諱
テンプレート:Redirect テンプレート:参照方法 テンプレート:独自研究 諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)、真名(まな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語ではTrue name(直訳すると「真の名」)がそれに当たる。
目次
概要
諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。
この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。本来は、名前の表記は生前は「名」、死後は「諱」と呼んで区別するが、のちには生前にさかのぼって諱と表現するなど、混同が見られるようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。
諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた(詳細は、実名敬避俗(じつめいけいひぞく)及び避諱を参照)。
また、僧侶が受戒するときに受ける法名のことを、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から諱(厳密には法諱(ほうい、ほうき))といった。
日本では時代が下ると、僧侶の受戒が、俗人の葬式で死者に授戒し戒名として諱を与える儀礼として取り入れられた。このため、現在では諱は諡と混同され、現代日本語ではしばしばほとんど同義に使われることもある。
実名敬避俗
「じつめいけいひぞく」と読む。漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。
日本では、本居宣長が主張した、諱は中国から伝わった「漢意」であって、日本古来の風習ではないという説が主流であった。本居によれば、(日本では)名前は古来美称で、名指しを無礼と認識するのは漢国(中国)の風俗にならったものとされた[1]。しかし穂積陳重は、独自の文献調査やフレイザー『金枝篇』などを参照した結果、このような名前に関するタブーが漢字文化圏のみならず、世界各地に存在することを突き止めた。そして、日本でも中国の諱の礼制が導入される以前から、実名を避ける習慣が存在したと主張し、これを「実名敬避俗」と定義した[2][3]。また穂積は、本居が名前を美称と認識したのは、『古事記』『日本書紀』に記録された神や天皇の名前は、実名の多くが忘れ去られ、副称・尊号のみが伝えられた結果と指摘した[4]。たとえば、伊耶那美命・伊邪那岐命の神名は、賀茂真淵・本居[5]の説に従い「伊耶(イザ)」を「誘語(いざなふことば)」の意味、すなわち国産みのための遘合を互いに誘ったことから呼んだものとすれば、これは明らかに後から奉られた尊号であって、実名ではないことになる[6]。
実名敬避俗の発想から貴人の諱を忌み避けることを「避諱(ひき)」という。特に天子(皇帝)の諱は厳重に避けられ、詔勅以下の公文書にも一切使われず、同じ字を使った臣下や地名・官職名は改名させられたり、漢字の末画を欠かせるなどのあらゆる手段を用いて使われないようにした。例えば、漢の初代皇帝劉邦の諱は「邦」であったため、漢代には「邦」の字は全く使用できなくなり、以後「国」の字を使うことが一般化、戦国時代に「相邦」と呼ばれていた役職は相国となった。避諱の実際は時代によって異なるが、多くは王朝の初代、現皇帝から8代前までさかのぼる歴代の皇帝の諱を避けた。また皇帝のほか、自分の親の名も避諱の対象となった(例えば、杜甫はたくさんの詩を残したが、父の名である「閑」という字はすべての作品で使用しなかった)。(詳しくは避諱の項を参照。)
日本には親の実名を避ける例はほとんど見られないが、中国の影響が大きかった桓武天皇の時代に編纂された正史『続日本紀』において、天皇の父である光仁天皇の即位前の記事に関しては、諱である「白壁王」という表記を避けて(大納言)「諱」と記載されている。
