米内光政
米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。第23代連合艦隊司令長官。第39-41、49-52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。
目次
経歴
1880年(明治13年)、岩手県盛岡市に旧盛岡藩士米内受政の長男として生まれる。父の選挙落選、事業失敗で、一家は困窮し、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助けていた。 1886年(明治19年)鍛冶町尋常小学校に入学。1891年(明治24年)盛岡高等小学校に入学。1894年(明治27年)岩手県尋常中学校に入学。1898年(明治31年)海軍兵学校29期に入校。同期生には高橋三吉、藤田尚徳、佐久間勉、八角三郎(中学も同期)らがいる。 兵学校では「グズ政」という渾名がついた。 当時の米内のノートは記述の質・量が膨大であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決している。これは詰め込み式教育が当たり前だった海軍教育においては珍しい勉強法であった。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の呉鎮守府司令長官・谷口尚真から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさがりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね」と答えたという[1]。
1901年(明治34年)に海軍兵学校29期を125人中68番の成績で卒業。海軍少尉候補生、練習艦「金剛」乗り組み。1903年(明治36年)、任海軍少尉。
1905年(明治38年)、日露戦争に従軍。第三艦隊第十六水雷艇隊所属。第一艦隊第二駆逐隊所属の駆逐艦「電」乗組み。海軍中尉。日本海海戦に参戦[2]。1906年(明治39年)功五級金鵄勲章。大隈コマと結婚。任海軍大尉。1912年(大正元年)任海軍少佐。海大甲種学生12期。1914年(大正3年)海軍大学校卒業。旅順要港部参謀。
1915年(大正4年)2月ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。
ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は「暇つぶし」と称して『ラスプーチン秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりしている。
1916年(大正5年)任海軍中佐。1917年(大正6年)4月免。1918年(大正7年)海軍大学校教官。軍令部参謀。1918年8月ソ連・ウラジオストック駐在。ロシア革命の混乱、国際情勢を分析し、論文を作成している。1919年(大正8年)9月免。1920年(大正9年)任海軍大佐。1920年(大正9年)6月ベルリン駐在。1921年(大正10年)ポーランド駐在員監督。1922年(大正11年)装甲巡洋艦「春日」艦長。1923年(大正12年)練習艦「磐手」艦長。米内はニュージーランドの小学校を訪問するが、もともと口数が少ない方で挨拶をした際は、「I'm glad to see you,thank you.」としか話さなかった。
1924年(大正13年)戦艦「扶桑」、「陸奥」艦長。1925年(大正14年)任海軍少将。第二艦隊参謀長。1926年(大正15年)軍令部第三班長。1927年(昭和2年)第四水雷戦隊司令官。特別大演習に参加。1928年(昭和3年)第一遣外艦隊司令官。
1930年(昭和5年)任海軍中将。鎮海要港部司令官。この役職は「クビ5分前」「島流し」と言われ、米内が赴任した頃は「一週間に半日仕事があれば良い方だ」といわれた閑職であった。米内は「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、読書三昧の日々を過ごし、漢籍からロシア文学や社会科学、中学の後輩である野村胡堂の小説まで読み耽ったという。米内の読書法は「本は三度読むべし。1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」というものだった。荒城二郎に送った手紙によると、毎日二時間は必ず読書の時間を設け、司令官といってもほとんどやることがなく執務中にも読書をしていたという。
1932年(昭和7年)第三艦隊司令長官。米内はインフルエンザをこじらせて胸膜炎になり療養を必要としたが拒絶した。海軍次官だった藤田尚徳は高橋三吉軍令部次長と相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。米内を知る2人の同期の計らいで療養生活に入り、早期治療の効果か1ヵ月後には米内は職務に復帰することができた。のちに藤田と高橋は、米内を現役大将として残すため、自ら予備役編入を願い出ている[3]。
幕僚の保科善四郎によれば、旗艦二見が揚子江を航行中に暗岩に乗り上げてしまい、司令長官である米内が責任を取り進退伺の電報を打つよう保科に命じた。保科は「米内さんのような、命をかけて国に尽くしている人材をここで失くしてはならない。温存する必要がある」と電報を預かり、打ったフリをして独断で握り潰した。もしそのまま進退伺を出していれば確実に受理されて依願予備役になっていたものと思われ、「我ながら傑作だった。あれでクビになっていたら日本は本土決戦でメチャクチャになっていたよ」と語っている。
1933年(昭和8年)佐世保鎮守府司令長官。友鶴事件が発生し、この時査問委員会の一人である森田貫一機関中将は、佐世保を訪れて米内を訪ねた際、米内は「これは(日本海軍の)根幹に関わることだ。僕はどうなってもいいから本当のことをしっかりやってくれ」と言い、森田は「偉い人だ。米内さんが職を賭して徹底解決を推進されたことが成功の原因だった。役人根性むき出しで責任回避をはかりうやむやにしていたら、日本海軍は大変なことになっていただろう」と話している[4]。1934年(昭和9年)第二艦隊司令長官。
1935年(昭和10年)横須賀鎮守府司令長官。1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件発生。米内は新橋の待合茶屋に泊まっており、事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰り、その始発で横須賀線はストップしたため、間一髪のところで、事件対応に追われる横須賀鎮守府に責任者不在という事態は免れたと井上成美の「思い出の記」にはあるが、待合の女中の妹の結婚式に参加し、二次会で早朝まで東京に滞在していたことを待合の関係者が証言しており、それが事実なら当時女房役だった参謀長・井上成美が知らないわけがなく、意図的に米内を庇った可能性がある。鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧に動いた。
1936年(昭和11年)連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。
第39-41代海軍大臣
1937年(昭和12年)2月2日林内閣にて第39代海軍大臣に就任。米内は軍政が嫌いで連合艦隊司令長官を就任僅か2ヶ月で退任させられ海相に任ぜられる事を非常に渋り、周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという。林銑十郎は海相に末次信正を望み、両人間で了解済みであった。しかし海軍次官・山本五十六は海相・永野修身に米内を強く推し、軍令部総長・伏見宮博恭王の同意を得て決定した[5]。米内は山本を次官に留任させている。 軍務局第一課長だった保科善四郎によれば、広田内閣崩壊後、後任の海軍大臣を誰にするかについて話し合われた時、保科が真っ先に米内を挙げ、次官の山本五十六の同意を得て留任希望の永野修身を説得して米内の大臣就任の了承を取ったという。
