嶋田繁太郎

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テンプレート:基礎情報 軍人 嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年9月24日 - 1976年6月7日)は、日本海軍軍人政治家。海兵32期。最終階級は海軍大将正三位勲一等功二級。第47代海軍大臣。第17代軍令部総長。A級戦犯として終身刑。

経歴

1883年9月24日東京府に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とする、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。東京中学を経て、1904年海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業、海軍少尉候補生。同期に山本五十六吉田善吾塩沢幸一堀悌吉らがいる。1905年5月末、巡洋艦「和泉」において日本海海戦の偵察活動に従事する。1905年8月31日海軍少尉任官。1907年9月28日海軍中尉進級。1909年10月11日海軍大尉に進級。

1910年5月23日 - 海大乙種学生。1913年12月1日海大甲種13期学生、1915年卒業。1915年12月13日海軍少佐に昇任。1916年2月10日イタリア大使館付武官着任、1919年帰国。1920年12月1日海軍中佐に進級。1923年12月1日海軍大学校教官。1924年12月1日海軍大佐に進級。1926年12月1日第七潜水隊司令。1927年美保関事件の軍法会議で、被告となった同期生水城圭次の特別弁護人となり、井上継松とともに責任は耳に障害のある水城を艦長に補職した海軍当局にあると論陣をはった[1]1928年8月20日軽巡洋艦多摩艦長。12月10日戦艦比叡艦長。1929年11月30日海軍少将に進級。第二艦隊参謀長。1930年12月1日連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長。1931年12月1日海軍潜水学校校長。

1932年1月上海事変勃発。1932年2月2日第三艦隊参謀長着任、上海に出動。6月28日海軍軍令部第三班長。11月15日海軍軍令部第一班長、軍令部令改正に伴い1933年10月1日軍令部第一部長。1934年11月15日海軍中将に進級。1935年12月2日軍令部次長。1937年12月1日第二艦隊司令長官。1938年11月15日呉鎮守府司令長官。1939年4月13日勲一等瑞宝章受勲。1940年4月29日功二級金鵄勲章勲一等旭日大綬章受勲。1940年5月1日支那方面艦隊司令長官。11月15日海軍大将に進級、軍事参議官1941年9月1日横須賀鎮守府司令長官。

太平洋戦争

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左から宮相・松平恒雄、海相・嶋田、連合艦隊司令長官・古賀峯一、侍従長・百武三郎(戦艦武蔵艦上にて)

1941年10月18日東條内閣において海軍大臣を拝命(在任:1941年10月18日 - 1944年7月17日)。打診された際は辞退したが、伏見宮博恭王の勧めで受諾した。就任時は不戦派だったが、伏見宮から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と言葉があり、対米不信、物資への関心からも開戦回避は不可能と判断し、10月30日に海軍省の幹部たちを呼んで「この際戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対した為戦機を失しては申し訳ない」と述べ、鉄30万トンで対米開戦に同意した。また、海相に就任した嶋田がこれまでの不戦論を撤回し、陸軍に対して協調的態度を取った事により、遂に日米開戦は不可避となった。対米開戦直前、海兵同期の山本五十六は「嶋ハンはおめでたいんだから」と慨嘆したという。

1941年11月30日、軍令部員の高松宮宣仁親王が戦争慎重論を上奏した。この時、召喚された際には昭和天皇の問いに「物も人もともに十分の準備を整えて、大命降下をお待ちしております」と述べた。これに対し昭和天皇が「ドイツが欧州で戦争をやめたときはどうするかね」と訊ねると「ドイツは真から頼りになる国とは思っておりませぬ。たとえドイツが手を引きましても、さしつかえないつもりです」と述べたとされる。

真珠湾攻撃について議会で報告をした際の政治家をはじめとする国民の熱狂ぶりを見て「これからが大変なんだ」と周囲に漏らしたという。

1942年1月第三次ソロモン沖海戦において戦艦比叡と運命を共にしなかった西田正雄艦長を罷免し、査問会も開催せず、即日召集して懲罰人事を行った。山本五十六はこの措置に「艦長はそこで死ねというような作戦指揮は士気を喪失させる」と抗議したが、山本と不仲でもあった嶋田はそれを無視した[2]1942年12月15日正三位[3]

嶋田は建造中の第二号艦(戦艦武蔵)を中止すべきと毎々意見していたが、待たれたしという意見によって抑えられていた[4]

海軍内で嶋田は、陸軍に追従する東條英機首相の腰ぎんちゃくの如き振る舞いを揶揄され、「(東條首相の)嶋田副官」のあだ名が付いた。「東條の男メカケ」とまで酷評する声もあった。 南方方面及び中部太平洋方面の米反攻に伴い海軍部内では海軍のみが戦闘をしているという考えが強くなり、連合艦隊長官古賀峯一大将は、嶋田海相と永野修身軍令部総長に対し陸兵力の同方面進出をたびたび要求するが、困難であり、二人への不満は高まっていった。海軍省でも軍務局2課を中心に嶋田は東條に従属しすぎるという声があった。1944年2月昭和19年度航空機生産に対するアルミニウムの配分で海軍の要求が通らず、大型機の多い海軍は陸軍より航空機を生産できなかったため、嶋田、永野に対する不満はさらに高まった[5]

