逓信省
テンプレート:行政官庁 逓信省(ていしんしょう)は、かつて日本に存在した郵便や通信を管轄する中央官庁である。
内閣創設時から第二次世界大戦中の行政機構改革で統合されるまで、交通・通信・電気を幅広く管轄していた。第二次世界大戦後にも復活して1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)まで存在したが、この時期には通信事務のみを管轄した。現在の総務省、日本郵政(JP)、及び日本電信電話(NTT)は、1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)までの逓信省の後身に相当する。
沿革
- 1885年(明治18年)12月22日、内閣創設に際して逓信省が発足。農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継。
- 逓信省の名の由来は駅逓の逓と電信の信をあわせたものである。
- 1891年(明治24年)8月16日、電気事業の監督行政を所管。
- 1892年(明治25年)7月21日、内務省から鉄道行政を移管。
- 1893年(明治26年)11月10日、水運事業・陸運事業の監督行政を所管。
- 1908年(明治41年)12月5日、鉄道行政を内閣所属部局の鉄道院に移管。
- 1923年(大正12年)4月1日、陸軍省から航空行政を移管。
- 1928年(昭和3年)11月5日、陸運事業の監督行政を鉄道省に移管。
- 1938年(昭和13年)1月11日、厚生省設置。簡易保険に関する経営管理業務は逓信省から厚生省の外局たる保険院に移管。
- 逓信省には、簡易保険の契約募集、周知宣伝、資金運用などの第一線業務のみが残留。
- 1941年(昭和16年)12月19日、逓信省の外局として海務院を設置。逓信省内部部局の管船局と外局の燈台局は海務院に統合。
- 地方部局においても、逓信局の海事部門を分離して、海務院の地方部局たる海務局を設置。
- 1942年(昭和17年)11月1日、簡易保険に関する経営管理業務を厚生省から逓信省に復帰させ一元化。
- 1943年(昭和18年)11月1日、逓信省と鉄道省を統合し、運輸通信省を設置。
- 戦争中の海陸輸送体制強化を図るためである。
- 逓信省の所管事務のうち、郵便・貯金・保険・電信・電話の事業は運輸通信省の外局たる通信院が所管。海務院の海事行政は運輸通信省海運総局が所管。航空行政は運輸通信省航空局が所管(ただし航空機製造業に関する行政は軍需省に移管)。電気行政は軍需省に移管。
- 1945年(昭和20年)5月19日、運輸通信省から通信院を分離し、内閣所属部局として逓信院を設置。これにより、運輸通信省は運輸省に改称。
- 1946年(昭和21年)7月1日、逓信院を廃止して逓信省を再設置。
- 戦前の逓信省とは異なり海運・航空・電気は所管せず、通信事業のみの官庁となる。
- 1949年(昭和24年)6月1日、逓信省廃止。二省分離(郵電分離)により、郵政省と電気通信省を新設。
本省所在地の変遷
- 第一期: 京橋区木挽町(中央区銀座)
- 工部省電信局として使用すべく現在の銀座郵便局敷地に建設され落成したばかりの洋風2階建て煉瓦造の庁舎を、逓信省発足直後から本省として使用した。1907年(明治40年)1月22日の火災で焼失[1]したあと、同地に煉瓦造3階建ての新庁舎が1909年(明治42年)6月完成し引き続き本省として使用した。郵便博物館(のちの逓信総合博物館の前身)が同居。
- 第二期: 麹町区大手町(千代田区大手町)
- 木挽町の庁舎が1923年(大正12年)の関東大震災によって焼失したあと、逓信省は大手町の印刷局跡地(現在の逓信ビル敷地)に建てられた木造平屋の仮庁舎を本省として使用した。帝国議会の新議事堂が完成したあとに、仮議院が使用していた場所(現在、経済産業省旧館敷地)に逓信省の新庁舎を建設する計画だったが、新議事堂建設が長引いているうちに昭和恐慌や日中戦争が始まり新庁舎建設の機会を逸してしまった。郵便博物館は庁舎焼失直前の1922年に麹町区富士見町に移転拡張し、「逓信博物館」と改称している。
- 第三期: 麻布区飯倉町(港区麻布台)
- 大手町の木造仮庁舎が余りにも長く続いたあと、1943年(昭和18年)秋に、当時貯金局が使用中の飯倉庁舎(現・日本郵政グループ飯倉ビル)を通信院の本庁舎として移転使用することとなった。この庁舎は、紀州徳川侯爵家の邸宅跡地に建設され、1931年(昭和6年)から貯金局が使用していたものである。なお、この飯倉庁舎の所在地を俗に"狸穴"と呼ぶことが多く、そのためこの場所の旧町名も狸穴町であったものと混同されがちだが、狸穴町を旧町名としていた区域は飯倉庁舎とは道路を挟んで反対側のロシア大使館周辺である。
