大和国
テンプレート:基礎情報 令制国 大和国(やまとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。
目次
国名について
当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる[1][2]。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。
その後、奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)[3]に表記は「大養徳」に改められた[1]。天平19年3月16日(747年4月29日)[4]には元の「大倭」に改称[1]。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる[5]。平安時代以降は「大和」で一般化した[1]。
国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)[6]。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された[7][8](「大和」の項も参照)。
沿革
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。下記のほか葛上郡・忍海郡・宇智郡を除く各郡に寺社領が所在。
- 添上郡 - 幕府領(奈良奉行)、郡山藩、柳生藩、小泉藩、伊勢津藩、伊勢久居藩、公家領、能楽師領
- 添下郡 - 旗本領、郡山藩、小泉藩
- 山辺郡 - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、芝村藩、柳生藩、柳本藩、伊勢津藩、伊勢久居藩
- 宇陀郡 - 幕府領(奈良奉行・五條代官所)、柳本藩
- 式上郡 - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、柳本藩、芝村藩、伊勢津藩、伊勢久居藩
- 式下郡 - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、郡山藩
- 十市郡 - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、田原本藩、郡山藩、高取藩、伊勢津藩、伊勢久居藩、上総大多喜藩[9]
- 広瀬郡 - 郡山藩、伊勢久居藩
- 平群郡 - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、郡山藩、奈良楽人領
- 葛下郡 - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、郡山藩、櫛羅藩、高取藩、下野壬生藩
- 葛上郡 - 幕府領(奈良奉行・五條代官所)、櫛羅藩、高取藩
- 忍海郡 - 幕府領(奈良奉行)、櫛羅藩
- 高市郡 - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、高取藩
- 宇智郡 - 幕府領(五條代官所)、旗本領
- 吉野郡 - 幕府領(五條代官所)、旗本領、高取藩
- 慶応4年
- 明治2年
- 明治3年
- 明治4年
- 明治9年(1876年)4月18日 - 第2次府県統合により堺県の管轄となる。
- 明治14年(1881年)2月7日 - 大阪府の管轄となる。
- 明治20年(1887年)11月4日 - 奈良県(第2次)の管轄となる。
国内の施設
宮
大和国内には、これまでに度々天皇の住居(宮)が構えられている(詳細は皇居#歴代の皇宮を参照)。
国府
国府所在地を記した文献は次の通り。
国府は、葛上郡掖上(現在の御所市東北部と同市名柄の二説あり)の地にあったが、平城京遷都に伴って8世紀に高市郡(『和名類聚抄』)の軽の地[14]に移ったとされる。その後13世紀には平群郡(現在の大和郡山市今国府)に移った。このように国府は数か所に推定されているが、詳細は明らかでない。
国分寺・国分尼寺
- 大和国分寺
- 東大寺 (奈良県奈良市、[[[:テンプレート:座標URL]]34_41_20.38_N_135_50_23.78_E_region:JP-29_type:landmark&title=%E7%B7%8F%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%EF%BC%9A%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA 位置]) - 総国分寺。
- 国分寺 (奈良県橿原市、[[[:テンプレート:座標URL]]34_30_37.1_N_135_47_41.1_E_region:JP-29_type:landmark&title=%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E3%81%8B%EF%BC%9A%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA 位置]) - 勝満山満法院。