1944年2月19日嶋田は責任上辞任を考慮し、海相後任を豊田副武大将、軍令部総長後任を加藤隆義大将にする意向を東條英機首相兼陸相に伝えるが、東條の参謀総長兼任の決意を知り、嶋田も決意と趣旨に賛同して自らは永野修身軍令部総長を更迭し、自分が軍令部総長も兼任する決心をした[6]

1944年2月21日軍令部総長兼任。嶋田の兼任は戦局が不利なこともあり、部内の風当たりは強く、東條に従属しすぎるという批判を著しく刺激する結果になった。岡田啓介大将は東條内閣の倒閣のため嶋田の更迭を考慮するようになる[7]。嶋田は着任すると陸海の統帥部一体化、航空兵力統合などのXYZ問題の研究を即時打ち切って、研究も禁止した[8]。情報部の実松譲が『アメリカは戦時生産から平時生産にシフトしはじめている』という情報を配布したところ、嶋田軍令部総長に『敵のことをよく書いている。まるで役に立たん』と配布禁止を食った。

1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北で、サイパン放棄を決定し、6月25日その後の方針を決めるための元帥会議に出席。会議後、嶋田は、手筈を定め今後の対策を迅速に行うこと、陸軍航空機を海上へ迅速に引き出すこと、(特攻兵器を含む)奇襲兵器促進掛を設けて実行委員長を定めることを省部に指示した。これによって7月1日大森仙太郎が海軍特攻部長に発令された[9]

嶋田をはじめとする海軍首脳は、陸軍の主張する本土決戦で優秀な若者たちを失うのを恐れ、戦後の日本復興のことを見据え、海軍兵学校の生徒をはじめとする優秀な日本の若者を温存するための処置をとっていた[10]

サイパン陥落で反東條に併せて反嶋田の動きが起こり、7月17日海相辞任。8月に軍令部総長を辞任。8月2日軍事参議官1945年1月20日予備役編入。

東京裁判

終戦後、A級戦犯に指名され、憲兵が身柄拘束の為に高輪の自宅に訪れた際には、英語で「騒ぐな、自分は自殺しない」と言って連行されていった。新聞記者から感想を求められると「腹を切ってお詫び申し上げようと思ったが、ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為、この日が来るのを心静かに待っていた」と語った。

極東国際軍事裁判では太平洋戦争の対米開戦通告問題につき、「海軍は無通告を主張したことはない」と、元外務大臣東郷茂徳と対立。「われわれは東郷が、われわれの注意によって、まさかああいうばかばかしいことを言おうとは思っておりません。まことに言いにくいのでありますが、彼は外交的手段を使った、すなわち、イカの墨を出して逃げる方法を使った、すなわち、言葉を換えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すために、とんでもない、普通使えないような脅迫という言葉を使って逃げた」と批判した[11]

海軍における戦争遂行の最高責任者として死刑は免れない、という予想が大多数を占め、実際に判事の投票では11人中5人が死刑賛成だったが、自己弁護により死刑は免れ、1948年11月12日終身禁固刑判決を受けた。東京裁判での自己弁護はウェブ裁判長が褒めるほど見事なものであった。そのことを憲兵から聞いた嶋田は日記に嬉しかったと記している。終身刑の判決を受けた後、「生きていられる」と言って笑っていたと武藤章が日記に書いている。

1955年仮釈放後赦免される。海上自衛隊練習艦隊壮行会に出席して挨拶したことがあり、それを聞いた井上成美は「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」と激怒したという。『昭和天皇独白録』では「嶋田の功績は私も認める」という天皇の発言があり、嶋田について、「知恵があり、見透しがいい」人物としつつ、「部下に対して強硬であったこと」がその不評判の原因だったとしている。

1976年死去。

妻は筑紫熊七陸軍中将の娘嶋田ヨシ、義弟に光延東洋海軍少将がいる。

年譜

栄典

脚注

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関連項目

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外部リンク

先代:
及川古志郎
海軍大臣
1941年 - 1944年
次代:
野村直邦
先代:
永野修身
軍令部総長
第17代:1944
次代:
及川古志郎

テンプレート:海軍大臣

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  1. 『美保関のかなたへ』p.187 ISBN 978-4-04-405801-2
  2. 相良俊輔 『怒りの海 戦艦比叡・西田艦長の悲劇』 光人社、1985年5月。ISBN 4-7698-0039-8
  3. 『官報』1942年12月29日 敍任及辭令
  4. 戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後 15頁
  5. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期92-93頁
  6. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期93頁
  7. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期93頁
  8. 戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期298頁
  9. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期37-39頁
  10. 彼ら(優秀な若者)を今のうちから海軍にとっておき戦争中は彼らを海軍で温存しておこうではないか。彼らこそ戦後の日本国再建のための大切な宝ではないか(追想海軍中将中沢佑刊行会編.1978「追想海軍中将中沢佑」p96)
  11. 日本ニュース戦後編第106号|NHK戦争証言アーカイブス
  12. 『官報』1942年12月29日 敍任及辭令
  13. 『官報』1941年9月16日 敍任及辭令
  14. 『官報』』第4917号、昭和18年6月5日
  15. 『官報』1942年2月12日 敍任及辭令