて帰艦した井上がこれを見つけたが、誰にも言わなかった。懲罰を受けずに済んだ従兵長は井上の恩情を長く徳とした。[56]井上によると、大尉の時に航海長を務めた「淀 (通報艦)」(常備排水量1,450トン)のような小さなフネなら酔わないのに、フネが大きくなるほど酔いやすかった。戦艦「比叡」艦長の時には、戦艦の艦長たる者が航海中に船酔いで寝ている訳には行かず、一番困ったという。[57]

1934年(昭和9年)、三浦半島の西側、横須賀市の反対側の神奈川県三浦郡長井町の相模湾が一望できる海岸に面した崖縁に井上の家が完成した。[注釈 6]「比叡」は軍縮条約により練習戦艦となっており、横須賀鎮守府所属の警備艦で、横須賀軍港に在泊していた。「比叡」艦内に起居する井上は、毎週末には長井の新宅に戻った。一人娘の靚子は、東京・西大久保の親戚の阿部信行陸軍大将宅に寄宿して、東京女子高等師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校[注釈 7]に通っていたが、週末には長井の井上宅に戻ってきて、父娘二人で水入らずの生活を楽しんだ。夏休みには、靚子が女学校の友達を連れてくることもあった。[64][注釈 8]

横須賀鎮守府参謀長

1935年(昭和10年)8月1日横須賀鎮守府付。少将進級直前である6年目の大佐が現職を離れるのは異例だった。[66]戦後の井上は、今川福雄大佐に「私は、少将昇進後は新設される第三航空戦隊の司令官に補されると内定していました。時局が急変したので、第三航空戦隊の新設が流れ、横須賀鎮守府参謀長になったのです。海軍の人事は予定通り行きません」という旨を語った[67]。11月15日任海軍少将(慣例通りクラスヘッドとして同期で最初の少将[68])、横須賀鎮守府参謀長。12月1日米内光政が横須賀鎮守府司令長官に着任した。この頃に井上は米内の信頼を得て以降、米内の下で活躍することになる[69]

テンプレート:Main 海軍省が所在する東京府を管轄し、麾下に実戦部隊を有している横鎮の参謀長となり、海軍省を『海軍の兵力』で守る」対策を十分に準備できる立場となった井上は、横鎮長官の米内の承認を得て、いざという時、即座に、十分な「海軍の兵力」を東京の海軍省に差し向けられるように、下記のように準備した。真の目的を知るのは、米内・井上・先任参謀の、横鎮のトップ3名のみだった。[70]1.横鎮所属の兵員で特別陸戦隊一個大隊を編成して、2回召集し、顔合わせと訓練を行った。2.横須賀所在の海軍砲術学校に要請して、砲術学校に所属する掌砲兵20人をいつでも横鎮に呼集できるように準備した。万一の時には海軍省に派遣し、大臣官房の走り使いや連絡に当たらせ、または小銃を持たせて海軍省の警備に当たらせる。3.横鎮所属の警備艦である、軽巡洋艦那珂」艦長に、昼夜雨雪を問わず、芝浦に急行できるよう研究を命じた。いかなる場合でも、特別陸戦隊一個大隊を東京の海軍省に急派するため。

横鎮に着任すると、庁舎内に記者控室を作ってそこに参考図書を備えるなど、新聞記者に便宜を図った。戦後の井上は「新聞記者も商売だ。彼らの成り立つように考えてやる(適切に情報を開示する)ことが必要だ。その反面、利用もできる」と語っている。[71] 1936年(昭和11年)2月20日頃、横鎮出入りの新聞記者から、東京の警視庁の前で陸軍が夜間演習を行ったという情報が井上に入る。井上は警戒態勢に入り、2月26日の早朝、官舎で就寝中の井上に、副官から電話が入った。「新聞記者から、本日早朝に陸軍が反乱を起こしたという情報が入った」という二・二六事件勃発の知らせだった。井上は、幕僚全員を横鎮に非常召集するよう命じて、自分も直ちに登庁した。[71]井上が、横鎮に着くと、既に幕僚たちは全員揃っていた。副官から詳細な情報を聴いた上で、かねて用意の手を打った。井上の事前準備が功を奏し、下記の措置は混乱なく実施された。[72]横鎮砲術参謀を自動車で、東京へ実情実視に急派。横鎮から海軍砲術学校所属の掌砲兵20人を海軍省に急派。特別陸戦隊一個大隊用意。軽巡洋艦「木曽」急速出港用意[注釈 9]。横鎮麾下各部隊は自衛警戒。

午前9時近く、長官官舎の米内から「俺も出て行った方がいいか」と電話がかかってきた。井上は「当面の手は全て打ちましたが、やはり長官が鎮守府においでの方がよろしいでしょう」と返答した。米内は、早朝に副官から事件の報告を受けていた。[74]登庁した米内は、井上に、陸軍反乱部隊が宮城を占領したらどうすべきか問うた。井上は「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を「比叡」(横鎮所属)においで願いましょう。その後、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを言っても、海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく(陛下に)軍艦に乗って頂ければ、もうしめたものだ」と即答した。[75]特別陸戦隊一個大隊を乗せた「木曽」の出港寸前に、軍令部から「待った」がかかった。警備派兵には手続が要り、横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのにも、軍令部総長が天皇の命令を伝達する形式を踏まねばならないという内容だった。軍令部は「横須賀鎮守府特別陸戦隊(曩<さき>に派遣のものを合せ四(個)大隊を基幹とす)を東京に派遣し海軍関係諸官庁の自衛警戒に任じしめらる」という命令を出した。この時点で横鎮が用意していた特別陸戦隊は一個大隊だったので、三個大隊を追加編成する必要が生じた。そのため、佐藤正四郎大佐(のち少将、井上と同期、海軍砲術学校教頭を務める陸戦の権威[76])が指揮する横鎮特別陸戦隊4個大隊は、その日の午後遅くにようやく東京・霞か関の海軍省(2012年現在の農林水産省本庁舎の場所)に到着した。井上にとっては不本意であった。[77]ただし、結果としては、特別陸戦隊4個大隊(2,000余名)[76]を編成・派遣したことで、陸軍反乱部隊(歩兵のみで1,500名程度)と同規模の陸戦兵力を海軍省に配備することができた。

戦後、井上は、二・二六事件当時の軍法によると、横鎮の所管区域である「神奈川県・東京府の海岸海面」上で、横鎮麾下の警備艦を行動させるのは、横鎮長官の権限で実施できた。ただし、海軍省警備のために陸戦隊を芝浦に上陸させるのは、「陸上」は横鎮の所管区域ではないため、横鎮長官の権限を越えたかもしれない。これは、横鎮長官の有する「警備」権限の解釈、すなわち『鎮守府令』第2条「鎮守府は所管海軍区の警備に関することを掌り」の解釈の問題である。結果としては軍令部の干渉に屈してしまったが、「木曽」を芝浦に回航するのは、軍令部が何を言おうが、横鎮長官の権限で出来たのだから、直ちにやるべきだった、と悔やんでいる。[78]井上が、海軍省軍務局一課長時代に、生命と職を賭して反対した「省部事務互渉規程の改訂」により、改訂前は海軍大臣の管轄だった「国内警備艦戦部隊の派遣」に干渉できるようになっていた軍令部が、横鎮の素早い動きに待ったをかけたのは、井上の軍務局一課長時代の危惧が当たったことになる。[78]

1936年(昭和11年)11月16日軍令部出仕兼海軍省出仕。兵科機関科将校統合問題研究従事。海軍大臣永野修身大将の特命によって、海軍の長年の懸案だった「兵科将校と機関将校の一系化 (兵機一系化)」問題の解決に専念した[79]。1937年、井上は「兵科将校と機関科将校の両方の勤務をこなす少尉候補生の育成には、現在の兵学校・機関学校の修業年限4年でも不足。4年の修業年限を維持するなら、一系化を促進すべし」という答申書を、海軍次官の山本五十六中将に提出した。[80]井上が答申書の条件としていた兵学校・機関学校の修業年限「4年」は、答申書提出翌年の1938年(昭和13年)3月卒業の兵65期・機46期まで維持されたが、1939年(昭和14年)3月卒業予定だった兵66期・機47期は支那事変により1938年(昭和13年)9月に繰上卒業して「3年6か月」となり、戦争の激化で最終的には「2年4か月」に短縮された。[81]

支那事変

軍務局長

1937年(昭和12年)10月20日海軍省軍務局長将官会議議員。米内光政大将が海軍大臣に、山本五十六中将が海軍次官に既に就任していた。海軍省詰めの新聞記者たちは、この三人を「海軍省の左派トリオ」と呼んだ。[82]

この頃、支那事変(日中戦争)が本格化した時期であった。 揚子江流域には、英・米・仏の権益が多く存在し、それらの国との摩擦が各所で起き、海軍に関係する問題は全て軍務局長の井上へ集中した。井上によれば「(中国における軍事行動においては、常にアメリカを刺激しないように、怒らせないようにと苦心し、)航空部隊の連中には誠に気の毒だったが、その軍事行動に非常に厳しい制限が加えられ(ていた)」という。1937年(昭和12年)12月12日海軍の艦上爆撃機隊が、南京付近の揚子江上で米国砲艦を誤爆・沈没させる「パナイ号事件」が発生した。井上は、米国の態度硬化を危惧し、山本次官と共に、素早く、率直に非を認め、パナイ号事件を収拾すべく奔走した。日本政府は、当時の常識を越える多額の賠償金220万ドル=670万円(当時)を支払い、駐日大使グルーを通じて米国に陳謝する措置を取った。[83]

テンプレート:Main 井上は「昭和12、13、14年にまたがる私の軍務局長時代の2年間は、その時間と精力の大半を(日独伊)三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な努力でなしに、唯陸軍の全軍一致の強力な主張と、之に共鳴する海軍若手の攻勢に対する防禦だけに費やされた感あり」と回想する。[84]。ドイツは日独伊三国防共協定を軍事同盟に強化したいと日本に打診してきた。海軍部内も三国同盟に肯定的な者は多く、マスコミは、英・米・仏の「露骨な援蒋行為」を批判し、独国の「躍進」ぶりを持ち上げて、反英米・親独の世論を煽っていた。しかし、米内・山本・井上の「海軍省の左派トリオ」は、三国同盟に絶対反対の態度を堅持した。[85]井上は「海軍で(三国同盟に)反対しているのは、大臣、次官と軍務局長の三人だけということも世間周知の事実になってしまった。山本次官が右翼からねらわれているとの情報あり、次官に護衛をつけ、官舎へ帰る途順を色々変えたり、秘書官が心配して私に、催涙弾でもお持ちになってはいかがですかと申し出たのもこのころのことであった」と回想している[86]

独語に堪能な井上は『Mein Kampf』(『我が闘争』の原書)を読み、訳本で省かれた部分であるヒトラーが日本人蔑視を公言していることを知っており、軍務局長名で海軍省内に「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは三思三省の要あり、自戒を望む」と通達した[87]

三国同盟を主張する陸軍と、反対する海軍の交渉が進むにつれ、論点は「自動参戦義務条項」に絞られた。陸軍はこれを是認し、海軍は絶対反対であった。[88]三国同盟を巡る陸軍と海軍の対立が頂点に達した1939年(昭和14年)8月上旬には、陸軍がクーデターを起こすのではないかという見方が、海軍省の井上らの周囲で強まってきた[89]。14日の朝には、麹町付近で演習していた陸軍部隊が、東京・霞か関の海軍省(2012年現在の農林水産省本庁舎の場所)の前まで姿を現して去った。井上は、横須賀鎮守府の参謀長、先任参謀、砲術学校の教頭と陸戦課長らを海軍省に呼んで海軍省警備の打ち合わせを行った。井上は、海軍省の建物は陸戦隊の兵力で防衛できるが、水と電気を切られた場合に対応出来るかと考え、部下の軍務局第三課長に、海軍省構内井戸の水量、小型発電機などの検討を指示した。[90]

1939年(昭和14年)10月10日、井上の一人娘の靚子が、海軍軍医大尉の丸田吉人(よしんど)と結婚した[91]1939年(昭和14年)10月18日軍令部出仕。

支那方面艦隊参謀長

1939年(昭和14年)10月23日に支那方面艦隊第三艦隊参謀長に補され、上海に在泊する支那方面艦隊旗艦「出雲」へ赴任した[92]。1939年11月15日井上は中将に進級し、同時に第三艦隊の解隊で兼任は解かれた[93]。艦隊司令部所属の軍楽隊に目をかけ、旗艦「出雲」内に、他の邪魔にならない練習場所を確保してやったり、国際都市の上海ゆえに一流の楽団の演奏会や音楽映画の上映があると、ポケットマネーで切符を買って全楽員を行かせたりと、物心双方で援助をした。琴やピアノの演奏に長けており、音楽の素養が深い井上は、軍楽隊が演奏する都度、気がついたことを楽員にアドバイスした。休日には日本人公園で野外演奏を行わせ、外国人を含む聴衆から拍手を受ける経験を積ませ、軍楽隊の士気を高めた。[94]

1939年(昭和14年)10月管轄地域を巡視した際、海南島海口で、11月2日の晩の会食で、飲めぬ酒を付き合ってほろ酔い加減となった井上は、兵学校で2クラス下(井上が一号生徒の時、板垣は三号生徒)の第五防備隊司令の板垣盛大佐に「貴様の前だけど、貴様の兄貴(板垣征四郎)、ありゃほんとうにいやな奴だな。東京にいたころ、俺は軍務局長相手は大臣で、対等の勝負にならなかったが、今度は同じ参謀長だ。南京へ行く機会があったら腹に据えかねていることをうんと言わせてもらうから、ついでの時そう伝えとけよ」(井上が海軍省軍務局長として日独伊三国同盟に猛反対していた時、陸軍大臣の板垣征四郎中将は三国同盟を推進する勢力の中心だった[95]。板垣征四郎は、この時期には、陸相から支那派遣軍総参謀長に転じて南京にいた[96])「貴様も陸軍へ進めばよかったな。そうすりゃ、あの兄貴の引きで今ごろ少将かもしれんぞ。惜しかったんじゃないか、おい」と絡んだ。温厚な板垣大佐は嫌な顔もしなかったが、末席で聞いていた、支那方面艦隊の最後任幕僚(暗号担当)の市来崎秀丸大尉は、井上が三国同盟を巡って兄の板垣征四郎陸軍中将に不愉快な思いを多々させられたのは分かるが、何の責任もない弟にひどいことを言うものだ、と板垣大佐に同情した。[97]

日本軍が陸上から攻撃できない重慶で抗戦を続ける蒋介石政権を崩壊させるため、1940年(昭和15年)5月1日から9月5日までの約4か月間、「百一号作戦」(重慶爆撃)が実施された。陸海軍の航空兵力を結集して、四川省方面の中国空軍を撃滅し、重慶の蒋介石政権の政府機関、軍事基地、援蒋ルートを破壊するのが目的だった。従来から支那方面艦隊の隷下にあった第二連合航空隊、第三連合航空隊に、連合艦隊から増援された第一連合航空隊が加わり、漢口方面の飛行場には、陸攻・艦攻・艦爆・艦戦、約300機が集結した。[98]井上は6月4日に漢口へ飛び、第一連合航空隊司令官の山口多聞少将、第二連合航空隊司令官の大西瀧治郎少将をはじめとする将兵を激励した。支那方面艦隊参謀長が最前線に出るのは異例で、百一号作戦に寄せる井上の期待が大きかったことを伺わせる。[98]百一号作戦の開始当時は、重慶を爆撃可能な航続力を持つ九六式陸上攻撃機を、航続力の短い九六式艦上戦闘機が護衛できず、陸攻隊の損害が日を追って増えた。航続力が飛躍的に長く、強力な武装を備えた零式艦上戦闘機が漢口に送られ、15機が揃って8月19日から実戦に参加した。9月13日に、重慶上空で、零戦13機が27機の中国軍戦闘機隊を捕捉し、中国軍戦闘機を全滅させて零戦は全機が帰還する大戦果を挙げた。以後、重慶上空の制空権は日本側に移り、重慶爆撃の戦果は大いに上がった。[99]

井上は、支那方面艦隊水雷兼政策参謀中山定義少佐のみを従えて[100]、8月6日に九六式陸攻で上京し、翌日、軍令部第一部長の宇垣纏少将ら海軍省・軍令部の十数名と会談し、支那方面艦隊の現状報告と中央への要望を行った。中山によれば、井上は「われわれは海軍航空隊による重慶を初めとする中国奥地戦略要点の攻撃に重点を置いており、その成否は、当面する支那事変解決の鍵と確信している。この作戦は日露戦争における日本海海戦に匹敵するとの認識のもとに全力投球している」と述べ、陸攻の増派をはじめとする具体的な増強案を提示した。中山が、これで井上の要望は終わったかと思った所、井上は一段と語調を強めて「中央には、対支作戦を推進し、その完遂を期すとしながら、その上に第三国(米・英)との開戦に備える動きがあると仄聞するが、万一事実とすれば以ての外である。今や我が国は支那事変だけでも大変な状況に陥っており、この泥沼から抜け出す見通しが立たない状況である。この上、第三国たる大国を相手に事を構えるが如きは論外であるというのが、現地部隊である支那方面艦隊の実感である」と述べた。中央側の出席者は沈黙するのみであった。宇垣の「御趣旨はよくわかりました」という短い挨拶でこの会議は終わったという。[101]

1940年(昭和15年)の6月16日に仏国が独国に降伏していた。独軍が優勢と見える状況について、中山が、井上に感想を求めた所、井上は即座に「ドイツ軍は必ず負けるよ」と答えた[102]

8月18日に、軍令部から、支那方面艦隊司令部宛に「北部仏印作戦準備のため、第一連合航空隊を9月5日に内地に引き揚げさせることに手続き中」という無電連絡があった。支那方面艦隊先任参謀だった山本善雄中佐[注釈 10])によると、「蒋介石政権を空襲で崩壊させるため、支那方面艦隊の航空兵力をさらに増強されたい」という意見具申と「支那事変をそのままに、第三国と事を構えるなど言語道断」という意見具申を、二つとも無視された井上の怒りは大変なものだったという。[104]井上は、支那方面艦隊司令長官の嶋田繁太郎中将の了解を得て、長官名で、軍令部次長の近藤信竹中将宛に再度の意見具申電を発したが、軍令部は「先に井上支那方面艦隊参謀長が上京して意見具申をした時、軍令部は、御趣旨はわかったとは言ったが、その通りやるとは言っていない」と井上を馬鹿にするような応対をした。これに対し、井上が「軍令部に駄目押しをしなかった自分の手抜かりであった、辞職する」と言い出した。支那方面艦隊参謀副長の中村俊久少将と山本が井上を説得し、ようやく収まった。井上が「海軍を辞める」と言ったのは、海軍省軍務局一課長当時に続き2回目であった。[105]

井上が支那方面艦隊参謀長の職を離れる直前の1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国同盟が締結され、北部仏印進駐と合せ、日本は対米英戦争への道を大きく踏み出した[106]

航空本部長

1940年(昭和15年)10月1日に、海軍航空本部長に補される。戦後の井上は、山本親雄少将に「自分は支那方面艦隊参謀長のとき、航空が最も重要だと思い、嶋田繁太郎司令長官に、航空関係への転勤希望を申し出ていたところ、これが容れられた」と語っており、井上の希望通りの人事であった[107]。井上は「戦艦なんか造ったって、飛行機が進歩したらだめだぞ、戦にならないぞという考えは、二、三年前の昭和12年頃から私の頭にあった。大きな戦艦なんか造るのはむだだ、と会議があるたびに出したわけです」と回想する[108]。12月16日、丸田家に嫁いだ娘の靚子が長男の研一を産んだ。[109]

1941年1月会議において「第五次海軍軍備充実計画案」(マル5計画)に対し、井上は、これではまるで明治・大正時代の軍備計画である、アメリカの軍備に追従した月並計画で、戦争で何で勝つのか、どれほど必要かが計画にないと批判し、日本は特徴あり、創意豊かな軍備を持つべきで、マル5計画のような杜撰な計画に膨大な国費を費やし得るほど日本は金持ちではないし、仮りにこの計画通りの軍費が出来たとしても、こんなことでアメリカに勝てるものではないから撤回して研究するべきと主張した。軍令部二部長高木武雄少将がどうすればいいかと聞くと「海軍の空軍化」と答えた。井上はその後一週間で及川古志郎海相に戦艦無用論と海軍の空軍化を説いた「新軍備計画論」を提出した[110][注釈 11](具体案は「戦略」の項を参照)

