我が闘争
テンプレート:基礎情報 書籍 テンプレート:ナチズム 『我が闘争』(わがとうそう、テンプレート:Lang-de)は、ナチス党指導者のアドルフ・ヒトラーによる著作。第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版された[1]。ヒトラーによる自伝的要素と、彼の政治的世界観(テンプレート:Lang-de)の表明が記載されている。
目次
書名
ヒトラーが当初希望した書名は『Viereinhalb Jahre (des Kampfes) gegen Lüge, Dummheit und Feigheit』(虚偽、愚鈍、臆病に対する(闘争の)4年半)であったが、出版担当のマックス・アマンは、より短い『Mein Kampf』(我が闘争)を推奨した[2]。
目次
- 第1巻: 罰
- 第2巻: 国家社会主義運動(ナチズム)
- まとめ
- 索引
経緯
執筆
ヒトラーは1923年11月のミュンヘン一揆の失敗後、獄中で当書の執筆を開始した。当初は多数の面会者と会っていたが、すぐに執筆に没頭した。執筆中に本を2巻にする事とし、1巻は1925年当初の発行を予定した。ランツベルク刑務所の管理者は「彼(ヒトラー)はこの本が多くの版を重ねて、彼の財政的債務や法廷費用支払の助けとなる事を望んだ」と記した。
ヒトラーは1924年、ランツベルク刑務所で収監されていたエミール・モーリスに、のちにルドルフ・ヘスに対し口述した。ヘスに加えて数人が同書を編集したが、雑な著述と反復が多く読解するのが困難であったとされる。
内容
テンプレート:See also 第1巻となる前半部分は自分の生い立ちを振り返りつつ、ナチ党の結成に至るまでの経緯が記述されている。自叙伝は他の自叙伝同様に誇張と歪曲がなされたものであるが、全体としてヒトラー自身の幼年期と反ユダヤおよび軍国主義的となったウィーン時代が詳細に記述されている。
第2巻となる後半部分では、自らの政治手法、群衆心理についての考察とプロパガンダのノウハウも記されている。戦争や教育などさまざまな分野を論じ自らの政策を提言している。特に顕著なのは人種主義の観点であり、世界は人種同士が覇権を競っているというナチズム的世界観である。さらにあらゆる反ドイツ的なものの創造者であると定義されたユダヤ人に対する、反ユダヤ主義も重要な位置を占めている。また「経済の理のみ狙うは民族の堕落」「世の中に武力によらず、経済によって建設された国家など無い」と、経済偏重がドイツの敗北を招いたとしている[3]。
外交政策ではロシア(ソビエト連邦)との同盟を「亡滅に至る」と批判し[4]、「モスクワ政権」は当にユダヤ人であるとしている[5]。現時点で同盟を組べき相手はイギリスとイタリアであるとしている[6]。またドイツが国益を伸張するためには、貿易を拡大するか、植民地を得るか、ロシアを征服して東方で領土拡張するかの3つしかないとし、前者二つは必然的にイギリスとの対決を呼び起こすため不可能であるとした。これは東方における生存圏(Lebensraum)獲得のため、ヨーロッパにおける東方進出(東方生存圏)を表明したものであり[7]、後の独ソ戦の要因の一つとなった。
人物評
ヴィルヘルム・クーノ[8]などドイツの政治家を酷評する一方で、ベニト・ムッソリーニを「彼の仕事を見るたびに感嘆させられる」「巨人」と高評価している[9]。
出版
第一部は1925年7月18日にナチス党の出版局であるテンプレート:仮リンク(フランツ=エーア出版) から発売された。価格は12マルクであり、当時の一般書の2倍の値段になる。これはあまり売れないと判断したアマンが少部数でも元を取れるようにしたという[10]。1925年には9,432部、1926年には6,913部が売れた。1926年12月には第二部が出版されたが、1927年の売り上げは一部二部をあわせて5,607部にとどまった。しかしナチス党は同書が大量に売れていると宣伝していた。
ドイツ国内におけるナチス党の支持層拡大と共に、本の売り上げは増大した。1930年には54,080部が売れた。また、この年には一部と二部を合本した廉価版が8マルクで売り出されている。1931年には50,808部が売れ、ヒトラーに多額の印税収入をもたらした。
