山名時氏

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テンプレート:基礎情報 武士 山名 時氏(やまな ときうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代武将守護大名である。室町幕府侍所頭人、引付頭人伯耆出雲隠岐因幡若狭丹波丹後守護。

生涯

父は山名政氏、母は上杉重房の娘。子に師義義理氏冬氏清時義など。足利尊氏直義兄弟の母上杉清子は母方の従姉妹に当たる。

上野新田氏の一族である御家人の家に生まれた。今川貞世の著した『難太平記』によれば民百姓の暮らしをしていたとされるが、山名氏鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は貞世がライバル関係にある山名氏を貶めたものと考えられる。

足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝との戦いで楠木正行名和氏の掃討などを行い、興国2年/暦応4年(1341年)の塩冶高貞討伐で功績を挙げ、その功で伯耆出雲隠岐守護となり、正平2年/貞和3年(1347年)に楠木正行と戦い敗北したが、翌年に若狭守護となる。

観応元年/正平5年(1350年)、室町幕府初代将軍尊氏の弟の足利直義と、足利家執事の高師直の対立が発展して観応の擾乱が起こると、時氏は初め師直を推して直義排斥のクーデターにも参加するが、12月に京都を脱出して南朝に属し、師直を滅ぼした直義に従う。翌観応2年/正平6年(1351年)に直義が死去すると一時は将軍派に転身するが、出雲守護職を巡る佐々木道誉との対立もあり、文和2年/正平8年(1353年)には室町幕府に対して挙兵して出雲へ進攻、6月には南朝の楠木正儀らと共に足利義詮を追い京都を占領するが、7月には奪還される。

時氏は領国に撤退した後、尊氏の庶子で一時は九州で影響力を持っていた足利直冬を奉じ、翌文和3年/正平9年(1354年)12月には斯波高経桃井直常らと再び京都を占領するが、撤退。その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨赤松則祐とも戦う。

幕府では細川頼之管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、貞治2年/正平18年(1363年)8月には息子の氏冬と時義を上洛させ、大内氏に続いて室町幕府に帰順、時氏は伯耆・丹波守護に、師義は丹後、氏冬は因幡、時義は美作守護に任命され(後に次男の義理に交代)、山名氏は5ヶ国の守護となった。また、引付頭人にも任じられ幕政に参加した。幕府では義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将大内弘世ら共に反頼之派の武将であった。

建徳2年/応安4年(1371年)、69歳で死去。伯耆大雄山の光孝寺(現山名寺倉吉市厳城)に葬られ、嫡男の師義が後を継いだ。

時氏は南北両朝や守護大名同士の抗争に付け込んで自勢力の拡大に注力し、因幡に二上山城、伯耆には田内城打吹城を築き、やがて山名氏は山陰地方随一の勢力となった。5人の息子も時氏の死後に所領を増やしていったが、それが将軍家に危険視され、後の同族争いに繋がっていくのである。

人物・逸話

幕府に敵対しながら5ヶ国の領国を安堵されたため、『太平記』では「多く所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかりけれ」と人々が噂し合ったという。かつて敵であった時氏が大勢力を保持したまま帰順したことが皮肉られたと思われる。

『難太平記』では時氏は自分の体験を子供達に語り、道理を弁えた自分でさえ上意をおろそかにする時があるため、子孫は度を過ぎて上に警戒されるのではないかと心配したという逸話もある。真偽は不明ながら、時氏の死から20年後に山名氏は将軍家から追討されることになり、勢力は削減されてしまった。

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料
  • 『太平記』
  • 『難太平記』

関連項目

外部リンク

先代:
山名政氏
山名氏当主
?- 1371年
次代:
山名師義