当初、井上はこのような内容の意見書を個人の意見として提出するつもりだった。ところが、井上が「新軍備計画論」を起草して航空本部総務部長の山縣正郷少将に見せた所、山縣が「ぜひ航空本部長の名で出して下さい」と言ったため、1941年(昭和16年)1月30日付で、海軍航空本部長から海軍大臣宛に正式に提出された。[112]井上の回想では、井上は、及川海相に文書を手渡した後で「これでいい。私はこれでやめます。正しいことが一つも通らない海軍はいやになったから、馘を切って下さい」と言うと及川は「馘は切らんよ。やめさせない」と答えたという。[113]井上が「海軍を辞めます」と言ったのは、海軍省軍務局一課長時代、支那方面艦隊参謀長時代に続いて三度目であった。

井上の回想によれば「井上は破壊的な議論ばかりするという声が耳にはいったからです(省部連絡会議で、マル五計画を痛烈に批判したことを指す[114]。)。これじゃいかんと思ったので、建白書に自分の考えをまとめたのです。ただ破壊的に、こんなもの(マル五計画、その他の日本海軍の考え)はダメだと批判していただけではない。ずっと以前から、どういう軍備が必要かということを考えていたのだ、ということを示すためにもね。それで私はやめますっていったんだ」「私はいわゆる大艦巨砲主義に反対して、海軍の空軍化を力説したのだが、あれは航空本部長のときにいったんで誤解され、損をしましたよ。航空本部長でもってやったもんだから、我田引水だとか、セクショナリズムだとか、そういうふうにとられてしまいました」[115]

井上は「本省の機務に関する書類は外局たる航本(航空本部)には回って来ないので、(時局の)真相はなかなか分らなかった」と回想する。しかし、海軍次官が豊田貞次郎中将から沢本頼雄中将に交代した1941年(昭和16年)4月4日から約2週間、井上は海軍次官代理を兼務し、機務に触れることができた。[116]この時に、野村吉三郎 駐米大使が、悪化の一途を辿る日米関係の改善への必死の努力の結果、「日米了解案」を東京へ打電して来た。これに対し、日米開戦派である海軍省軍務局第二課主務局員の柴勝男中佐は、駐米海軍武官の横山一郎大佐に対し、「日米了解案について、野村大使を『慎重に補佐』すべし」という訓電を起案し、軍務局長の岡敬純少将に提示した。岡は、当初は野村大使の「日米了解案」に乗り気だったものの、結局は柴の意見に同意した。しかし、井上は「野村電に非常に乗り気で、すぐにでも(日米了解案に)調印しろといわんばかりの考えであった」ため、岡から上がってきた訓電案を良しとせず、及川海相に直談判した。井上の記憶では、その日は土曜日(1941年(昭和16年)4月19日と思われる[117])で及川はもう帰宅していたので、井上は及川の私宅を訪れた。[118]

井上は及川に「あなたは米国と戦争になってもよいとお考えですか」と問い、及川が「それは戦争にならない方がよい」と答えると、「あなたの直接の部下は少しもあなたの方針を承知しておらず、かえってその反対のことばかりやっていますよ。今持って来た、この書類(柴中佐が起案し、岡少将が承認した訓電案)は実に危険千万なもので、対米了解を達成しよう、などの気持は少しもないのみか、野村大使の苦心を打ちこわすことを考えているようにしか見えません。私は次官代理ですから根本方針を変えるような事務に立ち入る権利はありませんが、こんな書類は通すわけには参りません。私、自分で加筆修正して軍務局につき返しますからご承知下さい」と及川に言った。井上は、加筆修正して、岡を通じて柴に電文を返した。井上は、自分が修正した訓電がそのまま発電されたものと死ぬまで考えていたようである。しかし、柴が「それでは訓電の意味をなさないので、岡軍務局長の了解を得て発電を中止してしまった」と戦後に語っている。[119] 次官代理兼任というわずかな機会を捉えて、反米・開戦への空気にブレーキをかけようと必死だった井上は、沢本頼雄 新次官が上京して着任する前日、熱海に一泊すると聞き、及川海相に「新次官の沢本中将が、着任して省内の反米の雰囲気に巻き込まれる前に、私から現状をつぶさに話して善処をお願いしたい」と願い出て、熱海に行き、兵学校の1期上である沢本に、井上が次官代理をした2週間の出来事と自分の考えを説いた。[120]

同年7月28日日本が南部仏印進駐を行ったことで、在米英の日本資産凍結、日英通商条約廃棄、米国の対日石油禁輸などの強力な経済制裁がなされ、日米関係は一気に悪化した。南部仏印進駐が7月1日の閣議・翌2日の御前会議で決まった後の7月3日に省部臨時局部長会報(決定事項を知らせるための会議)で、沢本次官から「南部仏印進駐が閣議で決定した」と知らされた。井上は「そのような対米戦争に直結する一大事に海軍が簡単に同意したのはどういうことか。私の所管する航空戦備は全く出来ていない。なぜ、事前に我々の意見を聞かないのか」と非を鳴らし、艦政本部長の豊田副武中将も井上に同調した。弁解する及川海相や沢本次官に対して、井上は「そんなことで大臣が務まりますか。南部仏印進駐に文句を言ったのは、手続き上の問題ではなく、事柄が重大すぎるからだ」と、まるで一兵卒に対するかのように怒鳴りつけた(出席していた榎本重治海軍書記官の証言)。[121]ここまで来ても井上は諦めず、「海軍航空戦備の現状」というかなり長文の意見書を2週間で書き上げ、7月22日に、及川海相、沢本次官、永野軍令部総長、近藤軍令部次長ら、省部の首脳に説明し、航空戦備の各項目(飛行機、機銃、弾薬、魚雷など)について、充足率が著しく立ち遅れていることを示し、「戦争をしてはならない」と強く警告したが、彼らは聞く耳を持たなかった[122]

太平洋戦争

第四艦隊司令長官

1941年(昭和16年)8月11日、第四艦隊(4F)司令長官に親補された。同期で最初に艦隊司令長官(親補職)に補された。榎本重治海軍書記官は「井上さん、邪魔にされましたね」と井上に言った。及川海相に「新軍備計画論」を突きつけ、南部仏印進駐に際しては局部長会報の席で及川海相を怒鳴りつけた井上が、海軍中央から体よく遠ざけられたことに同情しての言葉だった。[123]井上も「かたちとしては栄転だろうが、態よく中央を追われることになった。海軍航空強化の意見書(新軍備計画論)も、航空本部在職中に出したので、我田引水、セクショナリズムの論議と取られた」と解していた[124]

宮城での親補式を済ませ、岩国海軍航空隊から飛行艇で8月21日にサイパン島に到着し、同島に碇泊していた4F旗艦「鹿島」に着任した。「鹿島」は、直ちに、4F司令部の陸上施設があるトラック(トラック諸島の通称)に向かった。[注釈 12]4F長官となった井上は、トラックの「夏島」にある長官官邸に住み[126]、毎朝、4F旗艦「鹿島」に乗艦して、午前8時の軍艦旗掲揚を「鹿島」艦上で迎え、午後4時に退艦して夏島の長官官邸に戻る日課だった[127]。太平洋戦争の開戦前、4Fの防備区域は、日本の委任統治領南洋群島全域、東経130度から175度、北緯22度から赤道まで渡る東西5,000キロ、南北2,400キロの海域であった。この海域の中には、マリアナ諸島、カロリン諸島(トラックを含む)、マーシャル諸島など、大小1,400の島があった。しかし、4Fに与えられていた兵力は、独立旗艦の「鹿島」(練習巡洋艦として建造されており、戦闘力はない)以下、旧式軽巡の「天龍型」2隻、旧式駆逐艦、商船改造の特設艦、旧式となっていた九六式陸上攻撃機九六式艦上戦闘機など僅かでしかなかった[128]

1941年9月海大図上演習で井上は、ラバウル攻略後、ラエ・サモアまで進出することを主張した。理由はラバウルを確保するにはソロモン、東部ニューギニアに前進基地を確保する必要があると考えたためである。宇垣纏中将、山口多聞少将は消極的な意見を述べ、攻略範囲は決まらなかったが、連合艦隊はそれらを加味し、他方面が有利に展開するなら早く実行するとした[129]

井上は、連合艦隊(GF)司令長官の山本五十六大将から「作戦打合わせのため参謀長及び関係幕僚を帯同して上京せよ」という電報を11月6日に受け取り、随員と共に11月8日にトラックを飛行艇で出発し、横浜航空隊に到着して、東京において11月5日付の「大海令第1号」と「大海指第1号」を受け取った[130]。さらに、11月13日に岩国海軍航空隊で行われた、GF長官、各艦隊長官、各艦隊参謀長並びに関係幕僚による「作戦打ち合わせ会議」に出席した。各艦隊司令部に、GF司令部から、「機密連合艦隊命令作第1号」が配布された。井上らは、往路と同じく、横浜航空隊から飛行艇で出発し、11月20日にトラックに戻った。[131]

1941年12月太平洋戦争開始。「鹿島」の4F司令部では、暗号電文を傍受・解読して真珠湾攻撃の大戦果を知った。4F通信参謀の飯田英雄中佐(兵51期[132])が、「鹿島」の長官室にこの電文を持参し、井上に「おめでとうございます」と言った所、電文を見た井上は、ただ一言「バカな」と吐き捨てるように言った。「いざという時は、内閣に海軍大臣を出さないという伝家の宝刀を抜いてでも開戦に反対すべき」と考えていた井上にとり、めでたいどころではなかった。[133]

開戦以降、4F司令部は第一段作戦において、米国領ウェーク島攻略作戦。第一回の攻撃(12月11日)は失敗。真珠湾攻撃から帰投する途中の第一航空艦隊の協力で、同島上空の制空権を確保しての第二回の攻撃(12月23日)で攻略成功。 開戦前から4Fに編入されていた基地航空部隊の第24航空戦隊は、1942年(昭和17年)4月10日の基地航空兵力戦時編制の改編で4Fから外され、11航艦の指揮下に移され、4Fの戦力は減少した。開戦後に新編成され、ラバウル・ソロモン方面に展開し、MO作戦に参加した第25航空戦隊も、11航艦の指揮下であった。[134]

第二段作戦において、1942年5月珊瑚海海戦(MO作戦)。作戦目標はポートモレスビーの海路からの攻略であった。井上は4F旗艦「鹿島」をラバウルに進めて指揮を執った。 海軍省・軍令部やGF司令部は、4F司令部の珊瑚海海戦での指揮を批判した。井上の下で、4F航海参謀であった土肥一夫少佐は、1942年(昭和17年)7月にGF参謀に転出した。GF司令部に着任した土肥が、4F司令部から提出された珊瑚海海戦に関する報告書類、当時の電報綴りを見ると、赤字で「弱虫!」「バカヤロー」などと多くの罵詈雑言が書き込まれていた。GF参謀長の宇垣纏少将は、日誌「戦藻録」の1942年(昭和17年)7月5月8日の項に「4Fの作戦指導は全般的に不適切であった。小型空母「祥鳳」を失っただけで、敗戦思想に陥っていたのは遺憾である」旨を書いている。軍令部第一部第一課作戦班長であった佐薙毅中佐は、日誌に「4Fの作戦指導は消極的であり、軍令部総長の永野修身大将は不満の意を表明していた」旨を書いている[135]

1942年(昭和17年)5月7日、珊瑚海海戦の第1日に、米国機動部隊の攻撃で小型空母「祥鳳」が沈んだ時の心境を、井上は、珊瑚海海戦の後に書いたと推定される手記に「実に無念であった。このような時に、東郷平八郎元帥であればどうなさるだろうかと考えた。心中、 『お前は偉そうに4F長官などと威張っているが、お前は戦が下手だなあ』 と言われているような無念を感じた」という趣旨の記述をしている[136]。敗戦後、新聞 『東京タイムズ1951年(昭和26年)12月10日付に、横須賀市長井に隠棲していた井上のインタビュー記事が掲載された。その記事の中で、井上は「自分は(4F長官として南方作戦を指揮したが、)戦が下手で、幾つかの失敗を経験し、昭和17年10月海軍兵学校の校長にさせられた時は、全くほっとした」と語っている[137]

日本軍が南洋群島の東と南に占領地を広げると、その地域も4Fの担当戦域となった。ウェーク島、南東方面(ラバウル・ニューギニア・ソロモン諸島)など。第11航空艦隊(司令長官は塚原二四三中将)麾下の基地航空隊がマーシャル諸島に展開したが、4Fが補給を担当していたものの、手こずっていた[138]。ミッドウェー作戦の前、トラックの4F司令部にGFから参謀が説明に来て「ミッドウェー占領後の補給は4Fに担当して頂く」と告げた。4F先任参謀の川井巌大佐が、空母2隻基幹の航空戦隊を4Fにつけてくれなければミッドウェーへの補給など出来ない、と反論した所、ミッドウェーへの補給は11航艦が行うことになったという。マーシャル群島に展開し、4Fから細々と補給を受けている11航艦が、さらに2,200キロも先のミッドウェーへの補給を出来る訳がなかった。[139]もともと担当していた南洋諸島全域に加えて、ウェーク島方面、南東方面を4Fが担当するのは無理があった。1942年(昭和17年)7月14日に南東方面を担当する第八艦隊(8F)が編成され、同月24日にラバウルの陸上に8F長官の三川軍一中将(兵38期)が将旗を掲げ、8Fの統帥を発動した。[140]

1942年7月中部ソロモン方面に陸上機の基地建設を検討していた第4艦隊長官井上は、ガダルカナル島の基地設定に着手した。日本軍の最前線基地であったラバウルからは直線距離で1,020キロ離れていた[141]。飛行場建設によるガ島進出は失敗に終わる。

井上の責任として以下が挙げられる。ガダルカナル島への飛行場建設の前段階において、1942年(昭和17年)5月にソロモン群島南端のツラギ島を日本軍が占領し、水上機基地を設け、大型飛行艇を主力とする水上機偵察部隊である横浜海軍航空隊(横浜空)が進出した。基地航空部隊の作戦に責任のない4Fは、この頃(ガダルカナル島への飛行場建設が検討されていた1942年(昭和17年)5月-6月か)、幕僚をツラギ上空に飛ばして現地の状況を視察させた形跡はなく、戦後になっても軍令部の航空担当部員はガダルカナル島に飛行場が建設中であることを知らなかったという。(陸軍側の)参謀本部は知る由もなかった。陸軍は、ガダルカナル島を巡る大悲劇の根本原因は、海軍が勝手に飛行場を作ったことにあるという。[142]

一方で以下のような事情もあり、陸軍側に知らせがあった可能性もある。ツラギ島に進出している横浜空司令の宮崎重敏大佐(兵46期)から、上官である第25航空戦隊司令官の山田定義少将(兵42期)に「ツラギ島対岸のガダルカナル島に、飛行場建設の適地あり」という報告があった(日本軍がツラギ島を占領したのは5月3日、横浜空の飛行艇のツラギ進出は翌4日。[143])。5月25日に、25航戦と第8根拠地隊(8根。司令部はラバウル、司令官は兵39期の金沢正夫少将)の幕僚・技術者を乗せた九七式飛行艇によって、ガ島を中心とするラバウル以南の島々の航空偵察が行われた。この偵察結果を受けて、山田25航戦司令官は、6月1日に、上級司令部である第11航空艦隊(司令長官塚原二四三中将)の参謀長である酒巻宗孝少将に調査結果を報告し、「急ぎ、ガダルカナル島への飛行場建設に取りかかるべし」と意見具申した。ミッドウェー海戦(6月5日-7日)の後に、11航艦司令部からの報告を受けたGF司令部は、ラバウルからガ島が遠すぎることを理由に難色を示した。零戦の航続距離では、ラバウルを基地として、ガ島上空の制空権を確保できず、ラバウルとガ島の中間にもう一つの基地が必要になるため。GFの要望に基づき、25航戦は、ラバウルとガ島のほぼ中間にあるブーゲンビル島ブカ島を2度にわたり調査したが、「いずれも地勢に難があり、ガ島への飛行場造成以上に日数を要する」という結論となった。なお、25航戦にはミッドウェー海戦で日本が主力4空母を喪失したことが知らされていず、この方面の制空権は容易に確保できるという考えがあった。6月19日、GF司令部は、参謀長の宇垣纏中将の名で「ガダルカナル航空基地は次期作戦の関係上、八月上旬迄に完成の要ある所見込承知し度(たし)」と現地部隊に訓電した。GF司令部の訓電を受けた『現地部隊』の25航戦、8根、及び、『この方面の総指揮を執る』4F司令部から参謀が派遣され、再度のガ島上空からの航空偵察が行われた。ガ島のルンガ川東方、海岸線から2キロ入った所が飛行場建設に最適と結論した。GF司令部は、ミッドウェー攻略作戦のために編成されていた第11設営隊、ニューカレドニア攻略作戦のために編成されていた第13設営隊の2個設営隊をガ島飛行場建設に当たらせることを決意し、両設営隊の本隊を乗せた輸送船団は、6月29日にトラックを出港、7月6日にガ島に上陸した。設営隊本隊のガ島上陸の翌7月7日、(海軍)軍令部作戦課は、(陸軍)参謀本部作戦課に「FS作戦の一時中止」を正式に申し入れる文書を提示しており、その文書に「ガダルカナル陸上飛行基地(最近造成に着手、8月末完成の見込)」と記されている。しかし、当時の参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐、陸軍省軍務局長の佐藤賢了少将は、戦後に公表した手記に「ガ島飛行場建設のことは全く知らなかった」と書いている。[144]ガ島に飛行場を建設することについて、海軍中央に意見具申したのは、11航艦 → 25航戦 → 横浜空のラインであり、ガ島に飛行場を建設する決心をしたのはGF司令部である。軍令部が、ガ島に飛行場を建設することを承知しており、参謀本部に通知していた。1942年(昭和17年)7月14日に8Fが編成されるまで、この方面を管轄していた4Fは、11航艦の隷下部隊をサポートする形で関与し、ガ島への飛行場建設が決定する前に、4F幕僚が現地を視察している。

トラック所在の第四海軍軍需部の少女傭員[注釈 13]奥津ノブ子(当時15歳)を可愛がった。太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)夏に、邦人婦女子が内地へ送還されることになり、奥津も「ぶら志゛る丸に乗って内地へ向かったが、出港翌日に「ぶら志゛る丸」は米国潜水艦に撃沈された。1942年(昭和17年)8月5日の深夜であった。1隻のカッターと3隻の救命艇が救助した生存者は、23日もの漂流の末、日本の飛行機に発見され、救助船が向かってトラックに戻ることが出来たが、奥津は生存者の中に入っていた。生還した奥津が、井上の所に挨拶に来た時、艦隊司令長官たる井上が、一介の傭員に過ぎない奥津の前で正座して「申し訳ない」と言い、深々と頭を下げ、ポケットマネーで購入した身の回り品や当座の生活資金を与えた。井上が兵学校長に転じてトラックを去る日、奥津は長官用自動車に乗ることを許され、井上が乗る九七式飛行艇が横付けされた桟橋まで行って井上を見送った。奥津は、1943年(昭和18年)3月に便船を得て内地に帰還でき、以後は神奈川県小田原に住んだ。奥津は、海軍兵学校長として広島県江田島にいた井上に手紙で帰国を知らせ、井上は奥津が無事に内地に帰還したことを祝う手紙を出し、以後、敗戦までの2年ほど、井上は奥津と文通をしていた[注釈 14]1944年(昭和19年)、井上が海軍次官として東京に戻ると、奥津は土産の梨を持って海軍省に井上を訪ねた。敗戦の混乱で井上と奥津の音信は途絶えたが、1949年(昭和24年)に、井上が奥津の戦前の小田原の住所に手紙を出してみた所、その住所に戦後も住んでいた奥津から落花生の小包が井上に届き、文通が復活した。軍人恩給の復活(1953年(昭和28年)まで、英語塾の僅かな月謝以外の収入がなく「貧民のような食生活」を余儀なくされていた井上は、栄養のある落花生の贈り物を大いに喜んだ。1963年(昭和38年)6月には、奥津が長井に隠棲する井上を訪ね、21年ぶりの再会が叶った。奥津は、井上からパラオ出張の土産に贈られた鼈甲のコンパクト、「ぶら志゛る丸」沈没後にトラックに生還した際に井上から贈られた絹の靴下(奥津は、一度も足を通さずに保存していた)を、井上の没後も大事にした。[147]