4月海軍大将に進級。海相の初期には「金魚大臣」と渾名がついた。
大臣秘書官だった実松譲中佐は、米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたのか質問したところ、「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる。人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」と答え、「練習艦の米内艦長から教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している。
海軍大臣を務めていた頃、年末になると海軍からはボーナスが、内閣からは手当が支給されていたが、米内は「国家から二重に手当を受ける理由はない。海軍の分は頂戴しておくが、内閣の分は適当に処理しておいてくれ」と言って、内閣からの手当を秘書官の実松譲に手渡していた。実松は考えた末、大臣スタッフ一同で分配する事にして、その内の一部を米内の所に持っていき、「これは大臣の分です」と言うと、米内はニコニコして受け取ったという。
休日返上で勤務している「海軍さん」を芸者衆が慰問に訪れ、米内の秘書官が同じく休日勤務をしていた軍務局長の井上成美、軍令部次長の古賀峯一などを呼び空室だった海軍省の次官室(当時の次官は山本五十六)を使って芸者手製の弁当を食べていたことが露見して米内と山本が激怒、秘書官をすべてクビにしようとした。芸者衆が懇願して山本は「酒は飲んでいないので罪一等を減じる。1年間の進級停止」と妥協したものの、今度は米内の態度が硬化し「ダメ、全員クビだ」の一点張り。困った芸者衆が海軍の長老に直訴しようとしたところ、慌てた米内と山本がこれは悪戯ということを明かし、その日は芸者衆に追いかけまわされたという。もっとも、その悪戯のいちばんの「被害者」である秘書官の実松穣は「悪戯にも程があるのではないか」と複雑な気持ちを自伝で述べている。また実松の自伝によるとこれは山本の発案で、米内は「やりすぎではないか」と消極的だったと記しており、阿川弘之が書いた、米内・山本の「共謀」とは少し展開が違っている。
中国・華南でハンセン氏病に罹った兵が、戦いではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして人事局長だった清水光美に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩を書いた書と絵画を送ったという。
下士官・兵の家族の福利厚生、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内は結城豊太郎大蔵大臣に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設は支出を大蔵省に渋られたため、民間からの寄付で補おうと海相官邸に財界の有力者を呼び集め寄付を呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これにより歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決した。
1937年6月4日第一次近衛内閣の第40代海軍大臣就任。
1937年(昭和12年)8月9日第2次上海事変発生。8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。翌14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。さらに8月15日から8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を連日爆撃し、これにより支那事変の戦火が各地に拡大した。1938年(昭和13年)1月11日の御前会議では、トラウトマン工作の交渉打切りを強く主張、「蒋介石を対手とせず」の第一次近衛声明につながった[6]。 1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議において、蒋介石政権との和平交渉、トラウトマン工作の継続を強く主張する陸軍の多田駿参謀次長に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめたことが、中国における最も有力な交渉相手をみすみす捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させた。
1938年(昭和13年)11月25日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であり、米内は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であった。 この件に関して、「第二次上海事変で、出兵に反対する賀屋興宣を閣議で怒鳴りつけて、無理矢理、兵を出して、シナ事変を泥沼化させた」「海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた」という批判もある。この言動は、海軍の論理を政治の世界で優先させるということが米内の一貫した思想にすぎなかったということを示しており、当時、上海や海南島には多数の海軍部隊が孤立しており、それを救出するために米内は派兵を主張したが、その派兵が事変全体の長期化を招く危険には米内は考慮をはらっていなかった[7]。
1939年1月5日平沼内閣の第51代海軍大臣就任。
山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツ・イタリアとの日独伊三国軍事同盟に反対する。日独防共協定締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派であった[8]。
1939年8月五相会議の席上で、同盟を締結した場合に日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、海軍として見通しはどうかと石渡荘太郎大蔵大臣から問われた時に米内は「勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません。」と言下に答えた。
米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある[9]。
1939年(昭和14年)に豊後水道で潜水艦が沈没し呉鎮守府が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が海軍省に報告に行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した。米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。
1939年(昭和14年)軍事参議官。1940年(昭和15年)予備役に編入。
内閣総理大臣
1940年(昭和15)第37代内閣総理大臣に就任する。米内を総理に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。この頃、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国軍事同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で述べている。また内大臣の湯浅倉平も米内首相の実現に大いに働いている。組閣の大命を受けに宮中に参内した時、当初米内は組閣を辞退するつもりだった。しかし「朕、卿に組閣を命ず」という天皇の甲高い声を聞いて、米内は「電気に打たれたようになって」断りを言い出せなくなったという。なお大命が降下した時、米内は海相を退任して閑職の軍事参議官の任に就いてはいたものの、まだ現役の海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら予備役となる。1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した加藤友三郎を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった田中義一・斎藤実・岡田啓介・林銑十郎・阿部信行は、いずれも予備役か退役の陸海軍大将であった。加藤以前の軍人首相は山縣有朋ほかいずれも現役のまま首相を務めており、大命降下のあった現役将官があえて予備役になってから首相となることは先例がなく、また後例もない人事だったのである(米内以後に首相になった軍人四人のうち、東條英機・東久邇宮稔彦王は現役で大命降下し首相就任後も現役にとどまり、小磯国昭・鈴木貫太郎は大命降下時予備役であった)。吉田善吾海相らは米内に現役に留まるよう説得したが、米内は総理が現役将官であることは統帥権を干犯することに繋がりかねないと言ってこれを受け入れなかった[10]。米内が予備役となったことは、軍令部総長・伏見宮博恭王の後任に米内を擬していた海軍人事局をも困惑させる事態であった。