- 東大寺とするのが一般的だが、後者とする説もある。
- 大和国分尼寺
- 法華寺 (奈良県奈良市、[[[:テンプレート:座標URL]]34_41_32.65_N_135_48_14.85_E_region:JP-29_type:landmark&title=%E7%B7%8F%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%B0%BC%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%B0%BC%E5%AF%BA%EF%BC%9A%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA 位置]) - 総国分尼寺。
神社
- 総社:国府神社 (奈良県高市郡高取町下土佐、[[[:テンプレート:座標URL]]34_26_41.86_N_135_47_52.19_E_region:JP-29_type:landmark&title=%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD%E7%B7%8F%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E5%9B%BD%E5%BA%9C%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 一宮:大神神社 (奈良県桜井市三輪、[[[:テンプレート:座標URL]]34_31_45.11_N_135_51_8.74_E_region:JP-29_type:landmark&title=%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%AE%AE%EF%BC%9A%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])[15] - ただし、神社側で自ら一宮を称した文書は見つかっていない[16]。
二宮以下はない。
地域
郡
古代 | 中世 | 1896年4月1日 | 現在 | |
---|---|---|---|---|
曾布 | 添上郡※ | 添上郡 | 添上郡 | 奈良市・天理市 |
添下郡 | 添下郡 | 生駒郡 | 大和郡山市・生駒市・生駒郡 | |
平群郡 | 平群郡 | |||
広瀬郡 | 広瀬郡 | 北葛城郡 | 大和高田市・香芝市・葛城市・北葛城郡 | |
葛城 | 葛下郡※ | 葛下郡 | ||
葛上郡 | 葛上郡 | 南葛城郡 | 御所市・葛城市の一部 | |
忍海郡 | 忍海郡 | |||
宇智郡 | 宇智郡 | 宇智郡 | 五條市 | |
吉野郡 | 吉野郡 | 吉野郡 | 五條市・吉野郡 | |
宇陀郡 | 宇陀郡 | 宇陀郡 | 宇陀市・宇陀郡 | |
磯城 | 城上郡※ | 式上郡 | 磯城郡 | 天理市・橿原市・桜井市・磯城郡 |
城下郡 | 式下郡 | |||
十市郡※ | 十市郡 | |||
高市郡※ | 高市郡 | 高市郡 | 橿原市・高市郡 | |
山辺郡※ | 山辺郡 | 山辺郡 | 天理市・奈良市・山辺郡 |
江戸時代の藩
- 郡山藩(郡山城):水野家〔宗家〕(6万石、1615年~1619年)→松平(奥平)家(12万石、1619年~1639年)→本多家(15万石→9万石と6万石、1639年~1679年)→松平(藤井)家(12万石、1679年~1685年)→本多家(12万石→5万石、1685年~1723年)→柳沢家(15万1千石、1724年~1871年)
- 高取藩(高取城):本多家(3万石、1600年~1637年)→天領→植村家(2万5000石→2万500石→2万5000石、1640年~1871年)
- 柳生藩(柳生陣屋):柳生家(1万2500石→8300石→1万石、1636年~1871年)
- 小泉藩(小泉陣屋):片桐家(1万石→1万6千石→1万3千石→1万1千石、1600年~1871年)
- 柳本藩(柳本陣屋):織田家(1万石、1615年~1871年)
- 戒重藩/芝村藩(芝村陣屋):織田家(1万石、1615年~1871年)
- 大和新庄藩:桑山家(2万石→1万6000石→1万3000石→1万1000石、1600年~1682年)→永井家(1万石、1682年~1863年)→廃藩(櫛羅藩に転封)
- 櫛羅藩(櫛羅陣屋):永井家(1万石、1863年~1871年)
- 宇陀松山藩(松山陣屋):福島家(3万1717石、1600年~1615年)→織田家(2万8千石、1615年~1695年)→廃藩(丹波柏原藩へ転封)
- 興留藩(興留陣屋):松平(藤井)家(1万石、1686年~1693年)→廃藩(備中庭瀬藩へ転封)
- 竜田藩:片桐家(2万8石千→4万石→1万石、1601年~1654年)→廃藩(無嗣断絶)