10月7日に、トラック島在泊の第四艦隊旗艦「鹿島」坐乗の井上は、同じくトラック島在泊のGF旗艦「大和」坐乗の山本五十六GF長官(兵32期)に「大和」へ招かれた。海軍兵学校長から、10月1日付で11航艦長官(ラバウルの陸上に司令部を置く)に親補された、井上と海兵同期の草鹿任一中将が、内地からラバウルへ赴任する途中にトラック在泊の「大和」に立ち寄ったので、山本が草鹿を主賓とする夕食会を開き、井上も呼んだものである。[148]この夕食会で、山本は井上が草鹿の後任の兵学校長に決定しており、海軍大臣の嶋田繁太郎大将から相談され、井上を兵学校長に推薦したのは山本自身だと告げた。この夜、草鹿の申し出によって、井上は宿舎で草鹿から兵学校長の引き継ぎを受けた。[149]

海軍兵学校長

1942年(昭和17年)10月26日、海軍兵学校長に補された[150]。井上は10月31日に97式大艇でトラックから内地へ帰還した[151]。11月初頭に井上は海軍省に出頭し、海軍大臣嶋田大将に挨拶した。井上は、嶋田に、自分を兵学校長に選んだ理由を尋ねた。嶋田は「私は君が(兵学校長に)適任だと思っているよ。その上、君が1937年(昭和12年)に約1年かかって研究して結論を出した一系問題を実施しようと思うので、そのために君に兵学校に行ってもらうことにした」と返答した。

井上は「解りました。一系問題ならば引き受けました。……当局は兵学校長を1年くらいで交代させていますが、それでは短すぎます。私を兵学校長にする以上は、3、4年くらいは兵学校長をやらせて下さい」という旨を嶋田に言った。嶋田が「君はあと2年もすれば大将になる。君の要望通りに3、4年も兵学校長をやらせる訳には行かない」と言う旨を答えると、井上は「私はべつに大将になどなりたいとは思いません。その時[注釈 15]がきたら私を中将のまま予備役に編入、即日召集して(引き続き)兵学校長にして下さい」と言った。嶋田は「そうもいかないよ。ではこうしよう。私が大臣の間は君の兵学校長を替えないよ」と言い、これで井上もようやく納得した。[153]親補職たる4F長官の任を終えた井上は、11月5日の午前10時に参内して昭和天皇に拝謁、軍状を奏上し、菊花紋附木杯一組と金一封を下賜された[154]井上は、11月10日に広島県江田島の海軍兵学校に着任した[155]。当時の心境を井上は、「兵学校長になったのは自らの志望ではなく、また、自分の性格から考えても適任とは思われず、初めはそれほど気が進まなかった。しかし、着任して1か月ばかりの間に、生意気盛りと思っていた生徒達の純真な気持や態度に打たれてきて 『よし、自分は生徒教育を一所懸命にやるぞ』 という気持に変ってきた」と回想する[156]。井上の着任当時、兵学校の教官たちの間では、親しみやすい豪放磊落な人柄だった草鹿の後任として、正反対の人柄の井上を敬遠する空気が強かった。しかし、井上が着任してから日が経つにつれ、井上が教育について深い理解と識見を持っていることを知り、井上の職務遂行に対する真摯で誠実な態度に親しく接するようになって、井上を畏敬し、信服する者も増えた。[157]

井上の兵学校長着任時に在校していたのは、71期(卒業時 581名)・72期(卒業時 625名)・73期(卒業時 902名)の3クラスだった。着任直後の11月14日に71期が卒業し、12月1日には74期(卒業時 1,024名)が入校した。[158]71期が卒業して74期が入校したこの時点で、兵学校生徒は2,500名を超えた。元来、兵学校の施設は、生徒1,000名程度をゆったり収容できるように作られていた[159]

井上が着任した時、生徒が「適正人数」の3倍近くなっているため、生徒の収容が物理的に困難なだけでなく、「島」に立地するゆえに飲料水が不足して、宇品港から、毎日、飲料水を船で運んでいた。海軍中央では、千葉県館山付近への兵学校移転を検討したこともあった。しかし、海軍中央と兵学校当局は、兵学校を江田島に止めて規模を拡張することを1941年(昭和16年)中に決定し、井上が着任した1942年(昭和17年)11月には、拡張計画の一部は着工済、細部の計画や大部分の工事はこれから、という段階であった。井上は工事計画の説明を受けると様々な問題点を見出し、工事計画の基本構想まで遡って部下に再検討を求め、再検討の結果について直ちに査閲した上で決裁し、その後は関係者に全てを任せ、指示を求められない限り口を出さなかった。井上の適切な指揮で、兵学校の拡張工事は大幅に促進される結果となった。江田島の水不足対策としては、当初計画が「江田島の中に水源地は1か所だが、もう1か所増設する」という内容だったのを、井上は「呉から水道管を海底に敷設して給水を受ける」方法の検討を指示したが、技術的・時間的に困難で実現しなかった。[160]

兵学校長の格式は艦隊司令長官と同等だった[161]。校長・教頭に次ぐ兵学校のナンバースリーで、艦隊の先任参謀にあたる[162]企画課長の小田切政徳中佐は、着任直後の井上から「柔道場2棟・剣道場2棟を建設中だが、4棟が隣接し過ぎており、1棟が火災を発すると、他棟に直ちに延焼するだろう。この配置は危険だ」「そもそも、こんな大道場を2棟づつも建てるより、剣道などは練兵場に出てやった方が良いだろう。見直しは出来ないか?」という旨の指摘を受けたが、既に道場の基礎工事がほとんど終わり、建築資材の搬入と加工が始まっている状態であったので「この道場は4棟とも訓育上絶対必要であり、明年(1943年(昭和18年)の75期の入校に間に合わせて欲しい、と生徒隊から強く要請されているのです」という旨を答え、何とか井上の了解を得た。しかし、1944年(昭和19年)1月-3月に完成した4棟の大道場は、同年11月15日に、第二剣道場の風呂場から発した火災で、4棟とも全焼した。

小田切は「もし、井上校長の着任がもう少し早く、(武道場の)土台建設以前であったなら、なんとか取り止めにするか、道場一対(剣道場・武道場一対)だけにするか、生徒隊を説得したと思います。今も心残りに思えてなりません」と回想する[163]。小田切は、第四航空戦隊の先任参謀から、1942年(昭和17年)7月に兵学校に転じ、戦中の2年7か月を兵学校企画課長として過ごした。戦後の井上を、その死に至るまで支え続け、井上の死後も井上の孫の丸田研一と交誼を保った。[164]

井上の在任中に、生徒数の激増に伴う分校の建設が進められた。1943年(昭和18年)5月に、同年12月に入校する75期の採用数が3,500名と決まり、その受け入れのため、岩国海軍航空隊に教育施設を増改築して、同年11月19日に「海軍兵学校岩国分校」として開校させ、75期の入校に間に合わせた。76期(1944年(昭和19年)10月9日入校[165])以降の受け入れのための「海軍兵学校大原分校」(1944年(昭和19年)10月1日開校)、1945年(昭和20年)4月入校の78期[注釈 16]のために長崎県佐世保軍港近くの針生海兵団の施設を改築して1945年(昭和20年)3月1日に開校した「海軍兵学校針生分校」、いずれも、井上が校長在任中に建設を進め、開校にこぎつけたものである[167]

井上が兵学校長在任中に、兵学校生徒は激増したが、それを教育する教官、特に普通学教官・体育教官の充足が困難で、太平洋戦争開戦後に制度化された一般兵科予備士官を活用することとなった。予め、教官配置に適した大学生等を「青田買い」して(具体的な方法は出典文献に記載なし)、兵科予備学生として採用し、兵科予備士官の基礎教育(6か月ないし3か月)のうちから「教育班」に配属して「教官養成教育」を施し、基礎教育終了後、一般の予備学生が砲術学校や通信学校などで教育される所を、「教育班」の予備学生は兵学校で「教官実務教育」を数か月受け、兵学校の普通学教官・体育教官となった[168]。戦争が激化し、初級士官の消耗と需要が激増すると、特に戦場帰りの武官教官から「戦争が終わるまでの特別措置として、普通学の時間を思い切って減らし、軍事学・訓練を主としたものに兵学校教育を転換すべし」という意見が高まったが、井上は、あくまでも、従来通りの「普通学重視」の方針を貫いた[169]。就任時、嶋田海相が井上に言ったように、井上は、兵科将校の教育と機関科将校の教育を一体化する(一系化教育の実施)課題を負っていた。井上は、兵学校長に着任して直ちに機関学校出身の兵学校教官を企画課に配員し、自ら指導して、一系化教育の実施研究を進めた。具体的な成果としては、兵学校で従来から行なわれていた兵器教育の中に、機関学校で教えている機構学の内容が取り入れられて、新しい課目「理兵学」(井上自身の命名)が誕生した。各術科ごとに理兵学教科書が作られて教授された[170]

1944年(昭和19年)10月1日付で、京都府舞鶴所在の海軍機関学校が制度上廃止され、海軍兵学校舞鶴分校として再出発した[171]。既に、1942年(昭和17年)11月1日付で、兵科将校・機関科将校が「兵科将校」に統合されて、階級や服装の違いがなくなり、次いで、1944年(昭和19年)8月に軍令承行令が改正されて、制度上は、兵学校出身者と機関学校出身者の指揮権継承順位についての区別もなくなり、制度上の統合は完了していた。ただし、太平洋戦争のさなかであり、(旧)機関科将校が(旧)兵科将校の配置に就くこと、その逆のいずれも非現実的であるため、「特例として、戦闘艦艇(軍艦、駆逐艦、潜水艦など)においては、従来通りに、(旧)兵科将校が指揮権継承について優先する」定めが同時に設けられた[172]

海軍兵学校舞鶴分校については「当分の間、海軍兵学校舞鶴分校に於ては、従前の海軍機関学校の教育綱領に準じ機関、工作、及び整備専修生徒の教育を行なうべし」と定められた。「当分の間」が終わる前に、太平洋戦争の敗戦で帝国海軍そのものが潰えてしまった[173]。兵学校は、海軍大臣の定めた「海軍兵学校教育綱領」によって運営されており、校長の交替で教育目的や基本方針が大きく変ることはない筈であったが、実際には校長の裁量の余地があった。永野修身中将が兵学校長の時(1928年(昭和3年)12月から1930年(昭和5年)6月まで)に、生徒の創造能力養成を目的とした一種の英才教育である「ダルトン・プラン」が兵学校で導入されたが、実行してみると理想に過ぎてうまく行かず、永野の退任後に直ちに従来の状態に戻されたのは、その極端な例である[174]

井上は、兵学校に11月10日に着任すると、直ちに校長自らが出席する「教官研究会」の開催を指示し、11月28日に第1回を実施し、以後、半年の間に「教官研究会」で、自らの所見を記した『教育漫語』(当時の教官が保存しており、「其ノ1」から「其ノ3」まである)というプリントを使って「教官教育」を行った。また、井上は、前線帰りの武官教官が生徒に直接に実戦談をすることは禁じたが、教官研究会で、教官たちに対して戦況報告をさせた。井上自身も、4F長官として珊瑚海海戦を指揮した時のことを「教官研究会」で話した。井上の率直で謙虚な「珊瑚海海戦報告」は、教官たちに大きな感銘を与えた[175]

井上は、訓育を担当する監事(武官教官)に、「比叡」艦長時代に作成した「勅諭衍義」を配布して、監事たちの思想統一を図った。次いで、兵学校内の教育参考館に掲げてあった全海軍大将の額を撤去した。驚いた副官に、井上は「生徒たちの目標は東郷元帥だけで充分。他の大将の額を掲げるのは、生徒に出世主義を示唆するもの」と言う旨を答えた。井上は「まず参考館に入ってみると、海軍大将の額がずらりと並んでいる。その大部分の人は長い間海軍に御奉公した人たちで、その功績は大きい。しかし、中には海軍のためにならないことをやった人もいるし、また、先が見えなくて日本を対米戦争に突入させてしまった、私が国賊と呼びたいような人もいる。こんな人たちを生徒に尊敬せよ、とは私には到底言えないし、また、そんな人たちの写真を参考館に飾っておくことは、館内に同居している真珠湾攻撃の特殊潜航艇で戦死した若い軍人方にも相済まぬと思ったからである」と回想する[176]。井上が着任する前から、海軍省教育局が、平泉澄東京帝国大学教授を、兵学校に度々派遣し、教官や生徒に皇国史観に基づく講話をさせていた。井上は、平泉の生徒への講話を廃し、「教育研究会」での教官への講話に限定した。また、井上自身も平泉の「教育研究会」での講話を聞き、不適切と思われる内容があった場合は、講話の後で教官たちに指摘して注意喚起した[177]

1943年(昭和18年)12月1日、井上の兵学校着任から1年後に入校した75期、3,500名は、兵学校史上空前の人数で、採用試験、銓衡、受け入れには多くの困難があった。75期の志願者は5万名に達し、全国各地の試験場での身体検査でまず35%を落し、残る65%から学術試験でさらに70%を落し、採用候補者は約20%の9,700余名[178]に絞り込まれ、その中で、兵学校当局者が銓衡して入校を許可した75期の3,500名は「全国の中学校から、身体・学術共に最優秀の若者の大半を江田島に集めた」ものだったが、戦争の激化により、中学生の学力は、主に「教員の応召による不足」と「勤労作業による授業時間の減少」によって戦前より一般に低下しており、さらに学術軽視の風潮もあり、特に理数科の学力低下が甚だしかった。井上は、75期の入校直後に理数科について全員の実力査定を行い、成績不良者には特別教育を行って、「落伍者(退校者)を出すな」という自身の教育方針を実践した[179]

井上が75期を教育したのは8か月に過ぎなかったが、入校に至るまでの苦労が大きかっただけに、井上にとって最も印象の強いクラスとなった。戦後、井上は兵学校の話となると、必ず75期に言及した[180]。75期は、兵学校に入って1年8か月で生徒のまま敗戦を迎え、戦後社会の各分野に散らばった。下記は、井上が、75期のクラス会に1971年(昭和46年)12月に送ったメッセージの一部である。「諸君は昭和20年8月、帝国海軍の滅亡と共に、誠に無情な世の中に放り出されて、その日から、食べることから、寝ることまで、自分で何とかしなければならなかった人もあり、会いたい近親の消息も知れなかった人もあったことでしょう。また、家族的に恵まれた人でも、大学を受験すれば1割までしか入学を許せぬとの差別扱いや[注釈 17]、世の中から冷やかな目で見られる等、悔しい目に遭った様でしたが、これらの不遇を見事に克服し、今日では「吾ここに在り」と胸をたたいて、堂堂と立派な社会活動をやっており、世人の高い評価を受けております。この2、3年の海軍ブーム!! これを招来したのは諸君!吾が教え子でなくてほかに誰がありますか!! 吾が教え子よ、春秋に富む諸君よ、今後も、健康で、現在の堂堂たる態度で、社会に貢献して世の後進を導き、海軍精神を後世に残したまえ」[182]

海軍省軍務局は、75期の大量採用を決定する一方で、士官搭乗員の急速養成策を検討していた。軍務局は、兵学校の修業年限を短縮し、早期に飛行教育に移行させようと考えていた。井上が兵学校長に着任した直後の1942年(昭和17年)11月14日に卒業した71期までは3年の修業年限を確保していたが、72期については、軍務局と兵学校当局が協議して、修業年限を2か月短縮して2年10か月とし、1943年(昭和18年)9月に卒業させた[183].。軍務局は、兵学校のさらなる修業年限短縮を検討し、73期は修業年限を2年6か月として1944年(昭和19年)6月に、74期は2年として1944年(昭和19年)11月にそれぞれ卒業させる案を、兵学校を所管する海軍省教育局に提示した。しかし、海軍省教育局長は、井上が4F長官だった時に参謀長を務めた矢野志加三少将であり、兵学校長の井上と直に連絡を取りながら兵学校の教育年限短縮に強硬に反対し続けた[184]

矢野の以下の意見書は、井上の意見を強く反映している。兵学校を卒業した兵科将校は、直ちに海軍中堅幹部として指揮権を行使するため、充分な基礎的教養が必要。航空将校であっても、航空専門の技能だけでなく、海軍全般についての基礎知識、部下を指揮統率するための識量を兵学校で学ぶべきなのは同じ。本来、1.のためには4年の修業年限が必要だが、今では3年に短縮されている。いかに兵学校当局が工夫を凝らしても、3年でも不十分なのが現状であるのに、さらに修業年限を短縮されては、粗製濫造の兵科将校ばかりになってしまう。中学生の学力・体力の低下が見られることも重視すべき。兵学校の3年の教育年限をこれ以上短縮しないことで、士官搭乗員の量的要求に応えられなくなったとしても、海軍幹部の中心を確固たらしめるためには甘受すべきと考える。陸軍では、1938年(昭和13年)頃に士官学校修業年限を約半減して速成教育に転じたが、これを失敗と判断し、修業年限を旧に復しつつある状況[185]。この意見書が出されたのは1943年(昭和18年)4月15日と推定できる。小田切の証言は以下の通り。「矢野から井上への直接の電話で、『明日、16日午前の戦備打ち合わせ会で、軍務局の提案通りに73期・74期の修業年限短縮が決定される見通しである。私(矢野)独り反対しても、押し切られそうな情勢である』と伝えてきた」矢野からの電話連絡を受けた井上は、即座に、自ら「これ以上に年限を短縮されては、兵学校長として生徒教育に自信が持てない」旨の電文を自ら書き、海軍次官の沢本頼雄中将(兵36期、のち大将)宛に発信するよう、兵学校長副官に命じ、加えて下記のように指示した[186]。「君(副官)は、電報を打つと同時に海軍省副官に対し『この校長からの電報は、明日の戦備打ち合わせ会の開会前に必ず沢本次官に見てもらうよう取り計らってくれ』と電話をかけること。これは、会議が済んでから見られたのでは役に立たないし、また途中で誰かに握り潰されることがないようにするためである」[186]

矢野と井上の努力により、4月16日の戦備打ち合わせ会では、軍務局の年限短縮案は決定に至らなかった[186]。その後、中央から兵学校長の井上への説得がしきりに行われ、軍令部や航空本部の中堅が大挙して江田島に押しかけたこともあったが、井上の態度は変らなかった[187]。しかし、1943年(昭和18年)11月のろ号作戦ギルバート諸島沖航空戦での海軍航空隊の甚大な被害により、嶋田海相が、73期の教育年限を8か月短縮して2年4か月に短縮して、1944年(昭和19年)3月に卒業させるよう発令した。

井上も、直属上司である海相の決定には従わざるを得ず、73期に対しては、夜間授業まで含む「終末教程」を作成して、少しでも多くのことを学ばせた。この頃の心境につき井上は「ただでさえ3年修業でも教育は充分でないのに、まことに不見識な年限短縮であった。そして、それも急に決めてきたため、教科はすべてが尻切れになる次第だった。このような取扱いをされる生徒は、人間づくりの最も大切な年頃を踏みにじられたもので、見ようによっては一生を台なしにされるわけで、私は校長として看過すべきではないと思った。そして、今後これ以上の修業年限の短縮には、職を賭しても反対して生徒を守ろうと決心した」と回想する。

一方、海軍中央では、74期・75期の修業年限を、かねての軍務局案のように2年程度に短縮しようとしていた。1944年(昭和19年)3月22日の73期の卒業式には、天皇の名代として、大佐で軍令部員だった高松宮宣仁親王が臨席した。卒業式の後、下記の問答があった[188]。高松宮は「教育年限をもっと短縮できないか」井上は「その御下問は、宮様としてでございますか。それとも軍令部員としてでございますか」高松宮 は「むろん後者である」井上は「お言葉ですが、これ以上短くすることは御免こうむります」この後で、井上は高松宮に生徒教育について日頃考えていることを説明した。井上の回想。[189]「宮様は 『そうか、そうか』 とうなずいておられました。年限短縮の問題は宮様ご自身のお考えではなく、軍令部あたりの者が宮様に頼んで、頑固な井上を動かそうとしたのでしょう。その人たちは『前線で士官が不足して困っているときに…』と、私が卒業を早めることに反対するのを怒っていたようです。私を私かに国賊だなどという者がいたのもその頃だった」と回想する[190]