ナチ党の権力掌握後、ナチス党のヒトラー政権下で『我が闘争』は事実上ドイツ国民のバイブル扱いを受けるようになった。結婚する全ての夫婦に『我が闘争』を贈呈する事が奨励され、各自治体がフランツ=エーア出版に発注した婚礼用 (市の紋章が表紙に箔押しされ、首長のメッセージが記されたページが挿入されている) の『我が闘争』が、婚姻届を提出した夫婦に贈られた。贈呈用として、本革や琥珀の板、銀細工などで装丁された様々な特装版も販売された。視覚障害者向けには6巻組の点字版も製作された。本書の販売はヒトラーに数百万ライヒスマルクの収入をもたらしたが、購入者の大半が全てを読んだわけではなく、ヒトラーに対する忠誠、ナチス党内での地位の維持、ゲシュタポの追及をかわすために購入した者もいると言われている。1939年には上下巻を合一し、特別な表装をほどこしたJubiläumsausgabeと呼ばれる版が出版された。第二次世界大戦終結によるナチス党政権崩壊までに約1,000万部がドイツ国内で出版された。
一方で、当然ながら国内外の批判者からは、『我が闘争』の内容を巡って批判も行われた。1936年2月21日、フランスへの友好姿勢をアピールするヒトラーに対し、フランスの記者テンプレート:仮リンクが『我が闘争』のフランス批判部分を修正するかと問いかけた。ヒトラーは次のように答えている。
各国語訳
この本はドイツ国外でも出版された。最初に英訳を試みたのはイギリス人のテンプレート:仮リンクである。テンプレート:仮リンク社がその原稿を買い取り、アメリカにおいても出版した。しかしこれらは著作権者であるヒトラーの許諾を得ていなかった。ホーントン・ミフリン版からは反ユダヤ主義や軍国主義的な部分が一部削除されている。唯一の公式な英訳作成者はテンプレート:仮リンクであり、1939年に出版した。通信社に勤務していたテンプレート:仮リンクはヒトラーとナチズムに対する批判者であり、批判のために反ユダヤ主義や軍国主義的な部分を残した『我が闘争』を英訳して出版した。ナチスの代理人らは出版差し止めの訴訟を行い、コネチカット州の裁判所はこれを認め、出版は差し止められた。
日本語訳
最初の日本語版は、1932年に内外社から刊行された『余の闘争』(坂井隆治訳)である。以後、終戦までに、大久保康雄、室伏高信、真鍋良一、東亜研究所特別第一調査委員会が訳を手がけ、別々の会社から刊行されている[11]。また石川準十郎も国際日本協会から『マイン・カンプ研究』を発行する予定であったが、販売されなかった[12]。
ヒトラーはこの書において、アーリア人種を文化創造者、日本民族などを文化伝達者(Kulturträger)、ユダヤ人を文化破壊者としている。日本文化というものは表面的なものに過ぎず、文化的な基礎はアーリア人種によって創造されたものに過ぎないとしており、強国としての日本の地位もアーリア人種あってのこととしている。もしヨーロッパやアメリカが衰亡すれば、いずれ日本は衰退して行くであろうとしている[13]。他も日本人侮蔑と受け取れる場所が複数あり、鈴木東民や勝本清一郎等が告発する文章を発表しているテンプレート:Sfn。
戦前の日本語版においては、こういった日本人をおとしめた場所が削除されているという指摘が行われている[14]。一方で篠原正瑛はこれらの日本語版において、日本人をおとしめた場所が削除されたという事実はないとしている[15]。また外務省も独自に訳出に当たっているが、「時局柄世人の眼に触れさせぬ方がよい」部分を訳出せず、修正している[16]。
第二次世界大戦終結後
第二次世界大戦の終結後、連合国の解放令はナチス党幹部たちの財産すべてを没収すると規定していた。アドルフ・ヒトラーの住所は最期の時までミュンヘンのプリンツレゲンテン広場16番地であったから、ヒトラー遺産の管理人はバイエルン州だった[17]。ヒトラーの親族が版権の所有を主張し、裁判所に訴えたこともあったが、認められなかった。
ドイツでは民衆扇動罪によりナチス党及びヒトラー賛美に繋がる出版物の刊行が規制・処罰の対象となっている為、著作権を保有するバイエルン州政府は、ドイツ国内における本書の複写及び印刷を認めない事でドイツ連邦政府と合意している。そのため、現在ドイツ国内で流通している『我が闘争』は古書と他国版のみ。ヒトラーの死後70年にあたり著作権の保護期間が終了する2015年12月31日以降、注釈本としての復刊がミュンヘンのテンプレート:仮リンク(IfZ)によって計画されていた[18]が、ホロコースト生存者からの反対を受け、一時は出版を取りやめることを発表したが[19]、2014年1月24日に至りバイエルン州政府は学術的な注釈を付けた同書の発行を認める方針に転換した[20]。