江戸時代中頃以降は、将軍家の当主と家族の諱と名のりは実名に使うのを避ける傾向があり、諸藩においては将軍家に加えて藩主とその家族の実名および名のりを避けた。この場合は、将軍家や藩主家の娘の名も使用を避ける対象であった。
具体例として、徳川綱吉の時代に綱吉の娘、鶴姫と同じ「つる」という名を変えた例や、長州藩の毛利重就が当初「しげなり」という名のりだったのを、徳川家斉が将軍になってからは「しげたか」と改めた例がある。また薩摩藩では、将軍家の当主と正室や子女の諱、及び藩主とその正室や子女の実名および名のりを避けるように藩法で規定していたことが、「薩藩政要録」や「三州御治世要覧」から分かる。その他、「仙台市史 通史4 近世2」によれば、伊達宗村に徳川吉宗の養女利根姫(雲松院)が嫁ぐと、領内での「とね」という女性名が禁止され、武家・庶民の別なく「とね」の名を持つ女性の改名が令達されている。
薩摩藩ではまた、将軍家及び藩主家の実名や名のりの禁止は、将軍家や藩主家の一族が死去もしくは結婚などで家を出た場合には解除されたことが「鹿児島県史料」で散見される。
漢字圏での呼び名
中国を始めとする東アジアの漢字圏では、諱を避けて様々な呼称が用いられた。以下に列挙する。
字
成人した人間の呼び名として諱の代わりに字が用いられた。
朝鮮半島でも用いられた。
- 趙光祖(諱)-趙孝直(字)
ベトナムでも用いられた。 日本の知識人が字を用いる場合、しばしば姓を一文字の漢姓に変えて中国風の姓名にした。
号
朝鮮半島でも用いられた。
ベトナムでも用いられた。
日本でも、江戸時代を中心に盛んに用いられた。
諡
死後に功績を讃えて爵位を賜った場合、諱の代わりに諡が用いられた。
朝鮮半島でも用いられた。
- 李舜臣(諱)-李忠武公(諡)
日本でも、江戸時代に用いられた。
官名
官職についている(いた)人物の呼び名として諱の代わりに官名が用いられた。
刺史などの地方長官である場合には、統治した地方名が呼び名となる場合もあった。
日本でも、官名をそのまま呼び名とすることがあったが
- 伴善男(諱)-伴大納言(官名)
唐名により中国風の官名を呼び名とすることが多かった。
また受領名がある場合は、中国と同じく統治する国名を呼び名とする場合もあった。
- 勝義邦(諱)-勝安房(官名)
しかし中世以降の日本の場合、武士階級の人間は任官されてもいない百官名や受領名を好き勝手に自称しているため、これらの呼び名は実際の官職であるか単なる自称であるかは極めてわかりにくい。例えば織田信長は朝廷から右大臣に任ぜられている為、織田「右府」(右大臣の唐名)という呼び名は実際の官名に沿ったものである。しかし一般に知られる織田「上総介」は、いわゆる百官名であり全くの自称である。左衛門、右衛門、兵衛といった官名は頻繁に使われたため、元は官名であった事すら忘れ去られ、平民の名前にすら使われるほどであった。
輩行名
輩行名を諱の代わりに用いる場合があった。
朝鮮半島でも用いられた。
- 金昌洙(諱)-金九(輩行)
日本でも用いられた。
ただし、日本では輩行は仮名 (通称)の命名法の一つとして用いられた。
本籍
本籍の郡名を諱の代わりに用いる場合があった。
この呼び名は日本では用いられなかった。
系字(通字)
中国や朝鮮半島では、祖先の諱を避ける代わりに同一血統で同世代の者が諱の中で特定の字を共有する習慣があり、系字もしくは通字という。同世代の間で共通の字を用いることから、特に列系字と呼ばれることもある。
中国では南北朝時代以降、諱は漢字二文字を用いることが広まるが、この二字のうちの一字について、兄弟、従兄弟など、同族で同世代の男子が世代間の序列を表すために名に同じ文字を共有する。これにより一族の中での世代間の長幼の序を確認し合うことができる。一字名の場合は、同部首の漢字を用いることで系字とする(蘇軾・蘇轍など)。また、世代間で規則に従った系字を順に配することもあり、この場合は行列字とも言われる(ある世代が「水」系字の場合、五行説によって次の世代に「木」系字を用いるなど)。