1944年(昭和19年)5月19日、永野修身元帥が兵学校を視察した。永野は、井上に「修業年限短縮」を切り出したが、井上は「私は米作りの百姓です。中央でどんなに米がご入用か知りませんが、青田を刈ったって米はとれません」とはっきり断った[191]

この頃、海軍省教育局と兵学校企画課との間で交渉を重ねた結果、下記のような結論が出た。74期の就業期間は73期と同じく2年4か月とし、これ以上の短縮はしない。その代わり、74期以降は在校中から航空班と艦船班に分け、適当な時期から軍事学についての教育を分離する。航空班の生徒については、霞ヶ浦練習航空隊における飛行学生基礎教程の一部を、生徒時代から繰り上げて実施する。この案は、長期的に見ると、兵科将校の養成上、多少の歪みをもたらすことになるが、戦時下の特別措置として止むを得ないとし、井上も、「年限短縮」にブレーキがかかったので同意した。しかし、軍令部などでは、一層の兵学校の修業年限短縮を求める意見が強かった。[192]

1944年(昭和19年)に入ると、「戦勝の見込みがつくまで、兵学校を術科学校化して、すぐに役立つ初級士官を養成すべし」とする意見が、海軍中央はもとより、兵学校武官教官の多数から発せられるようになっていた。兵学校武官教官の中には、職を賭しても兵学校の教育理念(普通学重視)と修業年限を守ろうとする井上の態度を奇異に感じていた者もいた。中央の一部の者から井上が国賊呼ばわりされるのも止むを得ない時代であった[193]。井上は「もうその頃になると、戦争の将来がどうなるかははっきり見通しがついていました。仮に戦争に勝ったとしても、戦後海軍に残るのは一部の者だけで、相当数は社会に出て働かなければならない。まして敗戦の場合はなおさらです。生徒に対し、どうしてもまとまった教育をしておくのは今の時期しかないと思ったのです。今やっておかずに、卒業後に自分でやるといっても実際はできるものではない。まして戦時中はなおさらのことです。戦争だからいって早く卒業させ、未熟のまま前線に出して戦死させるよりも、立派に基礎教育を今のうちに行ない、戦後の復興に役立たせたいというのが私の真意でした。しかし、当時敗戦の場合のことなど口に出して言えるものではありませんでしたし、また言うべきことでもありません」と回想する[194]

小田切によると、井上が、一部の者から国賊呼ばわりされていた頃、鈴木貫太郎大将(兵14期、予備役)が兵学校を訪れた。鈴木は、兵37期の井上が兵学校卒業後の遠洋航海で乗組んだ巡洋艦宗谷」の艦長だった。校長室で鈴木が「教育の成果が現れるのは20年さきだよ、井上君」と言うと、井上は大きく頷いた。その後、二人は暫く黙って向かい合っていた[195]

1944年(昭和19年)7月上旬、サイパン失陥により東條英機内閣は崩壊し、小磯国昭・米内光政の両名に組閣の大命が下り、7月22日付で小磯・米内内閣が発足した[196]。予備役の大将だった米内は特旨をもって現役に復帰し、副総理格で海軍大臣に就任した。井上は、米内の懇請により、海軍兵学校長から、8月5日付で海軍次官に転じた[197]。教官たちに対する井上の退任挨拶で「私は過去1年9か月、兵学校長の職務を行ってきたが、離職に当たって誰しもが言うような、大過なく職務を果たすことができた、などとは言わない。私のやったことが良かったか、悪かったか。それは後世の歴史がそれを審判するであろう」と話した(ある文官教官の記憶による)[198]

校長時代のエピソードには次のようなものがある。

井上は主立った教官20人ほどと会食し、井上が退席した後、教官たちが飲み直しを始め、校長官舎に電話して「校長も二次会へちょっと如何ですか」と誘ったが、井上は「そういう席へ私は出ない」とあっさり電話を切った[199]。校内の雑用係の「ボーイ」(国民学校を卒業後に上級学校に進めなかった少年たちで、15-16歳程度だった)に、何とか教育の機会を与えたいと考え、希望者を募って20人くらいの班を2つ作り、午後3時から5時まで2時間の授業を1日おきに実施した。課目は、井上が、少年たちに一番大事と考えた数学と英語の2科目とし、講師には兵科予備学生出身の武官教官を充てた。戦後に、兵学校の元・文官教官が、「ボーイ」達が授業を受けている時に井上がしばしば視察に来ていたこと、終業式で成績優秀者に与えられる英英辞典が、井上のポケットマネーで提供されていたことを語っている。その元・文官教官は、戦後に広島大学を訪れた時に、この教育を受けた「ボーイ」の一人が、理科関係の助手を務めているのに出会った[200]

兵学校のある期について、兵学校卒業席次と最終到達階級との関連を数学的に分析して、教育参考資料として兵学校教官たちに示した[201]。兵学校教官は、休日には担当する分隊の生徒を官舎に呼んで妻の手料理を振る舞う慣習があった。戦争が激化して物資が不足しているのに、実験的に2つの分隊を担当させられた教官がおり、2倍の生徒に手料理を食べさせるために出費が嵩み、かつ娘が栄養失調で入院してしまい、家計のやりくりがつかなくなった。これを知った井上は、その教官宅に校長命令で粉ミルクやパンなどを特別配給させて深く感謝された[202]

兵学校の武官教官で、兵75期生徒採用委員の一人であった前田一郎少佐(兵57期、のち中佐)が、地方の兵学校採用試験会場で、「脚に軽い障害があるが、現地での身体検査では合格した。筆記試験の成績は優秀で、前田の観察では人格も優秀」な受験生が、「入校予定者」として江田島に来た。脚の障害を見て取った前田の上官(生徒隊監事)が「あの入校予定者は不合格。直ちにその旨言い渡せ」と言った。前田自身、脚に障害のあるその入校予定者が、兵学校の厳しい訓練に耐えられないと生徒隊監事が判断するのは理解できた。前田の躊躇を見て取った生徒隊監事は「兵学校練兵場のトラックを、他の予定者と、あの予定者と一緒に全力疾走させるんだ。一番ビリ、しかもずうっと遅れたら、自分で納得するよ」と前田に指示した。400メートル全力疾走の結果は、生徒隊監事の予想通りで、前田もほっとした。だが、ゴールにようやくたどり着いた入校予定者は「教官、私をこの兵学校で鍛えて下さい。私は、あの人たちに負けない生徒になってみせる自信があります」と、生徒隊監事と前田が全く予想しないことを言った。当惑した前田を、一部始終を遠くから見ていた井上が呼んだ。井上は、前田に「あの生徒はどんな人物か」と聞き、前田が「実に立派な人物です」と答えると、無造作に言った。「海軍生徒になってから事故で怪我をしたと思えばいい。将来は航空関係の技術士官に向ける道もあろう」井上の決断で兵75期の一員として兵学校に入校し、敗戦までの1年8か月を無事に過ごしたこの生徒は、某国立大学で宇宙航空研究所の教授である(1982年(昭和57年)現在)[203]

海軍次官

1944年(昭和19年)に入り、海軍省教育局長高木惣吉少将、榎本重治海軍書記官など井上と親しかった者たちが、江田島に井上を訪問して「一日も早く、中央の要職に転じて、戦争終結への努力を」と井上に説いた。高木によると、井上は「とんでもない! 私は予備になるまで兵学校でご奉公させて頂くつもりだ!」と返答していた[204]。しかし、7月22日付で小磯・米内内閣が発足し、米内光政が海軍大臣に就任すると、米内が海軍大臣就任報告のために伊勢神宮を参拝して、京都に宿泊した晩(7月28日)に、井上が京都に出て米内と会談することとなった。宿泊する都ホテルの一室で井上と向かい合った米内は井上に「(井上の)外に(次官に補すべき)人がないんだよ」と次官就任を懇請し、井上は「政治のことは知らん顔していいのなら、やります。部内に号令することなら、必ず立派にやります。御心配かけません」と、次官就任を受諾した。[205]同時に、米内と井上は軍令部総長の人事について相談した。米内は、軍令部総長の嶋田繁太郎大将を更迭することは決めていたが、米内をバックアップしていた海軍出身の重臣である岡田啓介大将が「海軍部内の信望が米内に劣らない末次信正大将を、米内同様に特旨をもって現役復帰させ、軍令部総長とする」構想を持っていることには反対であった。井上の口から「末次」の名は一切出ず、及川古志郎大将を総長とすることがすんなり決まった[206]

1944年8月5日海軍省次官任命。6年目の中将である井上は次官就任に際して「特に親任官の待遇を賜う」という辞令を受けていた[207][208]。次官に就任し、機務に接する立場となった井上は、戦局が絶望的であること、それを直視して根本策(戦争を止める策)を実行しようとする勇気に欠けた海軍中央の雰囲気を知った[209]

1944年8月16日の特攻兵器震洋の検討会で、草鹿龍之介中将とともに生還の可能性も考えてほしいと意見するが、最終的にそういった措置が取られることはなかった[210]

1944年8月29日着任してから23日目の井上は、大臣室で米内に「現在の状況はまことにひどい。私の想像以上で、日本は負けるにきまっている。一日も早く戦をやめる工夫をする必要があります。今から、いかにして戦争をやめたらいいかの研究を、ごく内密に始めますから、大臣だけ御承知願います。及川軍令部総長にだけは私から申し上げておきます」井上は、続けて、その研究には海軍省人事局長の高木惣吉少将を充てたいこと、その為に高木を「海軍省出仕、次官承命服務」にしたいと述べた。同日、井上は高木を次官室に呼んだ。高木によると、井上は「戦局の後始末を検討しなけりゃならんが、こんな問題を、現に戦争に打ち込んでいる局長に言いつけるワケにはいかん。そこで大臣は、君にそれをやってもらいたいとの意向だが、差し支えないかネ」と言い、高木が快諾すると、「このことは大臣と総長と私のほかはだれも知っていない。部内にも洩れてはマズいから、君は病気休養という名目で[注釈 18]出仕になってもらうつもりだから、いいネ」と告げた。[213]。高木の目立たない執務場所として海軍大学校研究部が選ばれたため、高木への辞令は「軍令部出仕 兼 海軍大学校研究部部員」となり、職務内容は「次官承命服務」となり、翌年の1945年(昭和20年)3月には「兼 海軍省出仕」の肩書が追加された[214]。高木は、前年の1943年(昭和18年)の秋頃から、東條・嶋田ラインの戦争指導に疑問を抱き、海軍部内・部外の同志と密かに意見を交わしていた。同志と語らい、「1944年(昭和19年)7月20日に東條を暗殺する」具体的計画を立てて準備をするに至ったが、実行寸前の7月18日に東條内閣が総辞職したため未遂に終わった。[215]

1944年(昭和19年)7月のサイパン島喪失以降、有識者の間には戦局への不安が急速に広がっていたが、陸海軍部内の者はともかく、軍部外の者は、憲兵と特高を駆使する陸軍の影に怯え、その不安を表面に出す者はなかった。43歳で逓信省工務局長(少将に相当)の要職にあった松前重義が、東條内閣に反対する動きを見せたために、陸軍二等兵として召集され、東京日日新聞記者の新名丈夫が陸軍の意に沿わない記事を書いたために、38歳で陸軍二等兵として召集されるなど、陸軍は召集令状を発する権限を濫用して有識者への見せしめとしていた[216]。井上の命を受けて、高木は、海軍部外の志を同じくする要人や有識者の間を精力的に回り出した。そのような時の高木は背広姿であったが、時には海軍の錨マークがついた公用車に乗って、要人や有識者の私邸へ急行した。戦争終結を密かに考えていた彼らは、『海軍が現役海軍少将をして正式に和平への道を探らせ始めたこと』 の証を見て、大いに勇気づけられた[217]。高木は、原田熊雄松平康昌を通じて、昭和天皇の側近や重臣に自分の考えを伝えた。岡田啓介大将宅を訪問して報告し、指示を受けた。細川護貞を介して近衛文麿元首相に、近衛を通じて高松宮に意を通じた。現役の海軍大佐である高松宮には、高木は直接に報告して連絡を密にしていた。高木のこのような活動により、あまり仲の良くなかった岡田と近衛が徐々に理解し合い、共通の目的である戦争終結に動き始めた[218]

海軍大臣副官 兼 秘書官であった岡本功中将によると、高木はしばしば井上を次官室に訪ねて話をしていた。また、核心に触れる話については、夜に大臣官邸(米内が海相就任後も自宅に住んでいたので、海軍大臣官邸は空き家の状態だった。家族がいず、東京に家を持たない井上は、次官就任を受諾した時に、大臣官邸の中の使用人区画に住む了解を得て、以来、大臣官邸の中に住んでいた[219])に井上を訪ねて、例えば近衛の私生活上の話に至るまでのあらゆる情報を井上に伝えていた[220]。井上や高木にとって最重要なことは「一日も早く戦をやめること」であり、そのためには如何なる犠牲を払っても良いというほど、二人の決意は徹底していた。陸軍や重臣が譲れない講和条件としていた「国体護持」についても、二人の関心は次第に薄れていった[221]。高木の他に、井上と志を同じくする者が海軍部内にいた。海軍省兵備局二課長の浜田祐生大佐(兵47期)であった。浜田は、1944年(昭和19年)に海軍大臣官邸で開かれた戦備幹部会で、物的国力の現状を詳細に説明し、このままでは戦争継続が不可能であることを大臣・総長に分らせようとした。説明が1時間以上も続いた後、井上は「戦争終結」を口に出しかねまじき浜田の意図を見抜いて「浜田、もう止めろ」と制止した。浜田は、当直の晩ごとに大臣官邸に井上を訪ねて「戦争終結へ急いで欲しい」と頼んでいた。浜田は井上-高木ラインの活動を知らず、井上もそのことを浜田に告げることは出来なかった。戦後、井上は自分の住所録の中の浜田の名に「[先見の明あり、大忠臣]終戦の必要を井上[次官]に申出づ。[大海軍で只一人]と添え書きしていた[222]

1944年10月25日井上は、フィリピン沖海戦で損傷した艦船の修理に関して、石油、ボーキサイトの還送に支障があってはならない、タンカーや貨物船の建造が遅れ、その後の特長ある作戦に必要な特攻兵器などの建造計画に影響があってはならないと軍務局長多田武雄中将、運輸本部長堀江義一郎少将に指示した[223]

レイテ沖海戦で連合艦隊が事実上壊滅し、1945年(昭和20年)2月以降は、南方の石油を内地へ輸送する道が絶たれ、僅かな残存艦艇も動けなくなった。海軍の勢力が衰え、海軍・陸軍の戦力バランスが崩れたことで、陸軍の主導の下に「陸海軍一元化」が画策され、3月10日に、海軍大臣の米内、海軍次官の井上、軍令部次長の小沢治三郎中将(井上と海兵同期)らに、陸軍の対応する職階の者たちが「陸海軍一元化」を呼びかけてきた。しかし、和平のために活動している井上がこれに同意するはずがなかった。当時の井上の考えは、いくつかの書類に書かれて現存している。陸軍に海軍が吸収されて国軍が一本化するということは、「本土決戦」で徹底抗戦するという陸軍の戦略に従うことであり、米内・井上の到底容れ得ることではなく、両名の頑とした反対により陸海一元化は阻止された[224]。井上によれば、これに先立つ1944年(昭和19年)12月に、海軍大臣官邸での会食の後に、井上と二人きりになった米内が、井上に「俺はくたびれた。井上、お前に大臣を譲る」という旨を言った。井上は「陛下の御信任で小磯さんとともに内閣をつくった人が、くたびれたくらいのことで辞めるなんていう手がありますか。今は国民みな、命をかけて戦をしているんではないですか。少なくとも私は絶対引き受けませんよ」と即答した。大臣秘書官の岡本中佐によると、翌1945年(昭和20年)1月10日に同様の問答があった。高木は、2月26日に、横須賀の海軍砲術学校教頭を務めていた高松宮(大佐)を訪問し、小磯・米内内閣更迭の場合の海軍首脳陣容について高松宮から問われ、3つの案を提示した。そのうち1つの案では、井上が大臣に擬せられていた。[225] 井上の回想によると、4月1日に、海軍省人事局長の三戸寿少将が、日曜の午後で大臣官邸の自室にいた井上を訪問し、人事異動の案を示した。そこには「大臣:井上」とあった。井上は三戸に「だめだ、次官がやれるから大臣もやれると言うもんではない。私は大臣不適なことは自分でよく知っている。米内さんにそのままやって貰うんだ」と言った。井上は「危機一髪、之で三度」と表現している。

井上は中将進級(1939年(昭和14年)11月15日)から5年を経過して、現役で海軍次官の要職にあった。太平洋戦争中は、中将に進級して5年半経過しても現役にある者は大将に親任される例であった[152]。これを反映して、1944年(昭和19年)の暮れごろに、米内が大将親任の話を井上に持ちかけた。この時井上は「大将にすると言うのは次官をやめろということですね」と米内に念押しし、「和平か玉砕か、国家が運命の岐路に立たされている時、何故、己の片腕とも頼むものを切ろうとするのか」と暗に米内に訴えた[226]。井上は、1945年(昭和20年)1月20日付で「大将進級に就き意見」と題して毛筆で一文を書き、米内に、正式に自分の大将親任反対の意志を表明した。次いで、2月3日には「当分海軍大将に進級中止の件追加」と題した一文を米内に提出した。井上の回想によると、3月半ば、海軍大臣官邸で米内と井上が二人だけになった時、米内が「4月1日付で、塚原二四三中将(兵36期)と井上を大将にする」と告げた。井上は「『戦敗れて大将あり』ですか。今、大将を二人つくらないと海軍が戦をやっていくのに困るわけでなし、この戦局なのに、大将なんかできたら国民は何と思いますか。その上私は人格、技能、戦功、どれ一つとって考えても、自ら大将なんていう器ではないと考えてます。米内大将もやはり月並みの男だなと笑われないように、篤とお考えになったらよいでしょう」と返答した。2、3日して、米内から井上に「塚原も君も今度は大将見合わせだ」という言葉があり、井上は、自分の進言を米内が聞き入れてくれたことに謝意を述べた[227]

1945年(昭和20年)4月5日、小磯・米内内閣が総辞職した。戦局が末期的様相を帯びてきたのがその主因であったが、井上-高木の工作によって、ようやく重臣たちが陸軍主導の内閣を排し、和平を模索する方向を取り始めたことを意味し、井上や高木にとっては、和平早期実現の好機であった。ただ、米内海相は、小磯首相と共に前年の1944年(昭和19年)7月に組閣の大命を受けた経緯があるので、新内閣に留任するのは「政治道徳」上至難であるという問題があった[228]。井上は、内大臣の木戸幸一から、高木を通して「組閣の大命は、枢密院議長の鈴木貫太郎海軍大将(兵14期)に下る見込み」との内報を受け、それに賛同すると共に、条件として「鈴木大将は人物も度胸も申し分ないが、失礼だが総理として必要な政治感覚に乏しいと思う。それ故鈴木内閣が出来るとすれば、米内大将は是非共鈴木さんの片腕、相談役として入閣して貰う必要がある。之は絶対条件と思う」と、木戸に返答するように高木に指示した。これは、海軍部内の誰にも相談せず、井上一人が独断で決めたことであった[229]。4月5日に鈴木に組閣の大命が下ると、井上は、高木に「海軍の総意は米内の海相留任である」と鈴木に伝えるよう命じ、鈴木に承知させ、その後で海軍首脳の了解を取り付けた。この「海軍の総意」は、実際は井上一人の考えだった。その後、米内自身が海相留任に難色を示したが、井上が押し切った[230]

井上は、米内に、4月25日付で、「当分大将進級を不可とする理由」という文書を三たび提出した。しかし、井上の回想によると、5月7日か8日に、井上は大臣室に呼ばれ、米内から「陛下が塚原と君の大将親任を御裁可になったよ」と告げられた。井上は「陛下の御裁可があったのでは致し方ありません。あたりまえなら大臣のお取り計らいにお礼を申し上ぐべきでしょうが、私は申しません。なお次官は罷めさせて頂けますでしょうね」 と答え、米内が「うん」と答えて、井上の次官退任が決まった。井上は「負け戦、大将だけはやはりでき、こういう句ができましたよ」と米内に言い残して大臣室を退出した[231]。井上は、戦後この日のことについて「それで米内さんと喧嘩別れしちゃったんだ(中略)それっきり仲直りしてません。その問題についてはね」と語っている[232]