しかしドイツ以外では翻訳本が入手可能である[18]。1999年にサイモン・ウィーゼンタール・センターがAmazon.comやバーンズ・アンド・ノーブルのような大手インターネット書店が『我が闘争』を販売している事を糾弾した際、世間の抗議を受けた両社は同書の販売を見合わせたこともあったが、、その後は両サイトにおいて英訳版『我が闘争』を購入することができるようになっている。日本では戦前の抄訳版に変わり、1973年から角川書店が文庫版で翻訳本を刊行[18]。2008年にはイースト・プレスから漫画版も出版された[18]。また2005年にはトルコの若者の間でベストセラーになるなど、ユダヤ人とイスラエルに反感を持つ中東地域で一定の人気を保っている[18]。収集家間においては、戦前の特装本やナチス党政権要人の直筆署名入りの物が高値で取引されており、2005年には、ロンドンの古書類競売業者のオークションで、ヒトラーの署名入り初版本が23,800ポンドで落札されている。この他、米国立公文書館に保存されている、未刊行に終わったヒトラーの口述タイプ原稿が、『ヒトラー第二の書』、『続・我が闘争』と銘打たれて翻訳、刊行されている。
評価
「我が闘争」が、その内容が人種差別主義で第二次世界大戦中のナチズムやホロコーストに影響を与えたかどうかは、多数の議論がある。「我が闘争」への批判はナチズムへの反対者からだけではなく、また一部のネオナチ支持者などは「我が闘争」を支持している。
ヒトラー政権下で軍需大臣を務めたアルベルト・シュペーアは回顧録で、ヒトラー自身が「我が闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」と語っていたと記した。またヘルマン・ゲーリングは「総統は彼の理論、戦術等において変幻自在だった。その為、あの本から総統の目的を推測する事は不可能だ。総統は臨機応変に己の意見や見解を変えていた。あの本は総統の哲学思想の基本的な骨組みが著されているのだろう」と述べた。なお、「我が闘争」では大衆を蔑視する記述が多いのに対して、政権掌握後のヒトラーは大衆宣伝に心を砕くなど両者には相反する点が多いことから、「我が闘争」はあくまで1920年代初頭当時のヒトラーの知見を述べたものにすぎない、という指摘もある[21]。
イタリアのファシスト指導者で、ヒトラー率いる当時のドイツと同盟したベニート・ムッソリーニは、「我が闘争」は「退屈な研究書で私は決して読めない」、当書で表明されたヒトラーの信念は「陳腐にすぎない」と述べた[22]。またナチ党員であったテンプレート:仮リンクは、ヒトラーの友人と思われる他の党員には「我が闘争」の内容は重要な政治的議論だと見せたが、しばしば実際に当書の内容を非難した。日本海軍の井上成美はベルリン駐在中にドイツ語の原典を読み、有色人種蔑視などの人種差別主義を嫌悪し、米内光政や山本五十六らと共に日独伊三国軍事同盟に反対した[23][24]。また石原莞爾も1945年に『マイン・カンプ批判』を出版している[25]。
第二次世界大戦中にイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、「我が闘争」は「他のいかなる本よりも集中的な調査が必要な本」と記した[26]。アメリカ合衆国のKenneth Burke (en)は著書『ヒトラーの「闘い」のレトリック』で、「我が闘争」には攻撃的な意図を持つ隠されたメッセージがあると記した[27]。ヘンリー・キッシンジャーは、「我が闘争」に記載されたヒトラーの哲学は、陳腐で空想的で、従来からの右翼過激思想を通俗的にまとめ上げただけで、知的潮流を引き起こすものではなく、この点でマルクスの『資本論』などとは異なっていた、と述べた[28]。
日本語訳
- 上 ISBN 4-04-322401-X、下 ISBN 4-04-322402-8
関連書籍
- 平野一郎 訳『続・わが闘争 生存圏と領土問題』(角川文庫、2004年) ISBN 4-04-322403-6
- 立木勝 訳『ヒトラー第二の書 自身が刊行を禁じた「続・わが闘争」』(成甲書房、2004年) ISBN 4-88086-165-0
脚注
関連項目
外部リンク
ドイツ語版
英語版
- hitler.org
- Murphy translation at archive.org (pdf)
- Murphy translation at Gutenberg
- Murphy translation at greatwar.nl (pdf, txt)
- Complete Dugdale abridgment at archive.org
- 1939 Reynal and Hitchcock translation at archive.org.
