西郷従道
テンプレート:政治家 西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち[注釈 1]、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍および海軍軍人、政治家。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である[1][2]。兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ[1]。
文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・2・3・7・8・9・10代)、内務大臣(第4・5・18代)、貴族院議員を歴任した。
目次
経歴
青年期
薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に生まれる(幼名竜助)。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。
文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。
文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起こると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。
維新後
明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆興」をリュウコウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通した[3]。兄の隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの父親である西郷吉兵衛の諱であるが、兄の同志であった吉井友実が勘違いして父の名前を登録してしまったものである。隆盛、従道というのは諱であり、日常使用するのは通称(隆盛は吉之助、従道は信吾)であった。
明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。明治3年(1870年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。明治4年(1871年)7月、陸軍少将となる。
明治6年(1873年)には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する(明治六年政変)。薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。明治7年(1874年)に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮する。隆盛が明治10年(1877年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿代行に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の明治11年(1878年)には参議となり、同年末には陸軍卿になった。明治15年(1882年)1月11日、黒田清隆が開拓使長官を辞すると、参議・農商務卿兼務のまま開拓使長官に任じられる。同年2月8日に開拓使が廃止されるまで、短期間ながら開拓使長官を務めた。明治17年(1884年)の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。甲申政変後の天津条約 (1885年4月)を結ぶ際には、伊藤博文らとともに、清国へ渡った。
海軍大臣時代は山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせ、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。西郷は従兄の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せて殆ど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。
西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては犯人の津田三蔵の死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。これは津田を死刑にしなかった場合必ずロシア帝国による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。
明治25年(1892年)には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。明治27年(1894年)に海軍大将となり、明治28年(1895年)には侯爵に陞爵。明治31年(1898年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた(大山巌も同様)。
栄典・授爵
- 1895年(明治28年)8月5日 - 侯爵[4]
- 40px 功二級金鵄勲章[5]
- 1902年(明治35年)6月3日 - 40px 大勲位菊花大綬章[6]
- 1902年(明治35年)7月18日 - 従一位[6]
- 外国勲章等
受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1887年(明治20年)7月5日 | テンプレート:RUS1883 | 70px | テンプレート:仮リンク[7] | |
1887年(明治20年)7月11日 | テンプレート:DEU1871 | 70px | テンプレート:仮リンク[8] | |
1887年(明治20年)8月30日 | テンプレート:Flagicon イタリア王国 | 70px | テンプレート:仮リンクグラン・クローチェ[9] | |
1887年(明治20年)8月30日 | テンプレート:Flagicon ベルギー | 70px | テンプレート:仮リンクグランドコルドン[10] | |
1887年(明治20年)10月3日 | テンプレート:PRT1830 | 70px | キリスト勲章大十字章[11] |
エピソード
- ある会議で、某閣僚がわかりきったことを延々と述べて議論が行き詰まった際のこと。その閣僚が座ろうとした時に、隣席の西郷が椅子を引いたために尻餅をつき皆が大笑いしてしまい、これ以上議論をする空気ではなくなってしまったので、椅子を引かれた当人も苦笑いの内に引き下がり、会議は無事まとまったという。
- 相手の話をよく聞いて「成程、成程」と相槌を打ったことから「成程大臣」と渾名された。
- 面影が兄・隆盛に似ているとされ、エドアルド・キヨッソーネが隆盛の肖像画を作成する際、彼の顔写真が参考にされた。(首から上は従道を、体の部分は大山巌を参考にしたといわれている)
- 横浜に設けられた日本レース・倶楽部で日本人としてはじめて参加が認められた日本人最初の馬主で、明治8年(1875年)には愛馬ミカンに騎乗して日本人馬主による初勝利をあげた。そのときの風刺漫画が残っている。