もともと次官は中将のポストである[233]。井上は高木に「次官退任は、大将になったから」と語っている。しかし、嶋田繁太郎海相の下で長く海軍次官を務めた沢本頼雄中将が、1944年(昭和19年)3月1日に大将に親任された後も、同年7月まで「軍事参議官 兼 海軍次官事務取扱」として次官の職務を務めた[234]直近の例があった。海軍大臣秘書官の麻生孝雄中佐、岡本中佐らは、「大将次官でなぜ悪い。大将進級に反対する余り、次官までやめることはないではないかと思った」と、今(1982年(昭和57年)現在)も不満を漏らしている[235]。米内と井上が「喧嘩別れ」した経緯については、諸説がある[236]。ただし、米内と井上の考えが、和平という大筋では一致しても、具体的な方法について一致していなかった可能性があると、麻生・岡本の両秘書官が言っている[237]。井上は戦後に小柳富次中将に下記のように語っている。「米内大臣は、一度何処かでアメリカ軍を一叩きしたあと、和平に持って行ってはどうかと考えておられたが、私はそれはとても望みないと思っていた」3月に硫黄島が攻略されて、米軍の戦闘機P-51が進出し、以後、直掩機のP-51に守られたB-29の本土空襲は急速に規模と回数を増し、非戦闘員の犠牲が幾何級数的に増加した。麻生の回想によると、井上は毎日のように「大臣、手ぬるい、手ぬるい。一日も早く戦をやめましょう。一日遅れれば、何千何万の日本人が無駄死にするのですよ」と米内を責め、ときには具体的な計数まで示して説得していた[237]。井上が死去する前年の1974年(昭和49年)春、風邪をこじらせて横須賀市民病院に入院した[238]井上は、発熱した時に体を震わせて「早くしないと若い者たちがどんどん死んでしまう。早くなんとか急がねば…」と叫んだという[239]。井上は、4月初めに「日本の執るべき方策」と題した、十数枚の所見を米内に提出した。この所見は、米内の「沖縄をとられたらどうするか」という質問への井上の答であり、その趣旨は「独立と言うことだけが保たれれば、他はどんな条件でもよいから戦をやめるべきである。米軍の本土上陸前に講和をしなければ、日本人の国民性から考えると、米軍に対し徹底的に抗戦し、遂には講和する母体まで消滅させてしまうであろう。それを防ぐため中立国、ソ連(スエーデン、スイスでも可)を介して速やかに交渉を開始すべきだ」というものであった[240]。井上にとっては、もはや、国民の生命以外守るべきものは何もなかった。井上は「(1945年(昭和20年))5月に終戦のチャンスはあった。もちろん、米内、井上が殺されるほどのことはあったろうが…」と回想する。さらに、7月26日にポツダム宣言が発せられてから、8月15日まで、天皇制護持をめぐって20日間も終戦の決定が先送りされたことについて、高木に次のように語っている。「天皇制は認めないといっても、終戦すべきであった」「そうすれば広島、長崎の悲劇はなかった」[241]近衛・木戸などの天皇側近は、国体護持や既存の国家体制維持を前提としての休戦を望んでいた。一方、上記のように、井上は一般国民の側に立っての一日も早い休戦を望んでいた。米内と井上の間にも、同様の考え方の相違があったのではないだろうか[242]

井上は、海軍大将に親任された5月15日付で海軍次官を免じられ、軍事参議官に親補された。その翌日から1か月間、井上は40年間近い海軍生活で初めて長期休暇をとり、伊東にあった海軍将官保養所に滞在した。その後井上は東京に戻り、芝の水交社に起居した。水交社には、支那方面艦隊参謀長時代の井上に参謀として仕えた、海軍省軍務局員の中山定義中佐が宿泊していた。中山は、調査課員を兼務しており、リアルタイムに機密情報を知り得る立場にあった。井上は、毎日の夕食時に中山と顔を合わせると、中山が知る限りの情報を聞き、要点を確かめ、注意事項を指示した[243]。高木は、新たに次官になった多田武雄中将を「ボンクラ次官」と評して頼りにせず、井上の帰京後は「報告先が、次官室から水交社に代わっただけ」と回想するように、和平工作を井上-高木のラインで中断することなく続けた[243]

戦後の井上は、「終戦工作が実を結び、八千万同胞が玉砕せずに残れたのは高木少将の力である。私はそれを命じただけ」と言い続けた。一方、高木は、井上成美伝記刊行会事務局に宛てた1979年(昭和54年)6月末日付の書簡で「井上大将は私が功労者のように述べておられますが、以前述べた如く私はお使い小僧に過ぎなかったので、米内、井上両上司の考を関係要所に浸透させるのが私の任務でした。ただ、井上次官に隠して実行したことは、陸軍の課長級と直接接触して何とか陸軍の態度を緩和させようと努力したことだけです。むろん失敗に終わりました」と述べている。[244]戦後井上は「秘密にやったんです。高木さんの職務は書き物で訓令は出さない、書類は残さんぞ、だけど、[中略]公の職務として高木君がもらったものなんですよ。[中略]高木君が酔狂で、海軍省で遊んでいるからブラブラしててやったという問題じゃないんです。公務なんですから、陸軍の松谷、荒尾、佐藤[中略]これらは個人としてそういう考えを持っていたというだけのことで、[中略]高木君を同じレベルに並べて見たら大変な間違いになりますから、その点を一つ間違いなく見て頂きたい」と証言した[245]。井上は、同時に、仮に「高木自身が和平に賛成しなくても、その準備をしなければならない立場にあった」ことを歴史にとどめるべきだと言っている。つまり終戦準備と和平工作は日本海軍の正規のルートによって為されたこと、表現を換えれば、日本の当時の体制では、海軍以外にそれをなし得るまとまった勢力はなかった、ということだろう。[246]

7月26日に連合国がポツダム宣言を発し、これに対して鈴木首相が「黙殺する」と語ったことで内外に混乱が生じ、8月6日の広島への原爆投下、8日のソ連の対日参戦、9日の長崎への原爆投下と事態が急速に悪化して、10日に日本政府はようやくポツダム宣言受諾を決定して、午前6時45分、スイス、スウェーデン両国を通じてポツダム宣言受諾の無電を発した。同日の午前11時に、海軍の元帥・軍事参議官らが米内光政海相に招かれ、ポツダム宣言受諾に至った経緯の説明を受けた。米内は秘書官に「居並ぶ大将連が、いずれも残念そうな顔つきをしていたのに、井上大将だけはひとりすがすがしい顔をしていた」と語った。[247]8月15日以降、軍令部次長の大西瀧治郎中将の割腹自決、第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将の特攻が続いた。8月16日に開かれた「大将会」で、井上は「事態が斯くなれること其他につき、夫々責任の地位にある人が、自殺する人がある様なるも、成る程自殺すれば当人の気持としては満足なるべく、又自己の生涯を飾るべきも、而し此の大事な重要な人々が次々と此の如くして所謂自殺流行にして後を顧みぬと云う事は国家の損失なり」と戒めた。[248]井上は、海軍での最後の仕事として、第五航空艦隊の「査閲」を、海軍大臣の米内から9月10日付で命じられ、第五航空艦隊の各基地において最寄りの航空部隊指揮官及び関係幹部を集めて、彼らの執った処置と復員の状況について調査し、統制ある終戦処理を推進して帝国海軍有終の美を飾るよう説いた。[249]

1945年10月10日に待命、同月15日に予備役に編入されて、兵学校入校以来39年間の海軍生活を終えた。井上はこの時55歳だった。[250]敗戦後に進駐してきた米軍との折衝に部下を伴って赴き、部下の英会話力が不十分と見た井上は、脇からキングズ・イングリッシュで話し始め[251]、全ての要件を片づけてしまった[252]

戦後

英語塾

ファイル:Shigeyoshi Inoue as English teacher.jpg
戦後英語塾をしていた頃
井上は海軍兵学校校長時代から英語教育廃止論を退けて英語教育を徹底するなど、教育者としての見識も深かった。

海軍が消滅して一市民となった井上は、横須賀市長井の家に隠棲した[注釈 19]。長井は、行政上は横須賀市に入るものの、実際は三浦半島最西端の半農半漁の村であり、横須賀市内からの交通も不便な「僻村」であった[254]。第二復員省[注釈 20]総務局に所属していた、井上の支那方面艦隊参謀長時代・海軍次官時代の部下である中山定義中佐によると、ある日、井上が、ボストンバッグに長井名産らしい小ぶりのミカンを詰め込んで、中山の職場に慰問に来てくれた。この際の井上は、きちんとした背広を着て、あまり貧乏くさくはなく、なかなか元気そうであった。中山は、元の大将・中将で、旧部下の復員官にこのような気配りをしてくれたのは井上だけだったと言う。[255]

井上は、1945年(昭和20年)の暮れ頃から近所の子供たちに英語を教えていたが[256]、僅かな月謝しか請求せず[257](月謝の額については後述)、他は、塾生の父兄が魚や野菜を差し入れてくれる[257]以外は無収入で、軍人恩給の復活(1953年(昭和28年)8月)までの井上の生活は困窮を極めていた[258]1951年(昭和26年)12月24日付の、井上の長兄の秀二の娘である伊藤由里子[259]に宛てた手紙で、井上は「貧民のような食事」をしている窮状を嘆いている。[260]井上は、戦後に英語塾を開く傍ら、高校生に仏語の個人教授もしていた[261]

1945年(昭和20年)の暮れ頃、長井の井上の元に、戦争未亡人となった一人娘の靚子が息子の丸田研一(1940年(昭和15年)12月16日生、5歳)と共に身を寄せたが[262]、靚子は1948年(昭和23年)10月16日に肺結核で死去した(29歳)[263]。肺結核が悪化して寝たきりとなった靚子のために、寝たままで用便でき、風通しが良い竹製の介護用ベッドを作り、また、電気パン焼き器・万年カレンダー・太陽熱湯沸かし器などの様々な器械を「発明」していた。長井の井上宅には工房があり、木工・金属加工の道具類が一通り揃っていた。これらは、戦前、井上が海軍将官であった時に買い揃えたものであった。[264]バリカンで自分の頭を坊主頭にするのも造作なかった[265]

その後、井上が男手一人で孫の研一を育てるのは無理で、井上の困窮が募ったこともあり、8歳の研一を靚子の嫁ぎ先である丸田家に託さざるを得なかった。研一は、丸田家の縁者宅を転々とした後、約2年後に、八巻信雄・順子夫妻に引き取られて成人するまで養育され、早稲田大学教育学部を卒業して出版社に勤務した。丸田吉人の妹である八巻順子はクリスチャンで、「この子の面倒を見なければならない」という強い責任感を持ち、夫を説得して研一を引き取ったもの。それを知った井上は、八巻順子に丁重な礼状を送った。[266]宮内庁の文書に記録がないが、戦後間もない時期に宮中よりの使者が井上宅を訪れたとされる。井上宅があまりに乱雑であったため、使者はいったん立ち去り、井上が玄関口を掃き清めるのを待って再度訪問して口上を述べた。井上は「私のやったことが天子様の御心にかなった。これで死後、大きな顔して両親に会うことが出来る」と漏らした。[267]

1950年(昭和25年)次兄の井上達三陸軍中将が死去した際、葬儀の参列者に、元海軍士官で若くして予備役に編入された者がいた。親戚の一人が「あの人はいい人なのに海軍を早く退いて…」と言ったのに対し、井上は「(海軍を早く)辞めされられたのには、それだけの理由があったのだ」と言い放った。[268])</small>

敗戦から6年が経過した1951年(昭和26年)12月10日、新聞「東京タイムズ」の1面トップで、海軍大将であった井上が、横須賀市外の僻村で無収入に近い極貧生活を送っている様子が報道された。井上の下で4F機関参謀だった山上実中佐(機34期[132])は、靴下の行商でようやく生計を立てていたが、その記事を読んで衝撃を受けた。山上は、戦後も交誼を保っていた、4F参謀長であった矢野志加三中将(当時東洋パルプ専務取締役)、4F先任参謀であった川井巌少将(当時東京光学機械の販売子会社「東光物産」の神保町店支配人)に連絡を取った。矢野・川井の両名は、井上との信頼関係がもっとも厚かった人たちであり、実業界への転身に何とか成功しており、「山上君の言う通り(、井上さんがそんなに困っておられるなら)、何とかせにゃいかん。年明けにでも、みんな(4F司令部幕僚)揃って一度様子を見に行こう」と即決した[269]1952年(昭和27年)5月に、矢野、川井、山上らの4F司令部幕僚が井上宅を訪問した。4F長官時代の井上の端正な姿を知る山上は、井上のあまりの貧窮ぶりを実見して溢れる涙を押さえられなかった[270]。出迎えた井上は、海軍軍装の襟章と袖章を外し、破損箇所を繕ったものを着ており、栄養失調で青黒い顔色をしていた。[271]元参謀の中に、東京周辺の学習塾の月謝の相場をあらかじめ調べて来た者がおり、井上に英語塾の月謝を尋ねると、井上は東京の相場の1/5~1/6の金額を答えた[272]。旧海軍料亭「小松」は戦後も横須賀に健在であった。「小松」を経営する山本直枝夫婦は、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦から間もなく、4F長官の井上から、「トラックには将兵の慰安施設が一軒しかない。士官用の施設として、小松の支店をトラックに出してくれないか」という依頼を受け、1942年(昭和17年)7月に、「小松」の支店をトラック島に開業した。[273]その後の戦局の悪化、敗戦でトラック島の「小松」は消滅し、看護婦の仕事を手伝うようになった女子従業員が6人犠牲となった。井上は、終戦直後に「小松」を訪ね、案内された座敷に入らず、敷居の外に座って山本直枝に頭を下げ「申し訳ありません。今度の戦争では大変な御迷惑をおかけしたことを、日本海軍を代表しておわびいたします」と謝罪した。山本は、井上の潔い謝罪に感銘を受けた。[274]そして、長井の井上宅を初めて訪問した時、あまりの貧窮ぶりに「これが国のために働いた海軍大将の生活か」と絶句した。井上の生活ぶりを案じて、時々食べ物を持って井上宅を訪ねると、井上はいちいち掛け軸などを山本に渡して「お返し」をしようとする。井上の困窮に心底から同情していた山本は困惑したが、一時預かるつもりで「お返し」を受け取り、「井上さんが(本当に)困った時には、品物をお返しすれば良い」と自分を納得させた。[275]山本は、井上に心置きなく好意を受けて貰う方法はないかと考えていた。1951年(昭和26年)頃になって、「小松」に米軍の客がやって来るようになったので、従業員への英会話の指導を井上に頼むことにしたのである。山本は「井上さんに好きなものを御馳走してさしあげようと思い、英会話の先生をお願いしたんです」と語っている。井上は、英語塾で使っているものとは別に、「小松」従業員専用の英語教材を用意し、米国・英国の国歌まで教えた。「小松」に大きな借りがあると考えている井上は報酬を求めなかったが、英会話を教えに「小松」に来る井上は、出される食事は喜んで食べ、「お車料」の名目で出される包みは素直に受け取った。井上と山本直枝の交誼は、井上が亡くなるまで続いた。[276]

今川福雄大佐が、戦後に英語塾を開いていた井上に「井上さんは語学の才能に恵まれているから、(新制の)中学生に(初歩の)英語を教えるくらい、わけないでしょう」という旨を言うと、井上は「それは間違っています。私は私なりに努力したのです。イタリア駐在武官に赴任する際には、一か月の船旅の間にイタリア語の独習書をひもといて現地に到着したら何とかカタコトでも会話ができるようになりたいと努力しました、人はこの(自分の陰の)努力を知らずに語学の天才のように言うのですが、それは誤りです」という旨を答えた。なお、井上はイタリア駐在武官に着任後、元小学校教師の大使館のタイピスト嬢を相手に、毎朝、食堂で1時間、イタリア語を勉強した。[277]

死去

井上は、1953年(昭和28年)6月16日に胃潰瘍で大量の吐血をし、市立横須賀病院長井分院に搬送された。井上の英語塾は、井上が吐血して緊急入院した1953年(昭和28年)6月に自然閉鎖され、井上の退院後は再開されなかった。元生徒の一人が保存する英語塾のノートの日付は、1953年(昭和28年)5月24日で終わっている。[278]

井上は社会保険に加入していず、所持金もなく、満足な治療を受けられない状況だった。偶然に、分院長が、井上と親しい山本善雄少将の近親者で、搬送された患者「井上成美」が、かつての海軍大将であることに気づいて、分院の総力を挙げての応急治療がなされた。井上は、症状が安定した4日後に市立横須賀病院の本院へ搬送された。本院の院長が、機転を利かせて、旧海軍料亭「小松」に井上の状況を通知し、「小松」を介して井上の窮境が海軍関係者に伝わり、多数の海軍関係者・縁故者の手が差し伸べられた[279]。市立横須賀病院で定期的に診療していた、千葉大学医学部第二外科教授である中山恒明の執刀で、井上の手術が成功した。治療費の拠出、著名な外科医である中山の執刀、いずれも海軍関係者の尽力による[280]。井上が市立横須賀病院に入院中の1953年(昭和28年)8月1日に軍人恩給が復活した、同年4月から遡及して支払われる規定であった。山上中佐は、井上が早期に軍人恩給を受給できるように東京都民政局へ脚を運んで係官と相談した。井上が海軍次官(文官扱い)を経験したことから、文官恩給を申請する資格があること、武官恩給の年金額より多くなるならば、文官恩給を申請した方が良いという示唆を受けた。山上がその旨を井上に伝えた所、井上は「海軍士官であった者として生涯を終えたい。金額が仮に不利であっても、武官の恩給を申請する」と返答した。[281]

井上は、1953年(昭和28年)8月末に市立横須賀病院を退院して長井の自宅に戻った後、軍人恩給が復活して一応の生活の目処が立ったためか、田原富士子と同年の秋に再婚した[282]。田原富士子は、井上の書いた書面によると、1899年(明治32年)12月に埼玉県で医師の娘として出生、田原某と結婚するも死別、花柳流日本舞踊の名取、井上より10歳年下で、井上と結婚した時は53歳であった[283]1951年(昭和26年)12月に「東京タイムズ」に掲載された井上についての記事を読み、記事から伝わる井上の高潔な人格に敬服して、貧窮に苦しむ井上に援助の手を差し伸べたいと考えたという。東京タイムズの記者の紹介で、翌1952年(昭和27年)に長井に移住し、井上の長兄の秀二の別荘を借りて住み始めた。ご馳走を作って井上に届けるなど、井上との交際を深めて行った。井上が、1953年(昭和28年)6月に胃潰瘍で大量の吐血をした際、井上は駆けつけた近所の人に「隣の奥さんを呼んで来て下さい」と書いた紙を渡した。医師の娘である富士子は多少の医学・薬学の知識を有しており、吐血の際の応急処置、医師への連絡などを適切に行うことが出来た。[284]富士子は、井上が市立横須賀病院に入院している最中には常に付き添い(井上の姪の伊藤由里子と交代で付き添った[285])、下の世話も厭わずに献身的に世話をした[286]

富士子は、井上の入院中に「面会謝絶」の医師の指示を頑強に守り通そうとして、遠方から駆けつけた親戚の阿部信行元首相[注釈 21]山梨勝之進大将などの大事な見舞客を追い返したり[288]、井上との結婚後に、井上の亡妻の喜久子の親戚筋である阿部(信行)家、稲田正純陸軍中将の家、大石堅志郎海軍大佐の家らに、「今後、井上宅への来訪は見合わせて頂きたい」という「縁切り状」が井上の名で届いたり[289]、井上の親戚、旧部下、英語塾の教え子などの「井上と縁のある女性」が井上宅を訪れた時に井上に無断で門前払いしたり、彼女たちから井上に届いた手紙を、井上に見せずに捨ててしまう[290]など、批判されても仕方ない所があった。井上の親族の中でも、戦後の井上と最も親しかった伊藤由里子は「あの方、要するに海軍大将夫人におなりになりたかったんじゃないの」と、富士子へのきつい批判を洩らした[291]