就任直後の1月21日、千葉県房総半島沖合いの公海上でイギリス軍巡洋艦が浅間丸を臨検、乗客のドイツ人男性21名を戦時捕虜として連行する浅間丸事件が発生した。世論がイギリスを非難する中、イギリスとドイツ人船客の解放をめぐって米内は難しい交渉を行うことになった。一方、日本陸軍と米内の関係は最初からうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は陸軍大臣・畑俊六を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた[11] [12]。 米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあった事を明らかにした。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、宮内大臣を務めたことがある石渡荘太郎(平沼騏一郎内閣時の大蔵大臣、米内内閣時の内閣書記官長)に語っている。
総理大臣を辞任した直後に、日光を訪れた際には「見るもよし 聞くもまたよし 世の中は 言わぬが花と 猿はいうなり」という短歌と、「寝たふりを しても動くや 猫の耳」という句を詠んでいる。
米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた。陸軍の秘書官も「あなたたちは(米内内閣崩壊と)関係ないから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。米内内閣が成立した日も総辞職した日も16日だったことから「一六会」と名付けられ、戦後も長く行われ年号が平成に変わっても存続した。会員には宇佐美毅、福地誠夫などがいる[13]。昭和天皇は「一六会」の存在は知っており、「一六会」の日になると「今日は『一六会』の日だね」と侍従に述べたという。
総理大臣を辞任後、病院通いに東京市電を利用していたが、長身で目立ったせいか元総理ということがすぐわかり、至る所で国民にサインを求められたり話しかけられたりして「困ったな」と言いながらも嫌な顔もせず談笑やサインに応じていた。元とは言え総理経験者となると自家用車やハイヤーなどを使って通院するのが普通で公共交通機関を使って通院した戦前の総理は米内くらいだという。海軍から公用車が派遣されたが、「予備役なので」と断っている。逆に陸軍は次官の子弟の通学の送り迎えにも公用車を使い、国民の顰蹙を買っている。
1940年(昭和15年)9月15日、日独伊三国同盟に対する海軍首脳の会議があり、軍令部総長・伏見宮博恭王が「ここまできたら仕方ない」と発言し、海軍は同盟に賛成することを決定した。翌日、会議に出席していた連合艦隊司令長官・山本五十六は、第2次近衛内閣の海相・及川古志郎に、米内を現役復帰させ連合艦隊司令長官に就任させることを求めている。この日は昭和天皇が伏見宮の更迭を口にした日でもあったが、及川は米内の復帰と伏見宮更迭を拒んでいる。10月末または11月初頭、山本は及川に米内を軍令部総長として復帰させるよう提案した。この時も及川は採り上げなかったが、山本は11月末に再び米内の連合艦隊司令長官起用を及川に進言している。この時、伏見宮は米内を軍令部総長とすることに同意した。しかしのちに伏見宮が辞任した際、後任として伏見宮が指名したのは永野修身であった。及川は米内の中学の後輩で米内を尊敬しており、第3次近衛内閣成立の際に米内の海相としての復帰を図ったことがある。こうした米内の現役復帰をめぐる動きはいずれも実現せずに太平洋戦争を迎えた。[14]
1943年(昭和18年)、海軍甲事件で戦死した盟友、連合艦隊司令長官・山本五十六の国葬委員長を務める。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに、井上成美とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった[15][16]。 米内は朝日新聞に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている[17]。
第49-52代海軍大臣
1944年(昭和19年)、東條内閣が倒れると、予備役から現役に復帰して小磯内閣で再び海軍大臣となる。軍部大臣現役武官制により、予備役海軍大将の米内が海軍大臣となるには、「召集」ではなく「現役復帰」の必要があった。予備役編入された陸海軍将校・士官が現役復帰するには、「天皇の特旨」が必要とされ、極めて稀なことだった。米内は、陸軍出身の小磯國昭と二名で組閣の大命を受けた(小磯が上席で、内閣総理大臣となった)異例の組閣経緯から「副総理格」とされ、「小磯・米内連立内閣」とも呼ばれた。米内は、海軍次官の岡敬純を「岡は一夜にして放逐する」と更迭、横須賀鎮守府でコンビを組んだ井上成美(当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島の村長で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上を中央に呼び寄せた[18]。なお、米内の同期生で親友であった荒城二郎の姉(または妹)は井上の兄・井上達三に嫁いおり[19]、米内、井上には私的にもつながりがあった。
米内の現役復帰を画策した岡田啓介は、米内を円満に海軍へ復帰させるには海軍内の米内の系統と共に末次の系統の顔も立てておく必要があるとの声を受けた為、岡田は藤山愛一郎の邸宅にて二人を引き合わせ、関係の修復に努め、共に個人の感情より国のために力を尽くすことを誓わせた。末次信正と米内の関係は、過去に宴席で五・一五事件に対する責任などで口論となる、会っても口をきかないなど険悪であった。米内の現役復帰は成ったが、予定されていた末次の軍令部総長への復帰話は天皇の反対等と末次の急病と悪化の為それっきりとなってしまった。軍令部なら召集官でもなれるのだから、末次を召集の形で連れてきてはどうかと米内に勧めるものもいたが、米内は応じなかった。これに関して岡田は「(米内は)末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局の収拾がうまくいかんと思ったのではないかね」とし、『昭和天皇独白録』には「私は末次の総長に反対した。米内が後で末次の事を調べたら、海軍部内の八割は末次をよく知つてゐないと云ふことが判つた相だ」とある。 ただし、復帰直後の米内は末次総長が実現しない場合には辞任する旨を語っており[20]、末次の総長人事には熱意を持っていた[21]。
空襲で海軍省と大臣官邸が焼けてしまい、麻生孝雄秘書官が堤康次郎所有の建物を官邸として借り受けようと交渉に向かったところ、堤は最初は不機嫌だったが米内の名前が出てきた途端に顔色が変わり、「よろしゅうございます。お貸ししましょう。私は米内さんが好きなので」と建物の提供を無条件で承知してくれた。「米内さんの人徳で借りれたようなものだ」と麻生は後に述べている。
空襲で明治宮殿が焼失した翌朝、米内は宮城の外でひとり長時間にわたって額づいたという。
1944年12月3日神雷部隊を視察し、飛行場で閲兵式を行う[22]。