家族・子孫
- 両親
- 父:西郷吉兵衛
- 母:政子。
- 兄弟・姉妹:西郷隆盛 / 西郷吉二郎 / 西郷小兵衛 / 琴 / 鷹 / 安
- 従兄弟:大山巌等。
- 妻:清子(得能良介の長女)
- 子女
- 長男:従理(明治7年10月9日 - 明治17年12月10日)
- 駐日ロシア公使シャール・ド・スツルヴェに従って7歳で渡露、皇后マリア・フョードロヴナや、皇弟アレキシス親王(アレクサンドル3世の弟)に可愛がられ、皇弟と皇后を代父母として正教会の洗礼まで受けた(聖名:アレキセイ)[12]。その後、スツルヴェが駐米公使に転任したのに伴い、ワシントンに移ったが、腸チフスに感染し、明治17年12月10日、ワシントンで死去した(10歳2ヶ月)。死去の前日、従叔父の大山巌が欧米視察の途中に見舞いに来ており、従理死去の急報を受けて再度駆けつけた大山は枕頭で号泣したとされる。従理の遺体は、大山の手配によって日本へ送られ、埋葬式は神田駿河台の正教会でニコライ主教によって執り行われた(当時まだ同地にニコライ堂は建設されていない)。植村正久は西郷家が従理を正教会式に葬送したことについて、葬儀における信教自由が認められていない世相の中で、社会に与えた影響が小さく無かったと言及している[12]。視察を終えて帰国した大山は真っ先に西郷家へ駆けつけ、弔辞を述べるとともに、従理の最期の模様を従道と清子へ語った。その際、従道と清子は「あいがと、あいがと」と大山の配慮に感謝しながら泣き続けたという。
- 二男:西郷従徳(陸軍大佐、貴族院議員)
- 四男:上村従義(海軍大佐、上村彦之丞海軍大将養嗣子)
- 長男:従理(明治7年10月9日 - 明治17年12月10日)
系譜
従道━┳従理 ┣政子 ┣従徳━━━┳従吾━━━従節━┳従洋 ┣豊彦 ┣古河従純 ┗従英 ┣上村従義 ┣従竜 ┣従親 ┣従宏 ┣豊二 ┣古河従靖 ┣小松従志 ┗黒木従達 ┣栄子 ┣桜子 ┗不二子
西郷従道が登場する作品
- 映画
- 『天皇・皇后と日清戦争』(1958年 演:江川宇禮雄)
- テレビドラマ
- 『海は甦える』(1977年 TBS3時間ドラマ 演:若山富三郎)
- 『田原坂』(1987年 日本テレビ年末時代劇スペシャル 演:西郷輝彦)
- 『翔ぶが如く』(1990年 NHK大河ドラマ 演:緒形直人)
- 『篤姫』(2008年 NHK大河ドラマ 演:水谷百輔)
脚注
注釈
参照
参考文献
- 『平成新修 旧華族家系大成 上巻』社団法人霞会館、1996年。
- 西郷従宏『元帥・西郷従道伝』芙蓉書房出版、1997年。ISBN 4-8295-0183-9
- 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9
関連項目
外部リンク
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山縣有朋
板垣退助
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内務大臣
第4・5代:1890年 - 1891年
第18代:1898年 - 1900年
|style="width:30%"|次代:
品川弥二郎
末松謙澄
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
仁礼景範
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 海軍大臣
初 - 第3代:1885年 - 1890年
第7 - 10代:1893年 - 1898年
|style="width:30%"|次代:
樺山資紀
山本権兵衛
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
河野敏鎌
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 農商務卿
第2代:1881年 - 1884年
|style="width:30%"|次代:
谷干城(農商務大臣)
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山縣有朋
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 陸軍卿
第3代:1878年 - 1880年
|style="width:30%"|次代:
大山巌
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
木戸孝允
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部卿
第3代:1878年
|style="width:30%"|次代:
寺島宗則
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
黒田清隆
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 開拓長官
第4代:1874年
|style="width:30%"|次代:
廃止
- 転送 Template:End
テンプレート:海軍大臣 テンプレート:内務大臣 テンプレート:農商務大臣 テンプレート:陸軍大臣 テンプレート:北海道知事 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:元老テンプレート:Japanese-history-stub テンプレート:Japan-politician-stub
引用エラー: 「注釈」という名前のグループの
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タグがありますが、対応する <references group="注釈"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません- ↑ 1.0 1.1 佐々木隆(2002)p.96
- ↑ 『平成新修 旧華族家系大成 上巻』(1996)p.624
- ↑ 西郷従宏(1997)。本書は参考文献として他箇所にも随時使用している。
- ↑ 『官報』第3631号、「授爵叙任及辞令」1895年08月06日。
- ↑ 『官報』第5714号、「帝国議会」1902年07月22日。
- ↑ 6.0 6.1 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動
- ↑ 『官報』第1205号、「叙任及辞令」1887年07月06日。
- ↑ 『官報』第1211号、「叙任及辞令」1887年07月13日。
- ↑ 『官報』第1265号、「叙任及辞令」1887年09月14日。
- ↑ 『官報』第1211号、「叙任及辞令」1887年07月13日。
- ↑ 『官報』第1282号、「叙任及辞令」1887年10月05日。
- ↑ 12.0 12.1 ニコライ・カサートキン (著), 中村 健之介 (編集, 翻訳) 『ニコライの日記(上)―ロシア人宣教師が生きた明治日本』444頁・445頁、編訳者中村による注 岩波文庫 ISBN 9784003349311