日本でも平安時代初期にこの習慣が一時行われたが、のちには一族の中で、多世代にわたって同じ字を諱のうちの一字として用いる通字がむしろ広く行われ、列系字に対して行系字と呼ばれる(後述)。
日本
日本における諱の歴史
日本では個人の名前は「石川麻呂(いしかわまろ)」や「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」といったふうに長い訓に漢字を当ててきたが、嵯峨天皇のころ遣唐使であった菅原清公の進言によって、男子の名前は漢字で二文字か一字、女子の名前は「○子」とするといった、漢風の名前の使用が進められ、定着した。
このように、中国の伝統を取り入れた名前の習慣が定着すると、実名のことを漢文表記するときは中国と同様、諱と呼んだ。
これは中国と同様に実名と霊的人格が結びついているという宗教的思想に基く。そのため、平安時代には武士などが主従関係や師弟関係を取り結ぶときに、主君・師匠に自分の名を書いた名簿(みょうぶ)を提出するしきたりがあった。また、親子関係、夫婦関係以外の社会的主従関係に乏しかった女性では名の秘匿がより進み、公的に活躍した人物ですら、後世実名が不明となる場合が多かった。清少納言や紫式部、菅原孝標女の実名が不明なのはこのためである(少納言や式部は、父親等の官職名から付けられた女房としての職務上の呼称である。また、孝標女は父・菅原孝標の名がそのままつけられている)。
また、平安時代以降には貴人は、その貴人が居住する邸宅の所在地名や官職名などに基づいてつけられた通称を使って呼ばれ、武士などより身分の低い者も太郎、次郎などの兄弟の出生順序などからつけられた、仮名(けみょう)と呼ばれる通称が用いられた。仮名については、室町時代以降、官職風の人名として百官名、さらには東百官のようなものも派生するようになり、諱と別につけられた通称をもって人名とすることが明治時代まで行われていた。
時代劇で例を挙げると、江戸時代の旗本で、時代劇『遠山の金さん』の主人公の遠山景元の場合、諱は「景元」であるが、劇中においてこの名で呼ばれる事はなく、百官名である「左衛門尉」、あるいは仮名である「金四郎」(さらにこれから派生した金さん)の名で呼ばれる訳である。一方で『水戸黄門』において「こちらにおわすは水戸光圀公なるぞ」と、自らの主君を主君より目下の者に対して諱で紹介するのは、考証として間違っている事になる。
明治に至り、1870年(明治3年)12月22日の太政官布告「在官之輩名称之儀是迄苗字官相署シ来候処自今官苗字実名相署シ可申事」と、1871年(明治4年)10月12日の太政官布告「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」、及び1872年(明治5年)5月7日の太政官布告「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルヘキ事」により、諱と通称を併称することが公式に廃止されている。すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなり、それまで複数の名(諱および通称ならびに号等)を持っていた者は、それぞれ自身が選択したものを「名」として戸籍登録することとし、登録時に婚姻・養子縁組を伴わない者の改名は禁止された。当時の明治政府高官の例では、伊藤博文は諱を、板垣退助は通称(板垣の諱は正形(まさかた)であった)を登録している。
通字
日本では、「ある人物の諱に用いられているものと同一の漢字を用いることそのものがその人物の霊的人格に対する侵害だ」とする観念が、中国や朝鮮ほど激しくはなかった。
そのため、平安時代中期、漢字二字からなる名が一般的になってから後の日本では、「通字(とおりじ)」、あるいは「系字(けいじ)」といい家に代々継承され、先祖代々、特定の文字を諱に入れる習慣があった。平安後期以降の皇室において、歴代天皇の大半が諱に「仁」の文字を入れたのはその典型である。