- 御所藩:桑山家(1万2千石→1万石→1万6千石→2万6千石、1600年~1629年)→廃藩(無嗣断絶)
- 大和五条藩:松倉家(1万石、1600年~1616年)→廃藩(肥前島原藩に転封)
人物
国司
大和守
- 紀飯麻呂(従四位下):天平21年(749年)任官
- 山村王(従三位):天平神護元年(765年)任官
- 石川名足(従五位上):神護景雲2年2月18日(768年)任官
- 大伴古慈斐(従四位上):宝亀元年(770年)任官
- 佐伯今毛人(正四位上):延暦元年(782年)任官
- 石川名足 (従三位):延暦7年2月6日(788年)任官 (再任)
- 石川真守(従四位上):延暦11年2月2日(792年)任官
- 和家麻呂(従四位下):延暦12年5月(793年)任官
- 三島名継(従四位下):延暦16年1月13日(797年)任官
- 藤原園人(正五位下):延暦17年2月(798年)任官
- 藤原縄主(従四位上):延暦20年1月(801年)任官
- 藤原仲成(従四位下):大同元年1月18日(806年)任官
- 藤原永貞(従五位下):大同元年7月15日(806年)任官
- 藤原某(従五位下):大同2年5月3日(807年)任官 (名不詳)
- 藤原継業(従四位下):大同3年11月17日(808年)任官
- 坂田奈氏麻呂(従四位下):弘仁元年9月10日(810年)任官
- 紀末成(従五位上):弘仁12年7月(821年)任官
- 藤原藤広
- 長田王(従五位上):承和元年1月12日(834年)任官
- 滋野貞主(従四位上):承和6年1月11日(839年)任官
- 正躬王(従四位下):承和8年1月12日(841年)任官
- 紀長江(従四位上):承和10年1月12日(843年)任官
- 藤原長岡(従四位下):承和10年7月(843年)任官
- 岑成王(正五位下):承和14年1月12日(847年)任官
- 清瀧河根(従五位上):嘉祥元年8月16日(848年)任官
- 丹墀門成(従五位上):嘉祥3年5月17日(850年)任官
- 鎌蔵王(従五位上):仁寿3年1月16日(853年)任官 (権守)
- 豊前王(正五位下):仁寿3年4月10日(853年)任官
- 安部貞行(従五位上):天安元年1月14日(857年)任官
- 藤原氏雄(正五位下):天安2年2月18日(858年)任官
- 在原善淵(正五位下):貞観元年12月21日(859年)任官
- 弘宗王(正五位下):貞観2年8月16日(860年)任官
- 在原安貞(従五位下):貞観3年1月13日(861年)任官 (権守)
- 紀今守(従四位上):貞観5年2月10日(863年)任官
- 藤原春岡(正五位下):貞観5年2月10日(863年)任官 (権守)
- 良岑長松(従五位上):貞観7年5月15日(865年)任官 (権守)
- 清原秋雄(従四位下):貞観8年(866年)任官
- 藤原本雄(正五位下):貞観9年1月12日(867年)任官 (権守)
- 藤原本雄(従四位下):貞観10年1月16日(868年)任官
- 坂上瀧守
- 平教盛
- 平基盛
- 忠貞王
- 伴保平
- 藤原家依
- 藤原伊家 - 寛治2(1088)年、白河上皇高野御幸時負担*藤原輔公
- 藤原園人
- 藤原親盛
- 藤原長岡
- 藤原登任
- 藤原真楯
- 藤原師氏
- 藤原安親
- 源重時
- 源光行
- 源頼定
- 源頼親
- 大江公景
- 宇都宮信房
武家官位としての大和守
江戸時代以前
江戸時代
- 日向伊東氏/日向飫肥藩伊東家
- 大和柳本藩織田家
- 上総一宮藩加納家
- 豊後日出藩木下家
- 九鬼家宗家
- 下総関宿藩久世家
- 上総久留里藩黒田家
- 但馬出石藩小出家
- 肥前福江藩五島家
- 安房勝山藩酒井家
- 信濃高遠藩内藤家
- 信濃飯田藩堀家
- 美濃高富藩本庄家
- 播磨山崎藩本多家
- 上野七日市藩前田家
- 直基系越前松平家
- 松平直基:直基系初代。越前勝山藩主、越前大野藩主、出羽山形藩主、播磨姫路藩初代藩主
- 松平直矩:直基系2代。姫路藩第2代藩主、越後村上藩主、姫路藩主(再封)、豊後日田藩主、出羽山形藩主、陸奥白河藩初代藩主
- 松平基知:直基系3代。白河藩第2代藩主
- 松平明矩:直基系4代。白河藩第3代藩主、姫路藩初代藩主(再々封)
- 松平朝矩:直基系5代。姫路藩第2代藩主、上野前橋藩主、武蔵川越藩初代藩主
- 松平直恒:直基系6代。川越藩第2代藩主
- 松平直温:直基系7代。川越藩第3代藩主
- 松平斉典:直基系8代。川越藩第4代藩主
- 松平典則:直基系9代。川越藩第5代藩主
- 松平直侯:直基系10代。川越藩第6代藩主
- 松平直克:直基系11代。川越藩第7代藩主、上野前橋藩初代藩主(再封)
- 駿河沼津藩水野家
- その他
守護
鎌倉、室町時代を通じて守護所は設置されず、興福寺がその役割を果たしていた。ただし、その守護権の行使については不明な点が多く、「興福寺別当が守護権限を行使していた」説[17]、「一乗院・大乗院の両門跡が守護権限を行使していた」説[18]、「両門跡のどちらかが興福寺別当の時は別当が、それ以外の者が別当の時は別当と両門跡が共同で守護権限を行使していた」説[19]がある。