1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣にも海相として留任。米内本人は「連立内閣」の片方小磯だけが辞めてもう片方米内が残るというのは道義上問題があると考えていた。だが今度は次官であった井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木や木戸幸一内大臣に申し入れていたのだった[23]。
米内は海相として太平洋戦争終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、5月末の会議では阿南惟幾陸軍大臣と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切った[24]。
5月11日、ドイツ降伏直後に宮中で開かれた最高戦争指導会議における対ソ交渉についてソビエトからの援助を引き出すべきだと主張したが、ソビエトを軍事的経済的に利用できる段階ではもはやないと東郷茂徳外相に却下されている。しかし鈴木内閣は結論としてソビエトに対する和平仲介を依頼する方針を決定し、交渉を開始した。
しかしすでに内密に対日参戦を決意していたソビエトからは回答を引き伸ばされるだけであった。やがて7月末に至り、連合国が日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言が発表される。東郷外相は受諾の可能性を主張するが、阿南陸相をはじめとする統帥部は宣言拒否を激しく主張、結果として閣議では「ポツダム宣言に関しては強い見解をださず様子をみる」旨発表すると決定した。ところが統帥部は閣議の決定を無視して鈴木首相に宣言に対して強い態度を取るべきと主張、鈴木首相はこの突き上げに屈して、宣言の黙殺を記者会見で声明した。この黙殺声明により、原子爆弾投下とソ連の対日参戦という新たな事態が発生した。米内は連合国のポツダム宣言発表から鈴木首相の黙殺声明にいたるまで、ポツダム宣言に対して曖昧な態度をとっている。米内のこの曖昧さが、阿南陸相などポツダム宣言拒否派に押し切られ、黙殺声明への大きな原因になったとする批判もある。
原爆投下・ソ連参戦以降、米内はポツダム宣言受諾による戦争終結を東郷外相とともに強力に主張する。受諾に反対し本土決戦を主張する阿南陸相と閣議・最高戦争指導会議で激論を展開した。「戦局は依然として互角である」と強がりを言う阿南に対し「陸相は互角というが、ブーゲンビル、サイパン、レイテ、硫黄島、沖縄、みんな明らかに我が方は負けている。個々の戦いで武勇談はあるやもしれないが、それは勝敗とは別の問題である」と米内は言い返した。さらに「戦闘には負けているかもしれないが、戦争そのものに負けたとはいえない。陸軍と海軍では感覚が違う」と再反論する阿南に対し米内は「あなたがなんと言おうと日本は戦争に負けている」と言い、両者の話に結着はつかなかった。
8月9日の天皇臨席の最高戦争指導会議で、東郷、米内、平沼騏一郎枢密院議長は、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し阿南、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長は受諾には多数の条件をつけるべきで条件が拒否されたら本土決戦をするべきだと受諾反対を主張した。天皇は東郷、米内、平沼の見解に同意し、終戦が原則的に決定された。しかし連合国側から条件を付す件について回答文があり、ふたたび受諾賛成と反対の議論が再燃する。
8月12日、軍令部総長豊田副武大将と陸軍参謀総長梅津美治郎大将が昭和天皇に対してポツダム宣言受諾を反対する帷幄上奏を行う。同日、米内は、抗戦を主張する豊田と軍令部次長大西瀧治郎の二人を呼び出した。米内は大西に対して「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」と言いつけ、大西は涙を流して詫びた。次に豊田に対して「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった[25]。豊田が軍令部総長に就任する際に、昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と反対する旨を米内に告げているが、米内は「若い者に支持がある。彼の力によって若い者を抑えて終戦に持っていきたい」と返答した。しかし豊田は押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している[26]。
8月14日、天皇は最高戦争指導会議および閣僚の面前で、再度受諾を決定、これにより終戦が最終的に決した。
鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾は終戦の日当日に「米内を斬れ[27]」と言い残して、8月14日に自決したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨プリズンへ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった[28]。
しかも米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、GHQの某軍人が元秘書官である麻生孝雄のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。また保科善四郎や吉田英三、豊田隈雄などが「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から[29]辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。
米内は「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」[30]続けて「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態(食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊すること)が主である。(中略)軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と近衛文麿も細川護貞などに語った。
海軍省最後の日となった1945年(昭和20年)11月30日に、海軍大臣として挨拶をした際にも、朝日新聞の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わった。幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内が日本で最後の海軍大臣となった。
海軍省廃止の翌日の1945年(昭和20年)12月1日に宮中に召された米内は、お別れの言上をした際、昭和天皇から「米内には随分と苦労を掛けたね。それがこんな結末になってしまって・・・。これからは会う機会も少なくなるだろう。米内はだいぶ体が弱っているようだから、健康にくれぐれも注意するように。これは私が今さっきまで使っていた品だが、今日の記念に持ち帰ってもらいたい」として、筆も墨も濡れた状態の硯箱に、二羽の丹頂鶴に菊の小枝をあしらった金蒔絵が描かれた蓋を天皇自ら閉じたうえで、直接手渡された。硯箱を持って廊下へ退出するなり、米内は声を殺して泣き出したという。またこのとき、皇后も別室で米内を涙ながらに厚くねぎらっている。現在その硯は、盛岡市にある先人記念館に展示されているが、他の展示品が寄贈なのに対して硯のみ「米内家からの貸与」となっている
海軍解体前、米内はその当時軍務局長だった保科に、「戦犯に指名されるかもしれないし、私の健康もすぐれないから」と前置きした上で、「連合国も永久に日本に軍備を撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数を基準に海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を委託している。保科はY委員会を通して現在の海上自衛隊創設に間接的に影響を与えており、後に衆議院議員となった保科自身も米内の遺志を一つでも達成すべく政界入りを目指したと述べている。
