足利尊氏
テンプレート:Redirect テンプレート:基礎情報 武士 足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。
目次
概要
足利貞氏の次男として生まれる。足利氏の慣例に従い、初めは得宗・北条高時の偏諱を受け高氏(たかうじ)と名乗っていた。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への叛乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、名を尊氏(たかうじ)に改める。
後醍醐の独裁体制である建武の新政が急速に人心を失っていく中、中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとは、そのまま鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやった。天皇側の反攻によりいったんは九州に没落、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧、光明天皇を擁立して征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐天皇はいったんは捕虜となったものの吉野に逃亡し南朝を創始することになった。
幕府を開いてのち弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に対立し観応の擾乱を引き起こす。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇の崩御後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。新千載和歌集は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の新続古今和歌集まですべて将軍の執奏によることとなった。
天皇に叛旗を翻したことから皇国史観のもとで「逆賊」と位置づけられていた時代(明治時代中期~昭和時代前期)もあった一方、戦後(昭和時代中期~平成時代以降)は一転して肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が、甚だしく変化している。
生涯
誕生から鎌倉幕府滅亡まで
尊氏は嘉元3年(1305年)7月27日に鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の次男として生まれた。母は貞氏側室の上杉氏(兄に貞氏正室の北条顕時の娘が産んだ足利高義がいる)。生誕地は上杉氏の本貫地である綾部説(漢部とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説がある。ただしこの中では、上杉荘説が最も有力である。後世に編纂された『難太平記』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、15歳のとき元服し従五位下に叙し治部大輔に任ずるとともに、得宗・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた[1]。そして北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏の赤橋(北条)守時の妹赤橋登子を正室に迎える。その後、守時は鎌倉幕府の執権となる。『難太平記』は、尊氏と同じく足利頼氏側室の上杉氏が産んだ祖父・家時が、自分の寿命を縮めることと引き替えに、子孫3代のうちに足利家が天下を取ることを祈願して自刃したと伝えている。元弘元年/元徳3年(1331年)、父・貞氏が死去する。足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいたが、父より先(尊氏の元服以前)に亡くなっていたため、高氏が継ぐことになった。
元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退したが許されなかった。『太平記』は、このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとする。また、足利氏は承久の乱で足利義氏が大将の1人として北条泰時を助けて勝利を導いて以来、対外的な戦いでは足利氏が大将を務めるのが嘉例とされ、幕府及び北条氏はその嘉例の再来を尊氏に期待したもので、裏を返せば北条氏が足利氏に圧力を加えても決して滅ぼそうとはしなかった理由でもあった[1]。
元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。後醍醐天皇も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。元弘2年/正慶元年(1332年)3月には後醍醐天皇は隠岐島に配流された。