防衛大学校初代校長故槇智雄の追悼文集編纂にあたり、その親交者である井上を1969年6月7日に訪ねた陸上自衛隊二等陸佐(当時)前川清に対し「自衛隊は自衛隊として、昔の陸軍海軍という、そういう殻から抜け出してね、新しい何かを作っていただきたい」とコメントし、1952年の防衛大学校開校にあたっては、槇智雄に当時こう助言したと述べている。「あなた独自の考えでおやんなさいと。恥ずかしい話だけどもなんにも知らないんだから兵隊なんてのは。兵隊ってのはその、なんとなくね、偏った癖があるんですよ。わたしは、ジェントルマンを作る、ていう、こういうことで。兵隊を作るんじゃない、ジェントルマンを作る。結局教養を高めるということが、わたしは一番大事だと(当時助言した)。」[292]

しかし、井上は、死去の前年の1974年(昭和49年)に、山上中佐に「富士子は私の看護のために結婚してくれたようなもので、何らの楽しみも与えることができず、誠に気の毒だ。私の万一の場合に、富士子の身の上が一番心配だった。しかし、(兵学校の)生徒諸君が援助を約束してくれているのでほっとしているよ」と述べており、富士子に深く感謝していた様子が伺える。[293]井上が死去し、富士子が入院して空き家となった井上宅を整理していた者が、「井上富士子」名義の預金通帳を発見した。預金通帳には、兵学校時代の教え子である深田秀明(兵73期)が「管理料」の名目で晩年の井上に送った金額が、そっくり預金されていたという。[294]山本善雄少将は、あくまでも自分の想像に過ぎないが、として「井上さんが、ちょっとした贈り物にも返礼しなければ気が済まない性分なのは、支那方面艦隊でお仕えした自分はよく知っている。富士子さんの、入院中の井上さんへの献身的な看護ぶりは、我々が頭を下げてお礼を言いたい程であった。しかし、戦後の井上さんにはこれに報いる手立てが何もない。そこに軍人恩給が復活して、受給者(井上)が死んだ場合、親または配偶者は半額の遺族扶助料が終身支給されるようになった。井上さんが、押しかけ女房の気味のあった富士子さんと、敢えて結婚に踏み切られたのは、命の恩人である富士子さんに、自分の死後、僅かながらも終身の年金を保証し、せめてもの 『お返し』 をするためだったのではないか」という旨を述べている。[295]

軍人恩給の復活により、井上の生活は一応安定したが、恩給のみでの生活は楽ではなかった。この時期[注釈 22]、矢野志加三中将は日平産業[注釈 23]の社長を務め、実業界で一定の地位を築いていた。矢野は、井上の生活を心配して、井上を一流会社の顧問に推薦したいと再三打診したが、井上は頑なに拒否した。[297]また、戦後のこの時期までに井上と接触した旧部下有志(主に、4F長官時代の幕僚と、兵学校長時代の教官・教え子)の協力による金銭援助すらも、井上は全て断っていた。社会通念として行われる程度の贈答品についても、井上は、「小松」の山本直枝に示したような潔癖さを見せ、時には好意を受け入れてもらえなかった者の気分を白けさせた。[298]

井上自身は、軍人恩給のみでは、いずれは生活が行き詰まると考え、長井の自宅を売却して、もう少し便利な場所に小さな家を建て、残金を老後資金に充てたいと考えていた。しかし、この頃の井上宅は、自動車の入れない細道を歩いて行かないと玄関先に辿り着けなくなっており、横須賀市の市街地や逗子方面へ出るのも困難、かつ別荘地としての発展も見込めず[65]、井上の期待する、代替の住宅と老後資金を確保できるだけの値で売れる見込はなかった。[299]井上の兵学校長時代の教え子で、井上に心酔しており、実業界で成功を収めていた深田秀明(兵73期)が、井上を「子供(兵学校生徒)が立派に成長して小遣いを持って訪ねて来たのに、それを受け取らぬ親(兵学校長)がどこにいますか」と言う理屈で説得して、金銭援助を受け入れさせることに成功した[299]1964年(昭和39年)のことであった[300]。深田は、まず井上を自分の会社の顧問として顧問料を月々支払い(1964年(昭和39年)から。当初は5千円、1968年(昭和43年)頃から1万円。[301])、次いで、井上宅を深田の会社が買い取り、井上夫婦に「管理料」を月々支払う形式で、井上の死去まで金銭援助を続けた。[302]井上は、深田の好意を受ける代わりに土地家屋を無償で譲渡したいと深田に申し入れ、固辞した深田が、井上の再三の申し出に負け、井上宅を深田の会社が「適正な価格」で買い取った。深田は、複数の不動産屋に井上宅の時価を評価させ、売買契約書を公正証書とした。契約内容は「井上夫婦のいずれか一方が存命中は無償で不動産を使用でき、売却代金に加えて、管理費用として毎月一定の金額(5万円。[303])を深田の会社が井上に支払う」という破格のものであった。この経緯について、井上が1975年(昭和50年)12月に死去した後、井上の相続人である孫の丸田研一が、井上の死の直後に深田から説明された。丸田は、晩年の井上を支えていた、兵学校長時代の企画課長だった小田切正徳大佐から深田の説明を裏づける話を聞き、井上宅の押入れから、深田の説明通りの内容の公正証書を発見した。[304]

1965年(昭和40年)10月23日に、4F司令部幕僚の親睦会「珊瑚会」と、深田を中心とする兵学校73期前後の生徒有志により、井上の喜寿を祝う会が東京・新宿の「古鷹ビル」(深田の会社の本社ビル)[注釈 24]で開催された。戦後の井上が上京し、人前に出た数少ない事例。この際に、井上は、中佐でイタリア駐在武官に赴任する際に同じ船に乗り合わせて知り合った彫刻家日名子実三がローマで制作し、井上の帰国後は、長井の井上宅の玄関広間に置かれていた[305]、第一種軍装・勲章佩用のブロンズ胸像を持参して深田に託した。[306]井上の胸像は、深田の会社の事務室に飾られることが決まった[307]。この時から10年経った1975年(昭和50年)12月に井上が死去した後、井上の伝記の編集委員会が組織され、事務局が「古鷹ビル」の地下一階の小部屋に設けられた。井上の胸像は、この「井上成美伝記編集委員会事務局室」に置かれていた。[305][注釈 25]

井上は、1974年(昭和49年)の春に風邪をこじらせて横須賀市民病院に半年入院した。退院後は、一日の大半を床の中で過すようになった。暖かい日に部屋の中を歩いたり、庭を散歩することもあった。そして、1975年(昭和50年)12月15日午後5時過ぎに老衰で死去した。テンプレート:没年齢。亡くなった日は、井上は朝から床に伏していたが、夕刻5時近くになって、付き添っていた富士子の目を盗んでそっと起き上がり、居間の窓の敷居をまたいでベランダに出て、太平洋を眺めていた。富士子が気づいた時は、再び窓の敷居をまたいで部屋に帰る所であり、床に戻って間もなく息を引き取ったという。[308]

井上は遺書を残していたが、死後2ヵ月半後に発見されるまで、誰も存在を知らなかった[309]。しかし、生前から葬儀を簡素にして欲しいという話を教え子らにしていたので、結果としては井上の遺言に沿った簡素な葬儀が、英語塾の元生徒が住職である長井の勧明寺で12月17日に挙行された。昭和天皇から祭祀料1万5千円が下賜された。葬儀委員長は海兵37期クラス会幹事の中村一夫少将[310]、参列者は305名に及んだ。[311]高木惣吉少将が葬儀に参列した。病身の高木は医者から安静を命じられていたが「井上さんの葬儀にはどんなことがあっても行かなければ気が済まない。そのために死んだって本望だ」と家族の制止を振り切って参列した。寺の本堂に入るよう勧められても固辞して、屋外の椅子に座って12月の海風に身を曝していた高木は、肺炎を起こして危篤状態となり、長期療養を余儀なくされた。[312]

1976年(昭和51年)1月31日に、「井上成美追悼会」が東京・原宿の東郷記念館で催された。兵71期~78期のクラス会が世話人となった。主催者の予想を遥かに超える715名が参列したため、用意された椅子に座れたのは参列者の1/3に過ぎず、会場の外に参列者が溢れた。戦後の海軍関係の集会では最大の人数であった。追悼会は3時間に渡り、中村一夫の悼辞で締めくくられた。[313]未亡人となった富士子は、井上の死後2か月余りの1976年(昭和51年)2月26日に、長井の自宅に通じる農道で転倒し、横須賀市民病院に入院した。同病院に勤務する、生前の井上の主治医(兵学校時代の教え子)が治療したが、富士子の心身は急速に衰え、認知症が悪化した。富士子は老人病院に転院し、井上を追うように1977年(昭和52年)6月16日に満76歳で死去した。[314]


井上の遺書は、表に「井上成美遺書」と書かれた白い封筒に入っていた。以下の文章が、粗末な便箋2枚に書かれていた(ペン書き、縦書き)。『井上成美遺言 (明治二十二年十二月九日生まれ)。小生の葬儀は密葬の事。雑件:(一)、葬儀場は勧明寺(長井町・・・)電話・・局の「・・・・」井上宅から歩いて十分(二)、埋葬。東京多摩[注釈 26]霊園の本家墓地に埋葬のこと。この事は在中野分家の現主人井上秀郎承知。 井上秀郎住所(・・・)(三)、花輪、供物、香典等は一切お辞退の事。附言。おつ夜その他の段等は荒井、長井等一般世間の習慣に依る事。』

2000年(平成12年)頃、井上旧宅は、空き家で、庭の手入れも行き届き、昔のまま保存されていた。この家で教えをうけた英語塾の塾生のひとりが夫婦で二十五年間、空き家を守り続けていた。2007年(平成19年)時点、海軍兵学校時代の教え子の次の世代の家族が引き継いで、すっかり外観の装いも新しくなった。井上が住んでいた頃の名残をとどめるのは、暖炉の煙突だけとなった。井上が起居した部屋からみえた荒崎海岸は昔と変っていない[315]1999年(平成11年)の横須賀市議会で、議員の磯崎満男が「家屋の傷みが進む一方で、長年経過してきた今では屋根がわらのかなりの部分が崩壊し、室内から青空が丸見え、雨水が直接流れ込み、床下全域に満遍なく浸透し、全体が修復困難なほど腐りかけ」と井上旧宅の状況を述べている[316]。井上旧宅は、居間の暖炉など一部が保存され、小規模ながら「井上成美記念館」として公開されていたが、2012年4月現在、東日本大震災の被害により閉館中である[317]

人物

山本善雄少将によれば「(井上が)面白味がない、人間的に冷たいと言う人がいるがそれは違うと思う。公務の時には表に出ない内面の優しさや温かさを、女が敏感に感じ取っている。だからあれだけ芸者たちに慕われるんだ」という[318]千早正隆中佐は「井上は日本海軍で稀に見る軍政家であり、そして教育家であった」と評価する[319]

井上は音楽が好きで、の名手であった母親譲りで、琴をはじめとして、ピアノギターアコーディオンヴァイオリンなどを奏きこなした。海軍士官時代、井上の音楽好きは海軍部内で有名で、支那方面艦隊参謀長時代に、上海水交社に臨時に司令部を置いていた時には夜にピアノやヴァイオリンを奏いたり、宴席で芸者と琴の合奏をほぼぶっつけ本番で披露して周囲の舌を巻かせたり[320]と言ったエピソードが多い。戦後に開いていた英語塾では、ギターやアコーディオンで「弾き語り」をし、生徒に英語の歌を歌わせた[321]。ギターやアコーディオンの個人指導もした[322]。戦後、横須賀市長井に隠棲する井上を訪ねた「比叡」艦長時代の部下の今川福雄大佐(兵52期[323])に、「私は海軍に入っていなかったら、今ごろきっとお琴の師匠で身を立てていただろうと思います」と語った[324]

井上は、兵学校校長時代に、生徒や教官の数学的思考を養うための「数学パズル」を考案して数学教育に利用させ、海軍次官になった後も暇さえあればそれを楽しんでいた。終戦直後に「サン・パズル」という名前でアメリカに販売しようとした。日米開戦時の駐米大使館附武官で、アメリカに知己の多い横山一郎少将の助けを得たが、この企画は実現しなかった[325]。「数学パズル」は、1944年(昭和19年)の、財団法人東京水交社機関誌「水交社記事」に、井上が執筆した詳細な遊び方、図解、数学的な解説が掲載された。この記事が、井上成美伝記刊行会編著『井上成美』井上成美伝記刊行会、1982年(昭和57年)、資料編 221-228頁に完全収録されている。

1966年(昭和41年)頃東大経済学部教授の安藤良雄の「(井上さんが)生涯を通じて堅持して来られたのはリベラリズムということになりましょうか」と質問に、井上は「いえ、その(リベラリズムの)上にラディカルという字が入ります」と答えた。[326] 酒はほとんど嗜まなかった[327]。「海軍には無礼講はない」と公言していた[328]。井上は米内光政を大提督の貫禄があるといって尊敬していた[329]が、戦後に兵学校時代の教え子が米内を評して「(米内が)酔払って羽目を外すのも人間味があっていいではないですか」と言うと、井上は「あれは醜態で、私は好かない」とにべもなかった[330]。井上は44歳で大佐の時に妻の喜久代に先立たれた後、女性に対して極めて禁欲的だった[331]。妻を亡くしてから海軍が消滅するまで、宴席で料亭に行っても、他の高級士官のように芸妓と遊ぶ(一夜を共にする)事はなかったが、参謀長の際に一度だけ芸妓と泊まったことがあり、名指しされた芸妓が驚いた程であった。しかし、その芸妓とコンドームの使用を巡って押し問答となり、結局何もせずに終わった[332]。昭和40年代、晩年の井上を経済的にバックアップしていた兵学校長時代の教え子の深田秀明(兵73期)の質問に、井上は「私は先妻の喜久代を結核で亡くした。娘も私も、これに感染している恐れが十分あった。事実、娘の靚子は戦時中に結核を発病して夭折した。だから、コンサンプションと呼ばれる胸部疾患に私は極めて神経質で、それを警戒してずっと禁欲生活を続けてきた」と語った[333]

戦略

軍務局長の井上と米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官の海軍省の要職にいた三人は「海軍省の左派トリオ」と呼ばれ、「日独伊三国同盟」に反対していた[82]

井上は、三国同盟締結の得失を次のように考えていたという。経済的に見て、三国同盟は論外。日本経済は、そのほとんどを米英圏に依存している。特に海軍にとって最重要の石油と屑鉄は米国から購入している。三国同盟を結べば、英国、さらに米国を敵に回し、日本は石油と屑鉄の供給を絶たれる。軍事的に見て、三国同盟は無意味。地理的に遠く離れた日本と独・伊は相互援助が不可能である。独国のヒトラーは、『Mein Kampf』で述べているように、有色人種を蔑視して、ドイツ民族による世界制覇を目指しており、いずれ破綻するのは目に見えている。イタリア駐在武官時代の経験から、イタリアは、外見は立派でも頼むに足りない。[334]。井上が、三国同盟に強力に反対した最大の理由は、独国が提案してきた条約案に、自動参戦義務条項 「独国または伊国が戦争状態に入った場合は、日本は自動的に戦争に加担する」があったためである[335]。ただし、井上は日独防共協定には肯定的であった。満州事変以後の国際的孤立状態からの脱出と共産主義に反対の立場からである。[336]

井上は、航空主兵論者の一人であり、1940年に井上がマル5計画に対して出した「新軍備計画」の具体案は次の通り。妹尾作太男少尉によれば、米国海軍大学校の機関誌である「US Naval War College Review」1974年1月号・2月号に"A Chess Game with No Checkmate"と題して「新軍備計画論」を紹介する論文を寄稿し、米国海軍大学校、米国各大学の歴史教授にかなりの感銘を与え、米国海軍大学校長から妹尾に所感が寄せられたという。[337]

1.航空機の発達した今日、之からの戦争では、主力艦隊と主力艦隊の決戦は絶対に起らない。2.巨額の金を食う戦艦など建造する必要なし。敵の戦艦など何程あろうと、我に充分な航空兵力あれば皆沈めることが出来る。3.陸上航空基地は絶対に沈まない航空母艦である。航空母艦は運動力を有するから使用上便利ではあるが、極めて脆弱である。故に海軍航空兵力の主力は基地航空兵力であるべきである。4.対米戦に於ては陸上基地は国防兵力の主力であって、太平洋に散在する島々は天与の宝で非常に大切なものである。5.対米戦では之等の基地争奪戦が必ず主作戦になることを断言する。換言すれば上陸作戦並びにその防禦戦が主作戦になる。6.右の意味から基地の戦力の持続が何より大切なる故、何をさておいても、基地の要塞化を急速に実施すべきである。7.従って又基地航空兵力第一主義で航空兵力を整備充実すべきである。之が為戦艦、巡洋艦の如きは犠牲にしてよろし。8.次に日本が生存し、且(かつ)、戦を続ける為には、海上交通の確保は極めて大切であるから之に要する兵力は第二に充実するの要あり。9.潜水艦は基地防禦にも、通商保護にも、攻撃にも使える艦種なる故、第三位に考えて充実すべき兵種である。[338]

また、『日米戦争の形態』の一節では「日本が米国を破り、彼を屈服することは不可能なり。其理由は極めて明白簡単にして…」と説明し、その上で「米国は、日本国全土の占領も可能。首都の占領も可能。作戦軍の殲滅も可能なり。又、海上封鎖による海上交通制圧による物資窮乏に導き得る可能性大」と述べており[339]、太平洋戦争では、艦隊決戦は起らず、水上艦は米軍航空機や潜水艦の餌食となり、戦況は太平洋の島々の争奪戦となり、米軍は占領した島を基地として日本本土空襲を行ったことから、井上は太平洋戦争の経過を、1941年(昭和16年)の段階で概ね予想できていた[340]

井上の指揮に関する評価は、珊瑚海海戦の不徹底、ガダルカナル島進出時の失策などで次の通りだった。GF長官山本五十六大将は堀悌吉中将(予備役)に宛てた1942年(昭和17年)5月24日付の書簡で「井上はあまり戦はうまくない」と書き、昭和天皇も海軍大臣嶋田繁太郎大将に「井上は学者だから、戦はあまりうまくない」と言ったという。中沢佑少将が、1942年(昭和17年)12月に、海軍省人事局長に就任する際に、前任者から引き継ぎを受けた際に中沢が作成したメモが残っており、井上に対する、嶋田海相の評を記した部分には「(井上は)ウェーキ、コーラル海(珊瑚海)、戦機見る目なし。次官の望みなし。徳望なし。航本(航空本部)の実績上がらず。兵学校長、鎮(鎮守府)長官か。大将はダメ」と記されている。[341]高木惣吉少将によると、1944年(昭和19年)3月7日に、岡田啓介海軍大将が、戦勢が日に日に非であるのを憂い(この時期は、同年2月に、東條英機首相が、陸軍大臣と参謀総長を兼任し、嶋田繁太郎海軍大臣が軍令部総長を兼任して、「東條幕府」と批判される状況)、熱海で静養中の伏見宮博恭王元帥を訪問し、「米内光政海軍大将を現役復帰させて海軍大臣にしてはどうか。海軍部内では、現役大将から選ぶなら、豊田副武大将、中堅から選ぶなら井上成美中将はどうかという声が高い」と言う旨を進言した所、伏見宮は「井上はいかぬ。あれは学者だ。戦には不向きだ。珊瑚海海戦の時の指揮は拙劣だった」という旨を答えた[342]

