末松謙澄
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末松 謙澄(すえまつ けんちょう、1855年9月30日(安政2年8月20日) - 1920年(大正9年)10月5日)は明治・大正時代のジャーナリスト・政治家・歴史家。子爵。幼名は千松。帝国学士院会員。
経歴
豊前国前田村(のち福岡県行橋市)に大庄屋 末松七右衛門 伸子の四男として生まれる。東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中退。東京日日新聞社の記者となり社説を執筆。岳父である伊藤博文の知遇を得て、外交官としてロンドンに赴任、ケンブリッジ大学で学ぶ。
1920年(大正9年)10月5日、スペイン風邪に罹患したことが原因で死去。
栄典・授爵
- 1895年(明治28年)10月 - 男爵
- 1907年(明治40年)9月 - 子爵
- 1912年(明治45年)3月20日 - 従二位[1]
- 1920年(大正9年)10月6日 - 正二位・勲一等旭日桐花大綬章[2]
人物像
- ロンドン赴任中、最初の「源氏物語」の英訳を書いた。
- 「義経=ジンギスカン説」を唱える論文をイギリスで発表し、日本で大ブームを起こす。
- 鹿鳴館時代の1886年(明治19年)、伊藤の意向を受けて歌舞伎の近代化のため演劇改良運動を興す。
- 日露戦争の間、英国へ渡り、日本の立場をヨーロッパで説明した。
- 毛利家の依頼で長州の歴史を調べ、維新史の一級資料『防長回天史』を編纂した。
- 末松謙一元さくら銀行頭取の大伯父(謙澄の弟の孫が謙一)にあたる。
- 徴兵忌避者である[3]。
家族 親族
出典
参考文献
- 玉江彦太郎『若き日の末松謙澄-在英通信』(海鳥社、1992年(平成4年)1月)ISBN 4874150071
- 松村正義『ポーツマスへの道-黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』(原書房、1987年(昭和62年)1月)ISBN 4562018453
- 鳥谷部春汀『明治人物評論・正』(明治31年、博文館)
- Japanese Students at Cambridge University in the Meiji Era, 1868-1912: Pioneers for the Modernization of Japan, by Noboru Koyama, translated by Ian Ruxton, Lulu Press, September 2004, ISBN 1411612566
- "Suematsu Kencho, 1855-1920: Statesman, Bureaucrat, Diplomat, Journalist, Poet and Scholar," by Ian Ruxton, Chapter 6, Britain & Japan: Biographical Portraits, Volume 5, edited by Hugh Cortazzi, Global Oriental, 2005, ISBN 1901903486
関連項目
外部リンク
- 末松謙澄について
- 末松 謙澄:作家別作品リスト(青空文庫)
- テンプレート:Cite book (源氏物語英訳。17帖のみの抄訳。Hathi Trust リンクは米国内のみ有効?色刷り扉絵の画像は無い)
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
西郷従道
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内務大臣
第19代:1900 - 1901
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第7代:1898
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第4代:1892 - 1896
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神鞭知常
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