元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。高氏は再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨国の赤松円心、近江国の佐々木導誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に六波羅探題を滅亡させた。関東では、同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も参加している。一方で、高氏の庶長子・竹若丸は伯父に連れ出され、鎌倉を出たが、脱出に失敗して途中で北条の手の物に捕まり殺害されている。
建武の新政から南北朝動乱へ
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、従四位下に叙し、鎮守府将軍・左兵衛督に任じ、また30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名した。尊氏は建武政権では自らは要職には就かなかった一方、足利家の執事である高師直、その弟・師泰をはじめとする家臣を多数政権に送り込んでいる。これには、天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した。
元弘3年/正慶2年(1333年)、義良親王(のちの後村上天皇)が陸奥太守に、北畠顕家が鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになると、尊氏も、成良親王を上野太守に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、建武元年(1334年)には父の命令で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。
建武2年(1335年)信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行の軍勢は鎌倉を一時占拠する。直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良を殺害している。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。
直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ、京都からの上洛の命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪する[2]が、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。
九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受ける。延元元年/建武3年(1336年)宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。
尊氏は洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている[3]。足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言したがこれには直義の意向が強いとされる。実質的には、このときをもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立した。
観応の擾乱から晩年まで
延元3年/暦応元年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、元へ天龍寺船が派遣されている。南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の遺児正行などが次々に戦死しているほか、正平3年/貞和4年(1348年)には高師直が吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげている。
新政権において、尊氏は政務を直義に任せ自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨した。佐藤進一はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した(「室町幕府論」『岩波講座日本歴史7』岩波書店、1963年)。しかし、二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こし、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当初、中立的立場を取っていた。正平4年/貞和5年(1349年)、直義が師直を襲撃しようとするも師直側の反撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した。直義は出家し政務を退くこととなった。直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説もあるが、後の直義の言動より、直義の師直襲撃にも尊氏は言質を与えていたものと思われ、尊氏は優柔不断に直義にも師直にもいい顔をしていたとの説もある。
