筒井定次
筒井 定次(つつい さだつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。伊賀上野藩主。
生涯
筒井家相続まで
永禄5年(1562年)5月5日、慈明寺順国(筒井順国)の次男として生まれる。一族で本家筋の筒井順慶(従兄、母方の叔父でもある)に子が無かったため、順慶の養嗣子となった。最初順慶の養子候補としては番条五郎が検討されており、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の承諾も得ていたが、五郎が謝絶したため定次が養子となった。
秀吉臣下としての武功
織田信長の死後は豊臣秀吉の家臣となり、大坂城へ人質として赴いた。天正12年(1584年)、順慶の死により家督を相続した。同年、小牧・長久手の戦いに参戦、この戦いで定次の家臣松倉重信が奮戦し、戦功を称えられ右近大夫に叙任された。天正13年(1585年)の紀州征伐では堀秀政などと共に千石堀城を攻めた。『絵本太閤記』には、この城攻めで二尺七寸の太刀を振りかざし奮戦する定次の姿が描かれている。筒井軍は奮戦したが、その分兵の消耗も大きかったと『多聞院日記』は言及している。
同年の四国攻めにおいては、中村一氏や蜂須賀正勝と共に先鋒に任じられ、東条関之兵衛が籠城する木津城を攻撃する。同年8月、秀吉と佐々成政との合戦(富山の役)が起こるが、定次は四国に在陣中であったため参戦せず、宇陀衆を代理に派遣した。閏8月、大和から伊賀上野へ移封(後述)。
天正14年(1586年)の九州征伐では、伊賀の留守を十市新二郎に任せ、1,500の手勢を率いて出陣、豊臣秀長の部隊に所属し、日向高城攻めなどで活躍する。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐では韮山城攻めに参加した。天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも手勢3,000を率いて出陣し、肥前名護屋に詰めたが、朝鮮に渡航した形跡は残っていない。朝鮮の役の最中、顕著な武功を立てた加藤清正に称賛の使者を送った事や、名護屋で酒色に溺れ、中坊秀祐を憂慮させたことなどが『和州諸将軍伝』に記述されている。同書の記述によると、定次は病を得、秀吉の承諾を得て途中伊賀へ帰国したという。
伊賀転封
天正13年(1585年)、秀吉は小牧・長久手の戦い・紀州征伐・四国攻め・富山の役など外接大名をめぐる情勢が落ち着いた閏8月に領国内の大規模な国替えを行い、畿内については一門・近臣で固める政策を実施した。この国替えで大和には秀吉の弟・秀長が入国し、代わって定次は領国を大和から伊賀上野に移封された。
しかし、これは都に近い大和から定次を追い出した実質上の左遷ではないかといわれている。石高も『当代記』などでは5万石と記されるなど、大和時代に較べて大幅な減封であり、筒井氏は伊賀で苦難の時代を送ったとされた。移封の背景には、大和に根を貼る寺社勢力との確執もあったという。順慶の存命中、寺社は筒井氏に対して従順であったが、順慶が死去すると筒井家の力が弱まったと判断し、反抗的な姿勢を顕在化させた。[1]
一方、この移封には別の意見もある。移封時より後世となるが慶長期で大和は約44万石、伊賀は約10万石であり、大和の全てが筒井領ではないが理由もなく約30万石の減封は考えにくい。江戸時代の編纂物『増補筒井家下記』には定次は伊賀12万石・伊勢の内で5万石・山城の内に3万石の計20万石を与えられ、更に移封前の大和45万石の内で与力を除いた筒井氏の所領は18万石であり、伊賀への移封は2万石の加増であったと記している。[2]また伊賀は関東に対しての備えとしての役割を持つ要衝であり、そのような重要な土地に定次を配置したことは、秀吉が定次を評価し、一定以上の信頼を寄せていたことの証左とも言える。[3]
伊賀移封に伴い、定次は上野城を築城した。また、秀吉から羽柴姓を名乗る事を許され、従五位下伊賀守に任命された。
天正14年(1586年)には、灌漑用水を巡って中坊秀祐と島左近の間で争いが起こり、定次が秀祐に有利な裁定を下した事で、憤慨した左近が筒井家を去るという事件が起こる。筒井家を去った左近は石田三成に仕えた。松倉重政、森好高、布施慶春といった家臣達も前後して筒井家を去っている。その背景には、秀祐らの台頭と専断があった。[4]定次は、彼らを完全に抑制するだけの力量はなかったという。
