佐々成政

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比良城跡に立つ佐々成政城址の碑と成政の墓(愛知県名古屋市西区比良 光通寺

佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院)の外祖父。

生涯

尾張時代

佐々氏尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)に拠った土豪。宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。兄に政次孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となる。

織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表す。永禄4年(1561年)、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てる。永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を用いて活躍したとされる(『信長公記』・『当代記』) 。

天正2年(1574年)、長島一向一揆との戦いで長男・松千代丸を失う。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは前田利家野々村正成福富秀勝塙直政と共に鉄砲隊を率いた。

府中三人衆時代

天正3年(1575年)9月、織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。府中三人衆は勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山合戦播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍している。なおこの時、府中三人衆は荒木一族の処刑を命ぜられ実行している。天正5年(1578年)8月、能登に侵入した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城の陥落を受けて撤退している。

越中時代

天正8年(1580年)からは、神保長住の助勢として一向一揆および上杉氏に対する最前線であった越中国平定に関わった。同年秋には佐々堤を築いている。天正9年(1581年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年に長住が失脚したことにより一国守護となり、富山城を居城として大規模な改修をおこなった。

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佐々成政が剃髪して羽柴秀吉に降伏したという地に立つ佐々成政剃髪阯(富山県富山市安養坊)
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さらさら越えを描いた錦絵(歌川芳形画)

天正10年(1582年)に本能寺の変が発生した時点で、成政の属する北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点である魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略したばかりであった(魚津城の戦い)。変報が届くと、各将はそれぞれの領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。柴田勝家は上洛を図ったが、対峙していた毛利氏と和睦し中国大返しによっていち早く畿内に戻った羽柴秀吉に先を越され明智光秀を討ち果たす手柄をたてられた。

清洲会議において勝家と秀吉との織田家の実権争いが表面化すると、成政は勝家方についた。上杉景勝への備えのため越中を動けなかったため、賤ヶ岳の戦いには叔父の佐々平左衛門が率いる兵600を援軍として出すにとどまった。合戦中における前田利家の寝返りや上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏し、越中一国を安堵された。翌天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが発生すると3月頃の書状においては秀吉方につく姿勢をみせていたものの、夏頃になって徳川家康および織田信雄方につき、秀吉方に立った利家の末森城を攻撃した(末森城の戦い)。この時期は越後国の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。秀吉と信雄・家康との間で和議が成立すると、厳冬の飛騨山脈北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと踏破し家康に再挙を促した(さらさら越え)。さらさら越えのルートを巡っては、上杉景勝の家臣から密かに助力を得て越後を通過したことを示唆する書状も存在する[1]。 しかし家康の説得に失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった。

翌天正13年(1585年)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲し、成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。天正15年(1587年)には羽柴の名字を与えられている[2]

肥後時代

天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53(53説が最も有力視されているが、没年は50歳から73歳説まで諸説あり、そこから逆算した生年になっているので、正確な生年は不詳である。ただし『武家事紀』『武功夜話』には天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いで戦功を挙げた旨の記述があり、もしもそれが正しければ生年の天文5年(1536年)説・天文8年(1539年)説は考えにくくなる[3])。戒名は成政寺庭月道閑大居士。