東京裁判
戦後の極東国際軍事裁判では証人として1946年(昭和21年)3月・5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。
その上で、満州事変・支那事変・日米開戦を推進した責任者として、土肥原賢二・板垣征四郎・武藤章、文官では松岡洋右の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。しかし、東條英機の責任については言明する事がなかった[31]。
一方で、陸軍大臣単独辞任で米内内閣を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれることになった畑俊六に対しては、これをかばって徹底的にとぼけ通し、ウィリアム・ウェブ裁判長から「You are the most stupid prime minister I have ever seen.(こんな阿呆な総理大臣を見たことがない)」と罵られた。一方で、ジョセフ・キーナン首席検事はむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。国際法廷の席上であのような態度をとれる人間はいない。」と敬意を表し、日本を離れる際自筆の晩餐会招待状を送り、健康上の理由で米内が断っても「是非お会いしたい」と何度も招待している[32]。
マッカーサーは日本の占領統治で天皇を利用するため、天皇の戦争責任を問わない方針を定めていたが、連合国の中には天皇の戦争責任を問うべきだとする国もあった。 そのためマッカーサーの秘書官フェラーズ准将は、米内をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ。」と語り、米内は「同感です」と答えたと言う[33]。
1946年(昭和21年)、元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、北海道釧路町で北海道牧場株式会社(通称:霞ヶ関牧場)の牧場経営に参加する。
武見太郎(後の日本医師会会長)が「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」と聞くと、「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」と答え、「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から日本独自の伝統思想風習がある。その上にアメリカ流の民主主義を無理にのっけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」と、GHQによる占領政策を批判する発言をしたという。それに対し「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが出来ると思いますがね」と武見が反論すると、「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。米内の予想では「日本が本当に復興するまで二百年かかる」と述べたという。
戦後高血圧で悩まされた際、幣原内閣の外務大臣だった吉田茂から、当時銀座で開業していた武見太郎を紹介され、武見は米内とはほとんど面識がなかったが義理の祖父である牧野伸顕より「あの人のものの見方は偏った所が全くない。軍人であれだけ醒めた見方をする人は珍しい」と常日頃から聞かされていた。そして吉田から「命を削ってお国に尽くし日本を救った方だ。あの方は金がないからどんなことがあっても絶対に診察料は取るな」と指示されていたという。吉田から「この人からは金を取るな」と言われていたのは、他にも岡田啓介(元海軍大将)がいる。米内は武見の診察を受け、「いい医者だよ。薬をくれずに僕に酒を飲んでもいいと言ったからね」とすこぶる上機嫌だったという。なお医学的には米内の高血圧は既に対処不能になっていたため酒が解禁されたとされているが、最終的に米内の死因は肺炎と、極めて穏やかな晩年と最期を迎えている。
1948年(昭和23年)、肺炎により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い脳溢血に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の高血圧症に慢性腎臓病の既往症があり、さらに帯状疱疹にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた[15]。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていただけあって、帯状疱疹が彼の寿命を縮めたといえる。
戦後に昭和天皇も招かれた学士院会員の会食の際、天皇が小泉信三に、「雑誌(『心』昭和24年1月号)に米内のことを書いたね」と尋ねて小泉も「拙文がお目に触れてしまいましたか」と恐縮すると、「あれを読んで米内が懐かしくなった」と語った。それで他の参加者が米内の思い出話を紹介していたが、天皇が「惜しい人であった」と黙り始めたので、皆も天皇と同じくしたという。
米内の死後12年を経た1960年(昭和35年)、盛岡八幡宮境内に背広姿の米内の銅像[34]が立てられ、10月12日に除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていたという[15]。
人物
身長180cm[35]。柔道三段。趣味は長唄と日曜大工だった。長唄は遊女の哀れを歌った色っぽいものを好んだ。またロシア文学にも親しみ、プーシキンを愛読した。
極端に口数が少なく、面倒くさがりで、説明や演説を嫌い、平沼内閣の閣僚中、演説回数が一番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残っている。また終生抜けなかった南部弁を気にしたという説もある。しかし、佐世保時代に親交があった知人や長官官邸の女中は「米内さんは口数が少ないといわれているが、そんなことはない。うちではよくしゃべっていたし、冗談もよく言っていた」と証言しており、戦後は人が変わったかのように口数が多くなった、という証言もある。
山本五十六は海軍次官として米内の部下だった頃に「うちの大臣は頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ」というコメントをしている。 井上成美大将は戦後、「海軍大将にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは山本権兵衛・加藤友三郎・米内の三人だけであった。井上成美は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また「包容力の極めて大きい人だ。米内さんに仕えた者は、誰でも自分が一番信頼されているように思いこむ。これが、まさに将たるものの人徳というべきであろう。山本さん(山本五十六)はよほど米内さんを信頼していたようで、『誰でも長所、短所はあるよ。しかし、あれだけ欠点がない人はいない』と言っていた」と述懐している。米内と親交のあった小泉信三は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。大西新蔵は「米内さんは、海軍という入れ物をはみ出していた大物だった」という。保科善四郎は「私心がない人だ。欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ」と米内を評す。
大井篤は米内の功績を評価しつつも『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」としている。大井は終戦間際の井上成美の大将昇進、軍令部次長に大西瀧治郎を就任させた例を挙げているが、それを井上に言ったところ、「大西を推薦したのはボクだからね」と答えた。これを大井は「(井上さんは)意図的に米内さんを庇っている」と批判した。
