御前会議
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御前会議(ごぜんかいぎ、英語:Imperial Conference)とは、大日本帝国憲法下の日本において、天皇臨席の下で重要な国策を決めた会議である。
↑ 第12回より、「御前に於ける最高戦争指導会議」の名称で開かれている
↑ 56平方メートルという資料がある。
↑ 1942(昭和17)年12月31日竣工。建坪1320㎡。当初1t爆弾に耐えられるようコンクリートと砂の3重構造で作られたが、後に6t爆弾に耐えられるよう補強された。『天皇裕仁と東京大空襲』松浦総三
↑ 枢密院は皇居内に現存する。長く宮内庁音楽隊の練習場所であり補修もされていなかったが、2010年頃から復旧工事計画が進んでいる。
今日においては会社、団体など組織の幹部の会議の比喩として使われることも多い。
概要
広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、また王政復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし、狭義には、戦争の開始と終了に関して開かれた、天皇・元老・閣僚・軍部首脳の合同会議を指す。
1894年に対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初。以後、三国干渉や日露戦争などに際して開催され、1938年以後には支那事変の処理方針、日独伊三国同盟、対米英蘭開戦(真珠湾攻撃)などを決定した。
大日本帝国憲法第13条には、天皇が開戦と終戦を決定する事が明記されていたが、例えば「御前会議法」というような法制上の開催根拠がないなど、御前会議の開催は困難であった。また天皇による意思の表明・発動は(天皇自らにその責任が及ぶため)好ましくないとされ、たとえ出席しても一言も発しないことが多かった。
御前会議での決定は、即時でそのまま国家意思の決定となるのでなく、改めてその内容について正式の手続(例えば閣議)の諮問を経てから正式に決定された。
構成員
支那事変以後の御前会議
1938年に復活して以降について記す。
回 | 開催年月日 | 議題 | 内閣 | 昭和天皇の発言等 |
---|---|---|---|---|
1 | 1938年1月11日 | 支那事変処理根本方針 | 第1次近衛内閣 | |
2 | 1938年11月30日 | 日支新関係調整方針 | 第1次近衛内閣 | |
3 | 1940年9月19日 | 日独伊三国同盟条約 | 第2次近衛内閣 | |
4 | 1940年11月13日 | 支那事変処理要綱に関する件ほか | 第2次近衛内閣 | |
5 | 1941年7月2日 | 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱 | 第2次近衛内閣 | |
6 | 1941年9月6日 | 帝国国策遂行要領 | 第3次近衛内閣 | 明治天皇の御製を詠む形で、対米開戦回避を示唆。 |
7 | 1941年11月5日 | 帝国国策遂行要領 | 東條内閣 | |
8 | 1941年12月1日 | 対米英蘭開戦の件 | 東條内閣 | |
9 | 1942年12月21日 | 大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針 | 東條内閣 | |
10 | 1943年5月31日 | 大東亜政略指導大綱 | 東條内閣 | |
11 | 1943年9月30日 | 今後採るべき戦争指導の大綱ほか | 東條内閣 | |
12[1] | 1944年8月19日 | 今後採るべき戦争指導の大綱ほか | 小磯内閣 | |
13 | 1945年6月8日 | 今後採るべき戦争指導の基本大綱 | 鈴木内閣 | |
14 | 1945年8月9日 | ポツダム宣言受諾の可否について | 鈴木内閣 | 鈴木貫太郎から乞われる形で宣言受諾の意思表明(いわゆる聖断)。 |
15 | 1945年8月14日 | ポツダム宣言受諾の最終決定 | 鈴木内閣 | 再度、宣言受諾の意思表明(再度の聖断)。 |
場所
- 終戦直前の2回の御前会議は「望岳台」近くの地下壕「吹上御文庫付属室」で行われた。地下10m、部屋の広さは15坪ほど[2]であり、天皇皇后両陛下のの寝室・居間のある吹上御文庫地下壕[3]からは90m離れており、地下道でつながっていた。1944-45年に50t爆弾に耐えられるよう陸軍工兵隊により作られ、附属室での初めて枢密院本会議が、1945(昭和20)年6月2日に開催された[4]。