辞世の句:「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」

逸話

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • 佐々氏は、元々は織田信安に属していたとされる(『武功夜話』)。
  • 信長公記』首巻によれば、成政が織田信長暗殺を企んだという話が残っている。
  • 永禄5年(1562年)の美濃攻めの際、軽海の戦いにおいて、敵将・稲葉又衛門の首を前田利家と譲り合って埒があかないので、柴田勝家がその首をあげ、その次第を報告して信長に三人とも褒められたという(『常山記談』・『名将言行録』等)。しかし、『信長公記』では稲葉を討ったのは成政と池田恒興とされ、柴田・前田との逸話は後に北陸方面の攻略軍として同行した事から創作された話の可能性も高い。実際、前田利家は一時期追放の罰を受けた十阿弥殺害事件では、成政の嘆願で十阿弥の窃盗を許したにもかかわらず顔を立てた彼に悪口を言いふらされて以降は彼を嫌っていたと述べている。
  • 新規の家臣を召抱える際、最初に提示した禄高よりも多くの知行を仕官後に与えた事から、気前の良い殿様だという事で仕官を望む者が絶えなかったという。また、この仕官の際の面接においても、家柄や血筋ではなく、「いかに過去、武功を挙げたか」という部分を重視し、その話を聞くのが大好きであったとされる。
  • 天正18年(1590年)の小田原征伐で、蒲生氏郷が「三階菅笠」の馬印の使用許可を秀吉に願い出たところ、秀吉は「(「三階菅笠」は武勇高き)佐々成政が使用した馬印。それに相応しい手柄を立てれば使用を許そう」と言い、これを聞いた氏郷は満身創痍となりながらも小田原征伐で活躍し、見事馬印の使用を許されたという逸話が残る(『常山紀談』)。勝者である秀吉や前田氏に悪評を創作され、過小評価を受けがちな成政であるが、その秀吉・前田にも軍事指揮官としての力量は認められていたようで、このように多くの賞賛の記録が残っている。
  • 富山県呉東地区では、江戸時代を通して加賀藩富山藩の藩主として君臨し、賤ヶ岳の戦いで上司である柴田勝家を裏切った前田家とは対称的に最後まで忠節を尽くし、治水工事などの善政を布いた佐々成政の人気が高い。しかしながら高岡市を中心とする呉西地区では、三代目藩主前田利常の菩提寺が高岡にあることや、越中ながらも加賀支藩の富山藩ではなく加賀藩本領内であったことから、加賀前田百万石への敬愛の念が強い。
  • さらさら越えでは、埋蔵金伝説がある。「朝日さす夕日輝く鍬崎に、七つむすび七むすび、黄金いっぱいに光り輝く。」という里謡が残され、この言葉に黄金の謎を解く鍵が秘められていると伝えられている。
  • さらさら越えについては、当時の成政が若くても49歳ほどの年齢であったことや、文献、史料などから、実際には立山連峰を超えたのではなく、別の安全な道を通ったとする意見を唱える者もいる[4]
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佐々成政の愛妾・早百合姫がその下で斬られたと伝わる「磯部の一本榎」跡(富山県富山市磯部町)
  • 「早百合(さゆり)」と言う美しい側室がいたとされる。成政はこの早百合を深く寵愛してはばからず、早百合は懐妊する。それが嫉妬を呼んだか、ある時成政が城を留守にした時に、「早百合が密通している。お腹の中にいる子どもは成政様の子ではない」と言う噂が流れた。帰城した成政はこれを聞いて烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿いまで引きずり、髪を逆手に取り宙に引き上げ、殺してしまった。それだけでなく、早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にしてしまう。早百合は死ぬとき、「己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」(『絵本太閤記』)と叫んだ。また、早百合姫は「立山に黒百合の花が咲いたら、佐々家は滅亡する」と呪いの言葉を残して死んだとも言う(黒百合伝説)。佐々瑞雄(成政の甥、佐々直勝の子孫)によると、母に「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません」と言われていたという[5]。早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといい、それを 「ぶらり火」と言った。その他にも無念の死を遂げた早百合にまつわる話は数多く残されている。ただしこの話は成政の死後に作られた創作であると思われ、いわゆる伝説の類である。この話以外にも、成政の死後、その影響力からか勝家と同じく評判を貶めるための数多の真偽不明な逸話が残されている。泉鏡花はこれに基づいて『黒百合』という小説(三島由紀夫に「浪漫主義の傑作」と高く評価された)を書いた[6]