その他代表的な例(※特に武家)として、
- 伊勢平氏-「盛」
- 房総平氏(上総氏・千葉氏・相馬氏)-「常」、「胤」
- 秩父平氏(畠山氏・河越氏・江戸氏)-「重」
- 三浦氏・和田氏-「義」
- 鎌倉氏(大庭氏・梶原氏・長尾氏)-「景」
- 鎌倉北条氏-「時」
- 伊勢氏- [貞」
- 河内源氏-「義」、「頼」
- 足利氏(吉良氏・斯波氏)-「義」、「氏」
- 畠山氏 (源姓)-「政」、「国」
- 庶流の能登畠山氏は「義」を使用した。
- 細川氏-「元」、「之」、「護」
- 宗家である京兆家が「元」、「之」を使用した。「護」は幕末期以降の肥後細川家が使用している。
- 一色氏-「範」、「義」
- 今川氏-「範」、「氏」
- 山名氏-「豊」
- 新田氏-「義」、「氏」
- 佐竹氏-「義」
- 武田氏-「信」
- 小笠原氏・三好氏-「長」
- 小笠原氏でも小倉藩主家は「忠」を使用した。
- 摂津源氏(多田氏・土岐氏・明智氏)-「頼」、「光」、「綱」
- 浅野氏-「長」
- 佐々木氏(六角氏・京極氏・尼子氏・朽木氏)-「綱」、「高」、「頼」、「久」
- 黒田氏-「長」
- 榊原氏-「政」
- 大江氏(越後北条氏・毛利氏)-「広」、「元」
- 小田原北条氏-「氏」
- 安東氏(秋田氏・下国氏)-「季」
- 藤姓足利氏・佐野氏-「綱」
- 小山氏-「政」
- 結城氏-「朝」
- 奥州藤原氏-「衡」
- 上杉氏-「憲」
- 織田氏(津田氏)-「広」、「定」、「信」、「長」
- 伊達氏-「宗」、「村」
- 井伊氏-「直」
- 徳川氏(松平氏)-「忠」、「康」、「家」
- 石川氏-「総」
- 酒井氏-「忠」
- 本多氏-「忠」、「正」、「重」、「康」
- 河野氏-「通」
- 大内氏-「弘」
- 少弐氏-「頼」、「資」
- 鍋島氏-「直」、「茂」
- 菊池氏-「武」
- 大友氏-「親」
- 島津氏-「久」、「忠」
- 赤松氏-「則」
- 楠木氏-「正」
- 朝倉氏-「景」
- 豊臣氏-「秀」
- 浅井氏-「政」
など、類例は枚挙にいとまがないほどである。このような「通字」・「系字」の文化は、先祖の名を避ける中国の避諱とは全く対照的な、日本独特の風習である。
ちなみに、日本では活躍した祖先の事績にあやかり、通字を用いるだけではなく祖先とまったく同じ諱を称する場合もあり、これを先祖返りといった。例として、朝倉孝景、伊達政宗、毛利元春などが挙げられる。
なお、現代の北朝鮮の国家指導者の名においては、金日成、金正日、金正恩と、通字の使用が見られる。この朝鮮の伝統に反する命名についての理由は、識者から種々の憶測はなされているが、明らかではない。
偏諱
二字名のうちの主に通字ではない方の字はある程度避ける習慣があり、このような避諱が行われた方の字を「偏諱(へんき・かたいみな)」という。
偏諱授与の風習
偏諱(へんき)は避けるだけではなく、貴人から臣下への恩恵の付与として偏諱を与える例が、鎌倉時代から江戸時代にかけて非常に多く見られる。
鎌倉時代には、4代将軍藤原頼経から5代執権北条時頼、6代将軍宗尊親王から8代執権北条時宗(時頼の嫡男)への偏諱など、下の字につく場合もままあったが、時代が下るにつれて主君へのはばかりから偏諱は受ける側の上の字となる場合がほとんどとなった。
室町時代には重臣の嫡子などの元服に際して烏帽子親となった主君が、特別な恩恵として自身の偏諱を与えることが広く見られるようになった(一字拝領ともいう)。特に足利将軍の一字を拝領することはよく見られ、畠山満家や細川勝元などの守護大名から赤松満政のような近臣にも与えられた。従って、武家において偏諱を授けるということは直接的な主従関係の証となるものであり、主君が自分の家臣に仕えている陪臣に偏諱を授けることが出来なかった。しかしこれも初期の頃のことに過ぎず、特に戦国時代以降では陪臣の立場でも(主君(将軍の臣下)を介する形で)将軍等から間接的にその偏諱を受ける現象が生じている(後述も参照)。実際に、有馬晴純(義純)が少弐氏との被官関係を残したまま、将軍足利義晴から偏諱を授与されたことが後日問題となった例がある(『大舘常興日記』天文8年7月8日・同9年2月8日両条)。一方で公家でも近衛家・九条家・二条家のように将軍から偏諱を受ける家も現れた。