- 飯倉町の庁舎は通信院から逓信院を経て逓信省復活後も引き続き使用され、二省分離後も郵政省と電気通信省とが共用していた。電気通信省は日本電信電話公社への移行後しばらくして赤坂葵町(現虎ノ門)に仮移転したが、郵政省は1969年(昭和44年)7月の霞が関移転まで長らく飯倉に本省を置いた。
郵便
1871年(明治4年)4月20日の郵便創業時、郵便事業は宿駅制度をつかさどる駅逓司の所管であり、初代駅逓頭は浜口梧陵(7代目浜口儀兵衛 ヤマサ醤油創業家当主 「稲むらの火」のモデル)であるが、近代郵便事業の展開は第2代駅逓頭前島密(制度開始当時は駅逓権頭として英国視察中)の指導の下進められた。この駅逓司は民部省・大蔵省・内務省・農商務省と所属が変わる間に駅逓寮・駅逓局と昇格。1885年(明治18年)に逓信省が設立されるとその所属となった。
1887年(明治20年)には「〒」マークが制定された。これは逓信省の頭文字「テ」をデザイン化したものであるとされる(詳細は同項目参照)。1900年(明治33年)にはそれまでの郵便規則・郵便条例・小包郵便法などが統合され(旧)郵便法が制定された。1920年(大正9年)には貯金局と簡易保険局が設けられた。その後郵便事業は通信院・逓信院・復活した逓信省を経て、郵政省に受け継がれることになる。
電信・電話
工部省の所管であった電信事業は逓信省に受け継がれ、1890年(明治23年)には電話事業も管轄するようになった。以降電信と電話の所管は一貫して逓信省(および通信院・逓信院)のものであったが、1949年(昭和24年)に省が解体(郵電分離)されると電気通信省へと移った。なお電気通信省は1952年(昭和27年)に日本電信電話公社に改組され、その監督は郵政省が行うこととなった。
海事
民間船舶に関する事務は農商務省商務局管船課が行っていたが、1882年(明治15年)に管船局へと昇格した。1885年(明治18年)に内閣制度が創設されると逓信省の管轄とされた。1896年(明治29年)には海難審判制度を定めた「海員懲戒法」が公布され、翌年には海員審判所が設立された。太平洋戦争開戦直後の1941年(昭和16年)12月19日、海運の国家統制を目的に、海事に関する業務は海務院へと移された。
鉄道
1872年(明治5年)の新橋-横浜間鉄道開業の前年、工部省に鉄道寮が設けられた。その後鉄道局へと昇格したが、1885年(明治18年)に工部省が廃止されると内閣の直属となった。1890年(明治23年)には鉄道庁となり内務省の外局になったが、1892年(明治25年)には逓信省の外局とされ、その翌年には内局化され逓信省鉄道局となった。1897年(明治30年)に現業部門を外局として独立させ、鉄道作業局(1907年(明治40年)に帝国鉄道庁へと改組)としたため、鉄道局は監督行政のみを受け持つことになった。1908年(明治41年)に鉄道局と帝国鉄道庁を統合して内閣鉄道院が設立され、鉄道事業は逓信省の手を離れることとなった。
電気
かつて、電気用品取締法が存在したとき、対象製品に付けるマークに「〒」が使われた。これもかつて逓信省が所管していたときの名残であった。現在製造される製品にはこのマークは付いていない。
航空
1923年(大正12年)陸軍省から航空局が移管され、逓信省の外局となった。1927年の航空法の施行と共に定期航空輸送の構想を打出し、東京(羽田)・大阪(船町)・福岡(名島水上飛行場)に飛行場の新設・整備を始めて、国際航空郵便も東京~大連(周水子飛行場と大連関東州逓信局)、大阪~上海を開設した。 [2] 1938年(昭和13年)航空機乗員養成所を設置する。
歴代の逓信大臣等
- 明治憲法のもとでは、内閣総理大臣が交代しても各大臣の地位に影響はなく、何らの任免発令もないまま引き続き大臣の職にとどまることも可能だった。
- 兼任の場合の表記は次のとおり区別した。
- 「何々大臣による兼任」としたのは、他大臣が本官であり、逓信大臣が兼官の場合。
- 「何々大臣を兼任」としたのは、他大臣が兼官であり、逓信大臣が本官の場合。
逓信大臣(第1期) | |||
1 | 榎本武揚 | 第1次伊藤内閣 黒田内閣 | 1885年12月22日-1889年3月22日 (1888年4月30日-1888年7月25日、農商務大臣を臨時兼任) |