教育思想

井上は、軍事学よりも普通学を重視する教育方針を堅持した。この方針は武官教官の一部から強い反発を受け、戦局の悪化で即戦力を求める軍令部や航空関係者からも強く批判された。井上は、1952年(昭和27年)10月に、長井の自宅を訪れた防衛大学校初代校長の槇智雄(井上と同郷)に、その心境を井上は「私は(槇さんに)『ジェントルマンを作るつもりで教育しました』とお答えしました。つまり兵隊を作るんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、いろいろ言えるでしょうが、一例を言ってみれば、イギリスのパブリック・スクールや、オックスフォード・ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。これは、それとは別の話ですが、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人達が本当に勇敢に戦いましたね。日ごろ国から、優遇され、特権を受けているのだから、今こそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育を受けた大半の人達がそうでしたね。私は、一次大戦の後、欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える…ということです。ジェントルマンが持っているデューティとかレスポンシィビィリィティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて大切なのはこれですね。その上、士官としてもう一つ大切なものは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。そういう下士官を指導するためには、教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違ったところだと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校ではありますが、私は高等普通学を重視しました。そして、文官の先生を努めて優遇し、大事にしたつもりです」と語った[343]。井上は、教官たちに「自分がやりたいのは、ダルトン・プランのような 『生徒それぞれの天分を伸ばさせる天才教育』 ではない。兵学校の教育は 『画一教育』 であるべき。兵学校では、まず劣等者をなくし、少尉任官後に指揮権を行使するのに最低限度必要とされる智・徳・体の能力を持たせて卒業させ、その見込みのない者は退校させねばならない。兵学校教育の目標は、結果として、少尉任官に指揮権を行使する最低限度能力を持てないと見込まれる退校者を出さないよう、生徒をしっかり教育することである」という旨を示し、秀才は放っておけ、まず劣等者をなくせ、と端的に指示した。[344]

兵学校には、よく海軍の現役・退役の先輩がやって来た。井上の着任以前は、その都度、全校生徒を集めて、先輩の講話を聞かせる例であったが、井上はこれを止めさせた。井上は「大将だって何を言い出すか分らない。自分の方針に反するようなことを言われては迷惑至極だ。例えば、校長時代にダルトン・プランという『天才教育』を主張した永野修身元帥が生徒の前で『おのれの天分を伸ばせ』などと言われたら、自分のしている百日の説法も屁一つになってしまう。ただでさえ、生徒たちは、自分の好きな学科だけやって嫌いなものをなおざりにする傾向があるのだから尚更である」と回想する[345]

兵学校では、従来、最初の1年は全員が英語を学び、後は、英・独・仏・支那・露のいずれかを希望によって専修するシステムだったが、1941年(昭和16年)9月からは、全学年を通して英語だけを学ぶシステムに変っていた。[346]太平洋戦争開戦の前から、日本社会では「英米排斥」の風潮が強くなっており、中学校では英語の授業を減らしたり、廃止する所が多くなっていた。それを反映して、陸軍士官学校では、採用試験から英語を除いた。海軍省教育局は、非公式に兵学校側の意見を問い合せてきた。それを受けての、兵学校の教頭以下の教官を集めての会議では、英語科の教官以外が全員一致で「優秀な中学生が、英語の試験を嫌って陸士に流れるのを防ぐため、海兵でも陸士に倣って採用試験から英語を除くべし」と主張した。教頭が、井上に「教官の総意はご覧の通りですが、採用試験から英語を除くべし、と教育局に返答してよろしいでしょうか」と決裁を求めると、井上は下記のように即答した。「兵学校は将校を養成する学校だ。およそ自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。英語の嫌いな秀才は陸軍に行ってもかまわん。外国語一つもできないような者は海軍士官には要らない。陸軍士官学校が採用試験に英語を廃止したからといって、兵学校が真似をすることはない」井上のこの決断により、兵学校の採用試験に英語が残されたことはもちろん、入校後の生徒教育でも英語が廃止されることはなかった。多数意見を却下された教官たちから「校長横暴」との声もあったが、「こういう問題は多数決で決めることではない」という井上の考えは揺るがなかった。[347]

語学に優れていた井上は、兵学校の英語教育について「英語を英語のまま理解し、使う(英語を和訳し、日本語を英訳するのではない)」する「直読直解主義」を英語教官に示し、そのような教育をするよう工夫を求めた。そのため、英英辞典の使用を奨励し、その時に在校していた73期・74期と、入校予定の75期の一人一人に貸与するため、総数5千冊の英英辞典が必要となった。井上は、兵学校主計長に特に指示して、英英辞典5千冊を調達させた。英語教官たちは、井上の方針を実現するべく「授業中に日本語を一切使わない」など試行錯誤した。[348]ただし、兵学校の「名物英語教官」であった、文官教授の平賀春二は、井上の唱える英語教育方法は理想的だが、戦時中の兵学校で実現するのは困難と考えた。平賀は「旧制高等学校のように英語の時間数の多い学校でなら効果も上がりましょう。しかし、時間数の比較的少ない兵学校で、しかも戦局日々に緊迫の度を加えつつある折から、このような授業はまどろっこしく、且つ非能率だと思われてなりませんでした。また微妙な個所は外国の言葉ではままならず…」という[348]。井上も、「井上式英語教授法」の徹底が難しいことは理解しており、授業視察で、自分の期待通りの英語教育が実行されていないのを見ても、「井上式」を強制することはなかった。[348]

井上は、兵学校にはつまらないルールが多すぎる、という結論に達し、生徒隊と企画課に、訓育・学術教育とも、もっとゆとりのあるやり方に改めるよう指示した。その結果、生徒隊では、隊務処理を、生徒が居住する「生徒館」内で済ませるよう改め、ルールを減らしていった。井上の改革は、生徒隊監事をして「校長はみんなぶちこわしてしまう」と言わせるほどであった。[349]学術教育についての井上の考え「詰め込み教育の改善」(井上の前任の各校長も、井上同様の印象を持ち、部下に検討・改善を指示していた)の実現は困難だった。井上の求めに応じて、企画課が検討して提出した答申は「かつて、永野校長時代に導入したダルトン・プランは失敗に終わった。当時の修業年限は3年8か月(その後、4年まで延長)あったが、現在は3年であり、さらに短縮される趨勢である。兵学校の学術教育で教えるべき内容が増えているのに、入校者の学力は、中学校の教育水準の低下によって落ちる一方。生徒数の増加によって、上下の格差が開いている。現在の兵学校の学術教育は、『劣』の生徒に、十分正確に理解させるので手一杯である」という趣旨であった。井上は「生徒数が非常に多くなっていたので、リモートコントロール方式、つまり教官たちに私の考えを充分理解してもらい、教官を通じて生徒たちに私の考え方を伝えてもらう方式を採った。私が兵学校で、何千人という生徒に対してやったのは『教官教育』です。それしか手はないと考えました」と回想する[350]

井上は、兵学校長に着任して生徒の様子を実見した印象を「あのころの流行語でいうと、張り切っているのです。張り切っているというのは、私、大嫌いなんです。人間、朝から晩まで張り切っていられるものではないんです。リズムがあるはずなんだ」「下士官、兵ならいい。人から命じられて、人の指図で働くには、ああいうのが最良の部下なんだ。しかし、士官というものは、何を、いかに、いつ、どこでどうすべきかを、自分で考えて決定せねばならない。つまり、士官にとって自由裁量が一番大切なのだ。生徒に家畜みたいな生活をさせてはいけない、そう思いました」と回想する[12]

親類関係

父の嘉矩(よしのり)は、1847年(弘化4年)生まれの旧幕臣で、数理に長じ、若くして御勘定奉行所普請方に出仕した。長崎に留学してオランダ人に建築術を学んだという。明治になって大蔵省に勤め、宮城県庁に転じて一等属を務めた。一等属は、県令(県知事)、大書記官(副知事)に次ぐナンバー・スリーの職であり、後年の出納長に相当する重職であった。嘉矩は視力悪化のため、1878年(明治11年)12月に40歳を過ぎたばかりの壮年で宮城県庁一等属を辞した。退職後は、仙台市坊主町54・53(現在の仙台市青葉区国見二丁目5-38、仙台市立第一中学校の北側にあたる。当時の仙台の市街地からは外れる)に住み、ブドウ園を経営した。広い土地で人を使ってブドウを栽培したが、300円かけて300円の収入がようやく得られるような経営状態だったと伝わる。他の事業の失敗による借財もあり、そのため県庁退職後の井上家の家計は苦しく、後妻に入った井上の生母「もと」が持参金代わりに実家の角田石川家から分与された相当な土地からの年貢米に頼る状態だった。晩年の嘉矩は嗣子の秀二と同居し、1915年(大正4年)11月17日に68歳で没した。[351]

井上が数学に長じていたことは知られるが、父の嘉矩がそうであったように、井上の親族には数学に長じた者が多い。井上の長兄の秀二は著名な土木技術者となり、次兄の達三は陸軍砲兵将校(士官候補生のうち数学を得意とする者が砲兵科・工兵科を志望した[352])として中将に昇っている。

秀二の次男で、井上本家を継いだ井上秀郎(ひでお[353]1980年(昭和55年)死去。大学教授[354])は数学教師で、戦前は成蹊高等学校に勤務していた。秀郎は井上と一卵性双生児のように容姿が似ており、秀郎の妻の達子によると、容姿に加え性格も井上と良く似ていた。[355]

井上は1968年(昭和43年)に海兵クラス会の会報に寄稿し、中学3年の時に父に呼ばれて「家計が苦しいので、兄(秀二と他1名)のように高等学校にやる訳にはいかない」と言われたこと、海軍兵学校を志望した一番の理由は「海兵に進んだ先輩が帰郷した時の短剣姿に憧れたから」だと記している。[356]

嘉矩は前妻と三男一女を儲けたが、いずれも明治中頃までに夭折した[357]。後妻に入った井上の生母「もと」は、仙台藩主伊達家の一門首席の名家で、角田で2万1千石を領する角田石川家第37代当主石川義光の第10女。1875年(明治8年)に19歳で、前妻を亡くしたばかりの井上嘉矩に嫁して九男を産み、1901年(明治34年)12月16日に46歳で没した。女子ながら漢籍に通じており、かつ琴の名手であった。[358]「もと」の音楽の素養は、井上とその兄弟に受け継がれた。井上が琴・ピアノをはじめとする多数の楽器を奏きこなし、音楽好きとして海軍部内で有名だったのは知られるが、仙台に住んでいる時から、井上兄弟は合奏や歌を楽しみ、ヴァイオリンやピアノを自作して奏いていたという。[359]

井上は13人兄弟(十二男一女)の十一男であり、異母兄姉がみな夭折したため事実上の長男は四男の秀二であった[360]。兵学校の採用試験で、試験官に家庭状況を問われて「十一男です」と答え、「ふざけた返事をするな」と叱られたという[361]。井上の実兄弟は、すぐ上の兄である美暢が1952年(昭和27年)1月2日に病没したのを最後に、井上の生前に全て死去していた[362]

祖父:石川義光 
角田石川家第37代当主。
伯父:田村邦栄 
陸奥一関藩主。
伯父:田村崇顕 
陸奥一関藩主。
従兄:田村丕顕 
海軍少将。
実兄:井上秀二 
土木技術者。
実兄:井上達三 
陸軍中将。夫人は荒城卓爾(陸軍少将)・荒城二郎(海軍中将)の妹
実兄:井上美暢(よしのぶ) 
陸軍大佐、士候20期。中尉時代に非行に走る聯隊長に制裁を加えたため陸大を受験できなかった。[363]義暢と成美は反りが合わず、仲違いをしていたエピソードが伝わる[364]
娘婿:丸田吉人(よしんど) 
海軍軍医中佐、北海道帝国大学医学部在学中に海軍軍医学生となった現役軍医科士官[365]重巡鳥海」軍医長としてレイテ沖海戦で戦死[366]。父は丸田幸治 海軍軍医少将。[91]
相婿:阿部信行 
陸軍大将、内閣総理大臣。井上の妻・喜久代の長姉を娶る。喜久代の父は、陸軍二等主計正(後年の陸軍主計中佐)の原知信(とものぶ)。原は、陸軍を早く退き、金沢市で陶磁器会社の重役をしていた。[259]
相婿:関寿雄 
陸軍大佐、士候13期。喜久代の次姉を娶る。[259]
相婿:大石堅四郎 
海軍大佐、兵42期。喜久代の妹を娶る。[259]
親類:稲田正純 
陸軍中将。阿部信行の娘である和子を娶る[259]。和子は、少女時代に井上成美にたいへん可愛がられた。琴に長じる井上は、阿部信行の家で、かつて稲田のために「六段の調」を弾いてくれた。稲田は大佐で参謀本部作戦課長を務めていた時、三国同盟締結に関して海軍省軍務局長であった井上に直談判を試みたが、相手にされなかった。[367]

年譜

墓所は東京都府中市多磨霊園所在。

井上成美を演じた俳優

著書

  • 『思い出の記』井上成美私稿

注釈

  1. 元の位置に戻る 「成美」の正しい読みは「シゲヨシ」[1]。しかし「セイビ」とも呼ばれた[2]。1981年英国でも刊行された日英海軍間関係の研究書には「イノウエ シゲヨシ 海軍少将、海軍省軍務局長。イノウエ セイビという呼び方で、より知られている…」とある[3]
  2. 元の位置に戻る 1959年(昭和34年)に井上が財団法人水交会の求めに応じて行った談話の中に「私は運動神経が極めて鈍いので、武道体技その他の実技はお話にならないほど下手で、剣道、柔道、水泳共クラス中最劣等だったと記憶する」とあり、スポーツは苦手であった[6]
  3. 元の位置に戻る 『日本陸海軍総合事典』では入校席次8位[9]
  4. 元の位置に戻る 海軍では練習艦隊遠洋航海の終了後、クラスヘッドは連合艦隊旗艦に乗組む慣例であった[15]
  5. 元の位置に戻る 榎本は、井上と同学齢の1890年(明治23年)1月16日生、東京帝大法科を卒業した翌年の1915年(大正4年)10月に海軍教授兼海軍省参事官兼海大教官、1924年(大正13年)12月に海軍書記官、1938年(昭和13年)10月には、中将に相当する海軍文官の最高位「高等官一等」となり、国際法の権威として、次官級の待遇を受けて軍政に参画していた[31]。井上が、兵37期クラスヘッドとして中将に進級したのは1939年(昭和14年)11月なので、井上が1945年(昭和20年)5月に大将に親任されるまでは、官吏としての席次において、榎本が井上よりも上だった。榎本は、井上が心を許した生涯で数少ない親友だった。井上の死から4年後の1979年(昭和54年)11月30日に死去。[32][33]
  6. 元の位置に戻る 赤屋根で2本煙突の平屋の洋館で[58]、庭先から歩いて海岸に降りることができた[59]。この家に一時期住んでいた井上の孫の丸田研一によると、南側に応接室・食堂・寝室が並び、応接間と食堂の前がテラスになっていて、食堂と応接室には暖炉があり、北側に台所と女中部屋(この部屋のみ畳敷き)があった。応接室が成美の部屋で、机と成美が寝る造り付けのベッドがあった。寝室には2つのベッドがあり、靚子と研一が使った。[60]1975年(昭和50年)の井上の死の直後に、井上宅を見た中田整一が「洋風の2間ばかりの小さな家」と形容した、慎ましい家であった。[61]この家は、もともと、1932年(昭和7年)11月1日に肺結核で死去した妻の喜久代の療養所として計画されたものである。当時、肺結核の治療法は「空気の清浄な場所で、十分な栄養を取って静養する」以外になかった。井上がイタリアから帰国して以降、空気の良い鎌倉に家を借りて喜久代を療養させていたが、さらに「空気の良い所」を求めた井上は、長兄の秀二が、長井町に別荘を建てていたので、その土地の一部を譲り受けた。井上は、秀二の別荘に泊まりに行っては、半年もかけて具体的な計画を練った。[62]訪問客が「海に面していて、風の日はさぞきついでしょう」と尋ねると、井上は図を描いて「この家の建っている崖はこういう形で、快速軍艦の艦橋前面に似ている。ここを補強して強風が直接当たらずに上へ吹き抜けるようにしている。三浦半島のこの辺では台風時の瞬間最大風速が何メートル程度、風向きはこのように変るので、崖の先端からベランダまでこのくらい離して、屋根を何センチ低くした」と、細かい説明をしたという[63]
  7. 元の位置に戻る 『伝記』や『阿川』では、当時の通称の「お茶の水高女」と表記されているが、『わが祖父-井上成美』 57頁に「(靚子は)東京高等女子師範学校(現 お茶の水女子大学)の付属に通っていた」とある。
  8. 元の位置に戻る この頃、井上宅に通じる畑の中の道は、自動車が通れる道幅があり、井上宅の玄関先まで自動車が入れた戦後の混乱時に、井上宅に通じる道について、近所の農民たちが畑の境界線をなし崩しに広げて道幅を狭め、1965年(昭和40年)頃には自動車が入れない細道になっており、井上宅の不動産価値を著しく下げていた[65]
  9. 元の位置に戻る 「那珂」はこの日は九州方面に出動中だったので、同じく横鎮所属で同型艦の「木曽」が代わりとなった[73]
  10. 元の位置に戻る 山本は、海大甲種学生29期で井上の教えを受け、その後、井上が軍務局一課長で山本が海軍大臣秘書官、井上が軍務局長で山本が軍務局第一課A局員、井上が支那方面艦隊参謀長で山本が同艦隊先任参謀、井上が海軍次官で山本が軍務局一課長と、4度に渡り、部下として勤務した。戦後に井上が胃潰瘍で倒れた際に世話になった医師が、偶然に山本の従兄かつ義弟であった。戦後も、井上と山本はたびたび手紙や品物をやり取りしていた。[103]
  11. 元の位置に戻る 「新軍備計画論」は、井上自筆(ペン書き)の原本が、防衛庁防衛研究所に現存している(1982年(昭和57年)現在)[111]
  12. 元の位置に戻る 横須賀のような軍港地には、鎮守府等の海軍の司令部が、艦隊司令部とは別に陸上に置かれていた。しかし、4F旗艦「鹿島」の母港の役割を果たしていたトラックには、海軍の陸上司令部は存在せず、4Fがその機能を兼ねていた。[125]
  13. 元の位置に戻る 大日本帝国憲法下の「官吏」は、「高等官(武官は士官)」とその下の「判任官(武官は准士官・下士官」の二つに分れた。高等官は、さらに上から「親任官(武官は大将)」「勅任官(武官は中将・少将)」「奏任官(武官は大佐~少尉)」の3つに分かれた。「官吏」の下の身分として、「兵卒」や「傭人・雇員」があり、「臨時雇い」の位置づけだった。[145]
  14. 元の位置に戻る 戦時中の1943年(昭和18年)・1944年(昭和19年)に、井上が奥津ノブ子(井上が4F長官の時、トラック所在の第四海軍軍需部の少女傭員であった)に送った手紙4通を見ると、現役の海軍中将たる顕官にあった井上が、奥津ノブ子を全く対等に遇していたことが分る[146]
  15. 元の位置に戻る 太平洋戦争中は、中将に進級してから5年半経過しても現役にある者は大将に親任される例であった[152]1939年(昭和14年)11月15日に 中将に進級した井上は、予備役にならなければ、1945年(昭和20年)5月に大将に親任される計算となる。史実では、井上は1945年(昭和20年)5月15日に大将に親任された。
  16. 元の位置に戻る 兵78期は、それまでの海兵生徒が「中学4年修了以上」であったのと異なり、新設の「海軍兵学校予科生徒」として中学3年修了者を採用し[166]1945年(昭和20年)4月3日に4,048名が、長崎県の針生分校に入校した[165]
  17. 元の位置に戻る 戦後日本を支配したGHQは、軍の諸学校出身者(海兵や陸士を卒業した者は、旧制高校卒業者と同等に扱われ、旧制大学受験資格が与えられた)を、全学学生の1割に制限した[181]
  18. 元の位置に戻る 高木惣吉少将は、1944年(昭和19年)から10年ほど前の1932年(昭和7年)「肺尖炎」という病気で転地療養をしたことがあった[211]1944年(昭和19年)には肺尖炎はほぼ治癒していたが、生来の持病である「胃酸過少症」に悩まされ、常に希塩酸の小瓶を持ち歩かねばならない重症であった[212]。高木を、海軍省教育局長の要職から閑職に退かせても部内に不審を抱かせない名目として、井上が「病気休養」を持ち出すのは自然だった。
  19. 元の位置に戻る 井上がいつ長井に引っ越したかは不明。1945年(昭和20年)10月15日の予備役編入に先立ち、8月末に既に井上が長井にいたと伺わせる情報もある。[253]
  20. 元の位置に戻る 1945年(昭和20年)11月30日付で帝国海軍は消滅し、翌12月1日付で海軍の残務処理のため第二復員省が発足た。
  21. 元の位置に戻る 阿部信行元首相は、井上が市立横須賀病院を退院した直後の1953年(昭和28年)9月7日に死去[287]
  22. 元の位置に戻る 出典に、具体的な時期は書かれていない。矢野志加三中将は、1966年(昭和41年)1月に72歳で死去している。1953年(昭和28年)の井上の大病の後、1964年(昭和39年)に深田秀明による金銭支援が始まる前の、昭和30年代のことであろう。[296]
  23. 元の位置に戻る 浦賀船渠の関連会社で、戦前・戦中はエリコン20ミリ機銃をライセンス生産していた大日本兵器が戦後に機械メーカーに転じて日平産業となった。合併を経て、2012年(平成24年)現在はコマツNTCとなっている。
  24. 元の位置に戻る 1965年(昭和40年)当時の「古鷹ビル」は、2011年(平成23年)現在は「ふるたかビル」と改称している模様。
  25. 元の位置に戻る 日名子実三とその作品について詳述している、広田肇一 『日名子実三の世界-昭和初期彫刻の鬼才』 思文閣出版2008年(平成20年)、74-75頁に、「井上成美像」が、制作の経緯、「 『井上成美』 (井上成美伝記刊行会)から転載」とクレジットされた写真と共に掲載され、「 『井上成美像』 であるが、謹厳実直、信念一貫、眼光炯々、井上の風貌と性格をあますところなく表現した(日名子の)初期肖像作品の優作である」と評されているが、「井上成美像」の所在については記述がない。
  26. 元の位置に戻る ママ。正しくは「多磨」。