前田稔は、「米内さんは老荘の風があって、これはいけないと思ったら反論する人には誰であろうと容赦せず、また自分の意見には絶対に妥協しない、あくまで流れに逆らうカミソリみたいな切れ味の井上さん(井上成美)を参謀長として、また次官として上手に包み込んで使っておられた。一回り大きな軍政家でした」と同じような述懐をしている[36]。 中国文学者の守屋洋は『老子』を解説した著書の中で大山巌と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」と東洋的リーダーの典型として評価をしている
戦争への危機感が高まる中、海軍左派を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたこと、早期和平を主張して陸軍と対立することの多かった井上成美海軍次官を1945年5月に大将に昇進させて次官を辞任させ、後任次官に多田武雄、軍務局長に周囲から本土決戦派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もある。
アメリカのタイム誌は、海軍大臣のとき[37]と総理のとき[38]の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾るカバーパーソンとして扱っている。
酒が非常に強く、「酒が米内か、米内が酒か」とまで言われていた。かなりのハイペースで飲みいくら飲んでも顔色一つ変えず、淡々と飲んでいたという。総理大臣の時に満州国の皇帝・愛新覚羅溥儀が日本を訪れた際に米内の酒の量が話題になり、「満州語に『海量(ハイリャン)』という言葉がある。米内の酒の量は『海量』か」と尋ねたところ、高松宮宣仁親王が「いえ、米内は『洋量(ヤンリャン)』です」と返したエピソードがある。また、銀座の芸者衆の間で「米内さんを酔っ払わせたら懸賞金を与える」という話が広まり、酒に自信がある芸者が何人も挑戦したが米内を酔わせることができず、ある芸者は米内の前で号泣して悔しがったという。酔っ払うことはほとんどなかったそうだが、ほろ酔い加減になると長唄の調子が棒読みになったという証言があり、ロシア駐在時代に酔ってロシア水兵に演説をしたことがある自身のエピソードを語り、「私が演説するくらいなので、相当酔っていたのでしょう」と言っている。保科善四郎も「米内さんにとって酒は食べ物だった」と回想している。海軍料亭等で飲む際には二升・三升は当たり前のように飲むと料亭の女将達からも言われていた。若い頃は自ら「俺は時には二升・三升あるいはそれ以上を平気で飲む事があった。しかし家に帰っておふくろの蒲団を敷くまでは乱れないでいる。ところが敷き終わって自分の部屋に帰ったら最後、酔いが廻って前後不覚になってしまうんだ。それまではいくら飲んでも気持ちはしゃんとしているんだけれどね」と話す事があった。周りの者はまさか冗談だろうと誰も信じていなかったらしい。
米内は晩年まで父親が残した借金を返済していたということがあり、海外駐在が多かったのも借金で生活が苦しいのを見かねた同期が「海外に出れば手当が支給され、それだけで現地の生活が出来る」というはからいによるものであった。功四級金鵄勲章の年金も借金のかたに取られてしまっている。また、佐世保鎮守府長官時代にも海軍の福利団体に三千円の借款を申し込んでいる。中将で借金を申し込んだのは前代未聞で、申し込みを受けた理事(大臣副官が兼務)もどう処理していいのか戸惑ったという。米内が借金を返済するのは海軍大臣になってからであり、佐世保鎮守府長官時代に宛てた親友の荒城二郎向けの手紙にも、「(米内が現職留任かもという人事異動の噂が立ち)陸上勤務は金がかかるがかといって辞職するわけにもいかない。金がないからまた借金でもするか、ハハハ」と書いている。
米内は髪をポマードで整えて七三に分け、若い頃から鼻眼鏡を愛用したが、練習艦「磐手」艦長時代に横須賀鎮守府長官野間口兼雄大将から「強いてとは言わぬが、頭髪もなるべく短く切った方がいい」と訓示され、先輩に「長官かなり機嫌が悪いぞ。クルクル坊主に剃れ」と冷やかされても切ろうとしなかった。米内は坊主頭が海外では囚人の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという。また戦争末期に上官に髪を切るよう言われ「私が尊敬する米内大将は髪を伸ばしております。何故海軍が陸軍と同じことをしないといけないのでしょうか。それが教育と言うのならその教育は間違っております」と拒否した士官もいたという(もっとも、その士官はその上官によって考査表に「上官ノ命ニ従ワズ素行ハ極メテ不良ナリ」と「丙」をつけられたという)。米内自身は長男の剛政に、「髪の毛を伸ばすのは良いが常にきちんと整えて清潔感を大事にすべし」と述べている。
長身で日本人離れした風貌であり、また非常に温厚な性格であったため女性によくもてたようで、特に花柳界では山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、愛人だったと称する女性にあちこちで会ったり、戦争中主計士官として赴任中上官が年老いた芸者を連れてきたかと思ったら、「こいつは貴様の父上のインチ(馴染み芸者)だ」と言われたりして困ったという。佐世保鎮守府長官退任の際、佐世保駅周辺には見送りに訪れた芸者で黒山の人だかりができたといわれている。また横須賀鎮守府長官時代に上海から米内を慕ってある芸者が横須賀までやって来て、現在のストーカーのようにつきまとった。周囲は米内の今後のこともありその対応に苦慮するが米内は彼女に対しても分け隔てなく接し、参謀長だった井上成美も「これは男と女の問題ですからね」と投げ出している。これを聞いた横須賀の芸者衆は、「あの堅物の井上さんがそんなこと言うなんて」と目を丸くしたという。なおその芸者は一時期横須賀で芸者をしていたものの、知らぬ間に横須賀から消えそれ以後の消息は不明だという。
米内と陸軍大将の板垣征四郎は政治的立場も思想も異なったが、同郷(岩手県)出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っつぁん」と呼んでいた。東京の料亭で開かれた尋常中学時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の野村胡堂、言語学者の金田一京助など、冨田の教え子たちが多く集った。
長男の剛政が人の上に立つ時に部下をどう扱うべきか尋ねたところ、「器の中で自由に泳がせておけばいい。器からはみ出しそうな者がいれば頭をポカリとやる。それ以外は手も口も出さない。しかし部下を泳がせる器は自分が作るものだよ。自分の心がけ次第で広くも狭くもなる」と剛政は述懐している[39]。
栄典
- 50px 勲一等旭日大綬章 :1934年(昭和9年)4月29日
- 50px 功一級金鵄勲章 :1942年(昭和17年)4月4日
- 50px 勲一等瑞宝章 :1933年(昭和8年)1月
- 勲一位景雲章 :1942年(昭和17年)2月9日[15]
- 50px テンプレート:仮リンク:1940年(昭和15年)2月27日[40]
- 50px 3等テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク
- 建国神廟創建記念章 :1942年(昭和17年)2月9日[15]
系譜
米内家は摂津国大坂から盛岡に移住し、南部信直に仕えた宮崎庄兵衛勝良を祖とし、三代目傳左衛門秀政の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が出雲国米内郷から来るもので、本来の陸奥国の米内氏の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。
陸奥米内氏は一方井氏の分家筋にあたり、一方井氏は俘囚長安倍頼良・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を安倍貞任の末裔だと称していた。