2 | 後藤象二郎 | 黒田内閣 第1次山縣内閣 第1次松方内閣 | 1889年3月22日-1892年8月8日 |
3 | 黒田清隆 | 第2次伊藤内閣 | 1892年8月8日-1895年3月17日 |
4 | 渡辺国武 | 第2次伊藤内閣 | 1895年3月17日-1895年10月9日 (1895年8月27日-1895年10月9日、大蔵大臣を兼任) |
5 | 白根專一 | 第2次伊藤内閣 第2次松方内閣 | 1895年10月9日-1896年9月26日 |
6 | 野村靖 | 第2次松方内閣 | 1896年9月26日-1898年1月12日 |
7 | 末松謙澄 | 第3次伊藤内閣 | 1898年1月12日-1898年6月30日 |
8 | 林有造 | 第1次大隈内閣 | 1898年6月30日-1898年11月8日 |
9 | 芳川顕正 | 第2次山縣内閣 | 1898年11月8日-1900年10月19日 |
10 | 星亨 | 第4次伊藤内閣 | 1900年10月19日-1900年12月21日 |
11 | 原敬 | 第4次伊藤内閣 | 1900年12月22日-1901年6月2日 |
12 | 芳川顕正 | 第1次桂内閣 | 1901年6月2日-1903年7月17日 |
13 | 曾禰荒助 | 第1次桂内閣 | 1903年7月17日-1903年9月22日 大蔵大臣による兼任 |
14 | 大浦兼武 | 第1次桂内閣 | 1903年9月22日-1906年1月7日 |
15 | 山縣伊三郎 | 第1次西園寺内閣 | 1906年1月7日-1908年1月14日 |
16 | 原 敬 | 第1次西園寺内閣 | 1908年1月14日-1908年3月25日 内務大臣による兼任 |
17 | 堀田正養 | 第1次西園寺内閣 | 1908年3月25日-1908年7月14日 |
18 | 後藤新平 | 第2次桂内閣 | 1908年7月14日-1911年8月30日 |
19 | 林董 | 第2次西園寺内閣 | 1911年8月30日-1912年12月21日 (1911年8月30日-1911年10月16日、外務大臣を臨時兼任) |
20 | 後藤新平 | 第3次桂内閣 | 1912年12月21日-1913年2月20日 |
21 | 元田肇 | 第1次山本内閣 | 1913年2月20日-1914年4月16日 |
22 | 武富時敏 | 第2次大隈内閣 | 1914年4月16日-1915年8月10日 |
23 | 箕浦勝人 | 第2次大隈内閣 | 1915年8月10日-1916年10月9日 |
24 | 田健治郎 | 寺内内閣 | 1916年10月9日-1918年9月29日 |
25 | 野田卯太郎 | 原内閣 高橋内閣 | 1918年9月29日-1922年6月12日 |
26 | 前田利定 | 加藤(友)内閣 | 1922年6月12日-1923年9月2日 |
27 | 犬養毅 | 第2次山本内閣 | 1923年9月2日-1924年1月7日 (1923年9月2日-1923年9月6日、文部大臣を兼任) |
28 | 藤村義朗 | 清浦内閣 | 1924年1月7日-1924年6月11日 |
29 | 犬養毅 | 加藤(高)内閣 | 1924年6月11日-1925年5月30日 |
30 | 安達謙蔵 | 加藤(高)内閣 第1次若槻内閣 | 1925年5月30日-1927年4月20日 |
31 | 望月圭介 | 田中(義)内閣 | 1927年4月20日-1928年5月23日 |
32 | 久原房之助 | 田中(義)内閣 | 1928年5月23日-1929年7月2日 |
33 | 小泉又次郎 | 濱口内閣 第2次若槻内閣 | 1929年7月2日-1931年12月13日 |
34 | 三土忠造 | 犬養内閣 | 1931年12月13日-1932年5月26日 |
35 | 南弘 | 齋藤内閣 | 1932年5月26日-1934年7月8日 |
36 | 床次竹二郎 | 岡田内閣 | 1934年7月8日-1935年9月8日 |
37 | 岡田啓介 | 岡田内閣 | 1935年9月9日-1935年9月12日 内閣総理大臣による兼任 |
38 | 望月圭介 | 岡田内閣 | 1935年9月12日-1936年3月9日 |
39 | 頼母木桂吉 | 廣田内閣 | 1936年3月9日-1937年2月2日 |
40 | 山崎達之輔 | 林内閣 | 1937年2月2日-1937年2月10日 農林大臣による兼任 |