出典

テンプレート:Reflist

参考文献

実松譲「軍政家としての井上成美」
  • 千早正隆 『日本海軍失敗の本質』 PHP文庫、2008年、160頁-197頁「戦場の井上成美」
  • 秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典』 東京大学出版会、1991年、633-637頁、612-630頁
  • GHQ歴史課陳述録:海軍の和平案、陸海軍統合問題、米内海相留任などについて 1950年(昭和25年)

関連項目

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テンプレート:S-mil |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
井沢春馬 |style="width:40%; text-align:center"|横須賀鎮守府参謀長
1935年11月15日 - 1936年11月16日 |style="width:30%"|次代:
岩村清一 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
豊田副武 |style="width:40%; text-align:center"|海軍省軍務局
1937年10月20日 - 1939年10月18日 |style="width:30%"|次代:
阿部勝雄 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
草鹿任一 |style="width:40%; text-align:center"|支那方面艦隊参謀長
1939年10月23日 - 1940年10月1日 |style="width:30%"|次代:
大川内傳七 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
豊田貞次郎 |style="width:40%; text-align:center"|海軍航空本部
1940年10月1日 - 1941年8月11日 |style="width:30%"|次代:
沢本頼雄 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
高須四郎 |style="width:40%; text-align:center"|第四艦隊司令長官
1941年8月11日 - 1942年10月26日 |style="width:30%"|次代:
鮫島具重 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
草鹿任一 |style="width:40%; text-align:center"|海軍兵学校
1942年10月26日 - 1944年8月5日 |style="width:30%"|次代:
大川内傳七 テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
岡敬純 |style="width:40%; text-align:center"|海軍次官
1944年8月5日 - 1945年5月15日 |style="width:30%"|次代:
多田武雄

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    1. 元の位置に戻る 『伝記』 資料編 314頁。井上成美の「奉職履歴」の原簿(海軍省人事局が所管。戦後は厚生省援護局<1982年(昭和57年)現在>が保管)
    2. 元の位置に戻る 阿川弘之 『我が青春の記憶』 文藝春秋、2008年、付属CD1。
    3. 元の位置に戻る Arthur J. Marder, Old friends, new enemies: the Royal Navy and the Imperial Japanese Navy, Oxford: Oxford University Press, 1981, Reprinted 2002, p. 98
    4. 元の位置に戻る 新名丈夫 『沈黙の提督 井上成美 真実を語る』 新人物文庫(新人物往来社)、2009年。
    5. 元の位置に戻る 『伝記』 3-4頁。
    6. 元の位置に戻る 『伝記』 資料編 272頁。
    7. 元の位置に戻る 『伝記』 5-7頁。(1939年(昭和14年)2月23日の朝日新聞宮城県版内容)
    8. 元の位置に戻る 『伝記』 26頁。
    9. 元の位置に戻る 秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典』 東京大学出版会、1991年、262頁
    10. 元の位置に戻る 『伝記』 25-26・28頁。
    11. 元の位置に戻る 『伝記』 27頁。
    12. 以下の位置に戻る: 12.0 12.1 『伝記』 360-361頁。
    13. 元の位置に戻る 『阿川』 16-27頁。
    14. 元の位置に戻る 『伝記』 31頁。
    15. 元の位置に戻る 小泉昌義 『ある海軍中佐一家の家計簿』 光人社NF文庫、2009年、91頁。
    16. 元の位置に戻る 『伝記』 49頁-50頁。
    17. 元の位置に戻る 『伝記』 53-57頁。
    18. 元の位置に戻る 『伝記』 58-60頁。
    19. 元の位置に戻る 『伝記』 60-62頁。
    20. 元の位置に戻る 『伝記』 63頁。
    21. 元の位置に戻る 『伝記』 66-67頁。
    22. 元の位置に戻る 『伝記』 資料篇 315頁 奉職履歴。
    23. 元の位置に戻る 『伝記』 66-71頁。
    24. 元の位置に戻る 『伝記』 71-73頁。
    25. 元の位置に戻る 『伝記』 74-78頁。
    26. 元の位置に戻る 『伝記』 78-80頁。
    27. 元の位置に戻る 『伝記』 79頁。
    28. 元の位置に戻る 『伝記』 80-82頁。
    29. 元の位置に戻る 『伝記』 83-88頁。
    30. 元の位置に戻る 『伝記』 89-97頁。
    31. 元の位置に戻る 『伝記』 279頁。
    32. 元の位置に戻る 雨倉孝之 『海軍アドミラル軍制物語』 光人社、1997年、122-128頁。
    33. 元の位置に戻る 『伝記』 73・432頁、秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典』 東京大学出版会、1991年、172-173頁。
    34. 元の位置に戻る 『伝記』 102-103頁。
    35. 元の位置に戻る 『伝記』 98-104頁。
    36. 元の位置に戻る 『伝記』 226頁。
    37. 元の位置に戻る 『伝記』 105-110頁。
    38. 元の位置に戻る 『伝記』 111-113頁。
    39. 元の位置に戻る 『伝記』 134頁。
    40. 元の位置に戻る 『伝記』 129頁。
    41. 元の位置に戻る 『阿川』 86-87頁。
    42. 元の位置に戻る 『伝記』 136頁。
    43. 元の位置に戻る 『伝記』 136-137頁。
    44. 元の位置に戻る 『伝記』 142-143頁。
    45. 元の位置に戻る 『伝記』 143頁。
    46. 元の位置に戻る 『伝記』 143頁。
    47. 元の位置に戻る 『阿川』 90頁。
    48. 元の位置に戻る 『阿川』 90-91頁。
    49. 以下の位置に戻る: 49.0 49.1 『阿川』 91頁。
    50. 元の位置に戻る 『伝記』 145頁。
    51. 元の位置に戻る 『伝記』 145-146頁。
    52. 元の位置に戻る 『伝記』 152頁。
    53. 元の位置に戻る 『阿川』 146頁。
    54. 元の位置に戻る 『阿川』 133・142頁。
    55. 元の位置に戻る 『伝記』 156-159頁。
    56. 元の位置に戻る 『阿川』 144頁。
    57. 元の位置に戻る 『阿川』 212頁。
    58. 元の位置に戻る 『阿川』 48頁。
    59. 元の位置に戻る 『伝記』 499頁。
    60. 元の位置に戻る 丸田研一 『わが祖父-井上成美』 徳間書店、1987年、24頁。
    61. 元の位置に戻る 中田整一 編/解説 『真珠湾攻撃総隊長の回想-淵田美津雄自叙伝』 講談社文庫、2010年、380-381頁。
    62. 元の位置に戻る 『伝記』 168頁。
    63. 元の位置に戻る 『阿川』 131頁。
    64. 元の位置に戻る 『伝記』 168頁。
    65. 以下の位置に戻る: 65.0 65.1 『阿川』 532頁。
    66. 元の位置に戻る 『伝記』 173-174頁。
    67. 元の位置に戻る 『伝記』 171-174頁。
    68. 元の位置に戻る 『伝記』 174頁。
    69. 元の位置に戻る 『伝記』 172-173頁。
    70. 元の位置に戻る 『伝記』 176頁。
    71. 以下の位置に戻る: 71.0 71.1 『伝記』 178頁。
    72. 元の位置に戻る 『伝記』 179頁。
    73. 元の位置に戻る 『伝記』 176頁。
    74. 元の位置に戻る 『伝記』 180頁。
    75. 元の位置に戻る 『伝記』 180頁。
    76. 以下の位置に戻る: 76.0 76.1 『伝記』 184頁。
    77. 元の位置に戻る 『伝記』 180-181頁。
    78. 以下の位置に戻る: 78.0 78.1 『伝記』 182-183頁。
    79. 元の位置に戻る 『阿川』 173頁。
    80. 元の位置に戻る 『阿川』 176頁。
    81. 元の位置に戻る 平間洋一他 『今こそ知りたい江田島海軍兵学校』 新人物往来社、2009年、70頁-72頁。
    82. 以下の位置に戻る: 82.0 82.1 『伝記』 211頁。
    83. 元の位置に戻る 『伝記』 221頁。
    84. 元の位置に戻る 『伝記』 223頁。
    85. 元の位置に戻る 『伝記』 224頁。
    86. 元の位置に戻る 『伝記』 228頁。
    87. 元の位置に戻る 『阿川』 194頁。
    88. 元の位置に戻る 『伝記』 227頁。
    89. 元の位置に戻る 『伝記』 233-237頁。
    90. 元の位置に戻る 『阿川』 204頁。
    91. 以下の位置に戻る: 91.0 91.1 『伝記』 242-243頁。
    92. 元の位置に戻る 『伝記』 244頁。
    93. 元の位置に戻る 『伝記』 245-247頁。
    94. 元の位置に戻る 『伝記』 256-257頁。
    95. 元の位置に戻る 『伝記』 231頁。
    96. 元の位置に戻る 『阿川』 209頁。
    97. 元の位置に戻る 『阿川』 213頁。
    98. 以下の位置に戻る: 98.0 98.1 『伝記』 258頁。
    99. 元の位置に戻る 『伝記』 258-259頁。
    100. 元の位置に戻る 『阿川』 235頁。
    101. 元の位置に戻る 『伝記』 259-260頁。
    102. 元の位置に戻る 『伝記』 261頁。
    103. 元の位置に戻る 『伝記』 資料編 250頁。
    104. 元の位置に戻る 『伝記』 262頁。
    105. 元の位置に戻る 『伝記』 263頁。
    106. 元の位置に戻る 『伝記』 267頁。
    107. 元の位置に戻る 『伝記』 271頁。
    108. 元の位置に戻る 『伝記』 272-273頁。
    109. 元の位置に戻る 『伝記』 268頁。
    110. 元の位置に戻る 新名丈夫『海軍戦争検討会議記録』毎日新聞163-164頁、『伝記』 283・287-289頁。
    111. 元の位置に戻る 『伝記』 資料編 125-135頁。
    112. 元の位置に戻る 『伝記』 292頁。
    113. 元の位置に戻る 『伝記』 292-293頁。
    114. 元の位置に戻る 『伝記』 289ページ
    115. 元の位置に戻る 『伝記』 293頁。
    116. 元の位置に戻る 『伝記』 304頁。
    117. 元の位置に戻る 『伝記』 305頁。
    118. 元の位置に戻る 『伝記』 304-305頁。
    119. 元の位置に戻る 『伝記』 305-306頁。
    120. 元の位置に戻る 『伝記』 306-307頁。
    121. 元の位置に戻る 『伝記』 309-310頁。
    122. 元の位置に戻る 『伝記』 310-311頁。
    123. 元の位置に戻る 『伝記』 315頁。
    124. 元の位置に戻る 『阿川』 272頁。
    125. 元の位置に戻る 『伝記』 318頁。
    126. 元の位置に戻る 『伝記』 320頁。
    127. 元の位置に戻る 『伝記』 322頁。
    128. 元の位置に戻る 『伝記』 317-318頁。
    129. 元の位置に戻る 戦史叢書49南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで26頁
    130. 元の位置に戻る 『伝記』 325頁。
    131. 元の位置に戻る 『阿川』 283-287頁。
    132. 以下の位置に戻る: 132.0 132.1 『伝記』 321頁。
    133. 元の位置に戻る 『伝記』 325頁。
    134. 元の位置に戻る 『伝記』 331頁。
    135. 元の位置に戻る 『伝記』 464-465頁。
    136. 元の位置に戻る 『伝記』 333-334頁。
    137. 元の位置に戻る 『阿川』 331頁。
    138. 元の位置に戻る 吉田俊雄 『大本営参謀 最後の証言』 光人社NF文庫、2012年、78頁。
    139. 元の位置に戻る 『大本営参謀 最後の証言』 (光人社NF文庫版)、77-78頁。
    140. 元の位置に戻る 『ソロモンの激闘』 「歴史群像」太平洋戦史シリーズVol.59、学習研究社、2007年、93頁。
    141. 元の位置に戻る 半藤一利 『遠い島ガダルカナル』 PHP文庫、2005年、51頁。
    142. 元の位置に戻る 千早正隆『井上成美のすべて』、新人物往来社、1988年(昭和63年)。千早 『日本海軍失敗の本質』(PHP文庫)160-197頁
    143. 元の位置に戻る 森史朗 『暁の珊瑚海』 光人社、2004年(平成16年)、60頁-61頁
    144. 元の位置に戻る 半藤一利『遠い島ガダルカナル』PHP文庫、2005年(平成17年)、50頁-61頁
    145. 元の位置に戻る 『海軍アドミラル軍制物語』 35頁。熊谷直 『帝国陸海軍の基礎知識』 光人社NF文庫、2007年、76・87頁。
    146. 元の位置に戻る 『伝記』 資料編 257-258頁。
    147. 元の位置に戻る 『伝記』 322-325頁。
    148. 元の位置に戻る 『伝記』 347頁。
    149. 元の位置に戻る 『伝記』 347-348頁。
    150. 元の位置に戻る 『伝記』 349頁。
    151. 元の位置に戻る 『伝記』 346頁。
    152. 以下の位置に戻る: 152.0 152.1 『海軍アドミラル軍制物語』 163-164頁。
    153. 元の位置に戻る 『伝記』 349-350頁。
    154. 元の位置に戻る 『伝記』 350頁。
    155. 元の位置に戻る 『伝記』 350頁。
    156. 元の位置に戻る 『伝記』 351頁。
    157. 元の位置に戻る 『伝記』 351-352頁。
    158. 元の位置に戻る 『伝記』 353・410頁。
    159. 元の位置に戻る 『伝記』 354頁。
    160. 元の位置に戻る 『伝記』 354-355頁。
    161. 元の位置に戻る 『阿川』 374頁。
    162. 元の位置に戻る 『阿川』 377頁。
    163. 元の位置に戻る 『伝記』 355-356頁。
    164. 元の位置に戻る 『わが祖父-井上成美』 42・113-119頁。
    165. 以下の位置に戻る: 165.0 165.1 『今こそ知りたい江田島海軍兵学校』 73頁。
    166. 元の位置に戻る 『今こそ知りたい江田島海軍兵学校』 86頁。
    167. 元の位置に戻る 『伝記』 356頁。
    168. 元の位置に戻る 『伝記』 357-358頁。
    169. 元の位置に戻る 『伝記』 359頁。
    170. 元の位置に戻る 『伝記』 370頁。
    171. 元の位置に戻る 『伝記』 356頁。
    172. 元の位置に戻る 雨倉孝之 『帝国海軍士官入門』 光人社NF文庫、2007年、283-286頁
    173. 元の位置に戻る 『帝国海軍士官入門』 286-287頁。
    174. 元の位置に戻る 『伝記』 361-362頁。
    175. 元の位置に戻る 『伝記』 363頁。
    176. 元の位置に戻る 『伝記』 373-374頁。
    177. 元の位置に戻る 『伝記』 374-375頁。
    178. 元の位置に戻る 『伝記』 394頁。
    179. 元の位置に戻る 『伝記』 392-396頁。
    180. 元の位置に戻る 『伝記』 397頁。
    181. 元の位置に戻る 『伝記』 397頁。
    182. 元の位置に戻る 『伝記』 397-398頁。
    183. 元の位置に戻る 『伝記』 398頁。
    184. 元の位置に戻る 『伝記』 398-399頁。
    185. 元の位置に戻る 『伝記』 399-400頁。
    186. 以下の位置に戻る: 186.0 186.1 186.2 『伝記』 400頁。
    187. 元の位置に戻る 『伝記』 400-401頁。
    188. 元の位置に戻る 『伝記』 402頁。
    189. 元の位置に戻る 『伝記』 402-403頁。
    190. 元の位置に戻る 『伝記』 401-402頁。
    191. 元の位置に戻る 『伝記』 403-404頁。
    192. 元の位置に戻る 『伝記』 405頁。
    193. 元の位置に戻る 『伝記』 406-407頁。
    194. 元の位置に戻る 『伝記』 407頁。
    195. 元の位置に戻る 『伝記』 418頁。
    196. 元の位置に戻る 『伝記』 407頁。
    197. 元の位置に戻る 『伝記』 406頁。
    198. 元の位置に戻る 『伝記』 419頁。
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    200. 元の位置に戻る 『伝記』 371-372頁。
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    203. 元の位置に戻る 『伝記』 415-417頁。
    204. 元の位置に戻る 『伝記』 423頁。
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    208. 元の位置に戻る 発令は8月5日付。テンプレート:Cite web
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    217. 元の位置に戻る 『伝記』 452頁。
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    219. 元の位置に戻る 『伝記』 425頁。
    220. 元の位置に戻る 『伝記』 453頁。
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    222. 元の位置に戻る 『伝記』 454頁。
    223. 元の位置に戻る 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期28-29頁
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    226. 元の位置に戻る 『伝記』 466頁。
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    229. 元の位置に戻る 『伝記』 471-472頁。
    230. 元の位置に戻る 『伝記』 472-473頁。
    231. 元の位置に戻る 『伝記』 474頁。
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    236. 元の位置に戻る 『伝記』 474-478頁。
    237. 以下の位置に戻る: 237.0 237.1 『伝記』 479頁。
    238. 元の位置に戻る 『伝記』 558頁。
    239. 元の位置に戻る 『伝記』 479-480頁。
    240. 元の位置に戻る 『伝記』 480頁。
    241. 元の位置に戻る 『伝記』 480-481頁。
    242. 元の位置に戻る 『伝記』 480頁。
    243. 以下の位置に戻る: 243.0 243.1 『伝記』 486頁。
    244. 元の位置に戻る 『伝記』 476・486-487頁。
    245. 元の位置に戻る 『伝記』 487-488頁。
    246. 元の位置に戻る 『伝記』 488頁。
    247. 元の位置に戻る 『伝記』 488-489頁。
    248. 元の位置に戻る 『伝記』 489頁。
    249. 元の位置に戻る 『伝記』 490頁。
    250. 元の位置に戻る 『伝記』 491頁。
    251. 元の位置に戻る 『わが祖父-井上成美』 170頁。
    252. 元の位置に戻る 『阿川』 31-32頁。
    253. 元の位置に戻る 『伝記』 498頁。
    254. 元の位置に戻る 『阿川』 47-48頁。
    255. 元の位置に戻る 『阿川』 528頁。
    256. 元の位置に戻る 『伝記』 502-503頁。
    257. 以下の位置に戻る: 257.0 257.1 『伝記』 511頁。
    258. 元の位置に戻る 『阿川』 340頁。
    259. 以下の位置に戻る: 259.0 259.1 259.2 259.3 259.4 『伝記』 68頁。
    260. 元の位置に戻る 『伝記』 496-497頁。
    261. 元の位置に戻る 『伝記』 514頁。
    262. 元の位置に戻る 『伝記』 498頁。
    263. 元の位置に戻る 『伝記』 501頁。
    264. 元の位置に戻る 『伝記』 500-501・522-523頁。
    265. 元の位置に戻る 『阿川』 58頁。
    266. 元の位置に戻る 『わが祖父-井上成美』 173-178頁・204-206頁。『阿川』 549-550頁。『伝記』資料編 260-261頁。
    267. 元の位置に戻る 『阿川』 116頁。
    268. 元の位置に戻る 『伝記』 550頁。
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