宗良親王

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宗良親王(菊池容斎『前賢故実』)

宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、1311年応長元年) - 1385年9月14日元中2年/至徳2年8月10日)? )は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族後醍醐天皇皇子。母は二条為子一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。信濃の宮大草の宮幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。

生涯

歌道の家であった二条家出身の母から生まれたことにより、幼い頃から和歌に親しんでいた。妙法院に入り1325年正中2年)妙法院門跡を継承。続いて1330年元徳2年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国流罪となる。

父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。1338年暦応元年/延元3年)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府陸奥国霊山(現・福島県伊達市))へ渡ろうとするが、座礁により遠江国静岡県西部)に漂着し、井伊谷豪族井伊道政のもとに身を寄せる。

1340年暦応3年、興国元年)に足利方の高師泰仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、越後国新潟県)の寺泊(現・新潟県長岡市)や、越中国富山県の放生津(現・富山県射水市)などに滞在した後、1344年興国5年/康永3年)に信濃国長野県伊那郡豪族香坂高宗滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現・長野県大鹿村)に入った。宗良はこの地を文中二年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国武蔵国武蔵野合戦)にも出陣し、駿河国静岡県)や甲斐国山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。拠点となった大河原は伊那谷に属し、南に下れば井伊谷(井伊氏)から東海地方へ、北上すると長谷(後述する終焉の地の一つ)を経由して諏訪(諏訪氏)や関東へと通じる位置にあり、別名「南朝の道」とも呼ばれる後の秋葉街道の中心に位置していた。そのため、劣勢が続く南朝方にとっては最重要拠点となり、各地で破れた南朝方の武士達(新田一門など)が逃げ込む事も多かった。

1351年観応2年/正平6年)に足利尊氏が一時的に南朝に降伏した正平一統の際には新田義興とともに鎌倉を占領する。翌1352年(文和元年/正平7年)には征夷大将軍に任じられたが、結局鎌倉を占領し続けることはできず、越後で再起を図るも振るわず、ふたたび大河原の地に戻る。1355年(文和4年/正平10年)諏訪氏諏訪直頼)・仁科氏など信濃の宮方勢力を結集し、北朝方の信濃守護小笠原長基桔梗ヶ原で決戦に及ぶが敗れて、諏訪氏や仁科氏など有力氏族の離反により南朝の勢力は大幅に低下してしまう。

なお、桔梗ヶ原の戦いに関しては矢島文書など極少数の資料にしか記述がなく、確定された事実ではない。ただ、当時の基本資料である園太暦には「信濃での戦乱」に関する記述があり、この時期に「都にまで伝わるぐらいの規模の戦い(または戦乱)」があった事は確実とされる。またその後の南朝方(直義派を含む)の活動が停滞・沈静化するなどの傍証から、その戦いが南朝方の敗北であったこともほぼ確実とされている。

大河原の地でなおも信濃の宮方勢力再建を図ったと思われるが、1369年応安2年/正平24年)には関東管領上杉朝房の攻撃を受け、1374年文中3年/応安7年)、ついに頽勢を挽回できぬまま36年ぶりに吉野に戻った。この頃から南朝側歌人の和歌を集めた和歌集の編集を開始していたが、再び出家している。宗良の編集していた和歌集は当初は私的なものであったが、長慶天皇は勅撰集に准ずるように命じた。1381年弘和元年/永徳元年)に完成した『新葉和歌集』である。

晩年

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静岡県浜松市北区引佐町井伊谷の宗良親王墓

晩年については、新葉和歌集の選集がほぼ終わったと思われる1378年天授4年)に大河原に一度戻った事が判明しているが、1381年弘和元年/永徳元年)に吉野に戻って新葉和歌集を長慶天皇に奉覧して以後は、確たる記録が残されていない。

終焉場所については、1550年天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされている(東京大学史料編纂所醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年元中2年/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。

また1940年昭和15年)に長野県常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷長谷説がある。長谷村では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。

その他に浪合説(子の尹良親王終焉の地)、河内山田説、美濃国坂下(現・岐阜県中津川市)説、さらには越後や越中で薨去したとの諸説がある。

柳原紀光の「続史愚抄」には、南朝紹運録や入野谷長谷説と同じ1385年元中2年)8月に没したと記されており、花山院長親の「耕雲百首」にある「故信州大王」との記述から、1389年(元中6年/康応元年)以前に没したことがわかる。

長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良の墓と伝えられており、静岡県井伊谷宮も宗良親王を祀っており、墳墓が残されている。また美濃国恵那郡高山(現・岐阜県中津川市)にも墓がある。

後胤

宗良親王の皇子としては興良親王尹良親王がいたとされ、興良親王は『新葉和歌集』でその夭折が詠まれているが、興良親王は護良親王の子で後醍醐天皇皇孫ともされており矛盾がある。尹良親王についても歴史学の立場からは実在を疑問視する意見が多いが、南朝方として父の後を継いで各地を転戦、源氏姓を賜る(後醍醐源氏の祖)と共に征夷大将軍に任じられたと伝えられる。その末裔を称する大橋氏が、北畠顕家を奉る霊山神社(社格:明治天皇選定による別格官幣社:建武中興十五社の1つ)の氏子総代となっている。

系図

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関連項目

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