系譜

  • 他に絵師・狩野孝信に嫁いだ娘がいたとされる。
  • 早逝した松千代丸の他に男子がなかったために佐久間盛政の弟佐久間勝之など何人かの養子がいたが、家督は継承されず直系の子孫はない。傍流(実姉)の子孫として、徳川光圀に仕えた佐々宗淳(「水戸黄門」の助さんこと佐々木助三郎のモデルとされる人物)、元内閣安全保障室室長の佐々淳行などがいる。
  • 秀吉に人質に取られていた娘(次女ともされるが庶子だった為か、9歳という幼年の為か詳細は不明)と、その乳母が京都粟田口で磔刑にされたという。

家臣

肥後治政についての諸説

佐々成政が身を滅ぼす元凶となった肥後国人一揆とその原因とされる検地強行については、様々な評価がある。従来は、小勢力ながら武士である国人が割拠する肥後に対し秀吉は慎重な統治を求めたのに対し、成政が強硬な手段に出たため反発を招き一揆が勃発したとされ、そこから逆に秀吉の陰謀説も唱えられていた。しかし、司馬遼太郎も言及する[7]この説には、疑問もしくはより複雑な背景があるという意見が提示されている[8]

秀吉が成政に慎重な領国運営を求めた論拠は、『甫庵太閤記』にある「五箇条の定書(制書)」に記された国人の知行安堵と三年の検地禁止にある。しかし、天正13年(1585年)6月6日に与えたとされるこの書は宛名が「佐々内蔵助」となっており、それに先立つ6月2日に成政を肥後国主に任命する領地宛行状(「楓軒文書簒」)にある宛名「羽柴肥後侍従」とも、またそれに先立つ5月晦日に国人の相良長毎大矢野種基に宛てた朱印状にある成政を指す「羽柴陸奥守」とも異なる。また、文体に漢文和漢文が混ざっている点も不自然である[9]。これらを根拠に、定書には疑問が呈されている[8][10]

成政は入国後検地に着手し、これに反発した7月10日の隈部親永反乱が国人一揆の勃発を呼んだとされている。しかしながら、成政検地の実態は明らかにされていない。大宰府天満宮文書に残る合志郡富納村の実施例(「肥後国合志郡富納村天満宮領指出分置日記」)では、検地は指出方式で行われ、具体的な石高は記録されていない。ところが、小代親泰へ与えた安堵宛行の文書では、秀吉の安堵が200なのに対し、成政は秀吉安堵が50町であり100町を新たに成政が与えるとしている。このような分析から、成政は肥後国人支配を朱印状に基づく秀吉直下から、成政が影響力を持ち間に入る重層型への切り替えを行いつつ、実質の領地を削減しようとした行動があったものとみなす説もある。その他にも、領地組み換えを行い勢力の分散を図った点も見られ、これらが複合的に国人の反発を招いたとも分析されている[8]

秀吉は、「五畿内同前体制」と呼ばれるように九州を畿内と同様に重視していた。この背景には、既に朝鮮半島そして明への遠征が視野にあったとされる。重要な兵站後援地となる肥後の国主に成政を任命した背景には、それだけ秀吉は成政を高く評価していたという説もある。羽柴姓や陸奥守という官職を与えていたところが、この根拠とされている[8][10]

関連事項

毎年7月後半に富山市上滝地区にて、観光おおやま佐々成政戦国時代祭りなどが催されている。

脚注

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参考文献

関連項目

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  • 知事の娘勇美子に依頼された雪という花売り娘と子爵千破矢(ちはや)家の瀧太郎が、タブーとされる立山、石瀧(いわたき)の山中他界に咲くという黒百合を採取しにいく。大鷲の襲撃を受けるなどするが、雪の恋人で病人の若山の家に辛うじてたどり着く。黒百合を入手したものの洪水に襲われ、若山と雪の二人は助けられないという瀧太郎に「私の夫を」と頼み、水の中に沈んでいく。黒百合に導かれ、山中他界で瀧太郎にめぐり合い、恋人のことを頼んで現世を越えていく。
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