後醍醐天皇
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に二度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。
目次
生涯
大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下。嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。
即位
徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、後醍醐天皇が自己の子孫に皇位を継がせることは否定された。後醍醐天皇は不満を募らせた。それが後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の治天の君となったことは大きな謎とされる。
倒幕
正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、退位の圧力はいっそう強まった。元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。
流罪、そして復帰
幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。
建武の新政
帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位及び在位を否定し、光厳朝で行われた人事を全て無効にするとともに幕府・摂関を廃していわゆる建武の新政を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。
建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威を全く失墜した。また、倒幕に功績のあった護良親王が征夷大将軍の地位を望んだために親王との確執が深まり、同じく天皇と対立していた尊氏の言を受けて親王を鎌倉に配流している。
足利尊氏の離反
テンプレート:Main 建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。
南北朝時代
足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳)。
摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。
論評
側近
諡号・追号・異名
後醍醐天皇は、延喜の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇の治世を理想としていた。天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、醍醐天皇にあやかって生前自ら後醍醐の号を定めていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。また、醍醐天皇は宇多天皇の皇子であり、後醍醐天皇は自己を父・後宇多天皇の正統な後継者として位置づける意味で命名したとする説もある。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。
崩御後、北朝では崇徳院・安徳院・顕徳院・順徳院などとのように徳の字を入れて院号を奉る案もあったが、生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。
系譜
大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子。母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。
系図
后妃・皇子女
- 典侍:源氏(大納言典侍) - 北畠師重女
- 典侍:藤原氏(新按察典侍) - 持明院保藤女
- 典侍:某氏(帥典侍讃岐) - 父不詳
- 後宮:藤原氏(権大納言三位局・霊照院、?-1351) - 二条為道女
- 後宮:藤原氏(左衛門督局) - 二条為忠女?
- 皇女 - 今林尼衆
- 後宮:藤原氏 - 吉田定房女
- 後宮:藤原氏?(坊門局) - 坊門清忠女?
- 皇女:(用堂?)
- 後宮:源氏 - 堀川基時女
- 皇女
- 後宮:源康子(飛鳥井局・延政門院播磨) - 源康持女
- 後宮:源氏(若水局) - 源康持女、康子妹
皇子の名の読み
後醍醐天皇の皇子の名には、通字として「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。
江戸時代後期から第二次世界大戦までの時代には「なが」の読みが一般的であった。「なが」説の根拠は、一条兼良が著したと伝える『諱訓抄』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。
明治維新後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社(建武中興十五社)が次々と建立され、明治2年(1869年)には護良親王を祀る鎌倉宮、明治5年(1872年)に宗良親王を祀る井伊谷宮、明治17年(1884年)に懐良親王を祀る八代宮、明治23年(1890年)に尊良親王を祀る(明治25年(1892年)に恒良親王を合祀)金崎宮の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。また、大正4年(1915年)に宮内省書陵部が職員のための内部資料として編纂した『陵墓要覧』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。
一方、大正時代の頃(1920年代)から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。大正9年(1920年)には八代国治、昭和14年(1939年)には、平田俊春が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものを含め、次のようなものがある[1][2]。
- 『諱訓抄』の写本は多く残されているが、「モリナカ」の読みを載せるものは天和元年(1681年)に写されたものが最古であり「モリナカ」の読み仮名が一条兼良の生きた室町時代まで遡れるものかどうか疑問が残る。
- 応安4年(1371年)に書写された「帝系図」(国立歴史民俗博物館所蔵)では「後村上院」の名を「義儀」と記してある。これは本来「儀義」であって「のりよし」と読んだものと推測される。