┏竹中藤右衛門━━┳寿美 ┃ ┃ ┃ ┣竹中宏平 ┃ ┃ ┣━━竹中祐二 ┗竹中藤五郎 ┃ りゅう子 ┃ ┃ ┃ ┃竹下登━━━━公子 ┃(首相) ┃ ┃(15代) ┗竹中錬一 ┣━━━竹中統一 米内光政━━━┳和子 (首相) ┃ ┗米内剛政
年譜
- 1880年(明治13年) - 岩手県盛岡市下小路に生まれる。
- 1886年(明治19年) - 鍛冶町尋常小学校に入学。
- 1891年(明治24年) - 盛岡高等小学校(現盛岡市立下橋中学校)に入学。
- 1894年(明治27年) - 岩手尋常中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。
- 1898年(明治31年) - 海軍兵学校に入校。
- 1901年(明治34年) - 海軍兵学校卒業(第29期)。海軍少尉候補生。練習艦「金剛」乗り組み。
- 1903年(明治36年) - 任海軍少尉。
- 1904年(明治37年) - 日露戦争に第三艦隊第十六水雷艇隊、第一艦隊駆逐艦「電」に所属し従軍。任海軍中尉。
- 1906年(明治39年) - 功五級金鵄勲章。大隈コマと結婚。任海軍大尉。
- 1912年(大正元年) - 任海軍少佐、海大甲種学生。
- 1914年(大正3年) - 海軍大学校卒業(第12期)。旅順要港部参謀。
- 1915年(大正4年) - ロシア駐在(サンクトペテルブルク;駐在武官補佐官;1915年(大正4年)2月-1917年(大正6年)4月)。
- 1916年(大正5年) - 任海軍中佐。
- 1918年(大7年) - ソ連駐在(ウラジオストック;1918年(大正7年)8月-1919年(大正8年)9月)。海軍大学校教官、軍令部参謀。
- 1920年(大正9年) - 任海軍大佐。ベルリンに駐在(1920年(大正9年)6月-)。
- 1921年(大正10年) - ポーランド駐在員監督。
- 1922年(大正11年) - 装甲巡洋艦「春日」艦長。
- 1923年(大正12年) - 装甲巡洋艦「磐手」艦長。
- 1924年(大正13年) - 戦艦「扶桑」、「陸奥」艦長。
- 1925年(大正14年) - 任海軍少将、第二艦隊参謀長。
- 1926年(大正15年) - 軍令部第三班長。
- 1927年(昭和2年)- 特別大演習中、第四水雷戦隊司令官。
- 1928年(昭和3年) - 第一遣外艦隊司令官。
- 1930年(昭和5年) - 任海軍中将、鎮海要港部司令官。
- 1932年(昭和7年) - 第三艦隊司令長官。
- 1933年(昭和8年) - 佐世保鎮守府司令長官。
- 1934年(昭和9年) - 第二艦隊司令長官。
- 1935年(昭和10年) - 横須賀鎮守府司令長官。
- 1936年(昭和11年) - 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。
- 1937年(昭和12年) - 海軍大臣、任海軍大将。
- 1939年(昭和14年) - 軍事参議官。
- 1940年(昭和15年) - 予備役に編入され内閣総理大臣となる。
- 1943年(昭和18年) - 戦死した連合艦隊司令長官山本五十六の国葬委員長をつとめる。
- 1944年(昭和19年) - 現役に復帰して海軍大臣となる。
- 1945年(昭和20年) - 鈴木貫太郎内閣に海軍大臣として留任。
- 1948年(昭和23年) - 肺炎により死去。墓所:盛岡市円光寺
米内を演じた俳優
- 山村聡 『日本のいちばん長い日』(1967年、東宝)
『激動の昭和史 軍閥』(1970年、東宝) - 八代目松本幸四郎 『連合艦隊司令長官 山本五十六』(1968年、東宝)
- 増田順司 『NHK特集 日本の戦後 (第一回)』(1977年、NHK)
- 渡辺文雄 『海にかける虹〜山本五十六と日本海軍』(1983年、テレビ東京新春ワイド時代劇)
- 村上幹夫 『山河燃ゆ』(1984年、NHK大河ドラマ)
- 村井国夫 『海の夕映え 最後の海軍大将井上成美』(1992年、日本テレビ)
- 神山繁 『ヒロシマ 原爆投下までの4か月』(1996年、NHK)
- 佐々木敏[41] 『ジパング』(2004年、TBSテレビアニメ)
- 原田大二郎 『聖断』(2005年、テレビ東京)
- 西沢利明 『太陽』(2005年、ロシア映画)
- 柄本明 『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(2011年、東映)
脚注
関連文献
- アジア歴史資料センター(公式)
- Ref.A06031062100「写真週報 26号」(昭和13年8月10日号) 米内光政「海軍作戦一年を回顧して国民に告ぐ」
- Ref.A06031069600「写真週報 101号」(昭和15年1月31日号) 米内内閣組閣・浅間丸事件
- Ref.A06031033300「週報 第171号」(昭和15年1月24日号) 米内光政「全国民の協力を求む」
- 『米内光政』(阿川弘之 著、新潮社のち同文庫)ISBN 4-10-300413-2 C0093
- 『一軍人の生涯』(緒方竹虎 著、文藝春秋新社、のち光和堂)
- 『静かなる楯 ― 米内光政』(高田万亀子 著、原書房上下)
- 『米内光政の手紙』(高田万亀子 著、原書房)
- 『米内光政のすべて』編著 (新人物往来社 1994年)
- 『海軍大将米内光政覚書』(実松譲、高木惣吉編、光人社)ISBN 4-7698-0021-5 C0095
- 『米内光政 山本五十六が最も尊敬した一軍人の生涯』(実松譲 著・光人社NF文庫)ISBN 4-7698-2020-8 C0195
- 新版『海軍大将 米内光政正伝 肝脳を国の未来に捧げ尽くした一軍人政治家の生涯』(実松譲 著・光人社、2009年)
- 『激流の小舟 提督・米内光政の生涯』(豊田穣 著、講談社文庫上下のち光人社)
- 『海軍 一軍人の生涯 最後の海軍大臣 米内光政』(松田十刻 著、光人社NF文庫、2006年) ISBN 4-7698-2512-9
- 『米内光政追想録』(米内光政銅像建設会、1961年)
- 『米内光政』(神川武利著 PHP文庫 2001年)
- 『米内光政と山本五十六は愚将だった 「海軍善玉論」の虚妄を糺す』(三村文男 著、テーミス) ISBN 978-4901331067
- 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、213-216頁
関連項目
外部リンク
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
阿部信行
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第37代:1940年
|style="width:30%"|次代:
近衛文麿
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
永野修身
野村直邦
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 海軍大臣
第39・40・41代:1937年 - 1939年
第49 - 52代:1944年 - 1945年
|style="width:30%"|次代:
吉田善吾
第二復員省へ移行
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
高橋三吉
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 連合艦隊司令長官
第23代 : 1936年 - 1937年
|style="width:30%"|次代:
永野修身
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- ↑ 阿川弘之『米内光政』
- ↑ 緒方竹虎『一軍人の生涯』文藝春秋 pp.161-163
- ↑ 『歴代海軍大将全覧』「藤田尚徳」中公新書ラクレ
- ↑ 吉田俊雄著『日本海軍のこころ』文春文庫 pp.310-312