師直は直義に代わって政務を担当させるため尊氏の嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、尊氏は代わりに次男・基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平5年/観応元年(1350年)、尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征した。すると直義は京都を脱出して南朝に降伏し、桃井直常、畠山国清ら直義派の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏も光明寺合戦や打出浜の戦いで敗れた。尊氏は高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に直義と和睦し、正平6年/観応2年(1351年)に和議が成立した。この交渉において尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てたが、氏直には直義に「師直の殺害を許可する」旨を伝えるように尊氏は命じたという記録が残っている[4]。果たして師直ら高一族は護送中に彼らを父の敵として恨んでいた上杉能憲により殺害された。
直義は義詮の補佐として政務に復帰した。上記の通りこの一連の戦闘の勝者は直義であり敗者は尊氏であったが、尊氏派の武将の優先を直義に約束させる、上杉能憲の死罪を主張し直義との交渉の末これを流罪にする、謁見に現れた直義派の細川顕氏を降参人扱いし太刀を抜いて縅すなどまるで勝者のように振る舞う。こうした尊氏の態度に細川顕氏などは恐れをなし、また直義の北条泰時を理想とする守旧的な政治は幾度の戦乱を減て現実に即しているとは言い難い状態になっており、尊氏派に宗旨替えする武将が続出し尊氏派が実際に優勢であるという情勢ができてゆく。このような情勢の中で直義派の武将が殺害されたり襲撃されたりするなど事件が洛中で続発し、終には直義は政務から再び引退するに至る。尊氏・義詮は佐々木導誉や赤松則祐の謀反を名目として近江・播磨へ出陣し、実際には直義・直冬追討を企てて南朝方と和睦交渉を行った。この動きに対して直義は北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平の一統という。並行して尊氏は直義を追って東海道を進み、駿河薩捶山(静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)などでの戦闘で撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は、正平7年/観応3年(1352年)2月に急死した。『太平記』は尊氏による毒殺の疑いを記している。尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は義詮を中心に執られることになった。
尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られた。宗良親王・新田義興・義宗・北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を破る。一方その頃南朝勢力が正平一統の和平を破棄して洛中に侵攻し、義詮は破られ北朝の天皇や上皇を拉致し、北朝が消滅、足利政権の正当性も失なわれるという危機が発生する。しかし義詮はすぐに京を奪還し、導誉が後光厳天皇擁立に成功した為北朝が復活、足利政権も正当性を取り戻した。その後導誉と対立して南朝に下った山名時氏と楠木正儀が京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに京を奪還した。
正平9年/文和3年(1354年)には直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受ける。翌年には尊氏は京を放棄するが、結局直冬を撃退した。この一連の合戦では神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで導誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が非常に大きかったが、最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた。尊氏はこの際自ら直冬の首実検をしているが結局討ち漏らしている。