- 応永15年(1408年)に書写された「人王百代具名記」(茨城県那珂市の常福寺所蔵)では「後村上院」の名を「儀良」と記して「良」の字に「ヨシ」と振り仮名をしている。
- 後醍醐天皇と政権を争った光厳天皇の曾孫後崇光院自筆の『増鏡』の写本(尊経閣文庫所蔵)では「世良」に「ヨヨシ」「尊良」に「タカヨシ」と振り仮名をしている。
- 永正年間(1510年前後)に書写された『増鏡』の写本(学習院大学付属図書館所蔵)では「尊良」の名を平仮名で「たかよし」と書いている。
- 江戸時代初期に書写された『保暦間記』の一写本(内閣文庫所蔵)では「成良」の名を片仮名で「ナリヨシ」と書いている。
- 寛永初年(1625年前後)に書写された『神皇正統記』の写本(青蓮院本。天理図書館所蔵)では「護良」に「モリヨシ」と振り仮名をしている。
以上の論拠から、戦後の歴史学界においては、「よし」と読んでいたとの説が大勢となっている。各種書籍における記載もこれを反映したものが多い。
- 代表的な歴史百科事典である『国史大辞典』(吉川弘文館)において、たとえば護良親王の項目では、「もりよししんのう」で記事を立てて解説を記し、「もりながしんのう」の項には「⇒もりよししんのう」と記載している。
- 平成20年度(2008年度)現在、高等学校の日本史B(高校の日本史の授業には、近現代史のみを扱うAと、古代から現代までの通史を扱うBとがある)の教科書で、文部科学省の検定に合格しているものは11種ある。後醍醐天皇の皇子で、そのすべてに登場しているのは護良親王と懐良親王の2人であるが、11種とも「もりよし」「かねよし」の表記がなされている。そのうち、11種のうち6種は「もりなが」「かねなが」の読みも括弧書きなどにより併記されている。系図などに記されるほかの皇子たちの名の扱いも同様である。
偏諱を与えた人物
※後醍醐の諱(実名)、「尊治」のいずれかの字を与えられた人物。
- 尊良 親王(皇子)
- 尊雲 法親王(皇子、のちの護良親王)
- 尊澄 法親王(皇子、のちの宗良親王)
- 静尊 法親王(皇子)
- 尊真 (皇子)
- 足利尊氏(※足利高氏より改名(読み変更なし))[3]
- 吉見尊頼(のち渋川義宗。中務大輔。南朝に属す。)
- 小田治久[4] (※小田高知[5]より改名)
在位中の元号
- 文保 (1318年2月26日) - 1319年4月28日
- 元応 1319年4月28日 - 1321年2月23日
- 元亨 1321年2月23日 - 1324年12月9日
- 正中 1324年12月9日 - 1326年4月26日
- 嘉暦 1326年4月26日 - 1329年8月29日
- 元徳 1329年8月29日 - 1331年8月9日
- 元弘 1331年8月9日 - 1334年1月29日
- 建武 1334年1月29日 - 1336年2月29日
- 延元 1336年2月29日 - (1339年8月26日)
著作
- 『建武年中行事』
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。
通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また明治22年(1889年)に同町に建てられた吉野神宮に祀られている。
後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺(神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、昭和12年(1937年)に建立された。
足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。また足利義政は小槻雅久や吉田兼倶といった学者の意見に従い、東山山荘(現慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した[6]。
脚注
参考文献
- 建武義会編 『後醍醐天皇奉賛論文集』(至文堂、1939年9月)
- 平泉澄 『建武中興の本義』(至文堂、1934年9月/新版日本学協会、1983年5月)
- 平泉澄 『明治の源流』(時事通信社、1970年6月)
- 村松剛 『帝王後醍醐 「中世」の光と影』(中公文庫、1981年) ISBN 412200828X
- 網野善彦 『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年) ISBN 4582760104
- 森茂暁 『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(中公新書、2000年) ISBN 4121015215
- 佐藤和彦・樋口州男編 『後醍醐天皇のすべて』(新人物往来社、2004年) ISBN 4404032129
- 河内祥輔 『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02863-9
登場作品
- 小説
- TVドラマ
関連項目
外部リンク
テンプレート:歴代天皇一覧- ↑ 森茂暁 『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』〈中公文庫、2007年〉 ISBN 978-4-12-204930-7
- ↑ 永積安明・上横手雅敬・桜井好朗 『太平記の世界 変革の時代を読む』(日本放送出版協会、1987年) ISBN 4-14-008561-4 上横手雅敬執筆部分
- ↑ 安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)p.19 「足利尊氏」の項(執筆:福田豊彦)など。
- ↑ 武家家伝_信太氏より。
- ↑ 安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)p.111 「小田治久」の項(執筆:田代脩)、『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「小田治久」の項(執筆:山田邦明)、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「小田治久」の項、『世界大百科事典 第2版』「小田治久」の項(執筆:網野善彦)など多数。
- ↑ 桜井英治 『室町人の精神 日本の歴史12』(講談社学術文庫)2009年(原著は2001年)ISBN 978-4062689120 、361p