- ↑ 野村實『山本五十六再考』中公文庫pp.194-197「林内閣の海相人事」
- ↑ 南京戦史資料集、偕行社、1989年
- ↑ 福田和也『総理大臣の採点表』文藝春秋
- ↑ 新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録 太平洋戦争開戦の経緯』(毎日新聞社、1976年)pp.64-65
- ↑ 福田和也『総理大臣の採点表』文藝春秋
- ↑ 『山本五十六再考』pp.197-203
- ↑ 倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。6月7日に立憲政友会正統派総裁久原房之助が同様の要求を行って拒絶されると、内閣参議を辞職して松野鶴平鉄道大臣ら閣僚・政務官の引揚を通告した。だが、政党派内部では久原のように新体制運動を支持する意見と鳩山一郎のように立憲民政党と合同してでも政党政治を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかった事と、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任する羽目となった。
- ↑ 畑は当時の参謀総長だった閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断ることができなかった。閑院宮の顔を立てたいと考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、なぜか米内は辞表を受理した。
- ↑ 福地誠夫『回想の海軍ひとすじ物語』(光人社)p.108
- ↑ 『山本五十六再考』pp.203-213
- ↑ 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 阿川弘之『米内光政』 引用エラー: 無効な
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タグ; name "A"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 阿川弘之『山本五十六』
- ↑ 朝日新聞昭和18年5月22日号
- ↑ 井上は後に「貫禄負けでした」と述べている。東條内閣末期から米内邸に日参していた中山定義によると、大臣就任前から「井上は今どこにいる」「井上はいいな」とつぶやいたことがあり、米内が大臣に復帰したら次官は必ず井上だという感触をつかみ嬉しくなったと著書で述べている。
- ↑ 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』「井上達三」
- ↑ 『山本五十六再考』p21
- ↑ 『一軍人の生涯』p.37
- ↑ 戦友会『海軍神雷部隊』12頁
- ↑ この経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している(井上成美『思い出の記』)。海軍省が作成した大臣候補は井上であり、人事局が作成した案に「大臣 井上」と書かれた書類を見た井上は「自分が大臣に不適格であることは自分がいちばんよくわかっている。何としてでも米内さんにやっていただく」とハンコを押さず却下した。
- ↑ のちに米内と共に内閣で終戦を主張する外務大臣・東郷茂徳は当初どっちつかずの態度で、日記に「外務省は今の状況をわかっているのか」と苛立ちを書き記しているが、米内の地道な説得で和平へと傾いたといわれている。東郷が和平を主張し出した後は「東郷君がすべて(私が言いたいことを)主張してくれているから私からは何も言うことはない」と言って表だって発言することはなくなった。ただし、東郷の方もメモの中で5月11日の戦争最高指導会議構成員会合においで米内がソ連を仲介として軍事物資を獲得できないかとする提案を行ったことに「そのような余地は無い」と主張して米内の現状のソ連に対する認識の甘さを批判した上で和平の仲介以外望むべきではないと説いたことが記されており、米内・東郷ともに相手の和平に対する考えを探っていた段階にあったとも捉えられる。
- ↑ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 471-473頁
- ↑ 『昭和天皇独白録』
- ↑ 元々、米内と阿南は気質的な部分でなかなか反りが合わず、竹下正彦陸軍中佐は戦後「率直に言って、阿南は米内が嫌いだった。阿南は鈴木貫太郎首相に対しては、愛敬の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐しており、米内も小島秀雄海軍少将に対して「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と語っている(阿川弘之『米内光政』)。また、終戦の玉音放送の原稿についても、「戦勢日ニ非ニシテ」を「これでは戦争に負けているように聞こえる」という阿南に対して、「現に負けているではないか」と言い返す米内で言い争いになったこともあるという。しかしこれは鈴木の仲介で阿南の主張が通り、「戦局必スシモ好転セス」と改められた。迫水久常は会議中に米内が中座する際、「ここは絶対に妥協しちゃ駄目だよ」と耳打ちされ、意を汲んで阿南に抵抗していたが、帰ってきたらあっさり訂正を認めたので拍子抜けした、と述べている。
- ↑ ある知人が米内宅を訪ねた時、寝具などの荷物をすべてまとめており「(収監される)準備は完了だよ」と笑顔で答えたという。
- ↑ 血圧は最高260、収縮時でも230ほどで心臓が肥大し背骨に接触していた程で、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた。
- ↑ 読売新聞、2006年(平成18年)8月15日、第46850号 12版。
- ↑ 昭和16年(1941年)10月に近衛文麿が内閣を投げ出すと、後継首班を決める重臣会議では及川古志郎海相も総理候補として名も上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と岡田啓介で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。
- ↑ 山田風太郎は、米内はこのような腹芸をするタイプではなく、通訳がいい加減だった為に頓珍漢なやり取りになったのではないかと記している(『人間臨終図巻II』徳間文庫 ISBN 4-19-891491-5)。また、そもそも米内内閣倒閣を推進した一派が参謀総長の閑院宮載仁親王を御輿に担いでいたため、米内は皇室に累を及ぼす事を恐れて実状を口にする事を避けたともいわれている。しかし他の検事団も概ね米内を評価しており、ある若い検事が米内の後姿を見て「ナイス・アドミラル」と言っていたのを、『一軍人の生涯 提督・米内光政』を書いた緒方竹虎は聞いている。畑はその米内の態度について、「米内内閣は陸相たる私の辞職により総辞職の止む無きに至った。(中略)誠に申し訳ないことだったと自責の念に駆られている。(中略)その後大将はこんなことを根にも持たれないで私に対する友情も少しも変わらなかったことは、私が常々敬服するところである。(中略)(東京裁判にて)毅然として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及批判も物ともせず、徹頭徹尾私が米内内閣倒閣の張本人ではなかったことを弁護されたことは、私の感銘するところである。(中略)この一事は故大将の高潔なる人格を象徴して余りあるものと信ずる」と米内の銅像が盛岡に建てられた際に編纂された『米内光政追想録』に手記として残している。
- ↑ 『資料日本現代史2』栗屋健太郎
- ↑ 背広姿の米内の銅像
- ↑ かわぐちかいじ『ジパング 徹底基礎知識』(講談社、2003年)
- ↑ 阿川弘之『米内光政』
- ↑ タイム 1937年8月30日号
- ↑ タイム 1940年3月4日号
- ↑ 『米内光政のすべて』より。
- ↑ 『官報』第3946号、昭和15年3月4日
- ↑ 佐々木は米内と同じ岩手県出身でアニメでも東北訛りで演じている。