尊氏は島津師久の要請に応じて自ら直冬や畠山直顕、懐良親王の征西府の討伐を行なうために九州下向を企てるが、義詮に制止され果せなかった[5]。正平13年/延文3年(1358年)4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて死去した[5]。享年54[5]。
墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。これを反映して死後の尊氏は、京都では「等持院」、関東では「長寿院」と呼び表されている。
年表
和暦 | 南朝 | 北朝 | 西暦 | 月日 (旧暦) |
内容 | 出典 |
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嘉元3年 | 後二条天皇 | 後二条天皇 | 1305年 | 生誕 | ||
元応元年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1319年 | 10月10日 | 従五位下治部大輔に叙任 | 公卿補任 |
元応2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1320年 | 9月5日 | 治部大輔辞任 | 公卿補任 |
元徳2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1330年 | 6月18日 | 嫡子義詮誕生 | |
元弘2年 正慶元年 |
光厳天皇 | 光厳天皇 | 1332年 | 6月6日 | 従五位上に昇叙。 | 公卿補任 |
元弘3年 正慶2年 |
後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1333年 | 6月5日 | 鎮守府将軍。内昇殿許される。 | |
6月12日 | 従四位下左兵衛督に昇叙転任。 | |||||
8月5日 | 従三位に昇叙し、武蔵守兼任。名を尊氏と改める。 | |||||
元弘の乱 | ||||||
建武元年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1334年 | 1月5日 | 正三位に昇叙。 | |
9月4日 | 参議に補任。左兵衛督如元。 | |||||
建武2年 | 後醍醐天皇 | 後醍醐天皇 | 1335年 | 7-8月 | 中先代の乱 | |
8月9日 | 征東将軍宣下。 | |||||
8月30日 | 従二位に昇叙。 | |||||
11月26日 | 征東将軍を止む。 | |||||
延元元年 建武3年 |
後醍醐天皇 | 光明天皇 | 1336年 | 2月頃 | 北朝方、多々良浜の戦い | 太平記 |
5月25日 | 北朝方、湊川の戦い | 太平記 | ||||
11月7日 | 北朝方、建武式目制定。 | |||||
11月26日 | 北朝方、権大納言に転任。 | |||||
延元3年 暦応元年 |
後醍醐天皇 | 光明天皇 | 1338年 | 8月11日 | 北朝方、正二位に昇叙。征夷大将軍宣下。 | |
興国元年 暦応3年 |
後村上天皇 | 光明天皇 | 1340年 | 3月5日 | 次男基氏誕生、兵庫に福海寺(福海興国禅寺)建立。 | |
正平5年-6年 観応年間 |
後村上天皇 | 崇光天皇 | 1350年 -51年 |
南朝方、観応の擾乱。征夷大将軍解任。 | ||
正平7年 文和元年 |
後村上天皇 | 1352年 | 2月26日 | 弟直義死去 | ||
正平13年 延文3年 |
後村上天皇 | 後光厳天皇 | 1358年 | 4月30日 | 死去。 | |
6月3日 | 贈従一位左大臣。 | |||||
弘和元年 永徳元年 |
長慶天皇 | 後円融天皇 | 1381年 | 4月28日 | 贈太政大臣 |
人物
『梅松論』などによると、尊氏は後醍醐天皇に背いて朝敵となったことを悔やんで一時は出家を宣言したり、合戦で苦戦した際には切腹すると言い出すなどの記述がある[7]。個人的に親交のあった夢窓疎石は、尊氏には「戦場での勇猛さ」「敵方への寛容さ」「部下への気前の良さ」という3つの徳があった、と尊氏を評価した文章を残している。
『源威集』には、文和4年(1355年)の東寺合戦で危機的状況に陥った際、尊氏は「例の笑み」を浮かべ、「合戦で負ければそれでお終いなのだから、敵が近づいてきたら自害する時機だけを教えてくれればよい」と答え全く動揺することがなかった、という逸話を記している。先に見た『梅松論』の疎石の尊氏評の一部にも、「御心が強うして(中略)、微笑みを含んで畏怖の色なし」という記述があリ、尊氏には無意識にか、危機に直面した時に微笑む癖があった事がわかる。こうした尊氏の泰然自若とした態度は、配下の武将たちに安心感と勇気を与えたと考えられる。
尊氏は傘下の武将たちへの恩賞を惜しむことがなく、そのことが苦境に立たされても常に武将たちの支持が得られた理由だとする見解もある。尊氏は、戦場で即座に恩賞を約束する下文を、かな書きで直接相手に与えている。これは、すでに権利者のいる所領を再び別人に与えてしまう事例も発生し、深刻な諍いに発展する場合も少なくなかったが、戦場の下文がもつ即時性の効果は大きく、恩賞を約束された本人の感激はひとしおで、これを見た同陣する他の武将たちも競い合うように軍忠に励むようになった。尊氏が与えたのは下文だけでなく、佩用していた腰刀を直接家臣二人に与えた例や、自身が所用する軍扇[8]を与えたこともある[9]。