41 | 児玉秀雄 | 林内閣 | 1937年2月10日-1937年6月4日 |
42 | 永井柳太郎 | 第1次近衛内閣 | 1937年6月4日-1939年1月5日 |
43 | 塩野季彦 | 平沼内閣 | 1939年1月5日-1939年4月7日 司法大臣による兼任 |
44 | 田辺治通 | 平沼内閣 | 1939年4月7日-1939年8月30日 |
45 | 永井柳太郎 | 阿部内閣 | 1939年8月30日-1940年1月16日 (1939年8月30日-1939年11月29日、鉄道大臣を兼任) |
46 | 勝正憲 | 米内内閣 | 1940年1月16日-1940年7月22日 |
47 | 村田省蔵 | 第2次近衛内閣 第3次近衛内閣 | 1940年7月22日-1941年10月18日 (1940年7月22日-1940年9月28日、鉄道大臣を兼任) (1941年7月18日-1941年10月18日、鉄道大臣を兼任) |
48 | 寺島健 | 東條内閣 | 1941年10月18日-1943年10月8日 (1941年10月18日-1941年12月2日、鉄道大臣を兼任) |
49 | 八田嘉明 | 東條内閣 | 1943年10月8日-1943年11月1日 鉄道大臣による兼任 |
通信院総裁(運輸通信省) | |||
小松茂 | 東條内閣 | 1943年11月1日-1944年4月11日 | |
塩原時三郎 | 東條内閣 小磯内閣 鈴木(貫)内閣 | 1944年4月11日-1945年5月19日 | |
逓信院総裁(内閣) | |||
塩原時三郎 | 鈴木(貫)内閣 東久邇宮内閣 | 1945年5月19日-1945年8月30日 | |
松前重義 | 東久邇宮内閣 幣原内閣 | 1945年8月30日-1946年4月8日 | |
(欠) | 幣原内閣 第1次吉田内閣 | 1946年4月8日-1946年6月30日 新谷寅三郎逓信院次長が総裁心得を務める | |
逓信大臣(第2期) | |||
50 | 一松定吉 | 第1次吉田内閣 | 1946年7月1日-1947年5月24日 |
51 | 片山哲 | 片山内閣 | 1947年5月24日-1947年6月1日 内閣総理大臣による臨時代理 |
52 | 三木武夫 | 片山内閣 | 1947年6月1日-1948年3月10日 |
53 | 冨吉榮二 | 芦田内閣 | 1948年3月10日-1948年10月15日 |
54 | 吉田茂 | 第2次吉田内閣 | 1948年10月15日-1948年10月19日 内閣総理大臣による臨時代理 |
55 | 降旗徳弥 | 第2次吉田内閣 | 1948年10月19日-1949年2月16日 |
56 | 小沢佐重喜 | 第3次吉田内閣 | 1949年2月16日-1949年6月1日 |
逓信次官
逓信局
郵便、小包郵便、郵便為替、郵便貯金、簡易生命保険、郵便年金、電信および電話の管理に属する事務、発電水力調査に関する事務ならびに電気事業および船舶海員の監督に関する事務を掌る。
職員は、局長(7人。勅任)、書記官(専任12人。奏任)、事務官(専任37人。奏任)、技師(専任132人。奏任)、書記(専任2049人。判任)、技手(専任1657人。判任)、書記補(専任1203人。判任)。
各局所の定員の配当は逓信大臣が定める。
各逓信局の名称、位置および管轄区域は下のとおりである。
- 東京逓信局、東京市、東京府・神奈川県・埼玉県・群馬県・千葉県・茨城県・栃木県・静岡県・山梨県
- 名古屋逓信局、名古屋市、愛知県・三重県・岐阜県・長野県・福井県・石川県・富山県
- 大阪逓信局、大阪市、大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・滋賀県・和歌山県・徳島県・高知県
- 広島逓信局、広島市、広島県・鳥取県・島根県・岡山県・山口県・香川県・愛媛県
- 熊本逓信局、熊本市、熊本県・長崎県・福岡県・大分県・佐賀県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県
- 仙台逓信局、仙台市、宮城県・新潟県・福島県・岩手県・青森県・山形県・秋田県
- 札幌逓信局、札幌市、北海道
参考:大正十三年十一月二十五日勅令第二七二号逓信局官制、十四年勅令第一八五号、勅令第二八〇号、十五年勅令第一九一号、勅令第二七八号、昭和二年勅令第二五三号、三年勅令第二〇六号、四年勅令第二二九号。
脚注
- ↑ 『官報』第7071号、明治40年1月26日。
- ↑ 日本の空港整備はどのように始まったのか?