- Mein Kampf ebook in your Pocket PC, Palm and Windows in Tomeraider Format.
日本語版
- テンプレート:アジア歴史資料センター - 1939年、日本の外務省情報部が作成した『我が闘争』外交関連部分のみの訳。序文には以前公表した際、日本人を人種的に差別した内容を一部削除したことが書かれている。またヒトラーは独英同盟を組み、日露戦争にかわって独露戦争を行うべきであったと書いているが、末尾には当時ドイツ国首相であったベルンハルト・フォン・ビューローの回顧録が掲載されている。
- テンプレート:アジア歴史資料センター - 同様にヒトラーの生い立ち等を記した第1巻の7章までの部分が訳されている。この序文ではヒトラーがオーストリア=ハンガリー帝国皇帝に対する忠誠と愛国心は別であるという記述が、天皇と国家を同一視する国体の観点によって、訳出公表の際削除されたことが触れられている。
- テンプレート:アジア歴史資料センター
- テンプレート:アジア歴史資料センター
参考文献
- ↑ Mein Kampf ("My Struggle"), Jackie (originally 1925–1926), Reissue edition (September 15, 1998), Publisher: Mariner Books, Language: English, paperback, 720 pages, ISBN 0-395-92503-7
- ↑ Richard Cohen."Guess Who's on the Backlist". The New York Times. June 28, 1998. Retrieved on April 24, 2008.
- ↑ 外務省訳『マイン・カムプの外交篇』31-32p
- ↑ 外務省訳『マイン・カムプの外交篇』82p
- ↑ 外務省訳『マイン・カムプの外交篇』83p
- ↑ 外務省訳『マイン・カムプの外交篇』87p
- ↑ 外務省訳『マイン・カムプの外交篇』68-77p
- ↑ 外務省訳『マイン・カムプの外交篇』 102p
- ↑ 外務省訳『マイン・カムプの外交篇』 101p
- ↑ 児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
- ↑ 大久保康雄訳『わが闘争』(三笠書房、1937年)、室伏高信訳『我が闘争』(第一書房、1940年)、真鍋良一訳『吾が闘争』(興風館、1942年)、東亜研究所特別第一調査委員会訳『我が闘争』(東亜研究所、1942年 - 1944年)
- ↑ 石原莞爾『マイン・カンプ批判』序文
- ↑ 石川準十郎『ヒトラー「マイン・カンプ」研究. 第3編』174-175p
- ↑ 三宅正樹『日独政治外交史研究』テンプレート:Harv
- ↑ マルティン・ボルマン著、篠原正瑛訳『ヒトラーの遺言』(原書房、1991年)の「解説」のp187~202
- ↑ テンプレート:アジア歴史資料センター、テンプレート:アジア歴史資料センター
- ↑ ヴォルフガング・シュトラール:著、畔上司:訳『アドルフ・ヒトラーの一族 独裁者の隠された血筋』(草思社、2006年) ISBN 4-7942-1482-0 第7章 現在のヒトラー家 p290 - p293
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 テンプレート:Cite news
- ↑ ヒトラーの「わが闘争」出版中止 独南部州、生存者に配慮 共同通信2013年12月12日
- ↑ [「わが闘争」、注釈付き容認=全面禁書から一転―ドイツ 時事通信2014年01月25日
- ↑ 「新訳出来『「わが闘争」を読み直す』」、歴史群像No.92、2008年12月号
- ↑ Smith. 1983. Mussolini: A Biography. New York: Vintage Books. p172
- ↑ 「四人の軍令部総長」(吉田俊雄、文藝春秋、1988年)p308
- ↑ 「東京裁判がよくわかる本: 20ポイントで理解する」(太平洋戦争研究会、2005年、PHP研究所)p391
- ↑ 『マイン・カンプ批判』テンプレート:近代デジタルライブラリー
- ↑ Winston Churchill: The Second World War. Volume 1, Houghton Mifflin Books 1986, S. 50. "Here was the new Koran of faith and war: turgid, verbose, shapeless, but pregnant with its message."
- ↑ In Praise of Kenneth Burke:His “The Rhetoric of Hitler’s ‘Battle’” Revisited
- ↑ 「重光・東郷とその時代」(岡崎久彦、2003年、PHP研究所)p288