関ヶ原以後
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、徳川家康から所領を安堵された(上野城を陥落させた西軍の摂津高槻城主新庄直頼、直定父子は改易された)。しかし慶長13年(1608年)、幕命により突如として改易され、ここに大名としての筒井氏は滅亡した。
改易の理由については、度々大坂城に赴き、豊臣秀頼や大野治房らと誼を通じていたこと、領国における悪政、酒色に耽溺したから、キリシタンによる訴訟など、数々の理由が挙げられているが、最近では筒井氏も豊臣恩顧の大名であり、さらに伊賀という大坂近郊の要地を支配していたことを危険視した幕府によるでっちあげの改易ではないかとされている(事実、定次改易後の伊賀には外様ながら譜代並の藤堂高虎が入った)。どちらにせよ、定次は改易された後、その身柄は鳥居忠政のもとに預けられることとなった(『続武家補佐』)。『武徳編年集成』『東武談叢』『増補筒井家記』などは高虎の下に預けられたと記述しており、また江戸に預けられたと主張する文献でも、『大和郡山市史』は江戸の鳥居家屋敷を預け場所としている。現在では、『続武家補佐の記述』が定説として採用されている。[5]
そして慶長20年(1615年)3月5日、大坂冬の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、嫡男順定と共に自害を命じられた。享年54。切腹を賜った経緯について、『伊陽安民記』『翁物語』は、大坂冬の陣の際、城中から放たれた矢の一つに筒井家で使われていたものがあり、その矢が内応の示唆を疑わせ、自害を命じられたと記している。しかしこの矢は筒井家が改易された際に四散したものが大坂城に紛れ込んだものと考えられており[6]、幕府がこれを内応と解釈したのは定次を葬る為のでっち上げであった。
『奈良坊目拙解』は、自害した定次父子の遺骸を伝香寺の住職が大安寺に葬り、伝香寺に石塔を建立したと伝える。
筒井氏は家康の尽力で定次の従弟に当たる筒井定慶が継いだが、大坂夏の陣で豊臣方に大和郡山城を攻め落とされ、逃亡した後に自害した。これにより筒井氏その物が消滅したように書いてある書籍が多いが、定次流以外の他の筒井氏一族は東大寺住職や奉行や旗本などとして存続し、現在まで家名を保っている(筒井政憲、下曽根信敦父子など)。
定次には娘が3人がいたが、それぞれ鞆田九左衛門、新庄直氏、多田正吉に嫁いで天寿を全うした。
人物・逸話
- 定次は軍学に明るく、上野城の築城に際しても、立地条件や地盤を考慮し、天然の要塞として相応しい場所を選んだ。
- 伊賀移封により、筒井家は伊賀の豪族を強硬に取り潰し、さらに大和時代からの重臣の多くも離反されるなど、家勢の衰退を招いている。これは関ヶ原で定次が東軍に与する一因を成したともいわれる。
- 文禄元年(1592年)に長崎で受洗しており、キリシタンであった事が改易原因の一つでもあると言われている。[7]
- 伊賀の侘しい寒村であった上野は、定次の整備によって大いに発展した。その為地元では定次は今なお慕われている[6]。
- 文化面にも精通し、祭礼の振興に尽力した。茶道を嗜み、古田織部とも交流があった。明確ではないが伊賀焼の発展にも貢献したと言う。[7]
- 『柴栗草子』は「兵法の達人であり、文芸にも秀で、筆跡は尊円親王にも匹敵し、画才は雪舟を髣髴とさせ、能楽の技巧も四座の太夫に劣らない」と評している。
定次とキリスト教
定次はキリスト教に入信していた。三箇マンショと呼ばれるキリシタンを匿っており、彼の話からキリスト教への関心を持っていた。天正20年(1592年)、三箇マンショの仲介によりアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父の知遇を得、キリスト教の洗礼を受けた。ルイス・フロイスは定次とヴァリニャーノの面会に同席していたが、定次を「人格の優れた人物」と評している他、高山右近もその人となりを評していた、とフロイスの記録では言及されている。[8]フロイスの記録では、当時太閤秀吉を中心にキリスト教を迫害する風潮があった中、定次は伊賀にキリスト教を広く布教させる意思があることを述べていたという。後の改易と切腹について、キリスト教の影響があったかについては明確な根拠がなく、不明である。