戦国時代から安土時代には外交手段として一字を貰い受けることもあった(織田信長→長宗我部信親など)。桃山時代には、豊臣秀吉が積極的に大名の子息に「秀」の字を与えている。結城秀康、徳川秀忠(家康の次男、三男)、宇喜多秀家、毛利秀元、伊達秀宗などがそうである。
江戸時代になると主君から家臣への偏諱授与の風習は氾濫した。しかし将軍家の偏諱を受けられる家は、徳川御三家以外は福井藩(越前松平家福井藩主家)・加賀藩(前田氏)・米沢藩(上杉氏)・仙台藩(伊達氏)など四品・国持大名などの特定の藩の当主歴代(の世嗣も含む)や二条家などに限られ、特に選ばれた人物のみに与えられる特権、格式の表れと見なされるようになった。このため各藩や一族の支藩・分家などの当主に与えられる例は極めて稀であり、特に選ばれた一代などを除き、代々与えられる例はない。 一部を例示するが、徳川家光の「光」から徳川光圀、徳川光友、徳川家綱の「綱」から徳川綱重、徳川綱吉、徳川綱吉の「吉」から柳沢吉保、徳川吉宗、徳川吉宗の「宗」から徳川宗春、徳川家治の「治」から徳川治済、上杉治憲、徳川家斉の「斉」から徳川斉昭、島津斉彬、徳川家慶の「慶」から徳川慶喜、松平慶永などと、枚挙にいとまがない。
女性でも偏諱の慣習がみられる。それは女性が朝廷官位を得るのに際して与えられる位記に諱を書く必要があることから、父親ないし近親者から偏諱を受けるといったことである。北条時政の娘・北条政子(正しくは平政子)、近衛前久の娘・前子(中和門院)、豊臣秀吉の正室・吉子(高台院)などの多くの例がある。
稀ではあるが、弟が兄に対して偏諱を与える例もあった。これは(長幼の序の考え方でいうなら兄が上で弟が下の立場ではあるが)兄が庶子であるが故に弟が嫡男もしくは上の立場となり、兄弟の扱いが逆に(弟が兄、兄が弟として)扱われていることによるものである。(例①:室町幕府第6代将軍足利義教の庶子で僧となっていた清久(せいきゅう)は、のち還俗する際に、異母弟で第8代将軍となっていた足利義政から「政」の字の授与を受けて足利政知に改名している。) (例②:水戸藩第4代藩主徳川宗堯の庶長子であった松平頼順は初め、弟で同藩の第5代藩主となった徳川宗翰から「翰」の字を与えられて松平翰鄰(もとちか)と名乗っていた。)
また、「賜った1字(偏諱)は授与を受けたその人物しか用いることができない」という規定は全くない。その例として、
- 九州の戦国大名・大友義鎮(宗麟)から「鎮」の字の授与を受けた蒲池鎮漣以降の子孫・支流(蒲池氏)が「鎮」の字を代々用いるようになった例。歌手の松田聖子の家系(鎮漣の弟・統安の系統)もこれに該当する。
- 陶晴賢(戦国武将、室町幕府第12代将軍足利義晴→大内晴英(宗麟の実弟、のちの大内義長)→陶晴賢)
- 足利義晴より1字を受けた武田信玄(晴信)の家臣の一部に「晴」のつく人物がみられる(山本晴幸(勘助)、秋山晴近(虎繁・信友)、甘利晴吉(昌忠・信忠)、春日虎綱(別名に晴昌、晴久)、米倉晴継など)。(但し、実際に名乗っていたかは確実ではない。)
- 長尾輝景(戦国武将、室町幕府第13代将軍足利義輝→上杉輝虎(謙信)→長尾輝景)
- 徳川慶喜家歴代当主(江戸幕府第12代将軍徳川家慶→徳川慶喜(同第15代将軍、初代)→2代徳川慶久→3代徳川慶光→4代徳川慶朝)
- 京極氏の通字
など、数多く見られ、こういった例により、前述の「武家において偏諱を授けるということは直接的な主従関係の証となるものであり、将軍等から偏諱を授かった大名等が自分の家臣(陪臣)にそのままその字を授けることが出来ない」といった原則が戦国時代以降では通用しなくなっていることが証明されている。
天皇・皇室に対する避諱
上述の通り、貴人から臣下へ偏諱授与がされる例は多いが、天皇に関しては行われた例はほとんどない。後醍醐天皇(諱は尊治)から足利尊氏に偏諱授与がされたのは、極めて異例の事とされる。