武将、政治家としてでなく、芸術家としても足跡を残している人物である。連歌については菟玖波集に68句が入集しており武家では導誉に次ぎ二番目に多く入集している。専ら連歌に専念した導誉と異なり和歌についても足跡が多く、新千載集を企画し勅撰集の武家による執奏という先例を打ち立てたことは特筆に価する。地蔵菩薩を描いた絵画なども伝わっており画才にも優れた人物だった。この他にも扇流しの元祖であるというエピソードもあり、風流や優美さを好む人物だった。
後世の評価
尊氏を逆賊とする評価は、江戸時代に徳川光圀が創始した水戸学に始まる。水戸学は朱子学名分論の影響を強く受けており、皇統の正統性を重視していた。そのため、正統な天皇(後醍醐天皇)を放逐した尊氏は逆賊として否定的に描かれることとなった。水戸学に発する尊氏観はその後も継承され、尊王思想が高まった幕末期には尊皇攘夷論者によって等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生している(足利三代木像梟首事件)。
明治時代になると、天皇を中心とする国民国家を建設するため、国家主義的な歴史観が構築されていったが、それは大政奉還・王政復古を正当化する歴史観であり、そのため大化の改新・建武の新政・明治維新が最も重要な改革に位置づけられた。明治中期までは近代的歴史学による実証的研究から後醍醐天皇・南朝の正統性はそれほど強調されていなかったが、明治40年代に入り、南北朝正閏論争を経て、後醍醐天皇・南朝の正統性が強く主張されていき、それにともなって尊氏に対する否定的な評価が確定することとなった。戦前の国定教科書には「天皇に弓を引いた逆臣」と書かれており、斎藤内閣の中島久万吉商工大臣が尊氏を礼賛した文章を書いたために辞任する事件も起こった。
戦後になると、国家主義的な歴史観(皇国史観)が厳しく批判され、実証主義的な歴史研究が進展したことにともない、尊氏の再評価が進められた。佐藤進一による主従制的支配者としての尊氏の評価はその一例であり、これは武家政権に関する研究が大きく進展する契機となった。現代の歴史研究において、尊氏を逆賊とする見解は存在せず、むしろ明治期に尊氏が逆賊とされるようになるまでの経過が歴史研究の一テーマになることもある。文化面においても、吉川英治が昭和30年代に書いた『私本太平記』は尊氏を主人公としているが読者に広く受け入れられており、尊氏への評価が戦前のものから大きく変化していることがわかる。
歴史小説家の海音寺潮五郎や井沢元彦は、後醍醐天皇にとどめを刺さなかった点や内部抗争の処理に失敗した点を突き、「人柄が良くカリスマは高いが、組織の運営能力の点では源頼朝や徳川家康に劣っている」「戦争には強いが政治的センスはまるでない」と厳しい評価を下している。
また、正室であった赤橋登子所生(義詮・基氏・鶴王)以外の子に対して冷淡であったかのような見方がされているが、谷口研吾によればこれは正室である登子の意向によるものであり、その背景として実家(赤橋流北条氏)という後ろ盾を失った彼女が自身とその子供たちを守るために他の女性の子供を排除せざるを得なかったからとする[10]。
尊氏の肖像
京都国立博物館所蔵の「騎馬武者像[11]」は、京都守屋家の旧蔵品だったことから、現在でも他の尊氏像と区別する必要もあって守屋家本と呼ばれる。松平定信編纂の『集古十種』で尊氏の肖像として紹介されたことから一般に広く知られていたが、2代将軍義詮の花押が像上部に据えられていることや、騎馬武者の馬具に描かれている輪違の紋が足利家ではなく高家の家紋であるなどの理由から、像主を高師直とする説[12][13]、もしくは子師詮[14]、師冬とする説などが出ている。反面、『梅松論』における多々良浜の戦いに臨む尊氏の出で立ちが本像に近く、京都に凱旋した尊氏がこの時の姿を画工に描かせたという記録が残る[15]ことから、やはり尊氏像で正しいとする意見もある[16]。『太平記』によると、尊氏は後醍醐天皇へ叛旗を翻す直前に寺に籠もって元結を切り落としたといい、「騎馬武者像」の「一束切」の姿は、その後翻意して挙兵した際の姿を髣髴とさせるものではあり、その点をもって尊氏像と見なされてきたと考えられている。『太平記』では挙兵の際に味方の武士たちがみな尊氏にならって元結を切り落としたエピソードも伝えている。
鎌倉時代に藤原隆信が描いたとされる神護寺三像のうちの「伝平重盛像」は、平重盛を描いたものと考えられてきたが、1995年に美術史家の米倉迪夫や歴史学者の黒田日出男らによって尊氏像であるとの説が提示された。すぐさま美術史家から、画風や様式が南北朝期に下るものではないとする反論が出て激しい論争になったが、近年は総じて新説が認められる傾向にある。