但し、室町時代後期には宇智郡は河内畠山氏[20]が、宇陀郡は北畠氏[21]が、それぞれの分郡守護であったとする説がある。
また、天正3年(1575年)に織田家臣の塙直政が織田信長から大和守護に任じられ、直政が天王寺の戦いで戦死すると天正4年(1576年)に筒井順慶が織田信長から大和守護に任じられている。
戦国大名
大和国の合戦
- 645年:乙巳の変、中大兄皇子・中臣鎌足 x 蘇我入鹿・蘇我蝦夷
- 672年:壬申の乱、大海人皇子軍 x 大友皇子軍
- 1181年:南都焼討、平家軍(平重衡) x 東大寺・興福寺
- 1455年:第一次筒井城の戦い、畠山義就・越智連合軍 x 筒井順永
- 1466年:第二次筒井城の戦い、畠山義就 x 筒井順永
- 1477年:第三次筒井城の戦い、越智家栄 x 筒井順尊
- 1483年:第四次筒井城の戦い、古市氏・箸尾氏軍 x 成身院順盛軍
- 1516年:第五次筒井城の戦い、越智家教・古市氏連合軍 x 成身院順盛軍
- 1565年:第六次筒井城の戦い、松永久秀軍 x 筒井順慶軍
- 1565年:第七次筒井城の戦い、筒井順慶軍 x 松永久秀軍
- 1567年:東大寺大仏殿の戦い、松永久秀・三好義継・三好三人衆軍 x 筒井順慶・池田勝正軍
- 1568年:信貴山城の戦い、筒井順慶・三好三人衆軍 x 松永久秀軍
- 1568年:第八次筒井城の戦い、松永久秀軍 x 筒井順慶軍
- 1571年:辰市城の合戦、筒井順慶軍 x 松永久秀・三好義継軍
- 1577年:信貴山城の戦い、織田軍(織田信忠・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・佐久間信盛・羽柴秀吉) x 松永久秀軍
- 1615年:大坂夏の陣、江戸幕府軍(徳川家康・徳川秀忠) x 豊臣軍(豊臣秀頼)
脚注
参考文献
- 角川日本地名大辞典 29 奈良県
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
テンプレート:畿内五国の郡- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 『日本歴史地名体系 奈良県の地名』(平凡社)大和国節。
- ↑ 大和国(藩名・旧国名がわかる事典)(朝日新聞社コトバンクより)。
- ↑ 『続日本紀』天平9年(737年)12月27日条。
- ↑ 『続日本紀』天平19年(747年)3月16日条。
- ↑ 国史に改名記事がないため時期は諸説あるが、天平宝字元年(757年)の『養老令』施行からが有力視される(上田正昭『私の日本古代史(上)』(新潮選書)pp. 142-143)。
- ↑ 『和名抄』の大和国式下郡大和郷(おおやまとごう)、現在の大和神社(奈良県天理市新泉町)付近(『日本歴史地名体系 奈良県の地名』(平凡社)大和国節より)。
- ↑ 『日本古代史大辞典』(大和書房)大和国項。
- ↑ 上田正昭『私の日本古代史(上)』(新潮選書)pp. 140-142。
- ↑ 「旧高旧領取調帳」では後に大多喜県が管轄したとしているが、三河国にも飛地のあった大多喜藩は、慶応4年の徳川宗家の転封より領地を上総国夷隅郡にまとめられているため、同時に奈良県に移管されたものと思われる。
- ↑ 同年4月27日(1868年5月19日)にかけて移管。
- ↑ 『和名類聚抄 20巻』(国立国会図書館より)12コマ参照。
- ↑ 『拾芥抄 3巻』(国立国会図書館より)52コマ参照。
- ↑ 『節用集 易林本』(近代デジタルライブラリーより)136コマ。
- ↑ 現在の橿原市大軽町と石川町の接点丈六、ここを軽の衢という。久米町、西池尻/東池尻、高取町土佐の三説ある。
- ↑ 『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)索引p. 7。
- ↑ 『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)p. 41。
- ↑ 今谷明「室町時代の伝馬について」(小笠原長和 編『東国の社会と文化』(1985年、梓出版社))
- ↑ 永島福太郎『奈良文化の伝流』(1944年、中央公論社)
- ↑ 田中慶治「室町期大和国の守護に関する一考察 -幕府発給文書を中心に-」(初出:矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』(高志書院、2004年) ISBN 978-4-906641-80-2/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4)
- ↑ 今谷明「室町時代の河内守護」(『大阪府の歴史』7号、1976年)
- ↑ 今谷明「守護領国制下に於ける国郡支配について」(『千葉史学』創刊号、1982年)