現代に至るまで、天皇・皇族(特に天皇直系1親等の親王・内親王や宮家当主)に対しては、本人以外が諱で呼称することは控えられる傾向にある。特に天皇に対しては、一般人にとどまることなく、天皇の傍系尊属の皇族といえども一切諱を用いて呼称しないのが暗黙の通例となっており、崩御した天皇については諡号(「明治天皇」・「大正天皇」・「昭和天皇」など)で呼称するのがほとんどであるほか、在位中の天皇については、現在位にある天皇という意味で、一般にはあまり用いられないが「今上天皇」、あるいはあえて名の呼称を避けて職敬名で「(天皇)陛下」と呼称する場合がほとんどである。例外として、天皇・皇后が揃って動く場合は“陛下”が並び立つ事になるため「天皇・皇后両陛下」の表現が用いられる。
また、皇室内部においても本人以外が諱を呼称することが避けられており、親王(内親王)・宮家当主に対しても、皇室最上位にあたる天皇をはじめ直系・傍系尊属にあたる皇族でさえ諱を用いず、宮号や御称号を用いて呼称するのが慣例となっている。一般人が呼称する際には、天皇直系1親等の親王・内親王を「○○宮(親王殿下)」・「○○宮(内親王殿下)」、宮家当主を「○○宮(殿下)」と呼称することがほとんどである。その範疇から親等が進んだ皇族に関しては、天皇から2親等の親王・内親王には「○○(諱)親王・内親王(殿下)」、あるいは「○○(諱)さま」と呼称することが多い。
日本の公文書においては、伝統的な用法として天皇の署名については「御名」、捺印については「御璽」と表記して公刊されるのが通例である。外国語で天皇を指称する場合には諱を用いることが多いが、近代以前の天皇については追号で呼ぶことが多い。
天皇直系1親等の親王・内親王で、「○○宮(殿下)」と呼称されることが通例であっても、特に女性週刊誌の記事などにおいては、読者の皇室への親密感を持たせる目的で、あえて「○○(諱)さま」と表記する例が散見される。例えば、敬宮内親王(殿下)を「愛子(諱)さま」と表記したり、かつて黒田清子が内親王であった際に「紀宮内親王(殿下)」ではなく「清子(諱)さま」・「サーヤ(皇室で用いられていた愛称)」などと表記するケースが見られた。また、天皇制廃止論者は、あえて諱で呼称する傾向があり(「ヒロヒト」など片仮名書きするのが顕著)、天皇・皇室に特別な敬意を示さないことを間接的に表現する手段となっている。ただ、このような用法に対して天皇・皇族や宮内庁当局が公式に不快感を表明することはない。これは日本国憲法第19条(思想・良心の自由)、第21条(言論・表現の自由)に配慮しているためである。
以上のような価値判断を伴わない例として、天皇・親王・内親王・宮家当主の著作が学術論文分野に属するものである場合(たとえば昭和天皇や今上天皇による生物学関連の論文など)が挙げられる。科学的文献については出自・貴賎は不問であるという国際的解釈から、著者署名には諱を記して公刊されるのが通例となっている。
非漢字文化圏の諱
架空の世界における諱
テンプレート:節stub 現実の習慣を踏まえて、フィクションの世界で、登場人物の諱を避ける習慣があったり、諱を呼ぶことによる強制力が実際に存在すると設定されていることがある。また、作中では「諱」ではなく、英語の"true name"、あるいはその翻訳の「真の名」「真名」などがしばしば用いられる。
小説『ゲド戦記』、コンピュータゲーム『サモンナイト』シリーズ、アダルトゲーム『Fate/stay night』など。
脚注
- ↑ 本居宣長『古事記伝』巻35-11
- ↑ 穂積陳重『実名敬避俗研究』 刀江書院、大正15年初版、絶版。口語訳:穂積陳重・著、穂積重行・校訂『忌み名の研究』 講談社、講談社学術文庫 1992年3月10日初版 ISBN4-06-159017-0
- ↑ 近代デジタルライブラリー - 実名敬避俗研究 - 国立国会図書館
- ↑ 前掲、穂積『忌み名の研究』 p.53-60
- ↑ 前掲、本居 巻3
- ↑ 前掲、穂積『忌み名の研究』 p.58-59