その他、広島県尾道市の浄土寺に尊氏を描いたと伝える束帯姿の肖像画が所蔵されている。また、守屋家本とは異なる騎馬姿の尊氏像が神奈川県立歴史博物館に現存しているが、これは江戸時代後期に作られた模本であると考えられている。
江戸時代に描かれた錦絵には、歌川国芳の「太平記兵庫合戦」(兵庫福海寺で尊氏を探す白藤彦七郎[17])、歌川芳虎の「太平記合戦図」(尊氏、兵庫福海寺に避難する図)、橋本周延の「足利尊氏兵庫合戦図」(尊氏、兵庫福海寺に避難する図)等がある。
尊氏の木像は、大分県国東市の安国寺(重要文化財)が最も古い。面貌表現が写実的で理想化が少なく、尊氏の死後間もなくか、尊氏の生前に造像されたと見られる。尊氏の木像というと、足利氏の菩提寺である京都市北区の等持院のものがよく知られている。こちらは体部の表現がやや時代が下る造形が見られるものの、頭部は安国寺像や浄土寺の肖像と共通する図様で造られており、中世を下らない時期の作品だと考えられる。他には、静岡県静岡市の清見寺(文明17年(1485年)以前の作)、京都市右京区の天龍寺(16世紀の作)、栃木県さくら市の龍光寺(寛文6年(1666年)の再興像)、神奈川県鎌倉市の長寿寺(元禄2年(1689年)の再興像)、栃木県足利市の鑁阿寺(江戸時代・19世紀の作)、同市の善徳寺、同県真岡市の能仁寺、などに所蔵されている。また、現代になって作られた銅像が足利市鑁阿寺参道と京都府綾部市安国寺町に設置されている。
系譜
- 父:足利貞氏
- 母:上杉清子
- 異母兄:足利高義
- 弟:足利直義
- 正室:赤橋登子
- 側室:加古六郎基氏の女(『尊卑分脈』)
- 男子:竹若丸(長男とされる)
- 側室?(『太平記』では「越前局」とするが未詳)
- 男子:足利直冬
- その他生母不明の子女
尊氏の偏諱を受けた人物
- 粟飯原氏光(粟飯原氏)
- 饗庭氏直(尊宣)(近臣・寵童)
- 伊東氏祐(別名:祐重、日向伊東氏第8代当主で伊東祐安の父)
- 宇都宮氏綱
- 大友氏泰
- 大友氏時
- 小山氏政
- 金山氏実
- 吉良尊義(初め義貴)
- 高坂氏重(高坂氏)
- 斯波氏経
- 斯波氏頼
- 島津氏久
- 武田氏信
- 千葉氏胤
- 富樫氏春(富樫氏、富樫昌家の父)
- 宮氏信
- 吉見氏頼(吉見氏)
- 六角氏頼
- (補足)
- 「尊」の字は前述の通り、元々後醍醐天皇(名は尊治)から1字を与えられたものであり、これを与えられた饗庭尊宣、吉良尊義の両名に関しては、尊氏から破格の待遇を受けていたことがうかがえる。
- 吉見尊頼(吉見義世の子、のち渋川直頼の猶子となり渋川義宗を称す)の「尊」に関しては尊氏から受けたものというよりは、尊氏と同じく後醍醐天皇から1字を受けたものと推測される。
- 曾孫の尊満(足利義満の庶長子)や足利義尊(直冬の孫)をはじめ、子孫にも尊氏に肖って「尊」の字を用いる人物が見られる。
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 瀬野精一郎『足利直冬』(人物叢書)吉川弘文館、2005年 ISBN 464205233X
- 山路愛山 『足利尊氏』岩波書店 (岩波文庫) 1949年
- 桑田忠親 『足利将軍列伝』 秋田書店 1975年
- 高柳光寿 『足利尊氏』(新装版)春秋社 1987年9月 ISBN 4-393-48207-7
- 松崎洋二 『足利尊氏』 新人物往来社 1990年3月 ISBN 9784404017031
- 会田雄次ほか 『足利尊氏』 思索社 1991年1月 ISBN 4-7835-1161-6
- 小松茂美 『足利尊氏文書の研究』(研究篇、図版篇、解説篇、目録・資料篇の全4冊) 旺文社 1997年9月 ISBN 4-01-071143-4
- 上島有 『足利尊氏文書の総合的研究.(本文編・写真編)』 国書刊行会 2001年2月 ISBN 4-336-04284-5
- 佐藤和彦監修 『足利尊氏』 ポプラ社(徹底大研究日本の歴史人物シリーズ4) 2003年4月 ISBN 4-591-07553-2
- 櫻井彦・樋口州男・錦昭江編 『足利尊氏のすべて』 新人物往来社 2008年9月 ISBN 978-4-404-03532-5
- 峰岸純夫 『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー) 2009年 ISBN 978-4-642-05672-4
- 峰岸純夫 江田郁夫編 『足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書』 吉川弘文館、2011年 ISBN 978-4-642-08065-1
- 栃木県立博物館発行・編集 『開館三〇周年特別企画展 足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝』展図録、2012年 ISBN 978-4-88758-069-5
関連項目
- 調神社 足利尊氏の命により再建
- 史料
- 小説
- 吉川英治『私本太平記(全13巻)』毎日新聞社 1959年~1962年。講談社からは、「吉川英治歴史時代文庫」の一環として、全7巻にて1990年2月~同年4月の間に発刊。(1)1990年2月 ISBN 4-06-196563-8 (2)1990年2月 ISBN 4-06-196564-6 (3)1990年3月 ISBN 4061965654 (4)1990年3月 ISBN 4-06-196566-2 (5) 1990年4月 ISBN 4-06-196567-0 (6) 1990年4月 ISBN 4-06-196568-9 (7) 1990年4月 ISBN 4-06-196569-7
- 山岡荘八『新太平記(全5巻)』講談社 1971年~1972年。また、1986年8月~同年11月の間に「山岡荘八歴史文庫」の一環として全5巻で発刊。
- 大森隆司『足利尊氏:室町幕府を開いた男(上)(下)』下野新聞社 (上)1989年6月 ISBN 4-88286-001-5 (下)1989年11月 ISBN 4-88286-003-1
- 村上元三『足利尊氏(上)(下)』(徳間文庫)徳間書店 1991年4月 (上)ISBN 4-19-599179-X (下)ISBN 4-19-599180-3
- 童門冬二『足利尊氏』富士見書房 1994年12月 ISBN 4-8291-1258-1
- 杉本苑子『風の群像(上)(下)』日本経済新聞社 1997年6月 (上)ISBN 4-532-17050-8 (下)ISBN 4-532-17051-6 また、講談社からも講談社文庫として上下二巻で2000年9月発刊。(上)ISBN 4-06-264995-0 (下)ISBN 4-06-264996-9
- 桜田晋也『足利尊氏』祥伝社 1999年9月 ISBN 4-396-32714-5 ※1988年角川書店発刊の「足利高氏」の改訂版として発刊。
- 森村誠一『太平記(1)~(6)』(角川文庫)角川書店 (1)2004年12月 ISBN 978-4-04-175365-1 (2)2004年12月 ISBN 978-4-04-175366-8 (3)2005年1月 ISBN 978-4-04-175367-5 (4)2005年1月 ISBN 978-4-04-175368-2 (5)2005年2月 ISBN 978-4-04-175369-9 (6)2005年2月 ISBN 978-4-04-175370-5
- TVドラマ
- ↑ 1.0 1.1 前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(初出:阿部猛 編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会、2010年)/所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0
- ↑ 尊氏は以後も出家や遁世の願望を口にしたり文章や絵画で表現することが多く、また太平記には劣勢となった尊氏が切腹をしようとしては周囲に止められたといったエピソードが多く収録され、非常に精神的に不安定であったことが伺える。
- ↑ この願文は文法や文字に乱れが大きい。
- ↑ こうしたことから尊氏は直義と師直の争いを利用して巧妙に直義も師直も排除する陰謀を張り巡らしたと見る向きもある。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 瀬野精一郎 著『人物叢書‐足利直冬』吉川弘文館、2005年、p.174
- ↑ 山上八郎『日本甲冑100選』p. 112(秋田書店、1974年)
- ↑ 佐藤進一は尊氏を躁鬱病ではないかと推測しているが、佐藤は歴史学者で、医学の専門家ではない。
- ↑ 「日月図軍扇」 九州国立博物館蔵。尊氏の花押と、「観応2年(1351年)正月七日津の国宿河原」で拝領した旨を記した小片が挟まれている。
- ↑ 江田郁夫 「コラム 戦場の足利尊氏」峰岸純夫 江田郁夫編 『足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書』 吉川弘文館、2011年、pp.135-144。
- ↑ 10.0 10.1 10.2 谷口研語「足利尊氏の正室、赤橋登子」 芥川龍男編『日本中世の史的展開』(文献出版、1997年)所収
- ↑ e国宝に画像と解説有り(外部リンク)
- ↑ 藤本正行 『鎧をまとう人びと』吉川弘文館、2000年、pp.164-189、ISBN 978-4-642-07762-0。
- ↑ 下坂守 「守屋家本騎馬武者像の像主について」『京都国立博物館学叢』第4号所収、1982年。京博公式サイトに掲載(PDF)
- ↑ 黒田日出男 『肖像画を読む』 角川書店、1998年
- ↑ 武田左京亮文秀像に寄せた蘭坡景茝の賛文(『雪樵独唱集』収録)
- ↑ 宮島新一 『肖像画』 吉川弘文館、1994年、pp.235-240、ISBN 4-642-06601-2。同『肖像画の視線』 吉川弘文館、2010年、pp.29-35、ISBN 978-4-642-06360-9。
- ↑ 国立国会図書館デジカル化資料(外部リンク)。